第六話『手錠間再会』・「直也さん大丈夫ですか?」

 師匠セックの訓練は毎回いい加減だ。

 怪しい講釈や真意が測れない指示。

 今朝のこれは特に。


 自室で立ったまま右手首のを見た。

 輪っかはドラマで見るのと同じ銀色で重みがある。

 からかわれてやっぱり玩具にされてるのか。嫌な気分も蘇る。

 俺の人生はこの不自由な時間と似てるな。輝かしい時はあったか。

 いい思い出がどれぐらいか思い出せない。


 さっきまでいたセック。

 この手錠を人差し指にかけてクルクル回してた。

 愉快な調子で――


『インターネットはなんでも手に入る。今回はこれを持ってきた』


 人差し指の手錠を投げ渡してきた。


『特別なことはしなくていい。気楽に過ごせ。鍵はこれ。あたしの胸の間に入れておく。ほらいい具合で実に安全だぜ。日中には戻るよ。それまで身も心も繋がりを深めておきなさい。なにかしたくなったらしてもいい! したい気持ちはわかる』


 彼女は大げさにうなずいて、


『何事も腰が重要。上体は腰で下肢かしも腰。突くも受けるも腰次第。突く時や受けた時は息を吐く。合間に吸う。受ける時には吸うなよ気絶する』


 は並んで聞いてた。俺は言葉につまって立ち尽くしてた。

 順に耳打ちされ、


『あの子ともっと融和しな。聞きたい話もあるんだろ。終わったらナオヤ君にをあげる。ネットでは買えない代物を』


 俺たちが手錠をすると彼女は出ていった。


 ――ため息が出る。

 右手首の輪。極短い鎖があって、鎖の先にもう一つの輪と左手。


「座ろうか」


 うなずかれたから同時に座れた。

 右隣の彼女が背筋を正してこわばらせてる。

 緊張してるのか男の部屋や距離感とかに。どれも意識するには今さら。

 俺は右腕の筋肉が緊張してる。

 彼女は手錠の左腕だけだらんとさせていた。


「トワカちゃんは左手は痛くない?」

「平気です」

「流石だね」


 ってこの訓練になんの意味があるんだ。


 無言の時間。


 彼女がつぶやいた。


「手錠って不思議な感じ。かな」

「逮捕された経験が」

「ないです」

「SMプレイで経験が」

「それもないです」

「残念」


 彼女は驚いてた。怪訝な顔にもなって、うつむいてつぶやいてる。


「残念って。残念なんだ」


 だらんとさせた左手と真面目腐ったアンバランスな姿のまま。

 俺も右腕が疲れて力を抜いた。

 変な考えも浮かぶ。


 今右手を引けば彼女を懐に引き寄せられる。次は男女が同じ部屋にいれば起こる情事。


 理性を失った俺に襲われる、押し倒されるかもとかは考えないのか。この子。逆に今こそ男を意識してるんだろうか。

 けど最初に誘った時はすんなりだったし慣れてるふうには見えない。彼女は――

 不意にの顔が脳裏によぎる。

 アイツなら。

 劣情に従い自分のものにする。俺にできない行為も平然とやれる。

 嫌なのに情景が見えて胸焼けした。

 これは劣等感、まさか憧――


「直也さんの部屋っていつも結構綺麗ですよね」


 心臓が飛び出そうだった。


「そ、そう。物が多くないから。暇な時に掃除もしてる」


 彼女が急に部屋を見回して「じろじろ見ちゃった。失礼しました」控えめに目線を下げた。


「私、一人暮らしの男性の部屋は散らかってるイメージがありました。これなら友達とか彼女さん……いつでも呼べますね」


 友人は何年もいないから考えてもみなかった。


「俺は友達いないし彼女も」いるって話だったな。


 普通なら呼べるのか。

 けど“普通”とはもう縁遠い。

 社会から弾かれた人間。


「私っ、私も友達いないです。職場の人は友達とは違うと思う。あっけど最近はフライヤと友達なのかな。って私、変な話してるかも」


 俺はなんなんだろう。そこが変かもしれない。


「今は彼氏もいないんです」


 会話の流れは自然。

 でも空気が急にざらついた。

 じいっと俺を見つめる真っ黒な目。


