第5話 Dream Fighter
「あぁ縮まんねー、くそー」
それが最近の幸一の口癖。本当にどうしようもない、幸一の口癖。
幸一は誰も居なくなった校庭のトラックをただひた走る。一人で、どこまでも。何かを目指して、ただ真っ直ぐに。
日はすっかりビル群の向こうに消えて、街は夜闇に包まれ始めていた。音楽室や空き教室で練習をしていた吹部も、部室前でたむろっていた野球部員たちも、みんな荷支度を済ませて帰ってしまった。
消えかかった投光器の頼りない光がぼんやりと校庭を照らし出す。校庭には私と幸一の長い二つの影が伸びている。一つの影は伸びたり縮んだり、一つの影はそのままじっと動かない。
スパイクが土を掴んでは離す音。荒い呼吸音。風の音。投光器から聞こえる超音波のような低い電子音に、校庭を取り囲む都会の喧騒。そんな中で、幸一は一人走り続けていた。もうかれこれ四時間近く。ストップウオッチを握る私の右手も、少し疲れてきた。
「あともうちょっとー!」
幸一が最後のコーナーを曲がる姿が見え、私は最後の声を振り絞る。このまま行けば記録更新、なんだけどなぁ。思わず目を瞑る。どうか、どうか。
すたすたすた。暗闇の中、近づいてくる足音。聞くだけでそれが幸一のものだと分かる程に聞き慣れてしまった、彼の足音。ゴールに吸い寄せられるように、だんだん足音が大きくなっていく。
目を開け、ストップウオッチを強く握る。三、二、一、
――ピッ
「どう? 行けた?」息を荒げ、苦しそうな表情を浮かべながら私の手元のタイムウオッチを覗き込む。
「って、うわあああダメだあああ、縮まらねー、くそー」タイムを見るなり落胆し、その場に崩れ落ちる幸一。もうこれ以上無理、そんな顔をしていた。
「さっきより遅いとか、うわーくそー死にてええ、頼む奈歩、俺を殺してくれえええ」
「わかった。じゃ、後でね。場所はどうする? 学校裏の雑木林にする?」
「え、お前それ本気で言ってんの?」
「え、ダメだったの?」
「ごめんなさい」
「はいはい。ってか、もう今日はこれでおしまいだかね、私先生に報告してくるから」
「えー、もう一回トライしちゃダ……」
「ダメダメ。おしまい。はい、身体冷える前にさっさと部室行って着替えて。もう今日は本当におしまいだから。マジでもう何時だと思ってんの」大の字に寝そべりながらぶーぶーと文句を言う幸一にタオルを投げ、「うるさい」とさらに一括する。
「もしまた無視って走ってたら、今日マックおごってもらうから。あとシェイクもね。絶対だからね」
◆
高校の制服に着替え、幸一と共に学校を出る。
陸上部で長距離をしている同級生の彼、我妻幸一と、そのマネージャーをしている私。負けず嫌いで努力家の幸一は、陸上部の全体練習が終わっても一人校庭に残って、自分の納得できるタイムが出るまでトラックをただひた走る。私が止めなきゃ、きっといつまでもどこまで走り続ける。それくらい、幸一は「走ること」に強い執念を持っている。
「最高を求めて終わりのない旅をするのは、きっと僕らが生きている証拠だから」
練習の帰り道、いつも彼が口ずさむ歌。
聞くとそれは自分の人生のモットーであり、日々の教訓であり、自分自身の応援ソングなんだとか。よく幸一は私に向かってこうも語る。
「俺、走らなきゃ死んじゃうんだよね、きっと。走ってる時こそ、俺の全てって感じがしてさ。それこそ生きてる証拠っていうか何て言うか。分かる?」と。
「ま、凡人にはわかんねーか。特に奈・歩・に・は」
けれどその反面、幸一は私をからかうのが本当に好きで、余計なことを言っては私をよく怒らせた。
けれどその度に無邪気な笑顔で「ごめんごめん」と手を合わせて謝っては、上手に私の機嫌を取る。
本当に罪なヤツ。いつもいつも私を悩ませる、悪いヤツ。けれど、けれど――
「なーに考えてんの?」
駅前のマック。比較的空いた3階の窓際の席に私たちは居た。頬杖をつきながら、ぼんやり窓の外を眺めていると、ふにゃりと曲がったフライドポテトが突如私の視界に飛び込んできた。
「……別に。相変わらずマネの言うこと聞いてくれないバカがいるんだなーと思って呆れ返ってたの」
小さな溜め息を吐きながらストローを口に咥える。溶けてちょうど飲み頃になったシェイク。バニラ味。毎年色んな味が出るけど、やっぱりバニラ味に勝るものはない。「まっ、でもそんなおバカさんのお陰で私はタダ飯にありつける訳だから、別にいいんだけど」
「んだよ、バカとは何だ、バカとは」
「さぁ? 自分にいっぺん聞いてみたら?」
「はぁ? うるせー」
「それはこっちのセリフ。てかちょっと黙ってて」シェイクを机の上に置き、また窓の外を眺める。
「いろいろ考えてんの、静かにして」
「奈歩が考えごと? へぇ、珍しい。奈歩にも悩みごとなんてあるんだな」
チーズバーガーを口いっぱいに頬張りながら幸一は笑う。口の四隅に付いたケチャップを手で拭いながら「それとも、なに? 恋の悩みとか?」と楽しそうに笑顔を浮かべる。腹立つ顔。本当に腹立つ顔。
「私にだって悩みの一つや二つくらいあるに決まってんじゃん。ホントにバカなんじゃないの」
「だからさっきからバカとはなんだバカとは」
「もーうるさいなー。だから黙ってて。少しぐらい大人しく出来ないの? 犬でも待てぐらい出来るっての」
「犬ってお前…」
「……」
「……」
「で? 次の大会は大丈夫なの?」
「は?」
「だから次の大会。大丈夫なの?」
「大丈夫って、何が?」
「もー、そんなのタイムに決まってんじゃん! 目標タイムまだ出せてないから大丈夫なのかなって聞いてんの!」私は次第にイライラしてきて、不意に声を荒げた。さっきから目標タイムのことが気になって仕方がなかった私は、あまりにも無頓着な幸一の態度に少し苛立っていた。なんで私が、なんで私だけが心配してるんだろう。当の本人がなんでこんなにも無頓着なんだろう。
「大丈夫だよ、心配すんなよ」
「は?」
「だから大丈夫だって。心配しなくても」
「なんでよ」
「んー、さぁ、なんでだろ」
「は? さっきから何言ってんの?」
「ともかく! 奈歩が心配してるよりも心配してんのは俺だから。その、普段は見せないけどな、そういうところは」
口に頬張った最後の一切れを飲み込むと、幸一は優しい笑顔を浮かべた。
「奈歩には余計な心配させたくないんだよ」
「……」
思わずごもってしまう。何よ急に。
「なぁ」
「ん? なに?」
「普通、って何だと思う?」ジュースを一気に飲み干し幸一は言う。
「奈歩にとって、普通って何だと思う?」
「えっ、何よ、急に」
いきなり意味不明なことを聞き出した幸一に私は躊躇わず質問をぶつける。何、話を変えたいの? それとも今の話に関係のあることなの?
わからないけれど、それでも答えない理由もない。私は少しためらって、少し考えた後、ぽつりと呟く。
「普通は、普通。ノーマル。当たり前のこと、だと思う。わかんない。なんで?」
「なんだそれ」ぷっと吹き出し笑い出す幸一。次第にあはははと声を上げて苦しそうに腹を抱えて笑い出す。
「ちょっともう、何よ何なのよ! やめてよ恥ずかしいじゃん!」顔を真っ赤にして私は幸一の腕を叩く。
「ごめんごめん、ありがとう。うん、そうだよな、普通は普通。その通りだよな、ホント」
「じゃあさ、幸一にとっての幸せって何なのよ!」
思わず私は質問する。ここまで笑われたんだ。幸一にはそれなりの模範解答ってものがあるはずだし、聞かなきゃ納得いかない。
「そんな怖い顔すんなよ、何だよ」
「別に」
「へいへい、模範解答だろ?」さっき飲み干したばかりだというのにまたストローをすする幸一。店内にずずずと高い音が響く。
「普通こそ幸せ」
「は?」
「死んだ親父がよく言ってたんだよ、そうやって。みんなが言う普通ってのは普通じゃない。ただの理想みたいなもんだって。人間はいつも求めたがる。理想に夢。みんな普通だけでは物足りないんだよ。だから求め続ける。人はみんな普通に満足してないんだ。ってな」
思ったよりもマジな話が飛び出してきて私は思わず無言になる。思えば幸一から家族の話を聞くのも初めてかもしれない。
「そう、なんだ……」
「うん、だからこそ、普通こそ幸せなんだって親父は言うんだよ。普通にこうやって毎日を生きることをみんなは当たり前って言うけど、でも本当はそうじゃない。当たり前じゃない。何が起きるか分からない人生だから。でも誰もそれに気付いてないんだよ」
「まぁ確かに、そうだね」思わず頷く。
「未来もそう。未来は決して真っ暗じゃない。本当は光が射しているのに、みんな勝手に真っ暗だって思ってる。思い込んでる。まぁ確かに未来は見えないから真っ暗っちゃ真っ暗だけどさ」
「うん……」
二人そろって窓の外を眺める。暗い夜道を走る車。ヘッドライトを付けて夜闇を切って走っていく車。背後に残るのは赤い残像と少しの排気ガス。
「だから親父は俺によく『お前は普通の人間になるな』ってよく言ってた。『とにかく走れ。走り続けろ』って。『他の人間よりも前へ出て、違う景色を見るんだ』って」
「……いいお父さんだったんだね」
何だか少し、しんみりしてしまった。
けれど凄い話を聞いた。忘れちゃだめだ。そう思った。幸一から聞いた話を忘れまいと、私は静かに残りのシェイクを飲み干すと、微笑んだ。
「だから走るんだね、幸一は。いつも、これからも」
♪
――午後八時。
幸一と共に夜の街を歩く。私たちには夜道を照らすものは何もない。それでも遥か上空を仰げば、星が煌いているが見える。微かだけれど、そこには光がある。夜道を照らす程の光源はないけれど、それは力強い光。
ポケットに手を突っ込み呑気に口笛を吹きながら私の前を歩く幸一。そんな幸一の後ろ姿は、どこか小さく見える。
朝は必ず寝坊するし、勉強だって全然できない。カラオケだってめちゃくちゃ下手糞だし選曲も意味不明。ゲーセンに行っても、ボーリングに行っても、ビリヤードに行っても何をさせてもダメダメだけど、それでも努力家なのは私が一番知ってる。
走っても走ってもなかなか自己ベストが出なくて、それでも走って、走り続けて。きっと悔しいと思う。さっきの言葉じゃないけれど、一番悔しいのは私よりも幸一本人なんだと思う。
私なら無理。きっと不貞腐れて、やけくそになって、何もかも投げ捨ててしまうと思う。けど、幸一は走り続ける。なんであそこまで頑張れるのか、私には到底理解できないけれど、それでもそんな幸一が好き。何だかんだ言ってそんな幸一が私は好き。でも、この気持ちは私の心の内に秘めておかないといけない。口が裂けても「幸一が好き」だなんて言えない。当分言えない。きっと一生言えない。「幸一が好き」だなんて。きっと、ずっとずっと。
頑張ってる幸一の邪魔はしたくない。それが私の一番の想い。それでも、本当は少し、寂しい。本当は気付いて欲しい、なんて思ったりもする。この心は少し複雑。
「ねえ」
ふとその場に立ち止まり、私は幸一を呼び止める。
「ん? なに?」振り返り、
「どうした?」不思議そうな表情を浮かべる幸一。
「頑張ろうね」
「えっ? 何を?」
「これからも一緒に頑張ろうね」
私は無邪気に笑う。「最高を求めて終わりのない旅をするのは、きっと僕らが生きている証拠だから」
「なんだよ急に」
「なんにもない」くすっと笑い、歩き出す。
幸一なら大丈夫。きっと大丈夫。
もし辛いことがあったとしても、幸一なら大丈夫。私はそう信じてる。ずっと諦めない強さを持っている幸一なら大丈夫。ずっといつまでも走り続けられる。
現実に打ちのめされて倒れそうになっても、きっと前を向いて歩く。前を向いて走る、走り続ける。
そう、幸一こそ「夢追い人」
おっちょこちょいで、お調子者で、本当に困ったさんだけど、それでも幸一は私の大好きな夢追い人。きっと明日も、これからも、目標タイムを目指して、自分を求めて幸一は走る。走り続ける。一人学校に残って、暗闇の中をひた走る。そうやって少しずつ大人になっていく。
なら私も頑張らなきゃ。
ずっとこれからも傍で応援する。幸一の傍で応援しながら私も成長していくんだ。そう思った。
強く、強く、噛み締めるようにそう思った。
Perfume Of Love 紺野 優 @konchan817
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。Perfume Of Loveの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます