水葬の魚に溶ける

ぽぴ太

水葬の魚に溶ける

 道端で、雀が死んでいた。

 猫に襲われたのだろうか、首から上の無いその小さな命の残骸からは、いくつかの肉片が飛び散っていた。私は堪らず目を逸らして、目に焼き付いてしまいそうな赤色のそれを必死で頭から追い出した。

 今日は私が高校生活二年目に突入した日だった。新入生の目には淡い色の桜が映り込んで、希望に満ちあふれているような顔をしていた。柄にも無く少し感動したが、それを上回る強烈な鮮血にその気持ちも光景もかき消されてしまった。きっとこれから何か式典がある度にこの光景を思い出すのだろうなと第六感が囁いて、ため息をつく。雀からそっと離れて、食材が詰められたビニール袋を右手に、トイレットペーパーを左手に持って、私はまだ明るい通学路を足早に進んだ。

 学校から歩いて二十分程度、マンションの二階、いちばん隅の部屋。鍵を開けて靴を脱いでいると、リビングからテレビの賑やかな音が聞こえた。バラエティは嫌いだと言っていたのに複数人の賑やかな音声を鳴らしているのは、大抵テレビを消し忘れたまま眠ってしまっている時だ。キッチンからリビングを見るとそれは的中していて、思わず小さく笑ってしまった。

 冷蔵庫に食材を移していると、ビニール袋のガサゴソという音に反応したのか、その人は後頭部で一つにまとめられた髪をふわふわと揺らしながらソファから起き上がった。

「おかえり」

「おはようございます、先輩」

 ここで眠ってしまったと少し恥ずかしそうに笑って、私と同じ制服を着た先輩は私の隣にしゃがみこみ、冷蔵庫の整理を手伝ってくれた。私の服を使うのは申し訳ないからと、寝間着以外は洗濯中でなければ制服を着ると頑なな先輩に少しだけ笑みがこぼれる。するとそれに気付いた先輩はふんわりと微笑み返してくれた。寝起きの柔らかい表情がまるでかみさまのように眩しい。かみさまに会ったことは、勿論ないのだけど。

「この時間にテレビ見てるなんて珍しいですね」

「暇だったんだ」

 床で力なく曲がりくねった真っ赤なリボンを指で弄びながら、野菜をしまい終えた先輩はすねたようにそう言った。「なにかゲームでも買ってきましょうか」と今日の晩のメニューを携帯電話で確認しながら先輩の髪を指で梳くと「それだとお前のバイトが増えるだろう、ゲームなんて要らないから早めに帰ってきてくれ」と先輩はくすぐったそうに首を振った。私もバイトがしたいんだが、という言葉は無視して、二人でキッチンに並んで、コンロに火を点けた。今日のメニューはトマトソースのスパゲッティだ。

 先輩はとても綺麗な人だと思う。光が当たると黄金に光る柔らかい茶髪に、琥珀のような瞳。快活な笑い方、輝くような眩しい笑顔、意思を強く持ったはっきりとした口調。私とは全部が正反対の人だ。友人に毎日死んだ目だと言われるどす黒さを持つ瞳で先輩を見ていると、なんだか汚しているような気分になって酷く申し訳なくなるときがある。それくらいに先輩は綺麗だ。

「何の番組見てたんですか」

 出来上がって直ぐに完食し、二人で空になった皿を洗いながら、私はまだパスタを飲み込み切れていない先輩に投げかける。

「人魚の特集」

 私は皿を落とした。それを見越していたように先輩は皿を受け止め、困ったような顔をして私の顔を覗き込んだ。

「怒らせただろうか」

「いえ、その…意外で」

 先輩はその綺麗な瞳で私を見据えたまま、真剣な表情を作った。

「さすがに一人で見るのは心細くてな、全部は見てないんだ。録画しておいたから、皿を洗い終わったら一緒に見てくれないだろうか。どうせいつかは知らなくちゃいけないことなんだ」

