Ⅲ. 世界と日常
父さんをどこか遠くへ連れて行った蒸気船。毎朝、欠かさず港の見える高台の丘から眺めている、その鉄の塊のような、あの大きな客船に乗らなければ……。その汽笛の音は、ずっと父へと続く旅の道に
それが家に届いていることを知るまで、ルカはまだこの故郷の港町に、我知らず、心縛られていたのかもしれない。
「おはよう」
「おはよう!」
毎朝当たり前に目にする、この光景。何人もの女学生が、壮麗な教会の
学校の朝は、いつも教会でのお祈りから始まる。今朝も始業前のそのミサに参加するため、ルカは級友たちと一緒に、校内の一角にある教会の伽藍に集まった。独特の静けさの中シスターがやってくるまで、生徒たちのお喋りのヒソヒソ話が包み込む、教会内。ルカの母はクリスチャンだったので、自然ルカも、この学校に入って聖書を読み、賛美歌を歌う毎日だった。
でも、神様の存在については、それこそいるかどうかもわからない。そんなものに自分の将来を決められたくない、半ばそんな気持ちでいた。蒸気機関の発達した、この世界、今の時代は、人は飛行船に乗って空を飛ぶこともできたし、七つの海を蒸気船で行き交うこともできた。でもまだ、もっとすごいことができるような、そんな気さえしている。ただルカの送る、当たり前のこの日常が、それとは全く縁もゆかりもない、どこまでも穏やかな退屈に彩られていることとは別に。
「神の御心が、常に皆さんとともにありますよう。アーメン」
「アーメン」
聖書の一節をつまびきながらのシスターのお話が終わると、眼前に十字を切り、ルカは皆とともに手のひらを組んだ。そして祈った。そう、決して神様にではなく、自らの父さんの無事を祈って。そして今日は街の高台にて、大型飛行船の処女航海と、その新技術を祝う町の大きなイベントがあることを思い出した。ルカの学校でも、少し前からその話題でもちきりで、今日もそのイベントを見に行く予定をかねてから立てている、女生徒たちの心浮き立つ話で間が絶えなかった。
* * *
この世界は今、一つの産業革命としての蒸気機関の発達によって大きな発展を遂げていた。その内燃機関である蒸気を連続的に起こすことで巨大なタービンを回し、様々な動力を得る。空に浮くことも海をゆくことも、そして大地を縦横無尽に駆けることも――。海ひとつに限っても、大航海時代の帆船の時代は既に終わった。今、世界は確実に大きく躍進しつつある。けれどオズワルドにとって、まだ大きな不満足が、その心のすべてを占めているのだった。
「フン……、『最先端の飛行船上場企業マーリン、またしても市場を大きく独占か』……」
執務室の席で大きく広げ、ひとしきり眺めていた
「世の中には、こういうものもあるのだがな……」
オズワルドの指先が操るその石版は、思うままに画像を映し、次々と見たままの世の映像を、その小さな画面の中に映し出していく。無論こんな未来の技術は、まだこの世界の市場には登場していなかった。その石版が映し出していたのは、近く処女航海のイベントが大々的に、とある極東の島国の玄関港の街にて行われる、先端企業マーリン・エンタープライズのニュースであった。
2年ほど前、オズワルドは父の経営していた最先端の豪華客船や貿易船の建造開発や操業などを一手に引き受ける、この大英帝国の中枢の一つをなす蒸気船操業社であるケペレル社の
が、先頃、ライバル社である、飛行船の建造航海技術に着手し、新たに市場を独占しつつある、最先端事業を執り行うマーリン社が、実質的な豪華客船にも匹敵する、大型飛行船を空に飛ばすニュースが流れてきた。これによって今、世界の先端技術を司る、蒸気機関の意味するものがまた、新たなステージへと移行することは必定だった。
マーリンの若手社長には、以前とあるパーティーで会ったことがある。世界の市場経済を操り、その実質的支配を我が物にするのは、何もお前の専売特許ではないのだと。そういう目をしていた自分とよく似た若造を、オズワルドはそれでも鼻で笑った。よくも悪くも、所詮は地を這う野ねずみの一群でしかないのだと。
だから、そんなものはとうの昔に……。会議室での議論にて、何度、喉まで出かかった言葉を自ら飲み込んだことか。それはまだ公に表沙汰にしてはならぬこと。今では社の後見人を務める会長職にあたる創始者、父・ハイデンシークの言葉が今また、彼の脳裏に浮かび上がる。
『世界はまだその水準にまで到達していないのだ。功を焦るな。この地上界の成長を見守ることも、我々の役目――』
無論それは芯から理解してはいたのだが、やはりどうにも歯がゆい。
「人類とは、どこまでも下等な生き物だな。我らがヴィマナならば、――いや」
オズワルドの眼鏡の奥の瞳が、不意にキラリと光った。その瞳が映していたのは、どこの学校の制服姿だろうか?ふと目にした画面に映し出された、そのイベント会場に来ていた一群の生徒らの集団の片隅で所在なげに佇む、ベレー帽をかぶった、ある一人の少女の姿。
英国からその極東の島国までは、およそ数時間の距離があったが、それでも彼の下僕の操るヴィマナならば。おもむろに傍らの上着を手に取ると、それを羽織り、オズワルドは、無言で執務室の部屋をあとにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます