第三章 地底界アガルタ
Ⅰ. 蒸気機関車の船長
大空が無限の深海を抱いているように、おそらく地底世界も無限の天空を抱いている。そこは水の底ゆれる宇宙の吹き溜まり。アガルタの人工太陽は機械でできた偽りの月。甲虫蒸気艦の向かうそこは、女王蜂が棲まい幻の青い花の揺れる巣房のある天空の城。そして命の火を搾取しエネルギー源とする大釜もそこに――。
* * *
ひとり船倉で目を覚ましたルカ。傍らでは昨夜の嵐の混乱で疲れきったティオが、すうすうと穏やかな寝息を立てている。そっと光の差し込む窓の外を窺う。すると……。何かの眩しい光の束がバッとルカの視界を塞いだ。目も潰れんばかりのそれにルカがあっと思ったのもつかの間、まるで雷にでも打たれたように、ルカは気を失ってしまう。
次にルカが目を覚ました瞬間、どういう訳か、そこは、ある夜行列車の中だった。ガタゴトと不規則に揺れる車体。その振動の度に車窓から覗く、昼間なら何らかの景色が窺えるだろう暗闇も一緒に揺れた。あ……れ……? 確か私、さっきまで蒸気船の中にいたよね。え。どうして……?まだ夢でも見ているのかと、狐につままれたようにルカは思った。
見ると、目の前の席でティオがさっきと変わらぬ体勢で、オレンジ色の電燈の灯りの下ですやすや眠っている。小猿のマルコもティオと一緒だった。ビロードの緋色をした布地の張られた列車内のシートが心なしか、しっとり濡れているような気がした。そのオイルランプの電燈の灯りの中で、もう一度車窓に目をやる。ガラス窓に映る、不安そうな自分の顔。その暗闇の中、時折、定期的に明滅し、後方に流れていく青い光に目を凝らすと、これは地下鉄なんだとルカは不意に思った。ガタゴトと揺れる寝台列車の中、ぼんやりと蒸気船の嵐の夜のことを思い出して、あの混乱で他の乗客の皆んなは、一体どうしたのだろうかと周囲を見回すも、ルカとティオが乗っているその車両には、他に誰も乗っている客はいないようだった。
そのとき、ルカはどこからともなく声をかけられた。
「お目覚めかい?お嬢さん!」――が、その声の主に振り返ると、そこには誰もいなかった。え?瞬間ルカは訝しんだ。「こっちこっち」見上げると、ふわふわした綿帽子みたいな何かが目の前に浮いていた。え……。ルカはその綿毛が喋っているので仰天してしまった。呆気に取られたまま、ただ口をあんぐり開けていると、
「やだなぁ……これだから地上の人間は!まあいいさ」
その綿毛は、いつものことさと言わんばかりに気を取り直すと、
「僕はルルド。この世界の聖虫だよ」――この世界?改めて外の景色を見ると、もう夜が明けたのか、それとも地下を抜けたのか、車窓からは朝陽が差し込み、その眩い光にルカは思わず右手で視界を覆うのだった。「う……ん。ルカ……?」ふと気づくと、傍らの席で眠っていたティオもやっと目を覚ましたようだ。ともに眠っていたマルコもキキッと小さく鳴くと、少しだけ不安そうに小首を傾げ、寝ぼけ眼のティオを見上げた。その様子を窺い、すぅと一呼吸すると、目の前に浮かんだ綿毛が言った。
「ここはアガルタ――僕たちの棲まう世界、地底界アガルタさ」
その思いがけない言葉に、ルカは、えっと言葉もなく息を飲み込むのだった。
もう一度、外の様子を確認してみる。当然そこには海の水は一滴も揺れていなかった。代わりにルカが見たのは、幾筋もの大河が遠くに広がり流れる、広大な大地だった。朝靄を切り裂くように差し込む、幾筋もの太陽の光が眩しくて、よく周りを確認できない。それでも乳白色に輝く空が、緑色に苔蒸したような大地を白っぽく照らしていた。
さっきまではガタゴトと揺れていた列車が、何だか浮いているような気もする。心なしか漂う石炭の匂い。そして、シュッシュッと灰色の煙を吐いて走り、自分たちを乗せているそれが、蒸気機関車なのだと知るまでに、さほど時間はかからなかった。そう、実際この蒸気機関車が牽引して走っている、この列車は宙に“浮いていた”。それ一つ取ってみても、尋常でなく驚いてしまうことだったのに。
さっきまで蒸気船クイーン・リズ号の船倉にいたはずのルカとティオ。いつのまにか二人は、この不思議な蒸気機関車に乗っていたのだ。目の前にいるルルドという喋る綿毛の妖精にも驚かされたけど。ティオの得意の推理探偵ごっこも、さすがにこの事態を予測できなかったみたいだ。「ここは一体……?」ティオも開け放した窓から、ほぼ身を乗り出すようにして、不思議そうに辺りを窺っていた。外に顔を乗り出しているにも関わらず、特別、その蒸気機関車から吐き出される煙に
