第10話 海蔵寺での邂逅 堀 久太郎と柴田 源左 Scean7
(チリィ~ン~~ チリィ~~ンンン~~)
堀はふと風鈴を見上げる・・・
にわかに押し寄せてきた当時の心のざわめきを感じ、堀は戸惑いを覚える。
(あの心のざわめきは・・・、フッ まさかな・・・)
何とも心に染み渡る韻を奏でる風鈴を見つめながら堀は一人苦笑する。
(チリィ~ン~~~ チリィ~ンンン~~~)
初夏の風に乗って心地よい音を奏でる風鈴・・・
(ああ そうであったな・・風鈴はあの暘国庵の縁側にも吊るされておった・・・)
思い出に耽る堀であったが源左の言葉に現実に引き戻される・・・
「この茶団子はおいしゅうござるな。宇治のどちらの
「それは、藤二郎殿が今朝わざわざ届けに来てくれたものです」
「ほう、藤二郎殿・・・森殿がわざわざこちらに?」
「ええ、なんでも当地に出店を開いたそうで挨拶のついでにその団子とこの新茶を持ってこられましてな」
堀は源左の前に置いてある茶団子の載った皿と新たに入れられたお茶を手で指し示す。
「ほうほう それはそれは・・・してどちらに? やはり箱根街道沿いに店を出されたのか?」
「いえ、出店を構えたのは熱海街道沿いだそうです。海が見える場所で藤次郎の店以外はまだ何も建ってないとのことでありました」
「ほお~ それはまた風流な・・・これは一度伺ってみたいものじゃ・・・」
源左そう言うとまた一本団子の串を取り上げ旨そうに頬張る・・・。
「人の行き来が多い箱根街道沿いの良い場所には既に
「上林殿ですか・・・利休殿と懇意になり今や森殿に代わり関白殿下のお茶頭取の筆頭になっておられる・・・お茶の世界・・・商いの世界も難しゅうござるな・・・」
「ええ・・・」
源左は食べ終えた団子の串を丁寧に皿の上に並べると湯吞みを手にし入れられたお茶の香りを楽しむと一口 二口と口に含みやがて飲み干した。
「うむ、とてもおいしゅうござった。それで久殿」
源左は湯呑みを静かに置くと堀に尋ねる。
「はい」
「その後、暘国庵から皆で山崎の筑前殿の許に向かわれたのであろうか?」
「いえ、結局は行けずじまいでありました」
「そうでしたか・・・もしその時三人で向かわれておれば歴史が変わっておったやもしれませぬな・・・」
「かもしれませぬ・・・」
「ふむ・・・」
源左はそう答える堀の表情をじっと見ていたがやがて、腹をさすりながら改めて堀を促す。
「さて、腹も膨れましたし久殿、お話の続きをお聞かせくださらぬか?」
「それでは、続きを・・・」
(チリィ~ン~~~、チリィ~ンンン~~~)
ーーーーーーーーーー☆☆☆---☆☆☆ーーーーーーーーーー
(チリィ~ン~~~、チリィ~ンンン~~~)
『綺麗な庭である・・・手入れが行き届き植えられている草花達もうれしそうじゃな・・・世話をしている人の性格がしのばれるようだ・・・』
友閑は感嘆しながらつぶやく。
さほど広くない庭先を友閑と堀は案内された部屋で風鈴の心地よい韻を耳にしながら眺めている。
赤い色を控えめに主張している
『鬼灯の花言葉は確か・・・心の平安・・・であったか・・・この場所で またこの時期にこの赤い花達とま見えれば心が何とも落ち着くのう・・・』
(ほう・・・そんな意味がこの花達に・・・知らなかった・・・)
堀は誰に聞かせるともなくつぶやく友閑の言葉に感心する。
日が傾きつつあるこの時間に、鬼灯の花の赤さは幽玄に映る・・・。
(チリィ~ン~~~、チリィ~ンンン~~~)
『あらあら、お二人して何をそんなに見とれてますの? 大したお庭の景色ではありませんのに』
その時、御盆を手にした慈徳院が二人に声を掛けた。
『いや、見事な眺めでござるよ。日が傾きつつあるこの時間の日の光がその都度、木々や草花の陰になり赤く咲いた鬼灯の花が何とも
『私も、友閑様のお言葉と同様、とても感動致しました・・・』
堀も友閑の感想に同意の言葉を口にする。
慈徳院は二人の言葉に驚いたのか一瞬目を丸くしながら、跪くと
『友閑様や久太郎殿がそこまで言っていただけるとは・・・この庭の手入れをしている私にとって何よりもの誉め言葉でございます、ホホホ・・・』
