第3話 お遣い(2)

「おーい、雷鳴、いるかい?」

僕は、生垣に埋もれていた木戸を押し開けた。

内側は外から見るよりも開けていて、玉砂利の敷き詰められた小道に飛び石が等間隔で埋められている。飛び石はどこかから雷鳴が拾ってきたらしい、石が使われていた。

深いところは海の底のような藍色で、浅いところは瑪瑙のような薄緑色に輝いている。光の加減で色を変えるそれはまさに海を切り取りそこに埋め込んだようにも見えた。

紫水は僕の後ろからひょっこりと顔を出す。紫色の瞳が絶えず景色を見まわしていて、どこか警戒した小動物然として見えて、僕は思わず笑ってしまう。

「雷鳴?」

僕はもう一度家主の名前を呼んだ。

しばらくすると、飛び石の向かう先にある古い吹き硝子で造られた引き戸が微かに音を立てた。

引き戸の向こう側で誰かが小さく足音を上げるのが聞こえる。「はーい、」と声が聞こえた気がして僕と紫水は顔を見合わせた。

乾いた音を立てて開いた引き戸の暗がりからひょっこりと顔を出したのは、雷鳴、ではなく若い女だった。女性、と呼ぶにも若すぎる。どちらかといえば、女の子、と呼びたくなるくらい年若い。歳は大体15かそこらだろう。真っ黒なセーラー服に、紅いスカーフが目に鮮やかで、大きな襟に縫い付けられた2本線の刺繍が白く立体的に浮かび上がって見える。黒いセーラー服はこの辺りではちょっとだけ珍しい。西の方、金紫町にある名門校の制服だ。綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭が艶やかで律儀そうな雰囲気を醸し出してはいるが、釣り目気味のアーモンド形の瞳はどこか気の強そうな、物騒と言ってもいい程の眼光を備えている。

「雷鳴さん、ですか?」

この人が?と紫水は首を傾げる。

それはそうだろう。まさか、薬屋や僕が懇意にしている『宝石屋』の店主がこんな若い、というかどう見ても未成年の、むしろ学生にしか見えない女の子かもしれないだなんて思いもしないだろう。実際のところ、そうではないのだけれど。

「あら、千里さん。お久しぶりね」

「雷光。息災そうだね」

「ええ」

雷光はそういうと、僕の後ろに隠れている紫水を物珍しそうに眇め見る。

紫水は射抜かれたように直立不動の姿勢を取ると、助けを求めるような顔をして僕を見た。青年の格好をしているというのに、やっていることはまるで子供で僕はつい笑いそうになった。

出し抜けにぽん、とコルクの栓が抜けるような音が鳴った。

紫瞳に烏の濡れ羽色の髪をした青年は姿を消して、そこには真っ黒な毛並の美しい紫色の瞳をした小柄な狐が一匹、尻尾を丸めて目を白黒とさせて佇んでいる。

気まずい沈黙が流れる。

何が起こったのか、理解しかねているのか紫水は困ったように固まったままだ。

こんな光景を僕が見るのは実は初めてではないが、紫水の本性を見るのは初めてなので僕はつい、まじまじと青年と同じ場所にいる小柄な狐を観察してしまう。

それはそうだ。今日初めて会ったのだから。

「あら」

沈黙を破ったのは雷光だった。

彼女は飛び石の上をまるで飛ぶように跳ねると、軽い足取りで僕の脇まで来ると紫水と目線を合わせるようにしゃがみこんだ。

ふるふると未だに混乱が抜け出ていない紫水が小刻みに震えているのが反射する黒い毛並で見てとれて、僕はなんとも申し訳ないような、気の毒なような気分に襲われた。

「まさか雷光がいるとも思わなくて、伝えてなかったんだ」

「それはまた、災難ですね」

雷光は他人事のような声を上げた。

さらさらと色素の薄い飴色の髪が彼女の白い頬を流れる。

彼女にとっては日常茶飯事と言っても過言ではないのだが、紫水にとってはきっと初めての体験なのだろう、と思うと僕は改めて紫水に申し訳なさを感じた。

細い指がそっと紫水に寄せられて、黒々とした毛並を優しく撫でる。

紫水は相変らず目を白黒させたまま困ったように僕と雷光を交互に見上げてぶるり、と尻尾を震わせた。

「センリさん、これは一体」

「まあまあ、取りあえず家にどうぞ。落ち着かないと出来るものも出来なくなってしまいますし。兄さんもあと四半刻は帰ってこないのです」

「そっか、出直した方がよかったかな」

「美味しいお茶菓子もあるのでよかったら是非召し上がっていってください。

千里さんがせっかくいらっしゃったのに、帰られてしまったと聞いたら兄さんも残念に思いますよ、きっと」

「なら、お言葉に甘えようかな。紫水、君も一緒に来てくれるかい?」

憐れな毛玉となってしまった紫水は困ったようにまた尻尾を震わせた。

観念したのか、目を細めて首を縦に振った。それを見た雷光は顔を綻ばせるといそいそと紫水を抱き上げて家へと向かう。

彼女は毛駄物が大好きなのだった、と僕はようやくそこで思い出した。

大きくても小さくても、毛が生えた生き物を甚く気に入っているらしい。

僕をわざわざ引き留めたのも、十中八九、この黒光りする毛玉をその胸に抱く為だろう。

未だに状況がよく掴めていない紫水は取りあえず大人しく抱かれるままにしていることを選択したようで、どこか居心地が悪そうに雷光の胸に抱かれたまま連行されていく。

僕は嬉々とした空気を纏った雷光の背中を追って、『宝石屋』に足を踏み入れた。


雷光に案内されたのは、庭に面した硝子張りの小部屋だった。白い木組みに合わせてなのか、椅子や机が白く塗られている。同じ色をした棚には、竜眼石や猫目石、紫水の瞳と同じ色をした水晶など多種多様な石が所せましと並べられている。色や質感、大きさに統一感がないせいで、雑多な印象を受けるが、あの大雑把な雷鳴が大きな体を四苦八苦させながら並べたと思うと、なんだか悪いようには受け取れない。

