第12話 海蔵寺での邂逅 堀 久太郎と柴田 源左 Scean9

(【源氏の長者】だって!!!???・・・)


 友閑の言葉に奏司は絶句する・・・。


(堀の奥さんが久我こが家の血脈に連なる人物だったって!!!)


 奏司は興奮を隠しきれないでいる、この事実を早く誰かに打ち明けたいと・・・。


(これは・・この事実を知ったのは後世の人間では僕が初めての存在かもしれない)


 奏司は口の渇きを覚え、口の中を舌で舐める・・・。


(それにしても、源氏の長者・・・源氏の長者ねぇ・・・あの家康が家系を捏造してまでも喉から手が出るほど欲しがった源氏の長者の資格・・・その源氏の長者の血縁者を堀が娶っていた・・・それも信長の肝入りで・・・その堀の婚儀が信忠の正室問題にも絡んでいたとは・・・いやあ、ワクワクさせてくれる展開だなぁ・・フフフ)


 奏司は一人悦に入りほくそ笑んでいたが、突然真剣な表情に戻ると呟いた。


(清華七家のうちの久我こが家・・・五摂家に次ぐ家格で代々源氏の長者を輩出する稀有けうな家だ・・確か歴史上正統な最期の源氏の長者は久我通堅こがみちかただったと思うが・・・やはり改めて【久我家文書】を閲覧させてもらえるよう頼んでみるか、國學院大學門外不出の秘蔵の書を・・・そして【多賀大社文書】は皇學館大学経由で・・・と、ふーむ・・・プライベートな時間も忙しくなりそうだな・・・おっと! 友閑先生の講義が始まりそうだ)







             ☆☆☆ー★★★






(久太郎殿の奥方であるかおる殿が源氏の長者のお血筋であったと・・・?)


 慈徳院は友閑の話に驚く。


(おことの名手だったとは、聞いておりましたがそのような清華家に連なる高貴な方だったとは・・・義父おとう様もご存じで無かった様子・・・久太郎殿、そなたの縁談にはどんな事情があったのでしょうか・・・?)


 慈徳院は友閑の言葉に少し狼狽している堀の顔をじっと見つめる・・・。


『左近様、私も奥がそのような血筋の女性にょしょうだったとは知らなかったのです』


『はあ?』


 あきれたような声を上げる一益である。


『上様より命ぜられて奥と引き会わされ、あれよあれよという間に婚儀が決まり彼女の出生の秘密を上様よりお聞きしたのは婚儀の宴の事でしたので・・・』


『そりゃあ、どういう訳で・・・ふむ、久太郎そちは話しずらそうじゃのう、友閑殿、説明いただけるか?』


『アハハハ、一益殿の疑問、もっともでござる。では、その説明の前に一益殿、久太郎の奥方である薫殿の父方の名前はご存じでありますかな?』


『・・・正親町おおぎまち家につながる楽人がくにん・・・であったか? 名前は・・・すまぬ久太郎、憶えておらぬ』


『いえ・・・』


『で、ありますか。コホン! 薫殿の父方の名前は喜多島良滋殿・・・楽所別当に仕える一楽人でござった。されど・・・』


『されど・・・?』


『喜多島殿は薫殿の実の父親ではなく、養父でござったのじゃ』


『む・・・』


『薫殿の母親は同じ楽人だった喜多島殿の妹君でござってな、薫殿の真の父親は・・・』


『真の父親が・・・久我家の者・・・ということじゃな』


『いかにも!、喜多島殿の妹君とつかの間の逢瀬を過ごされた方・・・その人物が正二位、権大納言、源氏の長者であった久我晴通(こがはるみち)殿でござった』


『おお!! なんとなぁ・・・』


『ま まぁ!!』


 久我晴通の名を聞いて目を丸くして驚く一益と慈徳院の視線は堀に注がれる。


 堀は二人の視線を受け、何とも言えない表情を浮べている・・・。


『ところで・・・』


 友閑はそこで手にした扇子をゆるやかに扇ぎ始めると、


『何ゆえに上様があのように熱心に晴通殿の隠し子であった薫殿と久太郎との縁談を押し進めたのであるかということじゃが・・・』


『そうじゃ、何故にござるか友閑殿?』


 急かす一益に友閑は、視線を宙に漂わせ往時を思い出そうとしている・・・。


『実は・・・上様と晴通殿とは意外な知己であったのじゃよ』


『意外な知己・・・? 上様と晴通殿が・・・』


『うむ。上様が申されるには、永禄二年(1569年)二月、上様にとって初上洛であった室町幕府第十三代将軍の足利義輝公への謁見時に当時義輝公を補佐していた晴通殿と初見があったそうでな・・・当時僧形のなりをしていた晴通殿を義輝公はこの者はこのようななりだが、もとは正二位、権大納言で従三位のわしより高官ぞ、そして先の源氏の長者であると紹介されたそうじゃ・・・』


