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 今まで憂鬱でしかなかった授業中も、先輩が家で首を長くして待っていると思うと堪らなく愛おしい時間だと今の自分は言える。校内で先輩の話をする人は日に日に減っていき、先輩が私だけの存在になっていく様を眺めているようで、学校は私にとってゾクゾクとした薄暗く暖かい感情を募らせる場所になっていた。

 掃除の終わりを告げるチャイムと同時に掃除道具を仕舞って、私は荷物を掴んで学校を飛び出した。今日はこの世でいちばんおめでたい日だ、バスを使って隣町まで移動し、いつもは行かない、いかにも高校生が喜びそうな可愛らしい外見の雑貨店に入って、うんうんと唸りながら品物を選んで丁寧に包んで貰った。それから急いで帰りのバスに飛び乗って、いつものようにスーパーへ向かった。少しだけ高い卵をかごに入れて、苺が乗ったショートケーキも二つ買った。喜んでくれないことはあの人に限って絶対にないとは分かっているが、少しだけ緊張してしまう。しかしそれと同時に、優越感が心臓を蝕んでいた。

 頑張ったつもりではあったが、ケーキを持っているために走れずいつもより随分と遅い時間に帰宅した私は、帰宅したと同時に抱きついて離れない先輩に脳の処理が追いつかず「はえ」と素っ頓狂な声を出して荷物を腕から落としてしまった。慌てて拾おうとするが、先輩は私の胸に顔を埋めて微動だにしない。いつもは先輩の動きに合わせて鮮魚のように跳ねている先輩のポニーテールも地面に向かって真っ直ぐに垂れ下がっている。「遅くなりました」と機嫌を窺うように聞けば、先輩はくぐもった声で「バイトがない日に帰りが遅くなるときは、電話しろといつも言ってるだろう」と不満そうに言った。なんて可愛いんだろう、いつか飼っていたハムスターの寝顔など比ではない。髪を掻きむしりながら泣き出したくなるくらいに、目の前のこの人はあまりにも可愛い。

 部屋を見ると、先輩の担当である綺麗に畳まれた洗濯物がなぜそこまで、と思うほど積み上げられて高い塔を作っていた。待っている間暇を持て余した先輩が作ったのだろう。

「すみません、電話も忘れちゃうくらい、急いで帰ってたんですよ」

 先輩の腕の力が緩んだ隙に素早くしゃがんで、跪くような体勢のまま落ちていた白い箱を先輩に渡した。

「先輩、そんな不機嫌な顔しないでくださいよ。ほら、受け取ってください。誕生日おめでとうございます」

 ぶすっとした顔が見たこともないような間抜けな顔になり、私は思わず笑ってしまった。先輩は箱を受け取って開くと、途端に目を輝かせた。

「くれるのか、これ!」

「受け取ってって言ったでしょ、どうぞ」

 荷物をまとめて台所へ向かう。横目に先輩を見ると、まだ箱の中を見て嬉しそうに顔を緩ませていた。表情がころころ変わる人だというのは知っていたが、ここまで変わったところを見るのは初めてだった。ここでの生活が始まる前までは先ほどのような子供のように可愛らしいすね方をされるなんて夢にも思っていなかった。先輩はいつも強くて優しかったのだ。この人の中の私がただの後輩ではないもっと特別な存在であると言っているようなその態度に自惚れてしまいたくなる。

 完成したオムライスをテーブルに並べて、箱を持ったままいつの間にか姿を消していた先輩を呼ぶと、眩しいほどの笑顔で先輩は席に着いた。その長い間外気に触れていない白い首には真っ赤が巻き付いていた。

「首輪なんて初めて着けたぞ、どうだろうか!」

「いやチョーカーって呼んでください。私がやばい奴みたいじゃないですか。まあリボン足に結んだ時点でやばい奴な気もしますけど…。すごく似合ってますよ。やっぱり先輩には赤がよく合うと思います」