ちょっと待っててくださいね、というと雷鳴はそっと紫水を白い椅子に下ろして踵を返した。

「大丈夫?」

「ええ、何とか。驚きました、まさか急に術が解けてしまうなんて。

 こんなこと、覚えたてのころ以来です」

お見苦しいところ、と紫水は項垂れて目を伏せた。

黒光りする尾もどこか萎んでしまっているように見える。

僕にはそもそもない能力なので、自分のことのように気の毒がってあげることは出来ないけれど「彼ら」にとっては化けの皮が剥げてしまうことはそれなりに恥ずかしいことなのだろう。

今までも雷光によって「剥がされた」ひとたちを見たことがあるが皆一様に気まずそうに顔を歪めていた。雷光の存在を知っていれば心の置き所もあるだろうが、何も知らずに急に剥がされてしまったとなるとそれはもう、落ち込みようも一際、しかも最近里を離れて化けて暮らしていかなければと気を張っていた紫水ならば猶更だろう。

先に教えてあげて置けばよかった、と僕は数刻前の迂闊な自分を恨む。

ぽん、と再び軽い音がして白い椅子に萎びた様子で大人しく乗っていた黒い狐の姿が掻き消え、そこには烏の濡れ羽色に紫の瞳をした青年が現れた。

僕とそう歳の変わらない青年は、整った顔立ちに困惑と自信喪失が混じり合った情けない表情を浮かべている。

「お待たせしました、あ、化けられるようになったみたいですね」

銀のお盆にティーセットを載せて戻ってきた雷光は紫水の様子を見て眼鏡の奥で目を細めた。

「先ほどのは、一体」

「まあ、いいじゃないですか。可愛かったのですし」

「あんまり良くないです」

「久しぶりだったものですから、すみません」

小さく笑いながら、雷光はお盆を机に置いて紫水に頭を下げた。

硝子製のティーポットの中で茶葉が揺れ、滲むようにお湯が鮮やかな紅色へと変化していく。

「僕も先に伝えておけば良かった。ごめんな、紫水」

「兄さんがこんな時間に出かけるのも珍しいことですし、千里さんが言い忘れてしまうのも仕方がないですよ。私、この時間に店にいることはあまりないですし」

「照魔鏡、って紫水は聞いたことあるかい?」

照魔鏡とは随分古い時代から伝わる鏡の名前だ。その鏡は妖怪変化の類の本当の姿を映し出すことができるらしい。妖怪というのは、人を化かす為であったり、自分の身を守る為であったりと何かと必要性があって変化を行うことが大半だ。もちろん、ただの趣味、みたいなよくわからないやつもいるのだけれど。そういった変化の術を丸裸にするというものだ。

彼女、雷光の瞳は生まれつきどういう訳か照魔鏡と同じような機能を持ち合わせている。

普通の、というとまた語弊があるけれど例えば金紫町やこの一帯から遠く離れた妖怪があまりいない場所で生まれ育ったなら雷光の瞳の特異性は大っぴらにはならなかったのだろうけれど、ここは銀連町。ここには昔から妖怪たちが多く暮らしている。ヒトみたいに。

それは不幸ともいえるのかも知れないが、同時に幸運でもあった。

銀連町程妖怪が多い地域も無いが、どこにだって彼らは屋敷の軒下や、ドアの影や、蔵の奥、森の中や木の影にだって生きている。そういう奴らにとって雷光の瞳は穏やかでひそやかな生活を脅かす脅威でしかない。錯乱した彼らに襲われて―――なんてことは容易に考えられること。

その点で言えば、この町で暮らしているうちはまだ笑い話に出来るのだ。

「魔眼、のようなものといえばいいのでしょうか」

「君たちみたいなのにとったらそうかもね」

ほう、と一通り説明を聞いた紫水は小さくため息を吐いた。

どうやら彼にとっては散々鍛錬を重ね一家言ある変化の術が不意に破れてしまったことに理由が付いた方がありがたいことだったらしい。

「この眼鏡をかけている限りは大丈夫ですよ」

安心させるように雷光はお茶を取りにいったついでにかけてきた眼鏡をくい、と上げた。

金細工の弦が滑らかで側頭部には植物模様に加工された丸眼鏡だ。まだ幼さの残る顔立ちの雷光にはいささか大人っぽ過ぎる気もするがあと数年もすればきっともっと似合うようになる。

硝子の部分には龍水晶が嵌め込まれていて、金細工の弦は異国のドラゴンの鱗を溶かして細く伸ばし装飾を施した逸品だ。彼女の兄、雷鳴の作品。あいつが、誰よりも大切で、溺愛する妹の為だけに作ったものだ。

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噂屋奇譚 津麦ツグム @tsumugitsugumu

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