第二章 旅立ち

Ⅰ. 父さんからの手紙

 『……最愛にして、親愛なる我が娘、ルカ。長らく家を留守にしていて、本当にすまない。母さんにも苦労をかけていて申し訳ないと思う。本来なら、こんな手紙を送れるはずもない。しかし――、』


 読み進めれば読み進めるほど、軽いめまいに襲われる。父さん、一体。手紙を手にした指先が少しだけ震える。確かにルカはずっと、母から父の失踪の理由を、これまで何一つ聞かされていなかった。でも、母さんは確かに何かを知っていた。それが理由に……。


「父さんはね、ルカ。あたしたちの知らない所へ行ったんだよ。そして、この花の種も、たぶん、そこから」


 半ば呆然としているルカに母が言った。15年前、父は、この花ブルー・エトランゼの種を持って、この内陸の地中海に囲まれた港街にやって来た。ある一人の小さな少女を連れて。そのとき記憶喪失だった父は、母の実家の名を貰って安藤高志と名乗った。ルカが生まれる前、そう母と出会い結ばれる、少し前の話だ。


 ルカは自分が生まれる前の話を、母から聞くのはこれが初めてだった。それでも父がどこからやって来たのか、父がブルー・エトランゼと名づけた、この花の種をどこから持ってきたのか、そしてその幼い少女が誰なのかも母はもちろん一切、そして父も知らないままだったという。当時、母と出会った父は、実家のパン工房で住み込みのパン職人たちの下宿宿もしていた母の家に仕事を手伝う傍ら、世話になることになった。名をシャルというその少女は結局、結婚した父と母に子供が生まれるまでの間、二人の養女となった。


 そして――ルカが生まれ、この花、ブルー・エトランゼが花開いた。園芸研究家や海外から種苗を買い付けるバイヤーとしての仕事の傍ら、父はその幻の青い花の栽培に没頭していた。そのあと養女だったシャルが突然、行方不明となり……父はそのあとを追うようにして、この花の種を持って家を出た。そして、それきり。そのとき、父の記憶が戻ったのかどうかは解らない。一体その少女シャルは誰なんだろう?そして父さんも。本当に父さんは、どこからやってきたの?母さんも、そのことについてずっと知らないまま――それでも。


「父さんは、きっと探すなと、そうあたしたちに言いたかったんだと思う」


 そう決して自分を探すな。忘れてくれ……。そこまでの思いで、きっと父さんは。一体何があったの。父さんは誰だったの。でも――。この手紙を手にして読んだからには、ルカはこのまま黙ってすべてを見過ごすことは、できなかった。父は決して自分を追って来いとは、言っていないけれど。それでもルカはもう、自分は父を探しに行かなければならないのだと思っていた。



         * * *


『――シャルロッテは、女王蜂の姫だ。彼女に会えば、すべてが解る』


 ふぅ……母は、大きくため息をついた。何を言っているのか解らない。でもこのシャルロッテというのが、二人の養女として育てていた、父が連れてきた少女シャルのことを言っているのだと、容易に悟ることができた。けれど、肝心の父の居所が分からない。この手紙には、そのことが何一つ書かれていないからだ。


「母さん……」


 ルカはどこか不安げに母を見た。それでも母は気を取り直して、ルカに言った。その眼差しには、娘への強い信頼が宿っているのが分かった。


「ルカ、今のこの時点じゃ、父さんがどこに行ったのかも分からない。それでも、お前は父さんを探しに行きたいかい?」


 母は半ばルカの気持ちを知っているかのように、そのを見て微笑んだ。母さんは知っていた。知っていたんだ。私がずっと父さんを探しに行きたいと思っていたことを。でもまだその時が訪れなかった。けれど今、やっとルカの目の前にその瞬間が訪れたのだ。こうして今、手にしている、父さんからの手紙が決して疑わぬ、動かぬその証拠――。


「シャルはね、ルカ。お前にどこか似ていたかもしれない。まだ小さい女の子だったから、見も知らぬこの街に来て、気も小さくて言葉も話せなかったけれど。でも、父さんのことだけは、心から信頼してることがよく分かった。その父さんだって、ここに来る前の記憶がずっと戻らないままだったのに、不思議だね」


 父さんを探し出すには、まずそのシャルと出会うこと。ルカの生まれる前、もう15年も以前のことだから、シャルはとっくに成人していてもおかしくない。一体どうやって彼女を探せばいいのだろう。本来なら当たり前に逡巡する話だ。とても綺麗な長い銀髪をしていた、ということだけは、母から教えて貰ったシャルという少女の唯一の特徴だった。


 父が家を留守にして、もう6年。ルカだって成長していて、すぐには自分の娘だと父には分からないかもしれない。たった6年。けれど……それだけの時間が、当たり前に父と娘との距離を隔ててしまっているのかもしれなかった。シャルと同じように、ほんの小さな女の子だったルカも、少しばかり大きくなった。いいえ、もう私は大人よ。父さん一人探しに行くのをずっとここで怖がって躊躇してたら、きっと人に笑われる。ねぇ、母さん。


「そうか、そうだね。あんたはもう大人だね……」


 そう呟いた母の顔が、どことなく寂しげに見えたのが、ルカにとってのただひとつの心残りだった。それでももう、あとには引けない。奇しくも明後日あさっての土曜日は、飛行船のイベントで出逢った、ケペレル社のC.E.Oオズワルドがルカを招待した、蒸気船の船上でのパーティーのある日だった。


          * * *


 月はもう満月を過ぎて、次第に細くなり、いずれはその光を弱めていく。それでも漆黒の闇夜の訪れる新月を過ぎれば、再びまた光の満ちていく幸福感に包まれる。けれどオズワルドは、その月の光が一つの欺瞞であると、とっくの昔から気付いていた。まだ幼かったあどけない少年は、成長して大人になり、いつしか、この世界の秘密を知るのだった。そしてその欺瞞そのものの偽りの月の光を担うことこそが、己自身がここにいる一つの役割なのだと、自分とその父に対して物分かりのよい青年は悟るのだった。


「そう、大人になれば、誰だって厭でもわかる……」


 偽りのこの地上の繁栄、そして偽りのその動力を持ち込んだ人工の太陽。それがある世界全体の趨勢を担い、生命いのちの花の息吹を文字通り保っているなどと。それでも、たとえそれが偽りの循環だとしても、命そのものがそこに生き続けていられれば、何の問題もない。むしろその地上の限りある命を、永久とこしえに循環させ、無限に生きながらえるすべを、父は発明したのだ。


 母のことは、まだ覚えている。記憶の最後にまぶたに焼き付けられた、息絶え絶えで今にも死にそうな母の姿。幼いオズワルドは、神に祈ることも知らず、ただただ横たわる母の手を取って懸命に温めた。けれど母は――。


 執務室の窓外の闇夜を照らす月の光。そしてその窓に映る、自らのどこか冷笑を携えた眼鏡の奥の眼差し。その口元は歪み、心なしか震えすら含んで、今にも大笑いしそうになる自分自身をオズワルドは必死で抑えた。見つけた!私の聖天使エンジェル。彼女こそは、不浄と閉塞感に満ち満ちた、不毛なる黄泉の国である地下世界を、命あふれる本物の天上に昇華させる唯一の切り札……。


 が、本当はそんなことはどうでもよかった。まるで健気に咲いた一輪の花のような。……好き嫌い好き嫌い好き。胸元のポケットに大切に忍ばせていた、その花びらの最後の一枚を愛おしそうに眺め、再び内ポケットに戻すと、オズワルドはやってくる明後日を楽しみに待ちながら、一人ほくそ笑んだ。

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