(三)思い出と因縁(前編)
(三)
「何をするか、無礼者!」
廊下から声が響いてきた。
エラゼルだ。ラーソルバールには声の主がすぐに分かった。
「またやってるの?」
シェラが笑った。彼女も見慣れたのだろう。
ラーソルバールに聞いた通りで、こういった場合、彼女は他者に危害を加える訳でもなく威圧して終わりなのだ。
それが定例的なものになっており、あえて助けに行く必要もない。
ラーソルバールにとっては幼年学校時代に見慣れた光景だった。
ラーソルバールが八歳の時、初めてエラゼルの存在を知った。
彼女はこの頃、幼年学校に編入してきた。
六歳から入学となる幼年学校では既に二年間共に学んだ仲間が居る訳で、中途入学者は言わば余所者がやって来たのと大差無い。
双方に歩み寄りが有ってこそ円滑な関係になるのだが、エラゼルは初めからそれを拒絶していた。デラネトゥス公爵家の娘という気位か、それとも単に面倒だったのか。
隣のクラスだったラーソルバールにはそれは分からなかったが、エラゼル自身が何かを背負って一人でやっていこうとしている事は、漠然とながら理解できていた。
彼女は初めこそ他者との接点を避けているだけに見えたが、次第に態度を硬化させるようになっていった。
後で知った事だが、エラゼルが貴族の名家の娘だと知って露骨に取り入ろうとした輩が少なからず居たらしく、それが彼女の怒りに触れたらしい。
ラーソルバールにとっては、取り巻きを作って偉そうにしている輩よりは、余程好感が持てた。
ラーソルバール自身も取り入ろうとする気は全く無く、かといって博愛主義でも無いのであえて手を伸ばす事もしなかった。
自身も内向的とは言わないが積極的に友人を作る方では無かったので、彼女に対して特に距離を測る訳でもなく、ごく自然に接するつもりで居た。
当然、向こうから接触が有る訳でも無い。
お互い意識することも無く、しばらくは平行線のまま時間が過ぎた。
エラゼルは浮いた存在であったが、家柄のおかげで誰かの攻撃対象になることは無かった。この時点では、他の生徒達からは名家の嫌な奴という位置付けだったに違いない。
皆が驚かされたのは、学内試験の結果が貼り出された時だった。
エラゼルは全科目をほぼ満点で、十科目中の二科目を除いて学年トップという結果だったからだ。
次の試験の時も、十科目中の九科目でトップ。
運動面でも男子生徒に混じって好成績を残すなど、誰もがその能力を認めるしかなかった。
その後もエラゼルは好成績を出し続けた。トップから陥落した次は取り戻す。当たり前のようにこなす事に周囲は慣れていった。
ただ、当人を除いては。
エラゼル本人は自らの名を最上位に置くこと、それを至上命題としていた。
ところが、一科目だけどうしてもトップを取れない。満点を取ったとしても単独ではなく、同じ名前がそこに有る。
彼女は苛立ちを募らせた。
なぜこの一科目「歴史学」だけが勝てないのか。
誰だ、このラーソルバール・ミルエルシというのは。
エラゼルの苛立ちが怒りに変わる頃、当の本人はその事を全く知らずに居た。
「ミルエルシさん、歴史教えて」
同じクラスの生徒が時折やってくる。
いいよ、と言って教えるが、聞かれるのは試験の範囲内の話。
歴史は何本もの糸が捻れたり解れたりしているもの。点で教えても役には立たないと思っている。ひとつの出来事が有ったから、次の出来事に繋がる。しかし、最初にあった出来事に見えるものも、それ以前の出来事に由来している事が多い。
面倒なのはそれが暦でいうと何年にあたるのか、という暗記だけだ。それも時系列が分かれば案外簡単だと、ラーソルバールは考えている。試験の結果が欲しい者達は、聞きに来た事で点数が変わったのだろうか、と時折疑問に思う。
「おかげで助かったよ」
試験後に礼を言われる事もあるので、それなりに役に立っているのかも知れない。
ラーソルバールは国内外問わず歴史が好きで、それが試験結果に繋がっている。だが、好きな分野の問題に答えているだけなので、解答の正誤は気にしても点数には興味は無い。
あえて言うなら他の教科は良いか悪いかさえも、あまり気にしていない。
当然、校内順位など見ようと思った事は一度も無かった。
誰かの噂で常にエラゼルが凄い結果を残している、ということは知っていたが、よもや自分が敵視される存在になっているとは思いもしなかった。
エラゼルが他人に厳しくなったのは、この頃からだった。
歴史以外でも、他教科で納得のいかない成績に終わることがある。
次回には取り戻すが、果てなく続くのではないかと思えるような繰り返しに疲れてきていた。エラゼルは次第に、募る苛立ちを他者にぶつけるようになってきていた。
