Ⅱ. 蒸気船の出会い

「ルカ、ひとつだけ、あんたに言ってなかったことがあるの」


 翌朝、母は一言だけ付け加えてルカに言った。女王蜂の姫は、父さんの昔の許嫁いいなずけだったって……。そのシャルロッテという人と、シャルにどういう関わりがあるのかは解らない、でも。母は少しだけ考え、そして言った。


「母さんは、シャルにも、そしてその父さんの許嫁だったっていう女王蜂の姫にも、とても恩義を感じてる。そのシャルロッテという姫が誰なのかは、解らないけれど。でも、シャルがいなかったら、母さんも、そして父さんも……」


 少しだけ昔を思い出すように、母はそっと沈黙した。15年前、父さんがこの街にやってきて、何かが変わった。それは母自身かもしれなかったし、見た目は皆と何ら変わらない黄色人種の日本人だけれど、どこか普通とは違っている、風変わりな所のある父のその、まるで太陽のように明るい性格に触れた人々は、皆が皆、口を揃えて言った。『あんたには、かなわないな』と――。


 勿論、シャルがその父の許嫁のシャルロッテという女性ひとである訳がない。第一シャルはまだ年端も行かぬ、小さな女の子。でも……。


「不思議なんだよ。シャルの行くところ、どこにでも花が咲いて。そしてそのそばには、必ず父さんがいた……」


 花はいつでも皆の心をなごませる。だからか、いつからか母の家は、パン屋と併設された、小さな花屋を営むようにもなった。父がいなくなるまでの、ほんの2年間だけだったけど。そしてその2年後、ルカが生まれ、父がどれほど試行錯誤しても、ずっと咲かなかった、幻の青い花、ブルー・エトランゼが花開いた。


 もしかしたら父は、シャルと、そしてそのシャルロッテという、女王蜂の姫を探すため、旅に出たのかもしれない。勿論、父さんが誰なのか、一体どこから来た人なのか、未だその詳細は解らない。そしてどうして今、こうやって私たち母娘おやこに手紙を送ってきたのかも……。ただ一つの手がかりは、同封されたこの、ペンダントのロケットの中に入っていた、幾つかの、その花の種だけ。


           * * * 


 ぼんやりと狐につままれたような顔をしたまま、ルカは叔父の診療所へと続く、坂道の野原を登った。下校後、叔父に父のこの手紙を見せるため、やって来たけれど。金曜日の昼の3時だというのに、ガラス越しに見えた診療所の待合室には、患者の姿はなく、部屋はもぬけの殻だった。ふと見ると、『午後は臨時休業』という札が扉にかかっている。


 表玄関には鍵がかかっていたので、いつものように裏口へとまわる。扉をあけると、消毒用ではない、いかにも酒臭いアルコール臭がして、思わず鼻を手でつまんだ。父さんのことで宏武叔父さんに相談に来たのに、どうしよう。ルカはほんの少し逡巡しながら周囲を伺ったが、宏武叔父の姿はない。


 するとカーテンの向こうの来客用の部屋から、グーグーといびきが聞こえてきて、ルカはそっと部屋を覗いた。案の定、叔父が真昼間から、酒瓶とグラスを前にテーブルに突っ伏している。声をかけようかどうしようか迷っていると、叔父の手元にあった空のグラスに、その腕が当たって、転がったグラスは床に落ち、そのままチャリン!と派手な音を立てて無残にも割れてしまった。


「……んーー、まだ昼かぁ。あ、ヤベェ」


 その音に目を覚まし、床に落ちて割れたグラスを片付けようと身を起こすと、目の前に突っ立っているルカに気づく。ん?おうルカか。わりぃな、今片づけっから。と、立ち上がった宏武叔父だったが、まだ酔いが回っていたのか、その拍子に、ふらふらとそのまま椅子に倒れ込んでしまった。


「あ、片づけなら私がやるから!叔父さんは寝てていいよ」


 と、未だ寝ぼけ眼のままの叔父に言ってコップ一杯の水を汲むため、ルカはキッチンに向かった。そのまま床に散乱したガラスの破片を箒と塵取で片づけ終わると、水を飲んで一息ついた叔父にルカは肝心の手紙を差し出した。


「そうか……高志の野郎、あいつ」


 一通り手紙を読み終わると、宏武叔父は大きくため息をついた。その表情から読み取れるのは、ルカ母子おやこ以上に、どこかで父と深く何かを共有して繋がっていたのかもしれなかった、叔父だけに解る何かかもしれなかった。そんな半ば真剣そうな、深く何か考え込んでいるような叔父の顔を見るのは、そんなにはない事だっただけに、ルカも同様にその場で押し黙った。


「で、お前、やっぱり行くのか?」

 