 私は心の底の方が冷え切ったような心地だった。俯くと、先輩の右足首に繋がれた長いリボンが目に入り、憂鬱な気分が頭を持ち上げた。頭上からパキリと乾いた音がして、丁度見ていた先輩の足元に、薄いガラス細工のような赤い色の破片が落ちた。それは鱗だった。帰りに見たあの赤色とは比べものにならないほどその赤は澄んでいる。きっと世界でいちばん美しい魚の鱗なのだろう。

「…わかりました」

 先輩は頷いた私の頭を、タオルで自分の手を拭いてから優しく撫でた。

 いつかは知らなくてはいけないこと。早かれ遅かれ、絶対に目を向けなければいけないのだ。


 1


「この町には「人魚」と呼ばれる生き物が存在するんです。人魚と言っても足が尾ひれになっているわけではなくて、見た目は普通の人間と何ら変わりは無い。しかし人魚は人間には無い特別な性質を持っているんです」

「まず知って貰いたいのは、町に人魚は一人しか存在しないことです。現存する人魚が死ぬと、その後にこの町で生まれて来る赤子が人魚となるんです。びっくりでしょう!」

「へえ!遺伝とかではないんですねえ!」

「次に、水に長時間浸かると魚になるんです。これが人魚が人魚と呼ばれる最大の理由ですね。濡れただけでも鱗が出るみたいですよ。ちなみにその魚の姿はこの世でいちばん美しいと言い伝えられています」

「へえ!それは是非見てみたいですねえ!」

「しかし完全に魚の姿になると、直ぐに死んでしまうんですよ。水に溶けて、一体化するように消えて行くのです。どのくらいの間魚で居られるのかははっきりとは分かりませんが、水に浸って魚になり、一日その姿を保てた人魚はいないのだとか…」

「へえ!伝説上の人魚は千年生きると言われているのに、この町の人魚は違うんですねえ、ちょっと悲しいですねえ!ところで人魚がいる街というのは字面がとってもロマンチックですねえ!」

「ところがですね、人魚には怖い噂が沢山あるんです。例えばその鱗を見てしまえば呪われるとか、歌声を聞けば悪夢に閉じ込められるとか。それらの噂は人魚を見つけても隠さずにすぐ通報をさせたい研究者が広めたという噂もありますけどね。噂ばっかりですね!」

 先輩はテレビを消して、ソファの上でしかめっ面をして膝を抱える私の頭をワシャワシャとかき混ぜた。

「知らない情報は得られなかったな」

「そうですね。あのタレント胡散臭くないですか?まあいいですけど。はあ、なんだか疲れました。もう寝ませんか」

「待て待て、歯磨きしてないしシャワーも浴びていないだろう。それに課題はどうした。見てやるから終わらせてから寝よう」

 私たちはソファを立って、私は歯磨きを、先輩はシャワーを浴びに洗面所へ歩いた。歯磨き粉をチューブから出しながら、風呂場の扉の向こうへと消えていった先輩の足に繋がったリボンを足でぐいと引っ張った。「こら、転けそうになったぞ」という声が中から聞こえて安堵する。ちゃんとリボンは先輩の足に繋がったままだ。リボンがある限り、先輩は湯船には絶対に入れない。そういう長さに私がしたのだ。

 先輩と入れ替わりでシャワーを浴びながら、湯船を一瞥する。中には大量の鱗が貯められていて、まるで一つの巨大な宝石のように輝いていた。シャワーを終えると寝間着に着替え、髪を乾かして、リビングのテーブルに広げられた数学の課題を先輩に教えて貰いながら解く。辺りは既に暗くなっていて、まだ残る寒さに身震いをした。

「おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」

 今日すべき事を粗方終えると、同じベッドで私と先輩は並んで眠った。ソファで良いと先輩はいつも言うのだが、私が眠っている間に居なくなられては困るとそれをいつも却下した。居なくならないよと先輩は困った顔で笑うが、こればかりは譲れなかった。

 先輩をここに閉じ込めて、たしか今日で丁度二ヶ月になる。街には突然消えた先輩の顔写真が何枚も貼り付けられて、先輩のクラスメイトが先輩の噂話をしているところも見かけた。「あの子は人魚だったって聞いたことある。もう魚になったんじゃないの」「ええ、うち弟が今週中には生まれるんだよ、勘弁してよ」「私あの子の歌聞いたことあるんだけど、悪夢に閉じ込められるって本当かな。そう言えば最近悪夢ばっかり見る気がする」という、あまり良い話題では無いことの方が多いその話に私は何度も顔をしかめた。先輩ならうちにいますよ、鱗も見たし歌声も聞いたけど私は幸せですよとは言えず、なんとも言えない気持ちで私は彼女らの横を通り過ぎた。

 先輩は以前までは人気のある人だった。その明るさで引力を持つかのように人を引きつけて、どんなに浮かない顔の人でも引っ張り上げて笑顔にしてしまう、太陽という言葉が似合う人だ。先輩に救われた人は、きっと先輩の両手両足の指でも足りないほど居るだろう。私もその中の一人だった。

 桜が舞う入学式、希望とか、光とか、そういった言葉が似合う空気の中で私は一人俯いていた。口べたで、頭が悪くて、何をやっても人並み以下で、常に誰かに後ろ指を指されているという幻覚に悩まされていた私は、この日、担任の先生の顔も覚えていない内にこの世界から抜け出そうとしていた。トイレに行くふりをして教室から抜け出して、見つからないよう足音を消しながら、私はできる限り人気の無い場所を探した。そうして見つけた三棟三階の隅の物置と化している鍵の壊れた空き教室の窓から身を乗り出した私を、先輩は見つけてこの世界に繋ぎ止めた。

 その日から、私と先輩は部活動の無い水曜日は空き教室で会うことになった。それを提案したのは先輩だった。埃を被った机を二つだけ拭いて私たちはそこに座り、電気を点けるとここを無断で使っていることがバレるからと先輩が持ってきた卓上照明の白い光の下で、課題や読書をする。それなら一人で出来るじゃないですか、と先輩に聞いたことがある。目を離したらまた身を投げ出しそうで怖いから、週に一回でいいからお前の生存確認をしたいんだと、先輩は笑っていた。数週間経った日、三年生である先輩は、受験勉強のために部長を務めていたバレー部を辞めた。そして放課後は毎日二人で過ごすことになった。これは提案したのは私だ。その時には既にこの世から消えようなどとは微塵も思っていなかった。先輩もきっとそれに気付いていた。その上で頷いてくれた先輩を見て飛び上がるほど嬉しかったが、校舎の周りを走るバレー部を名残惜しそうに見ている先輩の前で、喜ぶことは出来なかった。

 私の生きる意味は確実に先輩の形をしていた。何もかもが霞んで見えた私に突然現れた強い光は、私の心を暖かく包んで離さなかった。この人がいるから私は生きているのだと、この人のためなら人も殺せると、本気でそう思えるくらいに、私の世界の中心は先輩だった。

 二ヶ月前、先輩は泣きながら放課後の空き教室に飛び込んできた。先輩の笑顔しか知らない私は情けなくなるほどに動揺した。とりあえず先輩を座らせて、背中を擦りながら「大丈夫です」と意味が分からない慰めの言葉をかけ続けた。しばらくして落ち着いた先輩は、震える手で私を抱きしめて、いつもの姿からは考えられないほど小さな声で話し始めた。

「もうここには居られない」

 どうして、と聞くと、理由は言えないと首を振る。その振動で、先輩の首から鮮やかな赤色が飛び出した。透き通るような、美しい鱗だった。私はそれを拾い上げて先輩に掲げて見せると、先輩は分かり易く動揺し、それから目を逸らした。

「先輩」

 先輩は私から腕を放して、ゆっくりと後退る。私は慌ててその腕を掴んで引き寄せた。

「人魚なんですか」

 私はそれでも気にしないという態度を示すために、腕からゆっくりと手を外し、先輩の手に自分の手を重ねた。

 それに安心したように指を絡めてきた先輩の目は涙に濡れて赤かった。

「後輩達の練習を見ようと体育館に立ち寄ったんだ。丁度水分補給をしていた子を見つけて、喋ってたんだ。その時ボールが飛んできてな、その子の腕に直撃して、水の入ったペットボトルが私の方に飛んできて、頭から水が派手にかかったんだ。慌ててタオルを引っ張り出して拭いたんだが、遅かった。鱗が落ちたんだ」

