Ⅲ. 世界と日常

 宏武ヒロム叔父と別れてから、学校へ向かうまでの道すがら、ルカはずっと先程の診療所での叔父とのやり取りについて考えていた。そして診療所の前で出会った、見知らぬ老婆の言葉。「汽車へお乗り」「アガルタの大地と空」……一体なんのことだろう。帰り際、その老婆の姿は、もうそこにはなかった。汽車?まずは蒸気船だよね。この島国の港町から抜け出し旅立つには、その蒸気船に乗らなければ、どこへも行けなかった。


 父さんをどこか遠くへ連れて行った蒸気船。毎朝、欠かさず港の見える高台の丘から眺めている、その鉄の塊のような、あの大きな客船に乗らなければ……。その汽笛の音は、ずっと父へと続く旅の道にいざなう一つの合図のように、ルカの心を占め続けていた。その合図であるホイッスルに、もう何度、心を促されたかわからない。それでも、まだ動けずにいたルカの心を後押しすることになる、ある一通の手紙。


 それが家に届いていることを知るまで、ルカはまだこの故郷の港町に、我知らず、心縛られていたのかもしれない。


「おはよう」

「おはよう!」


 毎朝当たり前に目にする、この光景。何人もの女学生が、壮麗な教会の伽藍がらんを擁する、学校の校内に飲み込まれていく。ルカの通う聖マリアンナ女学院は、この港町でも名門の女学校であるミッションスクールだった。だから、本当は町の小さなパン屋を営む母の稼ぎでは、月々の学費も馬鹿にならないくらいなのに、父の残してくれた僅かな財産によって、ルカはこうしてこの学校に通っていた。


 学校の朝は、いつも教会でのお祈りから始まる。今朝も始業前のそのミサに参加するため、ルカは級友たちと一緒に、校内の一角にある教会の伽藍に集まった。独特の静けさの中シスターがやってくるまで、生徒たちのお喋りのヒソヒソ話が包み込む、教会内。ルカの母はクリスチャンだったので、自然ルカも、この学校に入って聖書を読み、賛美歌を歌う毎日だった。


 でも、神様の存在については、それこそいるかどうかもわからない。そんなものに自分の将来を決められたくない、半ばそんな気持ちでいた。蒸気機関の発達した、この世界、今の時代は、人は飛行船に乗って空を飛ぶこともできたし、七つの海を蒸気船で行き交うこともできた。でもまだ、もっとすごいことができるような、そんな気さえしている。ただルカの送る、当たり前のこの日常が、それとは全く縁もゆかりもない、どこまでも穏やかな退屈に彩られていることとは別に。


「神の御心が、常に皆さんとともにありますよう。アーメン」

「アーメン」


 聖書の一節をつまびきながらのシスターのお話が終わると、眼前に十字を切り、ルカは皆とともに手のひらを組んだ。そして祈った。そう、決して神様にではなく、自らの父さんの無事を祈って。そして今日は街の高台にて、大型飛行船の処女航海と、その新技術を祝う町の大きなイベントがあることを思い出した。ルカの学校でも、少し前からその話題でもちきりで、今日もそのイベントを見に行く予定をかねてから立てている、女生徒たちの心浮き立つ話で間が絶えなかった。


            * * *


 この世界は今、一つの産業革命としての蒸気機関の発達によって大きな発展を遂げていた。その内燃機関である蒸気を連続的に起こすことで巨大なタービンを回し、様々な動力を得る。空に浮くことも海をゆくことも、そして大地を縦横無尽に駆けることも――。海ひとつに限っても、大航海時代の帆船の時代は既に終わった。今、世界は確実に大きく躍進しつつある。けれどオズワルドにとって、まだ大きな不満足が、その心のすべてを占めているのだった。


「フン……、『最先端の飛行船上場企業マーリン、またしても市場を大きく独占か』……」


 執務室の席で大きく広げ、ひとしきり眺めていた新聞ニューズペーパーを、舌打ちとともに無造作にテーブルに投げると、手元にあった石版のような板を手に取り、指先でその不思議な板面を魔法のように器用に操る。その画面に無数の言語とともに、幻のように浮かび上がる像が、次第に克明なものへと変わっていく。


「世の中には、こういうものもあるのだがな……」


 オズワルドの指先が操るその石版は、思うままに画像を映し、次々と見たままの世の映像を、その小さな画面の中に映し出していく。無論こんな未来の技術は、まだこの世界の市場には登場していなかった。その石版が映し出していたのは、近く処女航海のイベントが大々的に、とある極東の島国の玄関港の街にて行われる、先端企業マーリン・エンタープライズのニュースであった。


 2年ほど前、オズワルドは父の経営していた最先端の豪華客船や貿易船の建造開発や操業などを一手に引き受ける、この大英帝国の中枢の一つをなす蒸気船操業社であるケペレル社の最高責任者CEOに就任した。そのやり手の若社長の手腕は次々と市場を動かし、世界の大陸間を縦横無尽に往き交う大型蒸気船の技術で、7つの海の面積を急激に狭めてしまったと言わしめたほど。


 が、先頃、ライバル社である、飛行船の建造航海技術に着手し、新たに市場を独占しつつある、最先端事業を執り行うマーリン社が、実質的な豪華客船にも匹敵する、大型飛行船を空に飛ばすニュースが流れてきた。これによって今、世界の先端技術を司る、蒸気機関の意味するものがまた、新たなステージへと移行することは必定だった。


 マーリンの若手社長には、以前とあるパーティーで会ったことがある。世界の市場経済を操り、その実質的支配を我が物にするのは、何もお前の専売特許ではないのだと。そういう目をしていた自分とよく似た若造を、オズワルドはそれでも鼻で笑った。よくも悪くも、所詮は地を這う野ねずみの一群でしかないのだと。


 だから、そんなものはとうの昔に……。会議室での議論にて、何度、喉まで出かかった言葉を自ら飲み込んだことか。それはまだ公に表沙汰にしてはならぬこと。今では社の後見人を務める会長職にあたる創始者、父・ハイデンシークの言葉が今また、彼の脳裏に浮かび上がる。


『世界はまだその水準にまで到達していないのだ。功を焦るな。この地上界の成長を見守ることも、我々の役目――』


 無論それは芯から理解してはいたのだが、やはりどうにも歯がゆい。


「人類とは、どこまでも下等な生き物だな。我らがヴィマナならば、――いや」


 オズワルドの眼鏡の奥の瞳が、不意にキラリと光った。その瞳が映していたのは、どこの学校の制服姿だろうか?ふと目にした画面に映し出された、そのイベント会場に来ていた一群の生徒らの集団の片隅で所在なげに佇む、ベレー帽をかぶった、ある一人の少女の姿。


 英国からその極東の島国までは、およそ数時間の距離があったが、それでも彼の下僕の操るヴィマナならば。おもむろに傍らの上着を手に取ると、それを羽織り、オズワルドは、無言で執務室の部屋をあとにした。

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