第七話『ウェアウルフの呼気』・「ウェアは元々、男を意味する」

 右フックのポーズを維持するのも筋トレにはなるか。

 トイレの外からドアの隙間に腕を入れてる変態でさえなければ。


 隙間自体は見ないように意識していた。

 手錠をしたまま生理現象が起きたら当然こうなる。

 師匠セックはこれをわかってたのか。まさか一緒に入れって。


 想像してしまう。

 うちの洋式の便座に座ってる彼女。

 左手をドアの隙間まで伸ばしてる姿。


 誘導されたみたいに、


「トワカちゃん大丈夫?」


 衝動的に声をかけた。


「あっはい。だ、大丈夫です。もうすぐ、出ます」


 右手が少し引っ張られた。

 途切れた声と彼女の左手の力を感じながら、


「そういえば変身ってどんな感じなの。痛くないのか」


 聞いた。


「え、うん。痛くないです。むしろする感じ。そうか、服を全部脱ぎ捨てるみたいな。感じです。あっ、気分かな」


 ヌーディスト願望でもあるんだろうか。

 今はトイレでそりゃスッキリだとか下着はつけてないだろうとか合致して可笑しくなった。

 色々おかしくなってる。

 だから勢いに任せた。


「トワカちゃんの、君のどうなってる」


 言った。前から思ってた疑問を。

 話し続けた。


「君の目。まるで空っぽみたいに感じる。中身が空虚って言うのかな。見てるとになる。憂鬱になるんだよ。俺の病気のせいかもしれないけどね」


 トイレから声はしない。


「でも、奥になにかあるのか覗いてみたい。吸い込まれそうで、戻れなくなりそうで怖いのに」


 彼女の瞳と中にある黒い空間。空間が扇状に広がる。無限に。

 そんなイメージ。


「怖いな」「私だって」


 やっと声がした。


「私も、怖いんです」

「どうして」

「自分がわからないから。私はずっと、なんなのか」


 今度は俺がなにも言えなくなった。


「もういいよね」


 意を決したような彼女の口調。


「私って小学生の頃、事故にあったんだ。下校してて車にひかれた。しかもその車は逃げていったの。痛かった。怖かった。なんで。どうして助けてくれないのって。交通ルールは守ってた。なのにこんな目に遭うのって思った。憎かった。大人と車」


 赤いランドセルを背負ったスカートの女の子。車にひき逃げされた。

 無残な光景が浮かぶ。


「でも痛さはすぐ消えて、死ぬのかと思ったら生きてた。傷がね、ふさがったから」


 泣きべそをかいた女の子。立ち上がる。体を探る。

 服も少し破れただろうな。ランドセルも無事じゃない。


「服が破けたし大事にしてたランドセルに傷もあった。どうしようって思った。親になんて言えば。怪我もないのに」


 俺がその場にいたら。それがヒーローなら。

 じゃヒーローっていないじゃないか。どうやったらなれるんだ。


「怖かった。帰っても親には嘘を言ってごまかして、部屋にこもったよ。意味がわからなくて、ずっと泣いてた」


 子供部屋で女の子が膝を抱えて泣いてる。

 想像でも痛々しい。


「だから私なにも考えなくなった。そしたら感じなくなった。よかった、これでいいんだって思った。学校にいって勉強して、そうすれば普通だから。高校を卒業したらすぐに働くって決めた。なにも考えずにスーパーで。今の私には仕事だけだ」


 そんなことないよ。

 って口だけでも、言えたら。

 けど言葉に、ならない。


 込み上げて、これもう、堪えられ――


 水を流す音とドアも動く音。

 兎羽歌ちゃんが目の前にいた。


「直也さん、どうして、」


 目が合って気づく。


 彼女の、目元。

 涙が。

 雨粒、みたいだな。


「どうして。直也さんも、泣いてるの」


 ああ、俺たち、同じか。

 だけど彼女の、泣き顔。

 綺麗だと、思った。

 多分、音痴な歌、聞いたせい。

 おかしいんだよ。

 だから、


「俺はさ、生活保護、受けてる」







 手錠で繋がれた俺たちは立って面と向かってた。

 秘密を明かしたら兎羽歌ちゃんは首を振り「そんなのどうでもいい」とか、泣き顔のまま「直也さんは直也さんだもん。なにも変わらない」とか言った。

 いい子なんだよな。彼女を泣かせてしまって謝りたい気持ちがあった。

 それに彼女の言葉ではなにも感じなかったのを隠したかった。


「踊ってみない?」


 提案に兎羽歌ちゃんはまたびっくりしてた。


「私踊った経験ない」

「俺もだよ」

「でも」

「恥ずかしいか」

「うん」


 左手で彼女の手のひらを握って掲げて、手錠で繋がれた右手でもう片方の手を包んだ。


「二人しかいないし適当でいいからさ」


 社交ダンスを真似て動きだす。音楽もなしで。

 つられて彼女も動きだした。

 導くように言う。


「こうしてたら楽しくなる」

「うん」

「さっきはごめん。隠してたのも」

「ううん、気にしてない」


 お互いぎこちない動きだったけどリズムを合わせるのが段々楽しくなった。

 兎羽歌ちゃんの表情も柔らかくなってきて、踊りながら、これなら。


「初めて変身したのはいつなの」


 少し間が空いた。


「高校二年の時かな」

「高校かぁ」


 聞いてどうなる話でもないけど聞いてみたかった。

 高校でもきっとなにかはあったんだろうな。色々知りたかったが我慢した。


「俺の名前決まったんだ」

「名前って」

「ヒーローの」


 ヒーローには名前がいる。

 ヘラクレスみたいに。


 踊りと呼吸、

 さらに名前を合わせるように、

 告げた。



 自然とを感じる。


 彼女は気づかず、

 俺たちは踊った。

 流れるように、


狼人間ウェアウルフ。ウェアは元々、男を意味する。けど俺のウェアはって意味なんだ。男以外に追放者の意味もあるから俺に合うと思った」


 まどろむ。

 同時に鳥肌が止まらなかった。

 これがフロー状態か。

 鮮明と陶酔。


 ウェアに対してワイフは女で今は妻の意味になった。彼女の目を見ながらどうでもいいかと速断。


 スローモーションに感じる。


 なにかが


 あの時の彼女はこの子。

 すれ違いざまでフローが起きたのか。

 だから変な匂いをキラめきで感じたがキラめいて見えた

 けど今は変じゃない。

 匂わない。

 匂いはわかるのに。

 不純物を感じない。


 柔らかな兎羽歌ちゃんの顔が少し真剣になった。


「名前、いいと思う。直也さんらしいです」

「よかった。決まりだ。じゃあ仲直りしよう」

「仲直り」


 不思議そうな顔。仲直りの印がダンスだと思ってたふうに。


 踊りを止めて天井を見上げた。

 まだフローの感覚もある。

 そして吠えた。ワォーンと。

 遠吠えみたいに。

 二回、三回と吠えて見せた。

 さらに兎羽歌ちゃんを見てうなずく。

 意味がわかったみたいだ。

 彼女も天井を見上げたから。

 ワォーンと声があがった。


 吠える俺。

 彼女も吠える。

 俺たちは吠えた。

 何度も。

 相手が吠えたら、

 自分も吠える。


 する。




 踊ってる最中も吠え合った時も考えてた。

 俺は俺のままでは進めない。

 違うなにか、俺じゃない何者かにならないといけない。

 違うになるためにだからこそ仮面がいる。

 黒い仮面で別の存在になれる。


 フローで体内から餓えが湧き上がった。

 鮮明と陶酔で彼女の手を見る。

 彼女の脚。胸。首筋も。

 唇へ。鼻先。まつ毛へ。

 髪を見た。毛先が揺れてる。

 耳たぶもある。

 瞳を見た。

 目の表面は見ずに奥にある領域を捉える。


 この子の中にある。

 俺は壊したいのか。

 を。

 破壊したいのか。

 彼女を。

 壊さないといけない。

 でないと、別のナニカになれない。

 前へ進むためには、


 だけど。


 彼女の前にもっと破壊しないといけないものがある。

 この呼吸が、衝動と餓えが、示してる。




 運命みたいに俺の着信が鳴った。

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