3
辿り着いたのは小さな集落の無人駅だった。蛇のようになめらかにしなった形の堤防がずっと遠くまで続いて、磯の香りが風と共に吹き抜けていった。夕方になりつつある空を眺めて、昨日から何も食べていないことを思い出す。しかしとてもではないが何か食べられるような気分ではないし、隣を黙って歩く先輩もそれは同じようなので、宛てもなく堤防に沿って歩いた。集落は空き家ばかりだ。人が居る方が珍しいとさえ思うような静けさで、私たちを見逃してくれているような、形容しがたい寂しさがあった。
足が疲れてきたところで堤防に並んで座って、自販機にあった暖かいレモネードのペットボトルを掌で転がす。
先輩にそれを渡すと、ありがとうと言ってレモネードを形のいい唇に流し込んで、空になったペットボトルをゴミ箱に落とした。
「ねえ先輩、海に来たんですから、私のお願い聞いてくれますよね」
先輩は快活な笑顔で頷いて見せた。
「ああもちろん、何でも言ってくれ。…こんな状況だし、叶えてやれることは少ないけどな」
「先輩はここで魚になるつもりですか?」
ただでさえ肌寒い空気が冷えて、私は身震いをした。
「…そうだと言えば?」
どこかで見た洋画に出てきたような言葉を言いながら、まさに苦虫を噛み潰したような顔、といった表情で先輩は私を覗き込む。
「そりゃあ怒りたいですよ。怒鳴りたいし、さっきいくつか見かけた空き家に閉じ込めて一生出したくないです。でももう良いです、一度命を投げ出した私にそんな資格はありません。でもその代わりに」
私は小さく息を吸い込んだ。
「私も連れて行ってくださいよ」
先輩は息を呑んで固まった。私はそんな先輩を正面から見据えて返事を待った。すると先輩は弾かれたように立ち上がって、私を上から強く睨み付けた。
「何でそこまで言えるんだ、お前はどうしてただ放課後一緒に過ごしていただけの先輩にそんなことが言える?お前はきっと今パニックになっているんだ、なあ、考え直してくれ、お前は人間だ。魚になんてなれないし、なる必要もないんだよ」
私も立ち上がって、二人を繋ぐリボンをたぐり寄せて先輩の手を掴んだ。
「あります、私はあの時あなたに命を貰った。一度死んでいた心を再び動かしてくれたんですよ。この命はあなたに使うってあの時決めたんです。先輩は私の生きる意味そのものなんですよ」
波の音が響いている。相変わらずここは静かで、まるで死んでいるようだった。
「お前は、人間じゃないか。私と違って、誰かに愛されて幸せになれるんだよ」
「先輩に愛されてたら別に良いです。あっ、もしかして愛されてませんでしたか、自惚れですか、うわあ、それは…辛い…」
「うるさい、やめてくれ」
耳を塞いで、先輩は泣き出した。お前を巻き込むつもりはなかった、こんなはずじゃなかった、こんなことなら連れて行かれていればよかった、と先輩はその場にしゃがみこんで、私を死なせたくないと喚いた。
泣かせている張本人ではあるが、私もしゃがんで先輩の背中を擦った。いつかのように、「大丈夫です」と訳の分からない慰めの言葉を添えて。
夕日が沈んでいく。オレンジ色が海に溶けて、小学生の頃水バケツにオレンジ絵の具を零してしまったときのことを思い出す。あの時私は何が楽しくて生きていたんだろう。先輩を知らない世界で、私は何が悲しくて生きながらえていたんだろうか、さっぱり思い出せない。
ああそうか、きっと先輩に会うためだ。
以前の私なら鼻で笑うような浮ついたその思考も、今の私には酷く納得できる理由で、人間の心なんて案外単純な物だなあと思う。
「…自分が人魚だって知ったのは随分と昔のことだった」
随分長い間啜り泣いていた先輩は、波を見つめながら口を開いた。辺りはいつの間にかうっすらと暗くなっており、先輩の顔は少しずつ見えづらくなっていく。
「両親に散々言われたからなあ、物心ついたときにはもう知ってたよ。両親は私を研究機関には連れて行かなかった。それは愛情なんかじゃなくて、自分の子供が人魚なんて知られたくないから、それだけだった」
ぽつりぽつりと、言葉を選ぶようにして、先輩は自分のことを口に出した。私は一言も聞き逃さないように、全ての神経を先輩に向けた。波の音も、寒空も見えなくなって、世界にたった一人、先輩だけが浮かび上がっているように思えた。
「なあ、私とお前が初めて会ったあの日、本当にグラウンドからお前の姿を見たから私があの教室に来たと思うか。お前はきっとあの眩しい空気にあてられて、息をやめたくなったんだろう。私もそうだ、あの時私が居合わせたのはそういう事なんだよ」