『上様の初上洛時からの知己!?  驚きじゃ、初めてうかがった・・・』


『そうであろう、わしも上様から聞かされた時は驚いたものじゃ。それで源氏の長者であった僧形の晴通殿と上様は言葉を交わす機会があったそうで、上様ご自身晴通殿の姿が妙に記憶に残ったらしい・・・まあ、源氏の長者であった僧形の人物というのが記憶に残った一番の理由でもあるようじゃがのう・・・』


『ふーむ・・・。ところで友閑殿、晴通殿はそのような高官であった公卿であるのに何故に武家の棟梁である義輝公の許に侍られておられたのであろうな?』


『それなんじゃが、何でも実の姉上様との姉弟喧嘩が原因らしい』


『姉君との喧嘩? それはまた、どんな具合の・・・?』


『晴通殿の姉上様というのが義輝公の実の母君であられてな、その姉君が晴通殿が出仕しておった当時の朝廷の政があまりにも将軍家に対して不実だとなじられた事が姉弟喧嘩の発端だったらしい。不実だとなじられた晴通殿はならばと、出家して法名宗入を名乗り愚庵と号されて朝廷を突然去り義輝公の許に近侍し直接義輝公をお輔けする事に相成った・・・と。その年は天文二十二年(1553年)の事であったという・・・』


『・・・そのような経緯がのう・・・。うん? 晴通殿の姉君は義輝公の母君であるならば・・・と いうことは時の将軍家の御台所様か!!』


『いかにも。晴通殿の姉君は十二代将軍足利義晴公の御台所様、慶寿院様にあられる』


『将軍家御台所様と正二位権大納言源氏の長者の姉弟喧嘩とは・・・これはまた豪華な喧嘩があったものだな』


『そうでござるな、当時の朝廷や将軍家の困惑ぶりは相当なものだったと想像できるのう・・・そうそう、晴通殿が突如出家して朝廷を辞された時は右近衛大将となっていたとの事』


『権大納言で右近衛大将とは・・・それは信長様が天正三年に任ぜられた官位ではないか・・・何とも奇特な縁であるのう・・・。それにしても晴通殿の姉君であられる慶寿院様が将軍家の御台所様になられておったとは、さすが源氏の長者、久我家の血筋といったところか・・・』


『いやさ、一益殿。慶寿院様は久我家の血筋でなく関白であった近衛尚通(ひさみち)様のご息女でな、さらに晴通殿は尚通様のご実子であったが当時嗣子が不在であった久我家に養子に入られておったのじゃよ』


『おお⁉ では、晴通殿は近衛家に連なる方でござったか!』


『左様、そして慶寿院様、晴通殿の実の兄君としてあの近衛前久(さきひさ)様の父上にあらせる関白でもあった近衛植家(たねいえ)様がおわす』


 一益は友閑が前久の名を挙げる時に一瞬眉をひそめるのを見逃さなかった。


『前久様のお父上様も晴通殿のご兄弟だったとはのう・・・久太郎よ、そちはとんでもない高貴な姫君を嫁に貰ったもんだ・・・源氏の長者どころか、摂家筆頭の近衛家の血脈をも受け継いでおったとはな・・・』


『はあ、それがしも上様よりうかがった時には驚きの声も上がりませんでした・・』


『そればかりでは、ないですぞ一益殿。あの前久様の御正室は晴通殿のご息女であられるのじゃ!』


『なんと! となると前久様とこの久太郎は』


『義理の兄弟・・・と、なりもうすな・・・』


『先の関白であった近衛前久様と久太郎が義兄弟・・・驚きすぎて・・言葉も出ぬ』


『・・・』


 一益と友閑の会話を伏し目がちに聞いている堀を一益は暫く見つめていたが、やがて先程の友閑の表情を思い出し友閑に話し掛ける。


『ところで、友閑殿。近衛前久様といえば・・・』


『うむ?』


 一益は、ニヤリと笑うと


『嵯峨では随分と近衛様を、いじめられたそうでござるな』


『うっ・・・』


『山崎での合戦後、京から明智勢を一掃した後の事でござるよ。京に舞い戻った友閑殿は本能寺の変の直後、俄かに頭を丸めて嵯峨に隠棲した近衛様の居所を付き止めるや連日その隠棲先に乗り込むやその門前にて体調がすぐれぬと言って面会しようとしなかった近衛様に対し大声で咎められたそうで・・・クックック・・・今でも嵯峨、嵐山界隈の寺に仕える小坊主達の噂の的になってござるよ、法印様が俄か坊主になった先の関白様を大声でなじっておりましたとな・・・ハハハ・・・』


『まあ!!』


 思わず声を上げた慈徳院に友閑は、てれるように頭をつるりと撫でると、


『いやはや、そんな噂が広まっておりましたか・・・今思えば、恥ずかしい限りですな、ハハハ・・・。あの時分はそれがしも上様、中将様が明智の謀反にて急にお隠れなさった事で頭に血が上っておりましてな・・・中将様、御最後の戦いであった二条城での戦いの折、明智方の軍勢が二条城に隣接する近衛様の邸宅から中将様の軍勢に攻撃をしたと聞き及び、何故に近衛様は明智に邸宅をお貸しなさったのかと・・・数日の間、毎日門の外で大声で詰問しておったのでござるよ・・・。連日訪問したそれがしと会おうともしない近衛様の態度に腹を立ててかなりきつい口調で咎めておったのは事実でござる・・・いやはや、若気の至りでござった・・・』


『友閑殿、そのお年で若気でござるか?』


『あっ! いや、参りましたな アッハハハ・・・』


『ハッハハハハ・・・』



(困った、お二人だこと・・・)


 慈徳院は、他愛なく笑っている友閑と一益の二人を見て苦笑する・・・。


(まるで、腕白小僧同士の会話ですわね・・・それにしても・・・)


 二人の会話に口を挟まず微笑を湛えながら聞き手に専念している堀を改めて見つめるのであった・・・。


(薫殿・・・いえ、薫様とお呼びすればいいのかしら・・・薫様と久太郎殿の婚儀をいかがして上様はそのようにお望みあそばしたのでしょうか・・・)



『その近衛様じゃが、今、醍醐周辺に潜まれておられるようじゃぞ、友閑殿』


『ほう・・・醍醐に・・・』


『お望みなら、我が配下にもそっと調べさせるが?』


『・・・いや、けっこうでござるよ一益殿。醍醐なら、それがしも少し心当たりもござるゆえ』


『ふむ・・・承った。 そうじゃ、話が逸れたが友閑殿、久太郎の婚儀についてじゃ! 何故に信長様が肝入りになるほど熱心になったのか?』


『おお、そうでござった! 久太郎の婚儀の件から始まる中将様御正室問題についてでありましたな』


『うむ』


『さて、上様が初上洛時に久我晴通殿と知己になったという事は先程話した次第で、それから数年して後にまた上様、晴通殿は奇しくも再会する事になり申した。お二人様が再度、相見あいまみえたのは、永禄十一年(1568年)の秋9月、上様が義昭公を奉じ上洛された時にござった。その時分の洛中の騒々しさといったら上様を始めとして我が織田家家中の者共にとっても経験の無い事ばかりで右往左往する日々だったのじゃ・・・。特にたいへんだったのが上様に対する陳情であった・・・自領内での狼藉を禁止する禁制を願う公卿衆、更には各寺社の門跡衆達・・・その中でひと際やっかいだったのが義昭公の将軍就任に対し反対する立場を取った公卿衆達の処遇についてであった・・・』


『ふむ、それはそうであろうな。 何せ、経験の無い事ばかりじゃ・・・』


『左様、そのような朝廷内での勢力関係に疎かった我等に助言をし発言力を強くした方が、以前に関白でもあった二条晴良様でござった・・・』


『おお! 大物登場であるわい!!』


『義昭公の強い推薦で再度関白に就任した晴良様はすぐさま辣腕ぶりを発揮し、当時関白であった近衛前久様を関白職を辞させ朝廷より追放させ申す。この近衛様追放劇の表向きの理由は近衛様が先の将軍義輝公の弑逆事件に関係があったという疑いと義昭公の将軍職就任に反対し前将軍義栄公を擁立したためであると・・・ここまではよろしいか、一益殿?』


『うむ、存じておる。すると、表向きの理由があれば・・・当然、裏の理由もあると?』


『そうでござる。晴良様があれほど苛烈に近衛様を目の敵にして内裏より追放した理由は摂家内での権力争いの暗闘の歴史がそうさせたのでござるよ・・・』


『摂家内の暗闘・・・とな・・・』


『公家の中の最高の家格を持つ摂家・・・五摂家と呼称される通り五家が家格の頂点に立っておる。近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家・・・この五家の中でしか摂政関白の任には就くことができない・・・そして【藤氏とうしの長者】もこの五家の中からしか選ばれないのである・・・』


『ふぅむ・・・藤氏の長者・・・で、あるか・・・』


『うむ。その藤の長者を巡り彼等は数百年の間暗闘を繰り広げておったのじゃよ・・・。そしてこの摂家内には二つの派閥があってな、それぞれ違う花を家紋に持っておって、一方は橘の花を家紋に持つ近衛家、鷹司家、そしてもう一方は藤の花を家紋に持つ九条家、二条家、一条家・・・まあ、武士でいう源平みたいなものじゃな、ちなみに源氏の長者の家である久我家は五摂家に次ぐ清華家の家格に当たるのじゃ・・・』