 先輩は再び嗚咽を漏らし始めた。

「その場にいた全員が私を恐ろしい物を見るような目で見たんだ。そこには積み上げてきた友情も絆も無かった。恐怖だけが私に向けられた。きっとあの子らは私を通報する。私はもうあの子らの中で人間じゃないんだ」

 泣き出してしまった先輩を、今度は私が抱きしめた。

「ねえ先輩、聞いてください」

 人間じゃない存在で何が悪いんだろう。先輩は先輩だ、人魚が悪い噂を持っていることは重々承知しているがそれがどうしたと言うんだ。この人は私の命を掬い上げて、生きる意味を教えてくれたのだ。私は先輩のためだけに生きていると言っても過言では無いのに、その先輩を泣かして、バレー部とやらは一体何を考えているんだろう。

「これから私は先輩を誘拐します。嫌だって言ってくれたら手を離しますけど」

 涙が止まらないままだが、先輩は驚いたように息を呑んだのが肩越しに分かる。

「誘拐しますって言う誘拐犯なんて見たことないな」

「居ますよここに」

「親御さんにはどう説明するんだ、人魚を連れてきたなんてきっと気味悪がられてしまうぞ」

「親はあまり帰ってこないし、帰ってきたとしても私の部屋には入ってきませんから」

 先輩の肩を強く掴んで、目を合わせる。

「ねえ嫌がってくださいよ、ほんとに誘拐しますよ、それで閉じ込めて、もう出してやらないんですよ」

 自分でももう何を言っているのかよく分からなかった。しかし全て本心で、一つも冗談は言っていない。そんな私の気持ちを読み取ったのか、鼻を啜って、先輩は柔らかい笑顔を浮かべる。

「連れて行ってくれ」

 先輩は私の肩に腕を回した。

 そうして私は先輩を閉じ込めた。万一にでも魚にならないように、足に動きを制限するリボンをつけて。先輩自身が取ろうと思えば取れる、ベッドの足と先輩の足にただ結んだだけのリボンだ。それでも先輩はリボンを取らない。この歪な関係を許容してくれているように思えて、私はその足を見るのが好きだった。

 幸せだと思う。罪悪感の中で身動きが取れないほど息苦しくはあるが、それを上回るほどの先輩を独り占めにしているという多幸感があった。

 アラームに叩き起こされ、欠伸をしながら上半身を起こすと、隣で先輩が身じろぎをして、私を見上げながら「おはよう」とはにかんだ。先輩は先輩より少し背の高い私の服を着ているため、その袖は少し余っていた。髪をくくっていない先輩はなんだかとても愛らしくて、思わずかわいいですねと零すと、お前もなと先輩らしい返事が返ってきた。

 連れ立ってリビングに向かい、昨日買っておいたパンを二人で食べながら、今日の天気を見るためにテレビをつけた。

「二ヶ月前に疾走した高校三年生の女子生徒が人魚だったという情報が寄せられ…」

「手を洗う際に水ではなくウェットティッシュを使っていた、プールに参加したことは無かったなどの情報も得られ、人魚という説はかなり信憑性が…」

 朝から何てことを、とリモコンのボタンを乱暴に押し込みいつもは見ない局のニュースに切り替えると、隣からくすくすと可愛らしい笑い声が漏れた。

「今更気にしないさ」

「私が気にするので」

「はは、優しいな」

 うんざりとした顔をする私の頭を撫でてから、そろそろ着替えて行かないと遅れるぞ、と洗面所に向けて私の背中を押した。制服に着替えると、先輩はセーラーの襟を直してくれる。

「いってらっしゃい、帰りが遅くなるなら電話してくれよ」

「行ってきます、私以外からの電話は出ちゃ駄目ですからね」

 鍵を差し込んで、ガチャリと音が鳴るまで回し、手を離す。先輩を閉じ込めている、という実感がいちばん強く感じるこの瞬間が私はどうも苦手だった。

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