先輩は私を見てくれない。ただただ海の向こうへ目を向けている。
「あの時、お前を引き留める資格なんてどこにもなかった。ただ、誰かに続いて落ちるのが嫌だった。それだけだった。でもお前が嬉しそうに、綺麗に笑ったから、もう少しだけ生きてみようと思ったんだ。お前は私を生きている意味そのものだと言ってくれたけど、それはこっちの台詞なんだよ」
気が付くと私の両眼からは、涙が溢れていた。先輩は私の頭を、まるで壊れ物にでも触れるように撫でてから、微笑んだ。この人は撫でるのが本当に好きだなと、やっと合わせてくれた瞳を見つめながらそう思う。先輩の首元で、私が贈った呪いのような赤色が燃えていた。
「誰かが私のために泣いてくれたのは、生まれて初めてだなあ…」
先輩の手が優しく私の涙を拭う。すると涙は先輩の手に溶け、その部分には赤い鱗が現れた。そういえば先輩は自分の涙では魚にならないんだなあと、ぼんやりとそう思った。先輩はその手をじっと眺めてから、水気を拭わずにその手を私の肩にかけた。
「最後にもう一つ迷惑をかけても良いだろうか」
「何も迷惑被ってないですけどね」
「ふふ、お前は本当に優しいな」
先輩の目は輝いていた。暗いのにその瞳の美しさはよく見えるから不思議だ。
「お前が私を魚にしてくれないか」
殺してくれと言っているようなものだ。私は止まらない涙を先輩の首で拭いながら、何度も頷いた。二人の制服の濃い紺色のスカートが、海からの風になびいて、ご機嫌そうにぱたぱたと音を立てていた。
自販機で買った天然水のペットボトルを二本、二人分の上着の上に寝転がった先輩の顔の横に置く。寝転がる時に後頭部が痛いからといつも括られている髪は下ろされていた。
「今更やっぱり海が良いとか言わないでくださいよ」
「言うもんか」
嬉しそうに笑う先輩の右手を持ち上げて、制服の袖を腕まくりさせた。そして二の腕、肘、掌、指先、と線を描くように、ゆっくりと舌を這わせた。するとその軌跡を追いかけるようにして赤い鱗が浮かび上がる。肩まで腕まくりは出来ないため先輩の服に頭を埋めて、同じように舐める。先輩の右腕が全て赤に染まる頃には、湿らせて乾いてを繰り返した舌はひりひりとしていた。ペットボトルの水を口に含んで、次は左腕を同じように赤く染めていく。
「ははは、思ったよりくすぐったいぞ」
「そうでしょうね」
「猫の毛繕いって感じだ」
「ああ、確かに似てるかも知れません」
あっという間に先輩の腕は真っ赤になった。次に足を持ち上げて、靴下と靴を脱がしてまた同じように赤く染めていく。腹も背中も同様にして、先輩を私が人間ではないものに近づけていった。
さすがに下着の下はやめようという話になっていたのでその辺りには下着の上から口に一度含んだ水を吐き出すことで濡らした。気持ち悪くないのかなあと不安に思ったが、先輩は嫌がるどころかクスクスと笑っている。
「幸せだなあ」
「それは、よかったです」
顔意外を真っ赤に染めた先輩の足や掌には、先ほどまでなかった鰭が付いている。幼い頃に読んだ妖怪図鑑に載っていた半漁人の身体によく似ている。あれの数百倍、先輩は綺麗だが。
これで最後だと言いたげな先輩の顔に舌を突き出そうとしたとき、引っ込んでいた涙が両眼からぼろりとあふれ出した。その涙は先輩の頬を伝ってまた赤く染めていく。
「お前は優しいなあ、本当に」
先輩は私に優しいと口癖のように言うが、一体どこがどう優しいというのだろう。優しいのはあなたの方だ。私の生きる希望だと伝えたのに嫌な顔を全くせず、自分もそうだと言ってくれた。先輩はいつもそうだった。この人は自分がどれだけ人に救いを与えたのか分かっていない。あの放課後の時間が私にとっての全てだったことをこの人は知らない。
止めることのできない涙が先輩の顔を濡らして、この時間に終わりを打とうとする。顔は頬に赤色が走るだけで、大方は先輩のままだった。顔を綺麗なまま残してくれることに、知りもしない、信じてすらいないかみさまに少しだけ感謝をした。
「なんか先輩、半漁人って感じですね。もっと魚っぽくなると思ってました」
「私も驚いてる。まあこの方法で魚になろうとした前例なんて聞いたことないからな。大抵は海や水に混ざって溶けていた気がする」
私も人魚ならよかった。二人で海に溶け落ちてしまえたら良かったのに。