『ほぉ・・・そうであったか・・・』


『まあ、このような歴史背景を持つ両派閥の因果関係で二条家の当主であった晴良様は仇敵の間柄であった近衛家の当主、前久様を追放なさった訳じゃ』


『なるほどのう・・・それが裏の理由であったか』


『足利将軍家に嫁ぎ、御台所様に実の妹がなった事を契機に縁戚となって朝廷の武家伝奏のお役に替わり朝廷のみならず全国の諸大名達からの要望を一手に引き受け将軍に取り次いだ近衛植尚様、前久様親子の権勢やその羽振りの良さを、困窮の朝廷に身を置いていてその様子を眺めていた晴良様にしてみれば、ご自身が後援していた義昭公上洛時にその近衛家に繋がる者達に鉄槌を加えることができたことは、殊の外、ご満悦であったことでござろうよ・・・』


『・・・』


『ところが・・・』


『うん?』


『その晴良様が、手出しをせぬ近衛家に繋がるお方が居られ申した・・・』


『・・・まさか、その方が⁉』


『そうでござるよ、晴通殿、久我晴通殿でござった』


『おお!!』


『晴通殿は、義昭公を奉じて上洛した上様の許に村井殿に伴なわれてひょっこりと訪れて来られたのだよ。当時、京洛の地は先程も申したが凄まじい喧騒の最中にあって上様の許に陳情を求める人々が多く、我等はいちいち応対する暇も無かったのであるが、破戒僧の様な姿の晴通殿は受付の者に、「弾正忠だんじょうのちゅう殿にお目通りに叶いたい。旧知の愚庵が参ったとお取次ぎ願いたい」と。その様子をたまたま見ていた村井殿が不審に思い直接応対したところ晴通殿は持参していた書状を村井度に手渡され、その書状の裏には源の長者だった者よりと書かれておったそうじゃ』


『ほうほう・・・』


『そこで、上様と晴通殿は永禄二年以来九年ぶりに久闊を叙するのだが、慌ただしい中、晴通殿は久我家の所領への狼藉を禁ずる禁制を上様にお願いしたそうだ。何でも当時の久我家は窮地に立たされておったようでな・・・』


『窮地にな・・・?』


『うむ。当時、久我家の当主は晴通殿のご嫡男、通堅みちかた殿で源氏の長者の地位も晴通殿から受け継いでおられたのだが、この年、お二人が再会された永禄十一年に朝廷から解官され、京の地から追われ堺に住まわれておったそうじゃ』


『な なんと⁉ 』


『それで、隠居されていた晴通殿が自ら所領の禁制を朝廷経由でなく直接上様にお頼みに訪れられたということだったらしい』


『・・・』


『その場に同席した村井殿の話しによれば、上様は突然の来訪の晴通殿の願いを快く承ったばかりか忙しい中、楽しそうに晴通殿と談笑されていたようじゃ・・・』


『ふむ 信長様と晴通殿は、よほど気が合う間柄だったようだのう・・・』


『そうでござるな・・・その後お二人が再会された翌月十月十八日に朝廷より将軍宣下を賜った義昭公の下で正式に各公卿衆への所領に対する禁制を下したのが二十日であった。そこで衆の耳目を集めたのがいち早く久我家の所領を安堵するとした十五代将軍義昭公の認証を受けた御下知であったのじゃよ。これは上様が義昭公や二条晴良様に掛け合った結果で弾正忠こと上様が宗入愚庵と称した久我晴通殿への通達を直接行ったことが公卿衆達に伝わったからなのじゃ・・・。この件は当時ちょっとした事件であってのう、何故に近衛家の血が濃い久我家がこうも早く旧領の所領安堵がなされたのであるかと・・・』


『まあ、そうであるわな・・・』


『近衛前久様をあれほど執拗に咎めだてて朝廷はおろか、京の地からも追放し更に近衛家を闕所けっしょ扱いにまで追い詰めた義昭公と二条晴良様が久我家の処分に対しては何も不満が出なかった事に公卿衆達は驚きの目で見られておったのじゃ』


『確かに腑に落ちない沙汰である。友閑殿の先程の言葉を借りれば久我晴通殿は先の関白であった近衛尚通様のご実子で、実の兄であったこれもまた関白職に就かれていた近衛植家様のご嫡男の前久様は自分の娘を嫁がせた婿殿であられる。いかに、近衛家から久我家へ養子になって参られたとは言え、どう考えても義昭公や晴良様にとっては政敵であった近衛家、近衛前久様に特に近い人物だったと断じられても全くおかしゅうないはずじゃが・・・』


『左様、その通りでござる。いかに上様が晴通殿に頼まれ口添えをしたとはいえ、近衛家の処分や前久様の追放処分の決定の折に、近衛家の処分に対し正親町おおぎまち天皇様、上様の執り成しがあったにもかかわらず強硬な態度を変えなかった義昭公と晴良様のお二人が何故に晴通殿の久我家には寛恕かんじょの意を示したのか・・・』


『気になるのう・・・友閑殿』


『確かに晴通殿の久我家の所領安堵の通達、並びに禁制への件は当時弾正忠様と呼ばれていた上様の口添えの力も大きかったのであるが、更に上様のご意向の背を押したのが義昭公の将軍宣下と共に再び関白に復職した二条晴良様のご意向にござったのじゃ・・・』


『な なんと⁉ 晴良様は反対する側の急先鋒ではなかったのか?』


『と、普通はそう思うでござるな、一益殿。ところがじゃ、晴良様は久我家の所領安堵に反対するどころか逆に擁護する考えを持っておったのじゃよ。足利将軍家に再び源氏の長者の冠を戴かせようと思惑を含んでおった義昭公は久我家への処分に対し少しばかり不満を抱いたらしいが、自分の元服の儀式のためわざわざ越前まで赴きそれ以後も自分を後援してくれた晴良様の意向の前には自分の我を通すことはできなかったということであろうな・・・』


『友閑殿、何故に晴良様はそこまで久我家の事を思いやったのでござろうな?』


『久我家というより・・・晴通殿に対する晴良様個人の思いからだったと、後の久太郎の婚儀の宴の折にそう申されておった・・・』


『久太郎の婚儀の宴の折じゃと!!!。 それは、真実まことにござるか?』


『うむ、真実じゃよ一益殿』


『織田家のただの一陪臣にすぎなく、当時の久太郎はまだ小姓の域から出始めたばかりで・・・。時の関白様がその分限の者の婚儀の宴に参られておったとは・・・信じられぬ・・・』


 一益は、驚きの目で当事者であった久太郎の顔をまじまじと注視する・・・。


『晴良様は、薫殿の後見人という立場で来られておってな、その宴の席で永禄十一年の思い出話しから晴通殿に対する思いを訥々とつとつと語られた・・・。晴通と晴良・・・同じ晴という文字を時の十二代将軍足利義晴公から偏諱に持つ二人には共通点が奇しくもあったのじゃ・・・歳は七つほど晴通殿が年上で、お互いの出自も、近衛家、二条家という摂家であったのも同じ、【源氏の長者】、【籐氏の長者】という氏の長者であったのも同じ境遇、更にその氏の長者を辞したのも同じ年、天文二十二年(1553年)の事であった・・・。おお、天文二十二年といえば、そなたが生まれた年であったの・・・?』


『はっ・・・』


 友閑に不意に尋ねられた堀はまつ毛を伏せて答える。


『晴良様が申されるには、天文五年(1536年)に晴良様は元服を済ませ内裏に上がった時には晴通殿は久我家を継ぎその年には弱冠十七歳ながらもうすでに従三位権中納言の官位を持ち、更には源氏の長者の地位も併せ持っておったそうだ。更にじゃ内裏での行動規範や決め事、規則などを入内したばかりの子弟達の初等教育を受ける場が奨学院であったが、その別当に任命されておったのが何度も言うが弱冠十七歳の久我晴通殿だったのじゃよ。そこで、初めて晴良様は晴通殿と言葉を交わしたらしく、「同じ晴という文字を義晴公から偏諱に持つ者同士じゃ、これからも二人力を合わせて苦境の朝廷を支えてゆこう」・・・と。ところが、言葉を掛けられた当時十歳だった晴良様は晴通殿のことを胡乱うろんな目で見ておったそうだ。(五摂家筆頭の家柄のくせに足利将軍家寄りの立場を採り、朝廷をないがしろにする憎き近衛家の血脈の者が何を言うか)・・・とな』


 友閑はそこで、口が渇いたのか湯飲みを取り上げグイっと飲み干すと扇子をまた扇ぎ始める。


『それから数年が経ち、天文十七年(1548年)晴良様は関白に就任し藤氏の長者になられる。気がつけば知らぬ間に晴通殿より官位も地位も上になってしまった自分に暫し茫然となってしまったとこぼされたのじゃ・・・晴通殿との初対面より十数年の歳月を朝廷内で一緒にまつりごとを重ねるうちに晴通殿に対する印象が少年時の頃と全く違ったものになったと仰せられてな、晴通殿は公家に似合わぬほど豪胆な性格を持ち、されど誰に対しても話しをする場合は全身全霊で相手の言葉を聞いていたと・・・そして最も特筆すべき点が、その決断力と行動力だったと。反近衛という理由で朝廷内の意思統一を拒もうとする九条閥の公家たちに口を酸っぱくしながら語り続けた言葉は、「近衛を嫌うてもよい、が、しかし将軍家と近衛家とは別に考えるべきものぞ」とな・・・。天文十年(1542年)以降、強大な勢力に成りつつあった三好勢の圧力に当時の足利将軍家は何度も京の地を追われ近江国坂本に動座した時も晴通殿は朝廷の一員ながらその動座先に随伴し将軍家と朝廷への橋渡しをし続けたのだと。その時、都に在住して朝廷側の受け手になっていたのが晴良様だったのじゃよ。晴良様は幾数年の間、晴通殿の朝廷と将軍家の良好な関係こそこの戦乱に続く日の本を鎮めるという終始一貫とした態度に感銘を受け反近衛の九条閥に身をおくものの常に晴通殿と協力する関係になっておった。ところがじゃ・・・【源氏の長者】【藤氏の長者】の二人で辛うじて支えてきた将軍家と朝廷との懸け橋が決壊される事件が起こったのだ、晴通殿がにわかに出家し朝廷を辞することになった一件じゃよ・・・』


『ふーむ・・・』


『晴通殿のとったその態度、決断に晴良様は大層ご立腹されされ、すぐさま晴通殿のもとに詰問しに行ったそうじゃ。「そなたは、何故に朝廷を辞した!? 何故に出家までして逃げようとする!? そなたが、私に言い続けてきた将軍家と朝廷の橋渡しを日の本の為に成し続けようと・・・その言葉は嘘であったか!!!」とな・・・』


『・・・』


『晴良様がそこまで激怒しなじるのも無理はなくてのう・・・天文十七年(1548年)に関白、藤氏の長者に就任して以来、晴通殿が突然出家し朝廷を辞した天文二十二年(1553年)四月まで反近衛に固まる九条閥の意向をなだめすかして近衛家が擁する将軍家との関係を取り続けようとなさったのは晴通殿との個人的な信頼関係が大きかったのであるからのう・・・。その信頼関係を裏切られたと思っても無理はない・・・。特にその時期は、刻々と勢力を強める三好家があの本願寺とも友好関係を結んでおり九条閥の諸公卿がやたらと三好勢力と誼を通じてかの勢力の力を利用して時の将軍家の威光を削いでその将軍家を擁する近衛家の影響力を排除しようと躍起になっておった時期と重なっておった・・・晴良様もその動きを抑えるのがたいへんだったからじゃ・・・』


『なるほど、そうであったか・・・』


『当時まだ二十歳を一つ、二つ越えたばかりの晴良様は血気にはやり相当晴通殿を面罵したそうだ・・・だが・・・晴通殿は晴良様の罵倒を黙ったまま聞き入り、出家して朝廷を辞した理由を述べよとの問いにも、ただ「自分の不徳が招いたため、誠に申し訳ござらぬ」と、それだけを申してまだ青々とした頭を下げ、詳細は語らずじまいだったそうだ・・・』


『ふむ・・・』


『この時期の晴通殿はかなり辛い立場に立たされておってな、この時期の将軍家は天文十九年(1550年)に大御所であった十二代将軍義晴公がお亡くなりなってからまだ十四歳の義輝公、その時はまだ義藤様と名乗っておられたようだがのう、その義藤様が第十三代将軍として引き継いでおられたが何せまだ若年で将軍家の奉公衆もまとめきれてない状態で、政敵である三好家に対して鞍替えする奉公衆達が続出しており、そのような不安な足元を見透かすように朝廷内では将軍家を軽んじる風潮だ顕著だったという・・・いかに、藤氏の長者であり時の関白であった晴良様と信頼関係があったと言っても足利将軍家と朝廷の協力関係を望む晴通殿にとっては朝廷内の空気ははなはだ逆風だったのだよ。そして更に晴通殿が最も心が痛んだのが身内からの罵声と叱責であった・・・その身内の中で最も強硬な態度で晴通殿を責めたのが実の姉、前将軍義晴公の御台所様であった慶寿院様であったのじゃ。若年である義藤様の代わって将軍家の政を行っていた慶寿院様は逆風にさらされる嫁ぎ先の将軍家や生家である近衛家を守ろうとしたがために、反将軍家、反近衛家の立場をとる朝廷に対しかなり鬱憤うっぷんが溜まっておったのであろう・・・その鬱屈うっくつした思いを将軍家と朝廷間の橋渡しを担っておった実弟の晴通殿にぶつけられたようでな、「将軍家や近衛家を嘲笑し侮る九条閥の二条家が関白である朝廷に何故に尻尾を振るう様な態度をとり続けるのか、何故にそなたは将軍家や近衛家の意向をもそっと強う主張しないのか!!! そんなに現関白の率いる朝廷とよしみを結びたいのであれば、とっとと二条家の関白の下に鞍替えすればよかろう!!!」と・・・それまでにも将軍家の奉公衆や同じ血脈の近衛家の者達から「あれは、近衛家の血に連なる者のくせに九条閥の長である二条関白に媚を売る侫人ねいじんじゃ」と、揶揄やゆされておったにも関わらず耐えておったさすがの晴通殿も実の姉の叱責の言葉に心が折れたのやもしれぬ・・・』