「オムライス!いつか好きだって言ったの覚えててくれたのか!」

「ちょっと先輩、自分で聞いたんですからちゃんと聞いてくださいよ」

 皿の上の物は瞬く間に消えていき、食後は二人で崩れたケーキを食べた。こんなにも美味しそうに平らげてくれる先輩を見ると、料理も意味がある物なのだなあと思える。

「こんなに幸せだと思った誕生日は初めてだなあ」

「それは、よかったです」

 ふわふわとしていた。頭の中も、この場に流れる空気も、全部が幸せだった。この空間は幸せだけが満ちている。先輩の名前を呼びたくて、私は口を開いた。その時だった。この穏やかな時間を劈くように、来訪者が現れたことを知らせるチャイムが鳴った。

「…こんな時間に誰だ、親御さんか?隠れようか」

「…あの人は帰ってくるなら連絡入れてくるはずですけど…まあそうですね、先輩は隠れてください」

 先輩が私の部屋に入っていくところを見届けた後で、私はドアスコープを覗いた。するとそこにはスーツを着た男女合わせて四人程度の大人が扉の前に立っていた。

 私は先輩の靴を取り出し、急いで先輩の元へ向かい、ベランダで息を潜めることを指示して、リボンを外した。先輩は何も無い足首を少し眺めて、靴を持ってベランダへと向かっていった。

 ピンポンと、無機質なチャイムが再び鳴り響く。私は自分の頬を軽く叩いて、平常心でいられるようにと自分に気合いを入れた。彼らが何の目的で訪れたのか分からないが、警戒しておくことに越したことは無いだろう。意を決して、ゆっくりと、扉を開いた。

「すみません晩ご飯食べてて。…あの、どちら様でしょうか?」

 四人規則正しく並んでいた中の一人の男が一歩踏み出して、私を見下ろす。

「我々は人魚研究チームの者です。時間が無いのでそれ以外は割愛します。質問があります、あなたは学校で人魚と噂の彼女と仲が良かったようですね」

「はあ、人魚ですか」

 男は知らないわけが無いだろうとでも言いたげな目で先輩のフルネームを口にする。

「ああ先輩ですね、はい、すごく仲良しでしたよ。二ヶ月前に居なくなっちゃいましたけど。…ええと、先輩がどうかしたんですか?まさか戻ってきたんですか」

「いいえ、我々は彼女を捜しているんです。今回の人魚を逃せば次はいつになるのやら、人魚が良くない噂を持っていることを知っているでしょう、町の住人は怯えているのです、早く探し出さないと。彼女について知っていることがあれば教えていただきたい」

 私は怒鳴りたい気持ちを抑えて、何も聞いていないと白を切ることにした。

「すみません、分からないです」

「そうですか」

 では、と彼らはあっさりと背を向ける。あっけにとられていると、四人の内一人が私を振り返って、跳ねるように私の目の前まで来ると、猫のような大きな目をぐりぐりと動かし、にたりと気持ちの悪い顔で笑った。

「あなたの部屋、魚臭いですね」

 心臓の奥の方から、ぶわりと汗が滝のように噴き出る気持ちだった。なんとか声を絞り出して「今日の夕飯は魚だったので」と言ったが、きっと今私の顔は酷いだろう。そいつは「そうですか」と満足そうに頷き、三人の元へと戻っていった。私は素早く部屋の中に戻って、鍵をかけた。

 あれはバレている。あいつは確実に気付いていた。

 私はあまり貯めていないバイト代の入った財布を棚から抜き取り、タンスから適当に羽織る物を二着取り出して、ベランダで息を殺して待っていた先輩の手を掴んで立たせた。

「逃げましょう、研究所の奴らにバレました。多分。ベランダから柔らかそうな植木に落ちますよ。玄関からはきっと出られませんから」

 ベランダの手すりに飛び乗ると、先輩は戸惑ったような顔で私の手を掴んだ。

「まってくれ、お前にこれ以上迷惑をかけるなんて嫌だ。もう良い、十分幸せだったから。終わりにしよう」

 穏やかな声で、子供に言い聞かせるようにそう言った先輩が悲しくて、そして腹立たしくて、私はその腕を捻り上げた。

「研究施設から戻ってきた人魚はいないんですよ。先輩があちこち調べられて、そのまま死ぬなんて嫌です。知ってますか、あの周辺の住人は叫び声を何回も聞いているんですよ」

「人魚だと分かっても私の隣にお前はいてくれた。本当に嬉しかったよ。それだけでこの先生きていけるから、なあ、手を離してくれないか」

 まるで心底愛おしいとでも言うような顔で自分の喉元の赤を擦った。その時先輩の腕から同じような赤が滑り落ちる。それは先輩の足首に常についていたリボンだった。

 外した後、取っておいたのだろうか。この二ヶ月と少しの間だけの、私との思い出として、それだけ持ってこの人はいなくなるつもりなのだろうか。

 私はそれを奪い取って、先輩の左手首に結んだ。そして反対側を自分の手に巻き付けて、私より少し背の低い先輩を抱き上げた。

「私は誘拐犯です。あんたの言うことなんて聞きませんから」

 私は先輩を抱えたままベランダから厚みのありそうな緑の上へと身体を沈ませた。私が下敷きになったのできっと先輩に怪我は無いはずだ。泣きそうな顔で馬鹿とか阿呆とか酷いことばかり言う口を手で塞いで、持ってきた白い厚手の上着を先輩に羽織らせ、私は先輩と色違いである黒いそれを羽織った。まだ寒い夜の街を、打撲し我慢できないほどでは無いが鈍い痛みがある足を奮い立たせて、私は先輩の手を引いて駅の方へと歩き出した。後ろから何度も「私に脅されて匿ってたって言えば良い。今ならまだ戻れるだろ」と震える声が聞こえてきたが、無視をした。途中ですれ違ったパトカーが闇夜に紛れた私たちに気が付かなかったことはただただ幸運としか言えなかった。

 随分と歩いた。人目を避けて、灯りに怯えながらもこの街の中心にある駅に着いた頃にはもう夜は明けていた。その頃には先輩は不服そうな顔をしながらも抵抗すること無く私に手を引かれるままに大人しく着いてきていた。

「どこに行くつもりなんだ?」

 特に決めていないが、とりあえず遠くへ行きたいと言うと、先輩は手首のリボンを揺らしながら路線図を指さす。

「二番ホームの電車で、いけるとこまで行かないか」

「さすがにその先に海があることぐらい私でも知ってますよ。そこで死ぬつもりですか」

 先輩は分かり易く肩を跳ねさせて、気まずそうに私の目を見た。この人の怯えたような瞳が私に向けられるのはなんだか心底寂しくて、怒鳴りたい気持ちを押し込んだ。そして少し考えてから、私はわざとらしくため息をついて、それから先輩の頬を摘まむ。

「…海に着いたら、私のお願い聞いてください。それなら二番ホームに行きますよ」

 先輩は寂しそうに、でも心から喜ぶように笑って、もちろんと私の要求をのんだ。

 電車に揺られて、私は窓の外を眺める先輩を見ていた。車内には私たちしかいなくて、このまま電車が止まらなければ良いのに、と思った。窓に映る先輩は光の無い瞳をしている。全てを諦めたような、そういう目だった。私はこの目を知っていた。初めて出会ったあの時の先輩は、この目をしていた。グラウンドで新入生保護者の車の案内をしていた時に、窓辺からずっと地面を見つめる私を見つけて走ってきたのだと先輩は息を切らしながら言っていた。今まさに命を絶とうとしていた私より遙かに死にたいと訴える目で、先輩はこう続けた。「生きてたら良いこともあるさ」と。そんなちぐはぐさに引かれて私は再び呼吸を始めたが、その日以来先輩はその目をしなかった。久々に見るその瞳を、私は二駅通り過ぎるまで見つめていた。

 携帯電話を開いてネットニュースを眺めていると、私と先輩の記事があった。私が人魚を匿って二人で逃げた可能性があるというものだった。

 ほっといてくれよと呟きながら、三駅目に停まり「プシュ」と音を立てて開いたドアから、私は勢いよく携帯電話を投げ捨てた。


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