パキリと音がした。まだ鱗が出ていない箇所があったのかと驚いていると、先輩の顔に、青い鱗が落ちた。驚きで涙を引っ込ませていると、先輩は目を丸くして魚のように口をぱくぱくと動かした。
「お前」
先輩は突然上半身を持ち上げて、私の顔を鰭のある手で包む。
「顔に、青い鱗が出てる」
「え」
自分の頬に手を当てると、確かに固い物が手に当たった。何だろうこれは、私も人魚だったのだろうか。おまけに暗くてよく見えないが掌がいつもと違う感触をしている気がする。いやそんなはずがない、風呂は入っていたしプールにも海水浴にも行ったことがある。その時は鱗なんて浮かんでこなかった。これは一体どういうことだろう。
「もしかして、以前の人魚達が海や水に混ざったように、私はお前と混ざったのか」
「そんなむちゃくちゃな。いやでもそういうことなのかな、人間の私と魚の先輩が混ざったから完璧な魚じゃなくて半漁人みたいな姿なのかも知れません」
先輩は慌てて私の腕を掴んだ。
「固い…本当に鱗だ…そんな…」
「あはは、色違いでお揃いですね」
嬉しくてそう言うと、先輩は真っ赤な鱗を貼り付けた顔で、真っ青な顔をした。先輩は喜んではくれないらしい。
「お前まで人魚にするなんて、最悪だ、元に戻す方法を探さないと」
「良いじゃないですか」
「良くない、溶けるかも知れないんだぞ」
「いや、ここに来たとき言ったじゃないですか。連れて行ってくださいって。この期に及んで一人で消えるつもりでしたとかやめてください」
先輩は押し黙る。自分の制服の袖を腕まくりしてみると、先輩ほどではないが自分にも美しい鱗が出ている。今までは先輩が人魚であることに特に何も思わなかったが、先輩と同じ生物になれたと思うと、気分がかなり高揚した。
「お前だけは死なせたくなかったのに」
「ああ先輩、それなんですけど、私思ったことがあるんですよ。どこかの誰かさん達と違って人魚を研究してるわけじゃないんでただの憶測に過ぎないんですけど、聞いてくれますか」
先輩はこくりと頷く。辺りはすっかりと暗くなっていて、先輩の姿は闇に霞んでいた。ライトでも持ってきておけば良かったなあと少し残念に思った。
「今までの人魚、死んでないんじゃないかなって思うんです。溶けただけでしょ、息を引き取ったわけじゃない。海に溶けた人魚は海で、水に溶けた人魚は水で、まだ生きてるんだと、私は思います。もしそうなら、私たちはお互いに溶けて混ざった後ですから、このまま生きていられるんじゃないかなって思うんですよ。それこそテレビで言ってたように、千年とか生きるかも知れません」
こんなことはただの希望に過ぎないことを私はよく理解していた。でもそう思わずにはいられなかった。
「そんなうまい話があるだろうか」
「もしなかったら、溶けながら笑いましょう、やっぱりこんな世界糞食らえだって言って」
その時、車の音が聞こえた。
あの四人組が私たちを追ってきたのだろうか。そうでなくても、この姿を見られるのはまずい気がして、どうしましょうかと先輩に問いかけた。
「車が居なくなるまで、海に潜っていればいいさ」
車の音がだんだんと近づいてくるのが分かる。私たちは立ち上がって、上着を海に投げ捨てた。靴も靴下も今はもう窮屈なだけだと脱ぐと、私の足には水かきが付いていた。二人手を繋いで、暗い海を見つめた。まだ二人を繋ぐリボンが風に揺れる。
これが最後かも知れない。私は海に視線を落としたままで、口を開いた。
「あのね先輩、ずっと言いたかったことがあるんです。二人で溶けずにもう一度水面に上がれたら、聞いてください」
「…うん」
せーの、で私たちは堤防から足を離した。そして暗闇へと、ゆっくりと落ちていく。
先輩の方に目をやると、先輩の視線とかち合った。そしてその瞼は、柔らかく細められる。
先輩は笑っていた。
花がほころぶような、そういう顔をしていた。
今まで見た中でいちばん綺麗なその笑顔で私だけを瞳に映し、リボンのない手を、私が贈った、もう暗くて何色か判別できないそれに当てながら。
ドボンという音と同時に身体が一瞬で冷え切る。それでも身体に反して脳を占める感情は暖かくて、とろけてしまいそうだった。
もう一度地上で息を吸うときに、先輩に伝えるたった二文字を思い浮かべながら、私は目を閉じた。
水葬の魚に溶ける ぽぴ太 @popita_DX
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