ガマズミの病状は、言葉を交わした直後に急転した。一進一退が続き、昼も夜もなく眠れない時間が続いた。薬草の湯気を通したように記憶はぼんやりしている。夢の中で夢を見ているような、長さのはっきりしない時間がどこまでも続いた。助かる公算があるのならとなんでも試みた。ミズゴケは、兄弟よりもきびきびと部屋中を動き回った。彼女が眠っているのをハシバミはほとんど見なかった。

 三日三晩の後、とうとうガマズミは、ハシバミの光の中で息を引き取った。母は最期に、ハシバミから流れる光の中でうっすらと目を開けて、何事か呟いた。それが、兄弟の前途を案ずる言葉だったのか、ミズゴケの世話に対する感謝だったのかははっきりしない。その両方だったのかもしれない。ただ、声はかすれていたが意識ははっきりしており、彼女の両眼にはハシバミとニレの姿がはっきりと映っていた。彼女は最後の力を振り絞る。ここだけははっきりと聞き取れた。

「ハシバミ。ニレを守ってあげてね」

その言葉とともに、ガマズミの瞳に映る姿は涙で歪み、崩れ、濁った。

疲れ切っていたハシバミは何が起きたのかわからないまま、涙を流すこともできなかった。母の体にしがみつくニレのように泣きわめきたかったのに、どうしても本当のこととも思われず、力が抜けてしまった。弟の声を聞くのも嫌で仕方がなく外に出た。あれほど覚悟していたのに、いざことが起きると心がそこまで冷え切って何も感じられなかった。涙だけが勝手に落ちる。思わずその場にしゃがみ込む。

 外は信じられないほど気持ちよく晴れていて、雲も風も、母が死んでしまったというのに、何事もなかったかのように流れていく。自然はあまりにも無関心で冷たかった。それなのに日差しがあたたかいので、黙って地面に目をやるしかない。庭の畑にもきらきらした朝日が差している。

「こんな力、何の役に立つんだ」

 ハシバミは思わずつぶやいた。できることなら、母に自分の命を分け与えてあげたかった。自分はそのつもりで光を出したのだ。なのに、ハシバミの命は母の中には流れ込まず、そのまま地面に吸い込まれて行った。母の命のように、どこかに消えてしまった。

「私のしたことは無駄だったかね」

 いつの間にか後ろに立っていたミズゴケの言葉を、ハシバミは肯定も否定もできなかった。そして、失礼なことを口にしてしまったかもしれないと思ったのに、どうしても頭を下げることができなかった。ミズゴケは続ける。

「そう思うのは無理もない。誰だって、大切な誰かを亡くせばそう思う。当然のことさ。私に八つ当たりしてくれてもいいし、好きなだけ泣けばいい」

 言い返すこともできない。はなが垂れてくる。

「だが、この世には、何一つ無駄なことは起きない。それは覚えておくといい。何事にも意味がある。……少なくとも、意味を見つけることはできる。たとえばお前さんの力のおかげで、ガマズミの痛みは軽くなったはずだ。私は多くの者が力及ばずに永遠の眠りにつくのを見てきたが、あれほど安らかに旅立てることは滅多にない」

 しかし、旅立ったというのなら、今はどこにいるのか。そう尋ねようとしたが、先にミズゴケは静かに問う。

「それで、この小屋はどうするかね」

 彼女は杖で扉を示す。

「まさかニレと二人で暮らすわけにもいかないだろう」

 その通りだ。この畑だけでは二人で暮らしていくには足りない。肉や芋など、必要なものは竜の歯との交換で手に入れてきたからだ。だが、何か案があるわけでもなく口を閉ざす。これからどうすればいいのかまったくわかっていない自分がいた。葬儀のことも、墓のことも、魂をあの世に送るためのまじないについても無知だった。わかっているのは、墓は山の中に作られることくらいか。まじないに目覚めて子供時代が突然終わりを迎えてしまうように、いつ命は絶たれるのかわからないとは、今までは一度も考えていなかった。

「しばらくは私のところで暮らすといい」

 その提案に、思わず顔をあげる。

「放っておくわけにもいくまい。さいわい、私には人手が必要だ。ガマズミには世話になったこともある。あれだけの歯を見つけてきた。だが、私は十分に報いてやれなかった」

 礼を述べると、彼女は続ける。

「ついでに、お前さんの力のこともある。確かにお前さんの力は、夜道を照らし、人の痛みを取り去る。だが、お前さんの力には、何かただならぬものが感じられる。普通、まじないはもっと実用的なものだ。家畜の繁殖だとか、五穀の生育だとか。だが、ガマズミの竜の歯を探す力もそうだが、日々の暮らしに役に立つ性質のものではない。もっと深いところからやってきた力かもしれぬ。とにかく、かなり強力なまじないであることは間違いない」

 そうなのか。目の前の出来事で忙しくて、とても実用的だとしか感じられなかったのだが。

「ああ。しかもたった数日で、これだけ使いこなしているのは珍しい。普通、どんなに早くても力を正しく使えるには数か月かかる。もっとも、ある意味では一つのまじないを使いこなすのは一生の仕事だと言ってもいいかもしれんのだが……」

 その言葉が、五つものまじないを使いこなす人の口から出るとは驚きだった。

「それにニレのこともある。あれは、お前さんたちの血を受け継いでいる。つまり、何か変わった力を持っていることが十分に考えられる。だから、私が二人の面倒を見る。そうすれば、お前さんたちの力が、ねじ曲がって育つこともないはずだ」

「ねじ曲がって……」

「まさかお前さん、まじないには何の危険もないと考えていたのかね。とんでもない。まじないは使い手の資質そのものであると同時に、その弱さでもある。そして、単純なまじないであっても、世界をほんの一部、一部だけだが、変えてしまっているのだ」

 ハシバミは、その言葉のすべてを理解することはできなかった。同時に、とても大切なことが告げられたのだということはわかった。ミズゴケは再び小屋の中に入ろうとする。ハシバミはミズゴケの体の作る陰から外に出た。

「そろそろニレのところに行っておやり。もう喉がかれていて、痛ましい。私は里まで皆を呼んでくる。それまで、ガマズミとはしっかり別れを告げることだ」

 そして、ミズゴケは杖を振りながら下まで降りていく。その背中は疲れている。彼女も人をみとった重みを背負っているみたいだった。

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