『何と・・・何とも言えない酷い話しじゃわ。晴通殿ほど将軍家と朝廷間の関係を取り持とうと心を砕かれた方は当時、居なかったのではないか! その晴通殿は敵対する朝廷勢力からのあざけりはともかく、味方である身内からもそのようにさげすまされておったとは・・・』


 自分の事のようにいきどおる一益に友閑は大きく頷くと


『その通りであるのう、一益殿。晴良様は後年その時分の晴通殿の境遇を聞いて愕然とされたそうじゃよ。自分と接する時はそんな苦境の立場にあったことをおくびにも出さずいつも通り快活な晴通殿であった。そんな辛い立場にありながら繰り言も一言も漏らさず将軍家と朝廷を友好な関係にする事が日の本のためだという己が信条のために行動しておった晴通殿に敬意がこみ上げてきたと・・・』


『晴通殿は、おとこじゃのう!! 己が信条のためには、周りがどんな評判を立てようとも、また、いかに孤独な境遇に陥ろうとも信ずる道を行く!!! 見事じゃ、出来うるならば是非一度、酒を酌み合わせたかったわ!』


『ハッハッハ、これは妙な一致じゃ一益殿! 上様も同じ様に晴通殿をおとこじゃのうと申されたそうだ』


『信長様もじゃと⁉』


『村井殿から聞いた話じゃが、お忍びで上様が永禄の時代の頃、晴通殿の住まいを訪れたことがあってのう、その時に思いのほかみすぼらしい晴通殿の住まいをじっと見られて後こう申されたそうじゃ』


「これが(僧籍)にったか者のか! 宗入愚庵とは、よう申したのう カッカッカ!!! 愚庵、ぬしゃ、なかなかのおとこじゃのう ガッハッハッ!!!」


『と、言って、上様はゲラゲラと大笑いされたそうじゃよ。上様が何を思われてそう申されたか、はっきとした事は分らぬが・・・ひょっとしたら上様は晴通殿の出家の経緯を存じておられたやもしれぬ・・・』


『カッカッカ、そうかもしれぬ。信長様、昔から気骨のある人に会うと面白がって喜んでおったからな、クックック、ツボにはまって大笑いしておる信長様の姿が目に浮かぶようじゃ、クッハハハハ・・・』


『いかにも、ハッハッハ・・・』


 二人は何がそこまで面白いのか、共に涙ぐみながら笑い合う・・・


『して友閑殿、その後愚庵殿こと晴通殿はどうなされたのであろうか?』


 ひとしきり大笑いした後、一益は友閑に尋ねる。


『うむ、その後は最前に話したように晴通殿は義藤様、いや、紛らわしいので義輝公とお呼びすることにするが、晴通殿はそれこそ身一つで義輝公の許に近侍する事になる・・・まあ、朝廷を辞し出家した経緯からあまり温かい目で迎い入れられた分けではなかったであろうがのう、以後は朝廷には一度も出仕せず若年の義輝公をただお支えする言い換えれば足利将軍家をお輔けすることのみにご自身の身命を捧げたのじゃよ・・・晴通殿が出家したその年天文二十二年(1553年)秋には、将軍家に圧力を加える三好勢に敢然と戦いに臨んだ義輝公であったが惨敗を喫し近江朽木谷に逃れるように京洛の地から離れることになり、その後約五年ほどは京の地には戻れなくなってしまう・・・その間三好勢の首魁であった三好長慶殿から将軍に随伴する者の知行は没収するという通達に義輝公を見限って随伴者のほとんどが帰京した中、晴通殿は信条を貫き義輝公のお近くに侍り続けるのじゃ・・・このひなびた朽木谷で艱難辛苦、困窮が極まった状態での暮らしで義輝公は何の不平も言わず黙々と自分に尽くす晴通殿を心から信頼するまでにはそう時間は必要ではなかったと聞き及ぶ』


