Ⅳ. 飛行船とオズワルド
クラスメイトの友人たちに連れられるまま来てしまった。それほど飛行船に興味があるって訳でもなかったのに。ルカはちょっとだけ後悔した。今日は早く帰って母さんの家のパン屋の手伝いをしようと思っていた、なのに。今から家に戻って母の了解を得てからでは、飛行船の飛行開始時刻に間に合わないというだけの理由で、ルカは皆と一緒に発着場のあるイベント会場に路面電車で向かっていた。
電車と言っても無論、スチームで動き走る簡易列車だ。それがルカの港町はおろか、この国の主要な交通機関として機能していた。しかし、潮風のそよぐ坂道の港町を走る路面列車は、それだけで得も言われぬ風情があった。
「ねえルカ!見えてきたよ」
友人の一人、フミカが小高い丘に鎮座する巨大な飛行船を見て、歓声を上げた。すごい。街で配られていたチラシにも写真が載っていたけど、やはり実物は迫力が違う。皆、些か興奮気味に、電車の窓から身を乗り出すようにして、はしゃいだ。常日頃、丘から眺めている見慣れた蒸気船とは、また違った近未来的な趣があって、自ずと心奪われる。
「あれに乗れるのって、物凄いお金持ちなんでしょ?すごいよね」
ルカはともかく、カトリックの名門校の聖マリアンナ女学院に通う生徒である皆ですら、到底手の届かぬ大富豪らが、今回の処女航海の乗船権利を持つ主な客層であるのだと、新聞などの時前情報により周知されていた。しかも、このためにわざわざ外国から蒸気船に乗り、やってきた人たちばかりなのだ。
それはともかく……。もしあれに乗って天高く空を飛び越えたら、きっと蒸気船などに乗って海を行くよりももっと早く、父を探しに行けるんじゃないだろうか。そんな見果てぬ想像がルカの脳裏をふと、かすめた。でも、その妄想という名の想像が、本当にすぐには実現しない、ただの夢想以外の何ものでもないという虚しい現実を、ルカはまた知っているのだった。
所詮どこまでも自分は、この狭い港町から簡単に出ることがかなわない、そんなちっぽけな存在でしかない。その動かしようもない切ない現実が、再びルカの胸に去来した。そう思うと、心躍る楽しいはずの飛行船見学のイベントも、ただの空々しい遊びにしか思えなくなってくる。
そんなガランとした空っぽな思いを抱え、ふと皆や人波から外れて、ひとりルカは高台に設えられたデッキの隅っこで、無言で風に煽られていた。白いベレー帽から、ふわりと風にそよぐ栗色の髪。もしここから、父の残してくれた、この幸せな生活から、今すぐ抜け出せることができるなら。学校なんて行かなくたっていい。今朝方の叔父との会話を思い出し、ほとんど忘れかけてしまった、まだ見ぬ父の面影を思うと、ルカの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちて――。
「……お一人ですか?お嬢さん」
不意に近くに人が来ていたことにも気づかず、ルカは突然声をかけられ、ビクッと膠着する。振り返ると、飛行船に乗る金持ちの一人だろうか?きちんとした身なりの、オーダーメイドのスーツに身を包んだ背の高い若い男が、目の前に立っていた。それでも、その男の銀縁眼鏡の奥で光る瞳に、どことなく冷たいものを感じ、それとなくルカは後ずさった。
「今日は些か風が強い。予定通り、飛行できるかな」
そんな黙ったままのルカの様子に構わず、デッキに凭れ飛行船を眺めながら男は続けた。確かにそろそろもう飛行開始の定刻である。とすると、この男は乗船予定の客ではないのだろうか。風に吹かれ背を向けた男の背後でルカは思った。
あっ。次の瞬間、誤ってルカは木製のデッキに突き出た突起に足を取られ、危うくその場でふらっと転びそうになってしまった。「あぶないっ。大丈夫ですか?」すかさず男は駆け寄ってルカの手を取り助け起こそうとするも、驚いたルカは、飛び起きるように立ち上がり、そのままスカートの裾を押さえて、男の前から足早に立ち去るのだった。
まだ少しだけドキドキしてる。何だかちょっぴり怖かった。クラスメイトの友人たちを見つけ、再びその中に紛れて、ほんの少し安堵するルカだったが、まだ高鳴る胸の鼓動を押さえられずにいた。イベント会場内のテント内に設えられた、簡易カフェのテーブルのお茶の席に皆と一緒に収まってもどことなく落ち着かず、さっきの見知らぬ男のことを、我知らず思い出しているのだった。
すると、ルカの目の前のテーブルに、頼んでもいない豪華なフルーツパフェが運ばれてきて、えっと思わずルカは皆と一緒に面食らった。「あ、あの!こんなの頼んでませんけど……!」すると、あちらの方からです。すかさずメイドが示した方に目をやると、幾つか置かれている丸テーブルの一番端の椅子に腰掛け、こちらを見るでもなく涼しい顔で風に吹かれている、まだ歳若い細身の英国紳士が一人。
えええ、ちょっとルカどうしたの!? どこで知り合ったの!など、女生徒の皆が些か興奮する嬌声にテーブルが湧くものの、当のルカ本人は困惑するばかり。しかし、その上品なスイーツに添えられた一通の封筒を開けると、その中に入っていた豪華客船の蒸気船の乗船チケットに、さらに目を丸くするルカ。
『本日は
大型蒸気客船及び貿易船建造操業社ケペレル・インダストリー代表取締役
ヴィルヘルム・F・オズワルド
そう滑らかな筆致で記された美しいペン字に、ルカはさらに驚くばかりだった。
* * *
一体どういうことなんだろう。なんでそんな偉い人から。そういえば、いつだったか新聞で読んだことがある。ルカは常日頃、そんなに新聞に目を通すというほどでもなかったが、蒸気船に関する記事に、ある日ふと目が止まり。大英帝国のケペレル・インダストリー。その昔、学校の初等部で習った。大英帝国と言えば、この世界を実質リードしている先進国中の先進国、いやその名のとおり世界の中心軸とも言える大国であった。
そこに位置するケペレル社は文字通り、今、世界中を席巻している最新鋭の蒸気船の建造および操業を営む大会社だった。そのものすごい会社の社長さんが、なぜ。ルカは帰り道の道程、当然のように、ずっとそのことばかり考えていた。あまりに突然のことで、まだ頭がぼーっとしている。けれどその日、ルカを待ち構えていたのは、ただそれだけではなかった。
所在なげに帰宅したルカを待っていたのは、厳しい顔をした母と、不意に家に舞い込んだ一通のエアメールだった。
「遅かったね、ルカ」
ごめん!母さん。そう告げようとして、どこか深刻な表情の母に、決して自分の帰宅時間の門限が遅れたことが、その主たる原因ではないのだと、ルカは悟った。おもむろに無言で手渡された、封筒の宛名以外何も書かれていない一通のその手紙。示されるまま既に開封されていた封を開けると、中の手紙に記されていた内容と、その便箋の最後に書かれた送り主の名に、思わずルカは絶句する。
「父、さん……?」
先んじて既に中身を読んでいたのだろう。厳しい表情の母の顔が、そのことを物語っていた。それでも母は、この手紙をルカに隠すことも、来なかったことにすることもせず、そのまま手渡した。すべてはルカの意思に託す、ということなのだろう。ルカはその日、手元に舞い込んだ二通の手紙に、心ならずも思い悩むことになった。
そして……。その封筒に入っていたのは、手紙だけではなかった。
ブルー・エトランゼ。幻の青い花。そう、ルカが生まれたあの日、父が家のラボで、様々な試行錯誤の研究の末、花開かせたという、世界中で一箇所でしか咲かない、希少種のその花の種が同封されているのだった。
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