 宏武叔父にそう問われ、ほんの少し長い沈黙のあと、ルカはこくりと頷いた。


「蒸気船に乗れば……、どこに行けばいいのかは解らないけれど」


 そのあまりに漠然とした答えに、ルカ自身も戸惑ってしまう。それでももう、ルカの心は決まっていた。それとどういう訳か、明日ルカ自身が招待されている、ケペレル社の新型蒸気船クイーン・リズ号のお披露目パーティーのことが、ふと頭の片隅によぎった。急遽、明日出発する訳でも、特別それに乗って行くという訳でも勿論なかったのに。


「母さんには、勿論言ってあるんだな?」「うん……。」


 わかった。ルカ自身の決心が固いことを知り、叔父はそう言って頷いた。学校には、留学するとかでも何とでも、俺がそれとなく言って断っておいてやる。あと当面の旅費は、俺の口座から幾らでも使っていいから、と、そんなにある訳もないだろうに、その叔父の思わぬ大盤振る舞いに、ルカは返す言葉もなかった。が、


「高志はな、ルカ。」叔父はそう切り出して、真剣な表情でルカを見た。


「俺たちの知らない遠い場所から来たんだよ。だから、あいつを見つけるのは、容易なことじゃないかもしれない。それでも行くのか……?」


 叔父のその言葉に、尋常でない決心を迫られるような気がして、ルカは一瞬黙ってしまった。けれど、それでも自分は行かなければならない気がして唇をキュッと結んだ。そう、父さんを見つけるのは、私の役目。だって父さんは……。


 まだ見ぬ旅の空で、にっこりと笑う、その青空のような、まぶしい笑顔がルカを呼んでいるような気がした。


            * * * 


 翌日は快晴だった。昼過ぎに下校すると、そのまま土曜日の雑踏をすり抜け、ルカは港へと向かう路面電車に乗った。座席に座り、鞄にそっと忍ばせた問題の招待状を、もう一度取り出し手に取って眺めてみる。すると、あのケペレル社の若社長の顔が頭に浮かび、心なしか、妙な胸騒ぎがして、ルカは思わず招待状を鞄の上に伏せた。でも。


 蒸気船――あの夢にまで見た、蒸気船に乗れる。今まで丘の上から港を眺める以外に、ルカは勿論、港の近くで蒸気船を見る機会も、ましてやそれに乗るようなことも、これまで一度たりともなかった。勿論、それに乗って一足飛びに旅になど出る訳じゃない。行く時はもう一度俺に言ってくれ。叔父さんは、ああ言ってくれたけど。旅費って一体幾らかかるの?そういった目の前の現実として、自分に伸し掛ってくる何もかもに、ただルカの心は押し潰されるだけだった。


 港が見えてくると、ふんわりと吹いてくる潮風に鼻腔をくすぐられ、思わずルカは青い空を仰いだ。カモメが鳴きながら飛び交い、遠くの水平線が午後の日差しにキラキラと輝いている。そしてどこまでも広がる青い海。その濃い濃淡の広がる袂、港の一角に、巨大な鉄の塊そのもののような、その大きな船がどっしりと横付けていた。


 蒸気船クイーン・リズ号は、ケペレル社が社をかけて建造したという新型の豪華客船だ。けれどその割に、あまり世間には、その就航がいつなのかといった時前情報は一切流されていなかった。それほど一部の富裕層などの限られた特権階級しか乗ることのできない船だったのだろうが、それにルカが招待されたということは。


 考えれば考えるほど、狐につままれるようなことばかりだったのだが、謎はそればかりではなかった。このクイーン・リズ号は、就航の日は愚か、その行く先すら未だ公表されていないのだ。勿論そんな蒸気船の話題は、先日のマーリン社の飛行船のイベントに比べたら、一般の話題にも上らないようなものだったかもしれない。そんな謎に満ちた蒸気船に、どうして私が。


 ルカは、再び不可思議な胸騒ぎを抱えながら、オズワルドからの招待状のチケットを手に乗船前の受付のテントに足を運んだ。こちらです、と、まるで高級ホテルのボーイのような佇まいの船員に促され、蒸気船のデッキを登る。すると、海を渡る潮風と潮の匂いが、さらに強く大きくルカを包み込んだ。


「あの……、私……」


 ほんの少し躊躇して、目の前をゆく乗組員に声をかける。「大丈夫です、オズワルド様は、のちほど」そう告げられ、席に着いて待っているよう促される。辺りに犇めく聞き慣れない上品な会話。いかにも豪華なドレスやスーツに身を包んだ上流階級のお金持ちの淑女や紳士たち。どう考えても自分は場違いな気がして一人オロオロしてしまう。どうしたらいいんだろう。


 父さん……。思わずお守り替わりに胸元に忍ばせた、ブルー・エトランゼの種の入ったペンダントをそっと握り締める。一人だけぽつんと指定された席に着くことすら、どことなく憚られるような気がして、デッキに立ったまま遠くルカを誘うような水平線を見つめていると、ルカは思わぬ人から声をかけられるのだった。


「こんにちは!君、ひとり?」


 振り返ると、そこには一人の眼鏡をかけた少年が立っていた。

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