第24話

「果澄、三番テーブルにお願い」

「はい」

 喫茶店で働き始めた当初は、客の元へ向かうたびに内心ドキドキしたものだが、今ではずいぶん慣れたと思う。目玉焼きが載ったナポリタンをテーブル席に配膳はいぜんし、厨房へと引きげる途中で、新たなオーダーを受けつける。開店から一時間が過ぎた『波打ち際』で、伝票を手にスイングドアを通った果澄は、それとなく店主の様子を気に掛けた。

 数名分のサンドイッチを手際よく皿に並べる翠子は、すっかり元気そうに見えた。本人の言葉を、ひとまず信じてもいいのだろうか。魚の小骨が喉に刺さったような気がかりは、テキパキと立ち働く翠子の姿を見るうちに、徐々に過去のものになっていった。

 からん、からん、と木製扉のベルが鳴ったのは、そんな矢先のことだった。厨房から振り向いた果澄は、目をみはった。

「いらっしゃいませ……え?」

 現れたのは、常連客の佐伯さえきだった。きちんとした身なりの老人は、今では果澄にとっても見慣れた顔だが、ちょっとした非日常の到来を、果澄は一目でさとっていた。翠子は、いつも通りに「いらっしゃいませ」と声を掛けていたが、やはり椿事ちんじではあるらしく、佐伯と手を繋いだ小さな客に、嬉しそうな目を向けている。

日菜乃ひなのちゃん、こんにちは。久しぶりだね」

「おねーちゃん、こんにちは!」

 元気な挨拶を返す女の子は、五歳くらいだろうか。花柄のフレアスカートと銀杏いちょう色のカーディガンを合わせた子どもは、短いツインテールを揺らして走り出そうとしていたが、佐伯は手を離さずに「日菜乃ちゃん、走らないよ」と穏やかな声音でさとしている。そして、呆気あっけに取られているこちらを振り向き、「そこのテーブル席でも構いませんか」と口を利いたので、果澄をさらにびっくりさせた。

「は、はい」

「どうも」

 浅く首肯しゅこうした佐伯は、『いつもの』カウンター席から一番近い四人掛けのテーブル席を選んだ。ソファの片側に横並びで腰かけた二人は、一緒にメニューを眺め始める。どうやら、注文も『いつもの』組み合わせではないようだ。メニューの写真を絵本のように目で追っている幼い連れを、佐伯は静かに見守っている。初めて目の当たりにする温度の顔に、ついつい目を奪われていると、隣に寄ってきた翠子が、悪戯いたずらっぽくささやいた。

「あの子は、日菜乃ひなのちゃん。佐伯さんのお孫さんだよ。今は、幼稚園の年中さんだったかな。果澄、お冷よろしくね」

「あっ、うん、ごめん」

 慌てた果澄は、急いでグラスに水を注ぎ、テーブル席に持っていった。こちらを見上げた佐伯は、いつもと同じ硬派こうはな雰囲気に戻っていたが、果澄に伝えられた注文は、やはりいつもと少し違っていた。

「オムライス一つ、オレンジジュースひとつ。あとは、いつもの」

「はい」

「じいじ、アイスもたべるー!」

「クリームソーダは、ごはんを食べ終わったあとで、本当に食べられそうか、もう一度考えてからにしなさい」

 ほのぼのとした二人の会話を耳に入れながら、オーダーを伝票に書き留めていると、熱い視線を感じた。日菜乃は、小さな頭を上に向けて、果澄をじいっと興味津々の目で見つめている。新種のカブトムシでも見つけたようなキラキラした眼差しに狼狽えた果澄は、いつも通りに一礼すると、厨房へと退散した。

 無垢むくな視線は、翠子にオーダーを伝える間も、果澄を捉えて離さない。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出していると、テーブル席から「あたらしい、おねーさん?」「日菜乃ちゃん、指をささないよ」という祖父と孫の会話が聞こえてきた。思わぬ注目を浴びてそわそわする果澄を、翠子が小さく笑ってくる。

「新しいお姉さんが、物珍しいのかもね。日菜乃ちゃん、果澄が『波打ち際』に来てからは、初めての来店だから」

「あんまり子どもと話す機会がないから、どう接したらいいのか分からない……」

「いつも通りでいいんだよ。子どもでも、大人でも、大事なお客様だってことは同じなんだから」

 二つの卵を調理台に用意した翠子は、クロックムッシュ用の食パンに手を伸ばしながら、先ほど果澄が厨房に持ってきたばかりの伝票をちらと見る。そして、どこか試すような顔になると、楽しげに言った。

「ねえ、果澄。日菜乃ちゃんのオムライス、果澄が作ってみない? クロックムッシュと飲み物ふたつは、あたしが引き受けるからさ」

「えっ? ……私が?」

 目をしばたいた果澄は、突然の提案に動揺してしまった。「でも、私、パンを使ったフードメニュー以外は、お客さんに作るのは初めてだけど……いいの?」とうかがいを立てると、翠子は「いいの。もっと早く提案してもよかったくらいだし」と即答して、りんと笑った。

「今までに何度も練習して、花丸の味になったことを、あたしが認めてるんだから。いつも通りに作れば、絶対に大丈夫だよ」

 翠子に力強い笑みで言われたら、勇気が湧いてくるのはなぜだろう。少し前までは大嫌いな同級生だったのに、関係性が友達に移り変われば、言葉の受け止め方だって変化していくということを、今さらのように知った気がする。気づけば唇を引き結んでいた果澄は、やがてしっかりと頷いた。

「分かった。ま、任せて」

 差し出したオレンジジュースのパックを、どこか好戦的な笑みで受け取った店主は、「頼りにしてる。いつも通りにね」と言い残すと、果澄が用意していたトレイにグラスを載せて、先にテーブル席へ運びに行った。果澄は、従業員用の手洗い場で手を洗ってから、一人で調理台の前に立つ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る