 これはやっぱりアレなんだろうか。

 受け止めるべきか。

 どちらでも態度は変えたくない。


 隣のこのありふれた目が黄と青を隠す黒いベールなのを知ってる。虹彩に囲まれてるこの黒い瞳孔が。

 覗いてみたい。奥を見てみたい。

 けど魂が吸い込まれそうで顔をそらす。

 自分の中の対人恐怖も思い出した。連想した被害意識で目を合わせられない。

 でも彼女は普通と違うから俺は楽なんだ。

 悟ってみても異なるという理由でまた不安に襲われた。

 彼女の二面性。

 俺の心も分裂する。

 交じり合う存在感が頭の中も混ぜてくる。

 特に片方の異常性。

 それがアイツに。

 一ノ瀬誠に似てるんだ。

 が重なって脅威を感じる。

 俺の部屋にいる彼女が不自然に思えた。

 すぐ隣の距離なのに、際どくて危うい。そう見えた。


「直也さん大丈夫ですか?」


 情緒が不安定なのを抑え込む。


「ああ部屋も匂わないでしょ。タバコも吸わないしギャンブルもやらないから大丈夫。借金もない」

「え。あはい……それはよかったです。でも今日は顔色が悪い気がして」

「それより俺が彼氏だって聞いたけど」

「あっあれはごめんなさいっ。喫茶店でデマカセ言って。あの一ノ瀬って人、嫌な感じがして。私がそう言うのがちょっとでもいいと思って、言いました」

「そうか、うん。俺はあまり女遊びはしないからね。いく時はいくけどさ。まあ勘違いされたら困るな。酒はたまに飲むけどアル中は嫌いだからね」


 彼女は黙ってしまった。

 やっぱりもしかして。

 前から薄々は感じてたけど。

 この子、


 俺に気があるの。


 いや、そもそもこの子は普通じゃない。一見普通に見えるから忘れる。会話は普通でも違う。心や感覚を常識の尺度で計れない。

 怪物だ。

 怪物は頼りになるから相棒にした。違ったかな。

 相棒は友達に入るのか。違う気がする。彼女もさっき友達はいないって。

 師匠セックもそうだ。友達じゃない化け物が最近よく部屋にいる。

 だから心が落ち着かないし動悸も起こるのか。

 女は魔物って言葉もある。

 大体なんでこうなって彼女らはなぜ俺の部屋に。

 いや違う。彼女らが来たんじゃない。

 俺が招いたからだ。

 それで最近はプライベートな時間も少ない。

 あの時に、師匠セックを部屋に入れなければ――


「トワカちゃんって、何カップ? 身長はなんセンチ。体重は。誕生日は。血は、なに型」


 なにも知らない。

 それに今日は最初から調子が変だ。

 彼女も調子が悪そうでまた驚いてた。


「それは……ちょっと。でも」


 口ごもってる。

 ないんだろう。

 気なんて。


 彼女が俺の目を見てる。

 目力が強い。


 桃色の唇が開いて、

 言葉にしようとしてる、

 前に、


「トワカちゃんはどんな男が好みのタイプなのかな」


 年上の貫禄を見せつけなくてはならない。

 見せつけて彼女はきょとんとしたが、すぐ対応してきた。


「タイプ。多分、夢がある人が好きかな」

「へぇー」


 普通すぎるな。普通じゃないのに。


「直也さんは? 好みのタイプ」


 俺は大人だから女子にはガツンと言うべきだと思った。


「俺は褐色で胸もおっきい子が好きです」


 なかなかいない子を選びたくてフライヤの姿が浮かんだ。


「フライヤみたいな」

「うん」

「そうですか。けど――なら私も」

「うん?」

「いえいいです」


 変な間が空く。


「トワカちゃんは歌が好きなんだよね」

「はい、好きです」

「じゃ歌ってみてよ」

「ここで?」


 またぽかんとしてた。

 俺が黙ってると意を決したらしく「なら歌います」と告げられた。


 彼女が高らかに歌いだした。

 小鳥のように。


 それは俺の先入観だった。

 すぐにわかった。


 ああ。


 この子、


 音痴だな。

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