第25話

 緊張感が喉元を締めつけたのは、一瞬だった。熱したフライパンにバターをひと欠片かけら滑らせれば、何度も練習してつかんだ流れを引き出せて、考えるよりも先に手が動く。開店前に刻んでおいた玉ねぎと鶏もも肉をいため始めて、合格だと太鼓判たいこばんを押してもらえた調理を進めていくと、材料に火が通る音が、店内に揺蕩たゆたう音の一つになる。塩胡椒を振りかけてからケチャップを投入すれば、弾けた酸味が鼻孔びこうをくすぐった。

 赤い具材に白いごはんも飛び込ませると、並行してボウルに割り入れた二つの卵を、菜箸さいばしで手早くかき混ぜる。卵液をザルでして、きめを整えることも忘れない。別のフライパンにサラダ油を引いてから、ひと手間を掛けて生クリームも溶かした黄色を流し入れたら、みぎわさら小波さざなみの音が響き渡り、熱い香ばしさが排気フードに立ち上った。

 ふわふわと波打つ満月の半分に、チキンライスをさっと載せて、フライ返しを使って包み込んでいくと、笑みがこぼれた。――会心の出来だ。湯気のベールを纏う半月を、皿へ慎重に盛りつけてから、仕上げのケチャップをたっぷりと垂らしたところで、横合いから「上出来だね」と声が掛かり、なんだか目が覚めた気分になる。

 隣に立った翠子は、焼き上がったクロックムッシュに包丁を入れたところだった。果澄の調理に合わせて、出来上がりの足並みをそろえてくれたのだ。作業をアシストしてくれた店主に、礼を伝えようとしたが、茶目っ気を含んだ笑みで「さ、お客様がお待ちかねだよ」と言われたから、今はただ「はい」と答えて、トレイに二つの料理を載せた。スプーンが二つ用意されているのは、日菜乃ひなのひとりではまだオムライスを完食できないからだろう。先のことを見通す目を、もっと果澄も養わなくてはと考えながら、テーブル席まで歩いていく。佐伯さえきと話しながら小さな足をぷらぷらと揺らせていた日菜乃が、ぱっと顔をこちらに向けた。

「お待たせいたしました。クロックムッシュと、オムライスです」

 熱々の料理をテーブルに並べると、日菜乃にまた見つめられた。一礼してから立ち去って、また振り返ってみると、目が合った。再び狼狽うろたえた果澄が、そろりと手を振ってみると、日菜乃は顔をぱあっとほころばせて、紅葉もみじのような手を振り返してくれた。果澄も、自然と笑みを返しながら、翠子の言った通りだと実感する。子どもも大人も関係なく、いつも通りに思いやりを持って接することを、分かっていたつもりでも、まだまだ実践の経験が足りなかったのかもしれない。

 厨房に向かう果澄の背後で、二人が「いただきます」とそれぞれ唱えている。ほどなくして、日菜乃の不思議そうな声が聞こえた。

「あたらしいおねーさんが作っても、おねーさんといっしょの味なの、なんで?」

「それは、あのお姉さんが、いつものお姉さんと同じ味を作るために、とっても頑張ってきたからだよ」

 息を吸い込んだ果澄は、振り返る。佐伯と目は合わなかったが、口元にケチャップをつけた孫を見下ろす横顔は、僅かだが照れているように見えた。そんな祖父を見上げた日菜乃は、とびきり眩しい顔で笑っている。

「おいしい!」

 空へと高く弾んだボールのような感想が、胸に真っ直ぐ飛び込んでくる。きっと今の果澄も、頬を分かりやすくあけに染めているのだろう。

 平静を装って厨房に入ると、翠子が清々しい喜色を美貌にのせて、果澄を迎えてくれたから――居心地のいい場所を作るパートナーにだけは、今にも溢れそうな嬉しさを、そのままの強さでさらけ出すことを己に許して、果澄も満面の笑みを返したのだった。


     *


 からん、からん、と木製扉のベルを鳴らして、行きと同じく帰りも手を繋いだ二人は、喫茶店の外に出ていく。店内に吹き込んだ秋風は、まだ九月の名残で暖かいが、じきに冷え込んでくるのだろう。

「ありがとうございました」

 二人の背中へ伝えると、果澄を振り返った日菜乃は、空いたほうの手を振って「ばいばい!」と言ってくれた。佐伯も、果澄に会釈してくれる。非日常の終わりを感じながら、果澄は厨房へ引き返した。店内は書き入れ時でにぎわっているが、一通り注文を取ったあとなので、忙しさのピークは過ぎている。溜まった食器を洗い始めると、ホットココアを作っていた翠子が、ひそめた声で明るく言った。

「日菜乃ちゃん、美味しいって言ってくれてたね」

「うん。すごく嬉しかった。……翠子。料理で、誰かに喜んでもらうことって、こんなに嬉しいことなんだって……私にも分かった」

 翠子は、少し驚いた様子で目を見開いた。やがて花のように微笑むと、トッピング用のマシュマロとチョコスプレーを準備し始めた。

「あたしも、初めて分かった気がする。あたしにとっての好きなことを、果澄も好きになってくれることって、こんなに嬉しいことなんだって」

「……もう。いつも大げさなんだから」

 手元の食器に集中した果澄は、嘆息たんそくした。翠子は、また楽しげなソプラノで、果澄をからかってくるかと思いきや――沈黙が、長く続いた。店内に流れるBGMが、やけに大きく耳に響く。隣を振り向いた果澄は、ハッとした。

「翠子?」

 翠子の手から、マシュマロとチョコスプレ―の袋が落ちていた。空っぽの両手は、エプロンを押し上げる腹の膨らみに添えられていて――深く俯いた横顔は、呼び掛ける果澄を振り向かない。

 苦悶くもんの表情を浮かべた翠子は、ふらふらとした足取りで、厨房の隅に置いていた休憩用の椅子まで歩き、すがりつくようにへたり込む。血の気が引いた果澄が、食器をシンクに落とした音も、一生忘れられないエコーをともなって、響き渡った。

「翠子っ?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る