④
ミズゴケのところでの仕事はつらいものではなかった。やらなければいけないのは畑と庭の手入れくらいで、それは母のところでしてきたこととほとんど同じだったからだ。確かにまじないに使われる珍しい植物も多くあり、その世話は特に丁寧にしなければならなかったが、新しい仕事を覚えることは楽しかったし、歳月とともに作業に手慣れていくのも誇らしかった。
たとえば〈後家の涙〉と呼ばれる草は悪いまじないを寄せ付けないし、〈乙女の手紙〉を干したものは縁結びに向いている。雨や風を呼び寄せるものもあり、近隣から、それどころかふもとの〈潮境の港〉からも使いがやってくるほどだった。他にも、直接まじないに使うわけではないが、〈妖精の剪定鋏〉は手を切らないように気をつけて収穫すれば、とてもいい除草剤になる。そうした薬草を使ってミズゴケの治療の手助けをすることもあり、命じられるままに煎じた湯を持って行ったり、薬を調合したりする。往診が終わるとミズゴケは病状と治療方法を説明してくれる。腹の具合を良くするもの、割れそうな頭の痛みを取り除くもの、関節の痛みを和らげるもの、効能は様々だった。
ハシバミは作業が一息ついたので、鍬を置きに行こうとした。だが、どういうわけか見当たらなかった。ハシバミはため息をつく。ここ最近、目の前に置いていたものがなくなることがある。理由はわからないが、すぐに出てくるので諦めて待つしかない。もしかしたらミズゴケの家にかかっている特殊なまじないなのかもわからない。彼女と一緒に暮らして数年が経つが、なんでも話してくれるわけではないからだ。
そう考えて空を見ると、そろそろ鍛冶職人のナナカマドのところに行く時間だと気づいた。慌ててニレを呼び、戸締りをして道を歩き出す。うららかな春の日だった。とはいえ、ナナカマドのところに行くのだから、それほど明るい気持ちにはなれなかった。
ナナカマドの住んでいるのは〈朝霧の里〉の中心からやや外れたところであり、少し歩く。まじないが使えるようになったとはいえ、まじないが一つ使えれば何もかもが便利になるというわけにはいかないとわかってきた。しかもあの日以来、ハシバミはまじないを軽々しく使うことは許されなかった。
「夜道を照らすには灯りで十分だ」
その通りではあるが、そう言われてしまうと身もふたもない。
「でも、病気の人のために使うのはだめなのですか」
時折、病床まで薬を届けるように言われることもあった。彼らはいつも苦しそうだった。あの光で癒すことができたらどれほど喜んでもらえるだろうと思うのに、ミズゴケはそれを止めた。
「待つのだ。お前さんの体の中に力が十分に満たされるまで。お前さんの力はとても大きい。きっと私を超えることだろう。だからこそ、慎重にならねばならん」
そして重症な患者のときにだけ、ミズゴケの指示に従って少しずつ力を分け与えることが許された。それでも、ミズゴケのいないときにはまじないをこっそり試した。その時のニレがあまりにも楽しそうだから、ハシバミは影絵を作って遊んでやる。手を組み合わせて、例えばキツネやウサギの形を作ると無邪気に喜ぶ。あの日のオオカミの姿も、兄の作る形なら怖くない。そして時には、見たことのない竜だって描いて見せた。独特の光の下では、見たことのない竜だって本物に見えた。
ハシバミは、薄い扉の向こうの槌と鉄床の音に耳を澄ます。
「すみません」
返事がないのはいつものことだ。黙ってはいるが聞こえている。一度何も言わずに扉に手をかけたところ、ものすごい剣幕で怒鳴られたこともある。それもあるのだろう、ニレはすっかり委縮してしまっていて、ハシバミの服の裾をつかんでいる。ハシバミも幾分緊張しながら扉を開ける。むっとした熱が二人の顔を撫でる。
「頼んでいたものを取りに来ました」
「ああ」
そして彼は、黙って輝いている刃物を示す。農具や竜の歯に封印を刻む道具は、たった今作られたばかりのように炉の光に輝いている。ほれぼれするほどだが、どれほど褒めてもナナカマドはあまりうれしそうではない。彼にとっては客の見せる驚いた顔で十分なのだろうか。
ナナカマドという男は笑顔を見せたことが一度もない。しかも、ちょっとしたことでへそを曲げる。あるときなど、頼んだものはできていますかと尋ねたところ、俺がそんなに腕の遅い人間に見えるかとむっつり返事をしたことがある。ミズゴケと来たときにはもう少し穏やかに応対していたように思われるし、どうせならミズゴケが一人で相手をすればいいような気もするが、あるいはミズゴケもこの男のことをあまり好いていないのかもしれない。
「おい」
礼を述べて立ち去ろうとすると、二人はナナカマドから呼び止められる。それだけでもうニレは泣きそうな顔をしている。ハシバミも嫌な汗をかいている。頭の後ろがかっとなる。あの晩にオオカミに射すくめられた時に似ている。あるいは、今にも山道から足を踏み外しそうになり、はっと気づいたときにも似ている。
壁に掛けられている数えきれない刃物がこちらを向いているように思う。何に使うのかもわからない、複雑に組み合わされた道具が、自分たちに向けられるのを想像してしまう。それらがまだ炉から取り出されたばかりで熱を持っているみたいに感じられる。
「お前たちが来ると、いつも物がなくなるんだが」
その不機嫌そうな言葉に応じて炉の炎が燃える。そういえばこの男のまじないは熱に関するものだったと思いだす。火に命じて、高い温度を保つことで金属を鍛え上げているのだと。目の中の光も燃えているように揺れている。それとも、ただの反射なのだろうか。彼の怒りを受け止めたくない。
「そんな顔をするな。俺はお前たちをとがめてない。そうだよな」
ハシバミはどうにかうなずく。
「お前たちが持って行ったとは思っていない。現に、お前たちが帰って少しすると、大抵は元の場所で見つかる。だが、お前たちが来た日には炉の具合までおかしくなる。十分に熱くならん。お前たちは悪さをするような餓鬼じゃないのは知ってるが、そうしたことが起ることがあるのか知りたい。まじないに目覚めるのが遅い餓鬼の周囲には不運が寄ってくると昔から言うしな。そうミズゴケに伝えてくれ。あの婆さんなら何か知っているかもしれん」
「わかりました」
その返事に満足したのか、ナナカマドは後ろを向いて、また鉄床を強く叩き始めた。八つ当たりしているわけではないのに、何か不安な気持ちにさせられるのはハシバミばかりではあるまい。
鍛冶場を出ると、ハシバミはニレの肩を軽く叩いてやった。ニレは安心したのかやっとのことで涙をぽろぽろこぼした。何もしていないのに、ナナカマドがニレを泣かせたみたいで、憎たらしかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます