第4話 Twinkle Snow Powdery Snow

 ――その日は朝から雪だった。


 山の麓に建つ自宅付近は、一面すっぽりと雪に覆われ、積雪は今年初めて十センチを超えた。

 隼人(はやと)は眠い目をこすりながら携帯に目をやる。午前四時二分。いつもならまだ夢の中に居る時間だ。

 決意を決め、自分の体温でぬくもった分厚い布団から身を乗り出すと、昨晩用意しておいた服に着替える。すっかり冷えてしまった服、特にジーパンの冷たさは尋常じゃない。身震いをしながらベルトを締め、腕時計をはめる。腕時計も、ついさっきまで冷凍庫に入れておいたみたいに冷え切って、冷たく、痛い。

 洗面所の電気をつけて歯を磨く。顔を洗って、手に少しのワックスをつけて寝癖を直す。リビングのテーブルの上にあった菓子パンを口に放り込んで朝食とし、分厚いマフラーを首に巻き、その上からコートをまとって外へ出る。静かに鍵を閉める。


 十二月末ともあって、午前四時過ぎはまだ闇の中。外灯に照らされて白くぼんやりと光る雪道をただひたすらに歩く。住宅街はまだ眠りの中。住宅街に響くのは、ぎゅうぎゅうと雪を踏む足音と、吐く息の音。


 何年ぶり、なんだろう。


 歩きながら隼人は開いた右手の指を一本一本丁寧に曲げていく。一、二……。そして三本目で指が止まる。

……三年か。そっか、もうそんなに。


 折り曲げられた三本の指を見つめながら、隼人は不思議な気持ちに駆られる。その数字は二人の距離。あの日、あの時、交わした「ずっと一緒」という言葉の意味を思い返す。結局「ずっと」一緒に居ることは出来なかった二人。遠距離恋愛。うまくいかないだろうなんて思っていたけれど、今日という日を迎えることが出来た。


 ――彩は今、何を思っているんだろう。



 都市部へと向かう、地方バスの始発便に乗る。始発便に乗るのは地味にこれが初めてだ。広く、寒い車両に、乗客は隼人一人だけ。車内は無機質な音声アナウンスと低いエンジン音だけが虚しく響いている。バスの後ろ、長い座席の窓際に腰かけ、イヤホンを耳に押し当てる。曲を流し、車外の景色を眺める。

 気付かぬうちに窓の外の向こうに見える山々の稜線は、ぼんやりと明るみだしていた。明けない夜は無い。いつしか昔、そんなことを彩が言っていたっけ。

 窓の冊子に頬杖をつき、静かに吐息を吐く。車内だというのに息が白く濁る。


 色々思い出していた。彩と付き合い始めた頃のこと。ちょうど三年前の今日、突然彩が学校から、この街から居なくなった日のこと。灰色の日々のこと。あんなことやこんなこと。ありとあらゆること。

 いつでもどこでも一緒に居た彩。ずっとこの先もそうやって生きていくんだと勝手に決めつけていた、あの頃の自分。子供だった。なんて、今になってそう思う。


 あの頃、隼人も彩も、まだ中学生だった。中学二年生。人生で、きっと一番楽しい年頃。四年前のあの日は、ちょうど二学期の中間テストが終わった頃だった。

 どっちが告白したとか、そういうことはあまりよく覚えてないけれど、いつしか意気投合して付き合うことになった二人。とにかくいつでもどこでも一緒に居て、一緒に居なかった日はなかったんじゃないかって思う位にずっと一緒だった。ただただ毎日が楽しかった。

 昼休みは青空の下、屋上で二人お弁当をつついた。昼食後は二人でたわいない会話を楽しんで、のんびり過ごした。

 図書館にも足を運んだ。二人で肩を並べて静かに本を読んだ。SF、ファンタジー、ホラー、サスペンス。特に彩は本が好きで、毎日いろんなジャンルの本を選んでは、むさぼるように読んでいた。

 隼人も読書は好きだったが、中学二年の男子にとって長時間読書は少しばかりハードルが高かった。読書に飽きた隼人は、よく盗み見るように彩の横顔を眺めた。

 綺麗に整えられた黒い髪。白く綺麗な肌。形の良い鼻梁を覆う前髪。前髪を時々耳にかける白い手、指。全てが神様に作られた繊細な人形のように見えた。

 机に突っ伏し、彩の横顔を眺めながら問う。

 「読書楽しい?」

 本から視線を外さず「うん」と小さく相槌を打つと、彩はにこやかに「楽しいよ」と言った。


 突然、彩の転校が決まったのは、ちょうど三年前の今日。彩と一緒に過ごす二度目のクリスマスだった。

 当時、彩と同じ高校へ進学して、高校でも中学の時と同じような毎日を送るんだと、勝手に思い込んでいた隼人は途方に暮れた。絶望し、落胆し、泣いた。

 両親の都合で引っ越すことになった彩。勿論、彩は何も悪くない。何も悪くないというのに、「今までありがとう」だとか「離れても、これからもうまくやっていけるよ」とかそんな慰めの言葉もかけられずに、隼人は高校生になった。

 疎遠になった。連絡を取ろうと思えばいつでもどこでも取ることはできた。けれども、殻に籠ったように塞ぎ込んでしまった高校一年の隼人は、どうしようもないほどに無力だった。


 けれどそんな隼人を変えたのは、やはり彩だった。

 高校二年の冬、突然彩からメールが届いた。


 最近は受験勉強に追われて忙しい日々を送っています。毎日図書館に通って勉強漬け。でも図書館に行く度、何だか隼人のことを思い出します。お互いに大変な時期だけれど、隼人は元気にしていますか?


 そんなことが書かれていた。中学生だった頃に比べると、大人になった彩がそこには居た。文面を見ながら、隼人は決めた。

 彩に会いにいこう。三年越しにこの想いを伝えるんだ。



 バスと電車を乗り継ぎ辿り着いた隣町の駅前は、クリスマスムード一色だった。

 煌くイルミネーションに、商店街から流れてくる陽気なクリスマスソング。そんなクリスマス一色の景色の中に、彩は居た。真っ白のコートに、カーキ色のブーツ。白いフワフワのマフラー。肩まで伸びた長い髪。

 中学生の頃の彩とは違う、別人の彩がそこに居た。

 

 「隼人……?」ふいに目が合う。

 「だよね?」

 「お、おう、久しぶり。待たせちゃった?」少しテンパりながら「ごめん、雪で電車遅れちゃって」とりあえず頭を下げる。

 「大丈夫、大丈夫。私も今来たところだから」

 「そっか、それは良かった」

 「うん」

 「と、とりあえず、歩こうか。どこ行こう?」


 中学生の頃はあんなにべったりくっついて歩いた二人。けれど、三年という時間が、二人の間に見えない距離を作っていた。ぎこちなく、不自然な距離を置いて二人、商店街を歩く。

 何を話せばいいんだろう。指先をそわそわさせながら黙々と商店街を歩いていく。すると、

 「私ね、最近うちで猫、飼い始めたんだ」沈黙に耐えかねるように、彩が口を開いた。

 「猫?」

 「そう、猫。にゃんこさん」

 「にゃんこさんて、何だよ」思わず吹き出す隼人。

 「何よ、にゃんこさんはにゃんこさんだもん」驚いたように彩も、えー?と笑顔で隼人に言い寄る。

 「とにかくね、飼い始めたばっかりなんだけど、すっごく可愛いんだよ? 見る?」ポケットから携帯を取り出し、どうだ可愛いだろ、と写メを見せつける彩。

 「はいはい、本当だ可愛い可愛い」笑顔で携帯を受け取る隼人。「えーなにそれ本当に思ってんの?」それなら早く返せと携帯を取り戻そうと隼人の手を引っ張る彩。


 「あっ……」

 一瞬、会話が止まる。けれど、

 「手……繋ごっか、寒いし」思い切って彩の手を握る。

 「……う、うん」

 「そ、それで? そのにゃんこさんがどうしたんだよ」顔を少し赤く染めながら、隼人は彩の手を引っ張る。

 「あ、えーっと……うん。白いしね、フワフワしてるからマシュマロって名前にしたんだけど」

 「え、マシュマロ? うわーそれは酷いんじゃない?」

 「酷い? そんなことないって! だってね、マシュマロは本当に白くてモフモフしてるだよ? それにね」

 必死に笑顔でああだこうだと楽しそうに話す彩の横顔。少し大人になったけれど、彩の横顔は彩の横顔だった。幸せそうに話す彩を見ていると、心の中に出来ていた何かが溶けて消えていくような気がした。


 久々に繋いだ彩の手。

 小さいけれど、確かに温かくて、柔らかい彩の手。ぎゅうと力強く握ると、彩もぎゅうと強く握り返してくれる。きっとこれが人と人の信頼なんだと隼人は思った。


 思わず中学生時代を思い出す。

 まだ「子供」だったあの頃に、何だか戻ったような気がした。永遠とか、ずっと一緒とか、そんなことを夢見てた、あの頃に。



 午後七時。二人は駅前に戻ってきた。

 友達とよく行くカフェ、彩の通っている高校に、たまに立ち寄る公園。街を見下ろせる小高い丘に、普段の散歩道、帰りに良く寄るという行きつけのコンビニ。そして日々受験勉強に励む、街の図書館。

 時間を掛け、ありとあらゆる所を紹介してくれた彩は、少しはしゃぎ過ぎたのか、どこか疲れているようだった。


 「ごめん、疲れたね」


 駅前のベンチに腰掛け、ベンチ横の自販機で買ったホットココアを彩に手渡す。

 「わーココアだ! ありがとう」気を遣わせちゃってごめんねと笑顔で謝る彩。

 「少し疲れちゃった、普段こんなに歩かないから」

 「だよね、俺も疲れた」熱いくらいの缶コーヒーを握り締めながらはにかむ。

 「美味しい」ホットココアを口にし、とびきりの笑顔を覗かせる彩に、思わずたじろぎ、溜め息を漏らす。なんて可愛い笑顔を見せてくれるんだ。

 「顔赤いよ? 大丈夫?」

 「あぁううん、うん、何でもないごめん大丈夫」

 「そっか、ならいいけど」

 「うん」


 実は彩の笑顔にやられましたなんて言える訳もなく、照れ隠しに缶コーヒーを傾ける。吐息を吐く。缶コーヒーの熱で息はさらに白く濁る。見上げた空には煌く冬の星。星の明かりは、まるで宝石箱みたい。散りばめられた星々に交じって、遥か上空から舞う白い雪。雪は街を、行き交う人々を、恋人たちを、そして二人を包み込むように舞う。


 「この三年間、何を思って過ごしてたの?」

 ホットココアをちょびちょびと味わいながら彩は隼人に笑顔で問いかける。

 「私はね、ずっと隼人のこと、考えてたよ」

 「うん、俺も同じ。彩のこと、ずっと考えてた。でも、」

 「でも?」

 「……でも、反面怖かった。彩がいつしか俺のこと忘れてしまうんじゃないかって」缶コーヒーを握る手に力が入る。

 「ごめんね」

 「いや、彩が謝ることじゃないよ、俺こそ、あの時は……ごめん、ちゃんと、お礼言えなくて」

 「ううん、大丈夫だよ」ふーっと白い息を吐きながら、大丈夫、大丈夫とはにかむ彩。そして彩は言う、


 「心の氷、解かせたらいいね」と。


 三年間という時間が作った彩との距離。やっと縮められた距離は、まだ元通りじゃない。けど三年ぶりに彩に出会って思った。やっぱり彩のことが好きだ、と。

 きっとこれからもずっと、この先もずっと彩のことが好きだ。どうしようもなく好きだ、と隼人は思った。


 「そうだね」隼人はそっと彩を抱き寄せた。

 「溶かせたらいいね」

 「うん。そうだね、って、熱っ、え、何?」

 手に持った缶コーヒーを彩の少し赤くなったほっぺに押し当て隼人は笑う。

 少し、いじわるした。


 ずっとずっとこれからも彩と人生を歩んでいきたい。確かに「永遠」なんて存在しないけれど、それでも、どうしても残りの人生を彩と一緒に歩んでいきたい。

 彩のことを強く抱きしめながら、そんなことを思った。


 降り続く雪。そっと街を、行き交う人々を、そして二人を包み込むように舞う雪。柔らかい、粉雪。


 “ちりばめたTwinkle Snow

  銀色のPowdery Snow

  包み込むTwinkle Snow”

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