第五話『過去の重さ』・「計画があるんだよ」

 気づいたら男用トイレにいた。俺以外に人はいない。

 個室に入って乱暴にドアを閉めた。加減できなかった自分に嫌悪を感じながら急いで便座のふたを上げる。

 かがむと胃から喉に逆流したものをすぐ吐き出した。

 息苦しい。

 吐いたら嫌な苦みも味わった。

 最後にはむせる。

 兎羽歌ちゃんヘラクレス師匠セックのパンチでも吐かかったのに。


「くそッ」


 口を拭いながら水を流して蓋をした。腰を下ろしたい。

 楽にはなったけど頭を冷やさないと。けどうかうかはしてられない。

 今も一ノ瀬いちのせとフライヤと、兎羽歌とわかちゃんも話してるだろうな。

 兎羽歌ちゃんだけじゃ猛禽もうきん類みたいなあの男と同席させられない。

 彼女は強いから体の心配はないが精神的な影響を気にした。

 それぐらいアイツは――




 一ノ瀬まこと

 昔俺がデザイン会社に勤めていた頃の先輩で同い年だがすでに上司だった。

 今の金色の短髪やピアスと違って綺麗な黒髪の好青年。近くを通ると甘い香水の匂いもした。

 日々微笑をたたえていたし人当たりもよかったのを覚えてる。

 上辺だけは。

 仕事もできるから同僚や部下にも頼られていて当然のように女性社員にも人気があった。

 女の子を次々とものにしてるなんて噂も当時よく耳にした。

 一ノ瀬を中心に派閥があって俺も属していた。有能な上司でいい人だと感じたから。

 それが間違いの始まり。

 一ノ瀬には冷酷な一面があった。

 最初は無理な仕事を押しつけられたことから。質と量が徐々にエスカレートしてミスも増えた。

 残業もさせられて命令と圧力プレッシャーが増した。

 今考えるとミスをわざと誘導してたんじゃないか。

 それだけじゃない。

 なぜか同僚たちから避けられるようになった。思い出したくない下品な陰口や実体のない噂も耳にしだした。

 肩身が狭くなった俺はしていった。

 ストレスや睡眠不足が重なったある日の勤務中、誰かに足を引っかけられてゴミ箱に突っこんだこともあった。

 その時に手をかしてくれたのが一ノ瀬だった。見下ろすアイツの目と香水の匂いを今も覚えてる。

 

 次の瞬間は忘れたくても忘れられない。

 一ノ瀬は笑ってた、目だけで。

 職場でよく見かけた微笑みとは違う目だった。

 あれは

 俺の心は凍りついた。

 それでやっと理解できた。

 近くにいたちょうどいい存在が俺だったんだと。

 一ノ瀬誠は自分のための生け贄が、職場のための犠牲が欲しかったんだ。

 そうして切り捨てられた。

 多分俺以外にもそうやって――


 ささやかな抵抗としてそのあとすぐに会社を辞めた。辞めても精神的には立ち直れなかった。

 トラウマと一緒に社会からドロップアウトした。

 デザイン会社時代の後遺症で心が壊れたから生活保護を受けた末に今がある。

 あの頃のパワハラや屈辱は流原ルハラマートの小山先輩センパイの比じゃない。


 思い返したら体に拒絶反応が出てきた。

 体がこわばって息苦しい。

 どこにいるのかわからなくなる。

 密室の中で窒息してしまう。


 ――ダメだ!


 息をしろ!


『ナオヤ君。思考と体は繋がってる。その経路がなにかで乱れて途切れもする。思考と筋肉の橋渡しフロー、両方を繋いで制御するのが“呼吸”だ。頭に刻め』


 師匠セックの言葉を思い出して鼻だけで吸気と呼気を深くする。

 神経と繋がる筋肉を制御できるように。


『大地での調和のとれた心身とは、重力の上にある。頭と肩と背骨、腰と脚、中心が据わって上下左右の連携がとれる。攻防も一体。中心と重力を“呼吸”で繋いで世界を鼻と口で感じるのだ』


 体の中心。

 鼻と口で感じる世界。

 足裏から全身に伝わる重力を改めて感じる。

 吸気と呼気の連続を速めた。


『かなり大昔、アジアで遊んでた頃。インドにセンスのあるボウズがいてね。あたしがそいつに“呼吸”を教えてやったもんだ。ボウズも今じゃ開祖だよ。あたしの名前も当時はだった。懐かしいね。まあキミもそうだよ。このビッグ・セックが教えるんだ、間違――』


 シャキッとしなくちゃな。

 彼女が、兎羽歌ちゃんがいるんだ。変な顔は見せられない。


 落ち着きを取り戻したからドアを開けて出ようとした。


「よっ、田中くん」


 復活したばかりの心身に衝撃が走った。

 目の前に、

 個室の前に一ノ瀬がいた。

 いつから。


「さっき来たけど大のほうだったか。まあいいや。ちょっとオレも入れてよ」


 無理やり押されてドアも閉められる。

 比較的狭い空間だが密着するほどじゃないのが救いだ。


「言っとくけどオレにそのはないからな」

「知ってるよそんなの……。一体なにを」


 なるだけ距離がとれるように自分の背中を個室の角へ押しつけた。

 そういえばあの香水の匂いはしない。つけなくなったのか。


「田中に話があるんだよ。ちなみにフライヤとトワカさんは仲よく話してるから心配ない」


 ニヤリとした顔が見えたから視線を外して便器を見つめた。


「それで話って」

「これを見てほしいんだけど」


 携帯電話を俺の目の前に突きだしてきて、


「動画をさ」


 言われて画面をまじまじと見つめる。

 映像は夜。

 セックと俺と兎羽歌ちゃんが、

 映って、


 これは訓練の時の。


「映ってるの田中だよな。最近こんなことしてんのか。他にもコスプレみたいな格好で。なんとも変な訓練をしてるのもある。女二人と。片方はあのトワカさんかな」

「どうしてそんな……どこから撮ったんだ」


 疑問が口から出た。


「知らねえよ。オレが撮ったんじゃない」

「じゃどこから手に」

「うちは芸能の会社だぜ。色々とコネもあるしな。手に入るものもある」


 本当だろうか。少なくとも彼女の変身が撮られてないのは救いだ。単なる夜の変人たちでしかない。


「田中さぁー昔と違って変態になったなぁ。それとも前からか。まあこんなの配信されたらスーパーに居づらくなるんじゃないの」


 じゃないの、でコイツの思惑がわかった。


「脅すつもりか。大体そんなので脅しのネタにはならない」

「これだけじゃない。田中が生活保護なのも知ってる。トワカさんはそれ知ってんのかな」


 痛いところを突かれた。

 自分からでも言い出せないのにこんなヤツから言われたら……。

 それでも突っぱねようと思えばできる。けど心の中にまだあの頃のひび割れがある。ひび割れの間から香水の匂いが湧き上がるのも感じた。

 感じたらまた体がこわばって息が乱れていく。

 苦しい時に一ノ瀬が告げてきた。あの頃のままの命令口調のように。


「田中に手伝ってほしいことがあるんだ。元上司と部下の間柄なんだしいいだろ? オレに計画があるんだよ。手伝ってくれたら黙っといてやるから」


 言い終えた一ノ瀬の目。

 忘れられないと同じだった。

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