『見事な生き様よな、晴通殿は。筋が通っておるわ!』


『その後、京に戻られた義輝公が将軍職として親政を始めると晴通殿は将軍の御内書を持って全国の諸大名間の争いを調停させる使者となるのじゃ、その代表的な例が永禄五年の豊芸講和、つまり豊後大友氏と安芸毛利氏との間の講和を結ぶために義輝公の名代として九州豊後まで訪れておる。もうこの時点での義輝公の晴通殿に対する信頼の厚さは特に説明するまでもないでござろう・・・』


『将軍名代の使者として各地に下向しておられたとは・・・諸大名間の争いを止めさせるため将軍家の使者となって現地に赴く晴通殿のお心は、さぞ,高揚されておったであろう・・・何せ若い頃から日の本の争いを無くそうと志されておった分けだからのう・・・』


『うむ、そうであろうよ・・・そんな溌溂はつらつとした晴通殿のお姿を遠くから眺めておった晴良様は憧れをもって見ておったらしい・・・』


『ほう・・・』


『晴良様はあの天文二十二年(1553年)の折、政敵でありながら盟友でもあった晴通殿の出家から朝廷を辞したことを受け、政に対する意欲が薄れその年に関白職並びに藤氏の長者の地位からも身を引かれそれから朝廷内では表立った活動をされていなかったと仰せであった・・・ところが、義輝公が京に戻られ将軍家親政を始めるや義輝公に近時しておった晴通殿が生き生きと活動している様を見てその姿を羨ましく思えたそうじゃ・・・「自分には、あのような思い切った生き方はできぬ・・・」とな・・・それでそのような経緯の上、晴良様個人的な晴通殿に憧れや思い入れもあって永禄十一年(1568年)窮地に立たされておった久我家に対して特別に思いやる姿勢を見せたというわけじゃよ・・・』


『なるほど、そう言った理由で久我家に厚情をのう・・・。ふむ・・・晴良様が仰せのように普通はできぬ生き方であろうな。朝廷に出仕を続けておれば高位高官のまま不自由な暮らしをせずに済むところを、己の信条のために職を投げ打ち挙句の果ては出家までして自由な立場を選択するなどと万人ができうる事ではないからのう・・』


 そこで、一益は思い出したように膝をポンっと叩くと友閑に尋ねる。


『晴良様といえば、ずっと先程から気になっておったのだが何故に久太郎の婚儀に参られておったのじゃ? 聞き間違いでなければ薫殿の後見人であったとか・・・友閑殿もそっと詳しく教えてくれぬか?』


『おう、その件じゃな。何故に時の関白様の二条晴良様がその場に居合わせたのかというとじゃな、久太郎の婚儀のあった天正三年七月、その時分には晴通殿、その嫡男であった通堅殿がその年に相次いで亡くなられておってな、確か晴通殿が三月、通堅殿が四月であったかのう・・・久太郎?』


『はっ、そうであったかと・・・』


『な なんと⁉』


『まあ⁉』


 驚きの声を上げる一益と慈徳院に友閑は頷くと


『そこで薫殿の身寄りの者が表向き父親とされておった養父である喜多島良滋殿だけであまりにも寂しいという事で薫殿の実の父親であった晴通殿と関係が浅からぬ晴良様に媒酌人である上様が薫殿の後見人として参席をお頼み申したというのが事の理由なんじゃよ』


『そうでござったか・・・』


『薫殿の母であった喜多島殿の妹君はすでに数年前に他界しておってな、薫殿は母君の葬儀の時に訪れた晴通殿から実の父親だと知らされたらしい・・・そのように実の肉親も不在であった薫殿の境遇を上様から事の次第を聞いた晴良様は二つ返事でその依頼を快諾されたのじゃ。まあ、もっとも晴良様は薫殿の存在を上様からその年の三月のうちに聞かされておって見知っておられたのだが・・・』


『うん? その年の三月と言えば、晴通殿が他界された月であったな?』


『いかにも。その年天正三年(1575年)三月、上様は禁中の大補修工事の経過確認と貧困にあえぐ諸公卿衆への徳政令を発する準備のために岐阜より上洛され宿所の相国寺に居を据えたのじゃ。そこで村井殿より持たらせられたのが一通の書状・・・晴通殿から上様への遺言書であった。書状に目を通し薫殿の存在を知った上様は如何にして薫殿を呼び寄せようかと思案していたところ思わぬ人物が上様に拝謁を願ってこられたのじゃ・・・ふーむ・・・今、考えてみればこの珍客であった御仁ごじんのおかげで上様や晴良様、そしてわしや久太郎が薫殿との邂逅の場を設けるよう天が遣わされた使者であったのやもしれぬのう・・・』


『ふむ。して、その御仁ごじんとは、どなたであったか?』


『・・・氏真うじざね殿・・あの今川義元殿のご嫡男、今川氏真殿でござった』














 





 




 



 


 

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