「君たちは選ばれてここに来たんだよ」
ややあってルルドという不思議な妖精が言った。その言葉に、あの嫌らしいケペレル社の若き社長の笑い顔が脳裏に浮かんで、ルカは思わずぶるっと身震いした。まるで、いつもどこかで見られてるみたいで……。実際そんな気がして、さらにルカは身を縮こますのだった。
「地底だなんて信じられないな。だってここには太陽もあるし、日の光も差してる。一体どういう仕組みになってるんだろう?」
「でも少しだけ寒い。ここは今、冬なの?」
二人の疑問にルルドは、それはちょっと違うかな、とだけ答えた。
ルルドに促されるまま、あたしたちは先頭の機関車へと、連れられて行った。そこで待っていたのは、無口でいかにも不機嫌そうな、この“
* * *
その先頭車両に向かうまでの間、ルカたちは、あの蒸気船に乗っていたらしき、乗客の半分くらいが、ルカたちと同じくこの列車に揺られているのを目撃した。が、いずれもまだ目覚めておらず、まるで眠り薬で眠らされているかのように、死んだように誰も目を覚まさなかった。何だか怖い……。ルカは人知れず思った。
いくつ車両を移動しただろうか。先頭車両に向かってから数分が経ち、ようやく三人は、その先頭車両の扉の前に立つのだった。何だろう、これ……。当たり前の列車のそれらしき、ここまでの列車の車両とは、それは似ても似つかぬもの。蒸気機関車って、これが?重厚感あふれる鋼鉄のそれは、まるで硬い鎧を被った東洋の武将の
「――甲虫蒸気艦、ヴィンダリア号だ」
その声の主に、そう告げられ、ルカたちはやっと合点が行くのだった。
『“甲虫蒸気艦”ヴィンダリア号』……それが、この
それからしばらくの間、船長は、そのままずっと仏頂面をしたまま、黙りこくったまんまだった。あちこち触っちゃダメだよ!どこにも触ってないのに、時折ルルドが、どこかおっかなびっくり、声を潜めた調子で注意した。
その不可思議な鋼鉄の鎧を纏った甲虫蒸気艦の内部は、見たこともない計器が並び、さしずめそれは未来世界のものか、はたまた超古代文明の未知のテクノロジーらしきものが結集したかのような、まるで訳の解らぬSF世界のそれのようだったが、無論ルカたちに、それがそうであると一ミリも想像できるはずもない。それでも、それはどこか、ルカたちの地上世界の蒸気機関が司るそれとも、どことなく似通っていたよう。勿論あの飛行船にだって乗ったことのないルカには、そんなこと知る由もないのだが……。それでも、あのクイーン・リズ号に乗った瞬間の不思議な興奮のようなものが、我知らずルカの身に走るのだった。
相変わらず船長は黙ったままだったが、それにしても、なぜ私達を、こんな普通に人を入れちゃいけないような場所に案内してくれたのだろう?特別ルルドも、それについては何も言ってくれなかった。私たちは、招かざる客ではなかったのだろうか。
そうこうしているうち、ズゴォーン……!! と、ものすごい轟音が列車の外で響いた。その大きな音と強い衝撃に、ルカとティオは思わず悲鳴をあげて、倒れそうになりながら周辺に掴まった。「スズメバチだ」その船長の言葉に、冗談なの?とルカは咄嗟に思ったが、決してそうではなかった。それでも船長は、どこまでも落ち着き払って微動だにしない。あたりに立ち込める硝煙の匂い。あの嵐の夜以上に尋常でない不安を抱えたまま、二人はただ震えながら抱き合っていた。
「スズメバチは君たちの地上世界から来た、ギャングみたいな連中さ」
そう平然と告げるルルドも、さほど緊張しているようには見えない。その様子は、もう慣れっこで、まるで特別驚くようなことでもないと言わんばかり。なんだ……招かざる客って、私たちのことじゃなかったみたい。ルルドに説明されて、ルカはやっと、そう納得するのが精一杯だった。
“スズメバチ”の尋常でない攻撃に、思わず震えあがったルカとティオ。それでもヴィンダリア号の装甲は、そんなものに動じないくらい厚いのだということを、同時に二人は身をもって知るのだった。まるで毎度のことのように涼しいカオをしてルルドが言った。
「機関車は勿論のこと、客席の車両には、水圧にも十分耐えられる、無限強化シールドが張ってあるからね」水圧?ルルドの説明から察するに、この地底界アガルタは、どうやら目に見えない水の中にあるらしかった。
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