「エラゼルは見た目は可愛いけど、近寄りがたくて怖い」
男子生徒の会話を耳にした時だった。
「無礼者! 私はあなた方にとやかく評価されるような覚えはありません!」
溜まっていた鬱憤が、噴き出した。
これが八つ当たりだという事も分かっている。
誰とも接点を持とうとしなかった事で、自らが作り上げてしまった環境だという事も理解していた。
エラゼルは他の上級貴族とは異なり、子分のような存在を持つことも無く、まさに一匹狼のような存在だった。彼女から他者を攻撃する事は無いし、彼女と接点を持とうとさえしなければ全く無害な存在だけに、恨まれたりする理由もない。
反面、容姿や能力、家柄といったものが憧憬や嫉妬の対象にはなるのだが、彼女はそうした周囲の雑音を一切気に留めない。
彼女にとって気になる相手は、ただ一人だけだった。
エラゼルに友人でも出来ていれば、「ラーソルバール・ミルエルシとは誰か」と聞くことができただろう。
逆に、ラーソルバールはエラゼルを知ってはいたが、特に接点を持とうと思うことが無かった。互いの立ち位置が、結果的にその機会を遅くしていたということになる。
そして、初めてその相手を認識する日が訪れた。それは年に一度の学年一斉の運動能力測定だった。
男子生徒顔負けの結果を連発するエラゼルだったが、そのうちのいくつかを、後のクラスの生徒に塗り替えられていた。
それを知ったのは、クラスメイトの会話からだった。
クラスの女子生徒には今まで負け無しだったが、他クラスとの比較は今まで行われていなかった為に、慢心していたのかもしれない。
自分の記録の上をいったのは誰なのか、気になり、エラゼルは掲示されていた暫定記録表を見つめた。
『ラーソルバール・ミルエルシ』
エラゼルにとって、宿敵とも言えるその名が記されていた。
歴史だけが得意な文学系の生徒に違いない、そう思い込んでいた相手の名が、ここに記されているとは思わなかった。
そもそも、ラーソルバールという珍しい名のため、今まで男か女かさえも分かっていなかったのだが。
この機会に自らの目で、その姿を見なくてはならない。エラゼルは待ち時間中、後続クラスの女子生徒を凝視し続けた。
ひとり、ふたりと数えつつ見つめていたが、記録に手が届くような動きの良い人物は見当たらない。そして半分ほどの女子生徒が測定を終えた時だった。
今までの生徒とは明らかに違う動きで、その女子生徒は走り出した。
細身だが全身がしなやかに弾み、一瞬で加速すると無駄の無い美しい走りで隣の男子生徒を置き去りにした。そして今まで見た誰よりも早く、ゴールラインを通過して行った。
間違いない。エラゼルは確信した。
次の瞬間、予想が当たっていた事が判明する。
「ミルエルシさん」
教師の呼び掛けに、彼女は手を挙げて答えた。
外見上は、普通の娘に見える。
エラゼルはようやく、自身に苦汁を味わわせ続けてきた、宿敵の姿を認識することができた。
自分が勝たねばならない存在を。
彼女は自分の事をどう認識しているのか。同じように敵だと思っているのか、それとも意識すらしていないのか。
いや、認識などどうでも良いこと。
勝てば良い。
エラゼルの中で初めてこの学校の生徒を認識し、その相手に興味が湧いた瞬間だった。
今まで誰一人として幼年学校の生徒に興味が無く、顔も名前を覚えようと思わなかったエラゼルにとって、意識を変える切っ掛けになったと言って良い。
全種目を二巡したところで、運動能力測定は終了した。
結局、エラゼルは八種目のうち三種目を制したが、四種目を宿敵に持っていかれた。
悔しさも有るが、来年取り返すしかない、と割りきった。
意外にあっさりと、気持ちを切り替えることができたのは、相手が「宿敵」だったからに他ならない。
残った一種目は、腕力が主体の競技であったため、二人とは別の、力自慢の女子生徒が制していた。
だがエラゼルは、力自慢をするつもりなど毛頭無いため、その事は特に気にもしなかった。
翌年も、その次の年も、同じような状況が続いた。
歴史で負け続け、運動能力測定は、ほぼ互角。
エラゼルにとっての四年目も、同じような結果で終わった。
ラーソルバールとすれ違う事が有ったが、エラゼルの視線に気付くと、向こうは会釈して通り過ぎていく。何年も続けば自分と同じように、好敵手か宿敵として認識している可能性もあるかと思っていたが、そうでは無かったらしい。
すれ違うこと何度目か。エラゼルはついに感情を押さえきれなくなった。
「ラーソルバール・ミルエルシ!」
エラゼルは叫んでいた。
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