慈徳院はそう言いながら、手にした御盆を下ろすと綺麗な指先で指し示す。
『井戸水で冷やしていた瓜と、朝一番で貴船神社で汲み上げた御神水でございます。どうかこれでお口と喉をお潤しくださいませ、お水は今日のお茶会のためにたんと用意してありますのでお代わりも遠慮なさらずに』
そう言いながら慈徳院は衣擦れの音を立て、御盆から瓜と水の入った湯飲みを品良く二人の前に揃える。
『これはこれは、慈徳院様自らのお運び、誠に痛み入ります』
『かたじけのうございます』
友閑と堀は恐縮しながらも差し出された水につい手が伸びる。
『これは、旨い!!』
友閑は称賛の声を上げた。
『貴船といえば京の奥座敷と呼ばれる場所。またその場所に鎮座する貴船神社は京の水脈を守護する龍神を祀られてると聞き及んでおるが、この御神水も何か味が違うように感じられる・・・』
『はい、友閑様の仰せの通り貴船の水は何かしら特別な気がします、そう・・・まろやかでありながら、毅然としたような・・・旨く表現できませんが、うん? 久太郎殿もお代わりはどうですか?』
『とてもおいしゅうございました。では、お言葉に甘えてもう一杯お願いできませんか?』
『はい、遠慮なくどうぞ。友閑様もいかがですか?』
『では、それがしもお願い致します』
『少々、お待ちくださいね』
慈徳院は、笑顔を浮かべ一礼すると御盆を持ち奥に戻ろうと背を向ける。
堀は彼女のその後ろ姿を無意識に見つめている・・・。
『この瓜もいただこうか』
友閑の言葉に堀も我に返り
『はい』
と、答え瓜に手を伸ばす。
『ほおほお、この瓜もよく冷えて甘くておいしいのう・・・』
むしゃむしゃとさも美味しそうに瓜を頬張る友閑に釣られて堀も瓜を口にする。
(旨い!! この瓜は・・・?)
『しかし、あの方は変わられぬな、まだ【慈徳院】様と呼ぶことに慣れぬせいかちと違和感を覚えるがのう・・・中将様の乳母になり上様の御側室にまでなられたあのお方は、かずえ殿とわしが呼んでおったあの頃のままじゃ・・・誰彼にも気さくに接して朗らかに声を掛けられる・・・あの心根の優しさは今も変わられぬ・・・』
『・・・』
『わしはな、久太郎よ』
友閑はそこで指先に付いた瓜の汁をペロリと舐めると
『あのかずえ殿の姿を見るたびに思い出すのじゃよ・・・上様の前で彼女が能を披露した時のことをな・・・舞うたびに何とも言えない色気を醸し出すあの指先のしなり方・・・愁いを帯びた瞳で見上げるその横顔の美しいことよ・・・わしは不覚にも口を開け見惚れておったわ・・・』
『・・・』
『中将様があれほど上様が
『・・・』
友閑は黙ったまま自分の話を聞く堀に向けて覗き込むような視線で不意に尋ねる。
『ところで久太郎よ、そなた かずえ殿 今は慈徳院様であられるが・・・あの方に惹かれておったであろう?』
『な 何を仰せられますか、友閑様! お
友閑はそんなひどく狼狽する堀を面白そうに目を細めて見ていたが
『ふーむ・・・そうであったかのう・・・。わしの目にはそなただけでなく他の小姓衆達の矢部殿や長谷川殿や万見殿・・・そうそう、あの菅谷殿までも慈徳院様に惹かれておったように映っておったが・・・まあ、そういう事にしておこうか、ウフフフフ・・・』
『友閑様、そ それは そうでございましょうが、私は! 』
『ウフフフ・・・、誰に惹かれておられたというのですか、久太郎殿?』
その時、堀の後ろから突然慈徳院が声を掛けたのであった。
『えっ! そ それは その 私は・・・』
慌てて言い逃れようとする堀の目の前には、いつの間にかお盆を手にした慈徳院がニコニコとしながら立っている。
『フフフ・・・気にはなりますが、あまり久太郎殿をいじめるのも気の毒ですからね、ホホホ・・・』
『はあ・・・、そ そうでした! この瓜、とても美味しかったです慈徳院様』
苦し気に話を逸らす堀である。
『おお、真においしゅうござった。さっぱりした甘味が何とも言えぬ、この瓜はどちらから取り寄せられたものですかのう慈徳院様?』
友閑もまた堀の言葉に同意の声を上げる。
慈徳院はすでに空になった友閑のお椀に視線を移すと、
『もう、お食べになられたのですね、お二人が食された瓜は津島から取り寄せた物でございます。今日津島から海路、桑名を経由してこちらまで』
『ほう、津島からでござったか・・・』
『はい、亡き上様が御幼少の身の時から事の他このマクワ瓜を好んでお食べになられてたのを聞き及んでおりましたので・・・』
『上様は若い頃、よく馬上で片肌脱いでこの瓜をかじってたそうですからな・・・』
『私も、上様のそのお姿を何度もお見受け致しました・・・』
慈徳院は在りし日の信長の姿を思い出しているのか暫し遠い目をする・・・。
堀はそのような切なげな表情を見せる慈徳院に自らの心の痛みを抑えるよう優しく小声で語りかける。
『上様は、そう言えば元亀元年の頃からこの瓜を朝廷に何度も献上されておりました・・・。事の他、この瓜がお気に召されていたのでしょう・・・』
『・・・そうでございましたか・・・』
堀はそう言うと、残っていた瓜をつまみ口に入れる。
(遠い思い出の味か・・・)
(チリィ~ン~~~、チリチリィ~ンンン~~~)
『上様が大好きであったこの瓜を・・・於市の方様はどう思われるのでしょうか? せっかく取り寄せたものの・・・やはり御兄妹ですからお好きですと宜しいのですが・・・』
『於市の方様でございますか!?』
堀は思いもかけぬ名前が慈徳院の口から出たの事に驚く。
『ええ、於市の方様でございますよ。今、こちらに逗留されておられますのよ』
『えっ⁉ それはまことにございましょうや、慈徳院様??』
更に驚く堀の表情に慈徳院もびっくりしたように答える。
『久太郎殿は、ご存知無かったのですか? 私はてっきり友閑様がお話しされて当庵に来られたと思っておりましたが・・・』
『友閑様・・・』
堀は友閑に問うように視線を移すと、友閑はニヤニヤと含むように笑っている。
『すまぬ久太郎、そなたが驚く顔が見たくて於市の方様の事は伏せておいたのじゃ。許せ』
『友閑様・・・言っていただければ於市の方様に取り急ぎ手土産を用意致すところでございましたのに・・・』
『許せ、許せ、久太郎。この通りじゃ』
恨みがましい視線で
『ふう・・・友閑様、それで何故に於市の方様が当地に参られたか御理由はお聞かせいただけるのでしょうか?』
『その件については、招かれたわしの口から申すより今回のお茶会の主催者である慈徳院様の方からのお話しが筋であろうな、いかがかな慈徳院様』
『承りました友閑様、僭越ですが私の方から久太郎殿へご説明申し上げます』
慈徳院は穏やかな笑みを浮かべ堀に向き合うと語り始める。
『事の起こりは私の義父一益が三法師様のご機嫌伺いに岐阜へ参った際に城内にお住まいの於市の方様に呼び止められまして、その時に於市の方様より上様と中将様の法要の件を問い質された事がきっかけにございます』
『あっ!・・・申し訳ございませぬ・・・』
堀は突然、慈徳院の言葉に思い出したように詫びた。
『いえいえ、何も久太郎殿を責めているのではないのですよ。於市の方様が申されるには信雄様、信孝様が本能寺の変の後、各自にご供養をされた事は聞き及んでおりましたが、節目となる百日法要の件はどうなっておられるのかと・・・私自身もその件について常々気に掛けておった事でしたので於市の方様の御杞憂に対し深く理解できる心情だったのです・・・。幸いにして私は当寺院内で義父と兄の協力を得、中将様を弔うための大雲院を建立できる事になりましたので来月の上様、中将様の百日法要は親子で執り行なう予定にしておりました。しかしながら岐阜におわす於市の方様には織田家としての法要を誰一人として自分に声を掛ける者がいらっしゃらなかったと・・・重臣と呼ばれる方々をはじめ、その他の織田家家臣の方々の心持ちに対し痛く嘆かれてたご様子だったそうです・・・そんな御心情の於市の方様がたまたま岐阜に参った義父一益を呼び止め、上様、中将様の百日法要の件についてご相談になられたのは致し方無かったのでございましょうね・・・相談を受けた
『そういう事でございましたか・・・』
堀は慈徳院の話を聞き終えると
そして、改めて姿勢を正し、慈徳院に頭を下げる。
『於市の方様、慈徳院様のこれまでのご心痛やご懸念に対し深くお詫び申し上げまする・・・大恩ある上様、並びに織田家の家督を相続された中将様が不慮にお隠れなさった事に対しそれがしは気が動転のあまりや、日々の務めに追われ御二方様の法要の件を後回しにしておりました・・・決してその件を失念しておったわけではございませぬが言い訳にしかなりませぬ・・・まこと、織田家の臣として恥ずかしいばかりでございます。泉下の上様や中将様に何と申し開きを致せば良いか・・・まことに まことに 重ねがさね、お詫び申し上げまする・・・』
『久太郎殿・・・』
『久太郎よ、そちだけがそんなに自分を責める言われなないぞ! 織田家の臣と言うならば、わしも同じく同罪じゃて。於市の方様や慈徳院様に対しお詫び申し上げなければならぬ。ましてやそちが言うように泉下にて上様、中将様に対し申し開きもたたぬわい。が、しかしじゃ、事に気づいた以上これからどうするかが於市の方様、慈徳院様に対するお詫びの証となるのではないか? それとじゃ、そちを慰める訳ではないがそなたが日々の務めに追われ法要の件を例え失念しておったとしても誰がそなたを責めることができよう・・・上様亡き後、実質織田家の家宰として広範な織田領を切り盛りしてきたのはそなた自身であろうに・・・もし泉下にて上様、中将様にお目にかかる事があればわしがそのように言い添えて御報告するつもりである。だからのう久太郎・・・あまり 自分を責めるでない・・・』
『そうでございますよ、久太郎殿・・・友閑様の仰る通りです・・・』
あまりにも自責の念に駆られた堀の姿に友閑と慈徳院は慰めの声を掛ける。
堀は、二人の声に顔を上げると
『友閑様、ありがたきお言葉にございます。久太郎、只今よりできうる事を遂行することをお約束致します。それと慈徳院様、お心遣い感謝致します。久太郎が当地に滞在する間、於市の方様、慈徳院様にできうる限りご協力させていただく所存にございまする故、それがしに願い事や頼みたき事があれば何なりと申しつけください』
『まあ! ありがたいお言葉ですこと』
嬉しそうに答える慈徳院に堀はひとつ頷くと
『それで慈徳院様、於市の方様はどちらに? できれば直ぐにでも御挨拶をさせていただければと・・・』
『於市の方様は兄と一緒に玉鳳院に行かれております・・・』
慈徳院は、そこで少しためらうよう言葉を止めると、一度友閑を見て、また堀の顔に視線を戻すと
『浅井殿のご供養をしたいと仰せで・・・一日は浅井殿の月命日だったそうで昨日二日は上様の月命日のご供養があったため御遠慮されたようです・・・今日になってお話しずらそうに兄 宗瑞にお願いされたのでございますが・・・』
『『浅井殿‼』』
友閑と堀は、同時に声を上げると、どちらかともなく、視線を合わせる・・・。
『はい・・・何でも浅井殿にご報告されたい事があるそうで・・・寂しそうに目を伏せながら微笑まれてそのように私に話してくれました・・・』
『うーむ・・・浅井殿で・・・あるか・・・』
『於市の方様は今でも・・・』
追憶の森に沈むように友閑と堀は視線を宙に
(チリィ~ンンン~~~、チリチリィ~ンンン~~~)
慈徳院は押し黙る二人の姿をしばらくの間眺めていたがやがてその場の雰囲気を敢えて変えるような明るい口調で堀に尋ねる。
『ところで久太郎殿、明日の予定はどうなっておられるのですか?』
『えっ 明日ですか?』
不意に慈徳院に問われ、慌てて我に返る堀である。
『はい。先程久太郎殿は私に願い事や頼みたき事があれば何なりと申しつけください・・・と、申されましたな?』
『はっ、確かに』
堀は強い意志を込めた視線で慈徳院に答える。
『ウフフフ・・・
堀は片笑くぼを浮かべ、いたずらっぽい瞳で自分を覗き込む慈徳院の表情に戸惑いながらも答える。
『明日は、今回の私の滞在先である相国寺において朝廷に勤める当家(織田家)の奉公衆や雑仕女達に滞っていた俸禄を給付する手続きをする予定でしたが・・・さりながらそれがしがご協力しうる事ならできる限りの事を致す所存故、慈徳院様、何なりと申し付けください』
『滞っていた俸禄を・・・奉公衆や雑仕女の方々はそんなつらい目に合われてたのですね、知らなかった・・・。友閑様が仰られたように本当に久太郎殿はそのような織田家としての仕事もされておられたのですね・・・尊敬致します』
『いえいえ、大したことではありません。ですから慈徳院様のお願いであれば明日でも一刻、二刻ぐらいであれば時間を作りますのでどうぞ仰ってください』
『ありがとうございます、久太郎殿。実は於市の方様が・・・』
『於市の方様が・・・?』
『こうポツリと仰せになられたのです』
「私はこの歳になるまで一度もゆっくりと京見物をしたことが無いのですよ、慈徳院様。先程いただいた美味しいお水、確か貴船から取り寄せになられたとか? 貴船といえば京の水脈を守護する龍神様を祀られる貴船神社もあるそうですね・・・そして夏の暑い時期には川の上に床を張って涼を楽しむ川床という風情を楽しむ催しもあるとか・・・私も一度はそのような場所に行ってみたかったですね・・・」
『貴船の水を召し上がられた時に、そのように・・・』
『於市の方様がそのように・・・貴船ですか・・・』
堀が頷くと、友閑も慈徳院様の言葉に感想をもらす。
『確かに夏の暑い時期の貴船はとても良い所ではあるな・・・』
『友閑様は行かれたことが、おありなのでございますね?』
『ええ、ございますよ慈徳院様。これでも殿上人の端くれでありますからな、公卿衆との会合で何度か訪れたことがあります。貴船の川床は貴船神社の本宮から奥宮の間にある幅の狭い小さな川の上に床を張りその上でお酒や食事をいただき、時にはお茶を点てたりその合間には連歌を披露したりと・・・木々に囲まれ豊富な水量の清涼な川のせせらぐ音が実に耳に心地良い・・・また床の下がすぐ川ですので床から伝わる冷涼感といったら同じ京とは思えぬほどの別世界の感があります、京の奥座敷とはよく言ったものじゃ・・・わしもまた行ってみたいものですなぁ・・・』
『まあ~そんな素敵な場所なんですね・・・私も是非、行ってみたいですね・・・』
慈徳院は、そこで改めて堀の瞳を見つめると
『それで久太郎殿、お頼みしたい事というのは於市の方様を京見物に、貴船にお連れ申し上げられないでしょうか・・・という事なんですけど・・・お忙しいのは重々承知の上でお願い申し上げます。 於市の方様の今までのご苦労やこれからの事を思いますとささやかな慰労の場と時間を持たれてもよろしいのではないかと私は切に思いますので・・・於市の方様ご本人が直接お願い事をするようなお方ではありませんので僭越ながら私からお頼み申し上げる次第でございます』
慈徳院はそう言うと堀に深々と頭を下げるのであった。
『慈徳院様、どうかお顔をお上げくだされませ。友閑様!』
『うむ?』
『貴船は、確か洛北の鞍馬寺の近くでございましたか?』
堀が友閑にそう問うのを聞いて慈徳院は顔を上げる。
『いかにも』
『となると、
『輿を使ってもそれぐらいかかるやもしれぬのう』
『であれば、一刻、二刻という場合ではないな・・・』
考え込む堀にそこで友閑が助け船を出す。
『久太郎よ、明日の奉公衆達への手配はわしがそなたに代わってやって進ぜよう。帳簿等の準備はもうできているのであろう?』
『それは、もう出来ておりますが。ですが私の仕事を友閑様にやっていただくのはあまりにも・・・』
『よいよい、久太郎気にするな。どうせ明日は日中は暇をしておる、それにじゃ於市の方様の慰労への大役、老骨のわしではちと無理であろうからのう。この暑い時期に洛北貴船までの道程は辛い、であるからして慈徳院様に直接依頼されたそなたが立派に務めるように、良いか久太郎』
『はっ、承りました友閑様。お心遣い、誠にありがとうございます』
『私からもお礼を申し上げます、友閑様。本当にありがとうございます』
『なんのなんの、慈徳院様の久太郎へのたってのご依頼じゃ、ましてや主筋である於市の方様のご慰労のためと聞けば身を乗り出すように協力するのが臣下としての務めですからのう、ハッハハハ』
堀と慈徳院からの心の籠った謝意にまんざらでもないように喜ぶ友閑である。
『久太郎殿、何とお礼を言えばよいか・・・』
『いえ、お気になさらずともけっこうでございますよ慈徳院様。逆に於市の方様のや、慈徳院様がお喜びになられるなら久太郎にとっても至極の喜びにございます故に』
『そう言ってもらえますと、心安くなります・・・それとついでにお願いですが私も於市の方様に同道しても宜しいかしら?』
『当然でございますよ、慈徳院様。慈徳院様の申し出がなければそれがしの方からお願い致そうと考えておったところでした。於市の方様にとっても同じ女性の慈徳院様が同道されればお心強く思われましょうから』
ばつが悪そうに上目づかいでお願いする慈徳院に堀は力強く了承の意を述べるとそれを見た慈徳院は、 パァ っと明るい笑顔を浮かべとても嬉しそうな仕草をする。
『ありがとうございます、久太郎殿。では、於市の方様が戻られましたら早速ご報告しなければ・・・そうですね、明日の貴船詣での準備もありますし・・・ウフフフ』
心の高揚を隠す事無く表情や言葉に現わしている慈徳院を堀は好ましそうに見ていたが、その時
『何を、小娘のようにはしゃいでおるか!』
『あっ、
一益が、使いの者と打ち合わせを済ませて戻って来て慈徳院を一喝したのであった。
『よく聞いておれば、かずえ、そちは於市の方様を出しに使ってそち自身も貴船詣でを喜んでおるではないか、何ともまあ、あきれたものじゃなぁ・・・』
『まあ!! 盗み聞きとは義父様!! 好きませぬ!!!』
そう言って プイっと、頬を膨らませ横を向く慈徳院に一益は更に窘める。
『よいか、かずえ了見せよ。そちが気安く頼み込む久太郎はそちが知っておるもう以前の久太郎ではないぞ。信長様が不慮にお隠れなった後、織田右大臣家の切り盛りを一手に引き受けておるのだ、他の重臣達やわしも含めてだが自領の整備に
『分かっておりまする・・・分かっておりまするが・・・』
義父から叱られた、かずえこと慈徳院は小声で反論しようとするが・・・
『左近様、お言葉ですがあまり慈徳院様をお叱りならずにお願い申し上げます。元はと言えば慈徳院様が於市の方様の御心情を
一益の𠮟責にうなだれる慈徳院を見かねたのか堀は慈徳院を擁護するよう自分の見解を一益に訴えた。
『久太郎よ、おぬしがそう言うならば・・・確かに、わしも於市の方様のご心中を察せてなかったのは事実であるからのう・・・』
『まあ、良いではないか一益殿。かずえ殿 いや 今は慈徳院様であられるな、その慈徳院様からの申し出で於市の方様のご心中を少しでも癒してさしあげれれば臣下としては当然の事ではないかとそれがしは考えるが、いかがかな一益殿・・・?』
『・・・友閑殿の申し分・・・確かに、正しいで ござろうな・・・。だが、友閑殿! 貴殿は昔からこのかずえに少し甘うござるよ』
『カッカッカ・・・これは、そうであったかのう・・・ホッホッホ・・・』
呆れた顔で自分を見る一益に友閑は先程から気になっておった事を尋ねる。
『ところで一益殿、戻るのが少し遅うござったな?』
『・・・うむ、その件だが・・・』
一益は懐から書状の包みを取り出すと
『この書状を遣わしたのは真田安房守であった・・・』
『真田殿⁉』
何故に真田殿がと言うような疑問の声を堀は上げる。
『真田安房守殿といえば、上州沼田城の城主、真田昌幸殿でござるか?』
『いかにも。その真田安房守昌幸殿でござる』
一益はそう答えるとしょぼんと肩を落としている慈徳院の傍まで近づくと
『かずえ、そちへ・・・そなたに手紙じゃ・・・』
少しきつく先程は叱り過ぎたと思ったのか、一益は今度は優しく慈徳院に声を掛ける。
『私に・・・真田様から・・・?』
慈徳院は理解できないった表情で一益の顔を見上げる。
『これは、真田殿からのそなたへの預かり物だ。送り主は・・・』
珍しく言いよどむ義父の姿に違和感を覚えた慈徳院は黙って渡された書状の包みを広げる・・・。
『こ この家紋は・・・義父様! ま まさか・・・』
慈徳院は書状の包みを開け、封書の裏にある押印を見て驚愕の声を上げた。
『ああ、そなたの想像通りじゃ・・・信忠様御正室であった松姫様からである』
震える慈徳院の指先には武田菱の家紋の押印がなされていたのであった・・・
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