Ⅱ. ルカの叔父さん

 街外れの小さな診療所で開業医の町医者をしている、ルカの叔父。つまり母・安藤有梨彩アリサの兄さん、安藤宏武ヒロム。普段から酷い酔っ払いの飲んべえで、見るからに藪医者のようだが腕は確かだ。この界隈の近所のお年寄りなどは勿論、どこから噂を聞いて来るのか、街中いたるところから、やってくる患者は絶えなかった。父がいなくなってから、ルカとその母・有梨彩は、この叔父・宏武のツテで様々な生活の補助などをして貰っていたが、時折こうして焼きたてのパンと一瓶のワインを届けるくらいのことしか、お礼として出来ることは他になかった。


 ルカはこの叔父さんがちょっと苦手だった。それでも母同様、他に頼れる身内は誰もおらず、街の片隅で小さなパン屋を営む母もルカ自身も、目に見える形での身内のつながりを求めるように、些かぶっきらぼうな物言いで度々四方に誤解を生む、この叔父・宏武と折に触れ、よくも悪くも関わる日々であった。


 そう――この叔父さんは、行方知れずの父さんと同じくらいによくわからない。でも決して悪い人ではないことは確かだ。でなければ、私たち親子に足りない分の金銭的援助などしてくれるはずがない。私が学校に通うのだって、母がまかなう家の稼ぎだけでは到底やっていけなかった。頼れる人、か……。叔父さんは、かつてルカの父さんとも、話の合う仲のよい間柄だったという。でも、宏武叔父さんは、父さんの話をしてくれたことは、ただの一度もない。聞きたいけど、ちょっと怖い。なぜ?父さんと叔父さんが、本当に共有していたものの正体を知るのが怖いから……? 何となくだけど、そう感じる。だから、いつも訊かれること以外は黙っていた。ルカは今日も、その叔父さんの営む、町外れの診療所の門をくぐった。


 こんな朝早くだ。誰一人来ている患者さんはいないはず。が、まだ診察時間外なのにも関わらず、玄関脇のベンチに、ある一人の老婆が、まるでボロきれのような出で立ちで目深に黒いマントのフードを被り、杖を付きながら頼りなく腰掛けていた。おはようございます、と言いかけて、ふと目をやった相手がこくりこくりと船を漕いでいるのを知り、ルカはそのまま口を噤んだ。そしてその脇を通り玄関先の呼び鈴を鳴らそうとした、そのとき。


「お嬢さん……」


 その老婆に呼び止められ、振り向くと、そのままの姿勢で老婆は続けた。


「お嬢さん……、」


 まるで寝言でも言っているかのように、けれど確かにルカの耳に届いた、しわがれたその声。「はい?」返事をすると、老婆は目を瞑ったまま言葉を継いだ。


「……名前を訊いてもいいかい?」


 そう問われ、ほんの少し躊躇してから、「ルカと、言います。安藤、瑠花」と、恐る恐る返した。「ルカ……。」少しだけ何かものを考えるように押し黙ってから、老婆は再び口を開いて言った。


「アガルタの光宿る、大地と空」


 そして不意にゆっくりと杖を付きながら、腰掛けていたベンチから立ち上がると、再び言った。「明日、往くべき場所ところから便りがあろうて、その刻限ときを、逃してはならん――」え……? ルカは、あらためて不思議なものを見るように、目しいた老婆を見やった。


「汽車へ、お乗り」


 すると老婆は振り返り、にっこり笑った。目を閉じたまま、少しだけニッと歯を見せて笑う、その老婆の顔の口元が、やけに強く印象に残り、慌ててルカは踵を返すと、呼び鈴を鳴らそうと、再び診療所の玄関口に向かった。


            * * * 


 いつも通り、この時間の診療所の診察室は、もぬけの殻だった。すすけた埃が窓から差し込む朝の光に踊っている。少しだけ漂うアルコールの匂い。昨晩、叔父さんの飲んだお酒の匂いなのか、それとも消毒用のアルコールの匂いなのか、どちらかわからないけれど、やはりちょっとだけ緊張する。


 まだ寝てるのかな?呼び鈴を鳴らしても返事がなかったので、裏口から入って勝手にドアを開けて中に入った。いつも裏口は鍵がかかっておらず開いていて、一応玄関先で呼び鈴を鳴らしてみるものの常に応答がないので、いつでもルカはこちら側に回り中に入ることが多かった。


「おはよう、ございまーす」


 ちょっとばかり声を潜めて挨拶してみる。やはり返事がない。「おはよう、ございます……!」今度は少しだけ大きな声を出してみた。すると、奥の部屋からガタタッと物音がして、素足に草履を引っ掛け、見るからに寝起きらしい叔父が、常日頃の無精ひげもそのままに、恨めしそうな寝ぼけ眼をして、ぶら下がっているカーテンをくぐり顔を出した。


「ルカ。お前、学校は?」

「今からです」


 なんだ、まだこんな時間か。壁にかかっている時計を見やり、宏武叔父は、ボサボサの頭を掻きながら、再び恨めしそうな眼をルカに向けた。そしてルカの差し出すパンとワインの入ったバスケットの小籠を受け取ると、ごちゃごちゃと物が置かれたままの診察台の上に無造作に置き、ふと思い出したようにタバコに火をつけた。


 うーん、大丈夫なのかな。周囲に漂うアルコール臭に再びほんの少しだけ顔をしかめながら思ったが、そういうことはあまりというか、ほとんど気にしない叔父だった。ふうと叔父の吐き出す息とともに、タバコの煙と匂いが部屋に充満する。父さんは元々吸わない人だったそうだけど、家には母しかおらず、学校の担任教師も女性なので、この叔父の診療所に来て、やっとそれなりに年上の中年男性の気配というものを身近に感じることに。


 黙ったまま、その叔父の仕草を眺めながら突っ立っていると、ちょっと考えるようにしてから、その沈黙のさなか、不意に叔父が尋ねた。


「お前の父さん、まだ戻ってこないのか?」


 叔父にしては珍しい言葉に、ほんの少し驚いてから、はいと返事する。確かに叔父にはずっと世話になりっぱなしで、ルカたち親子が多少肩身の狭い思いをしていないといえば、嘘だった。それでも妹の家族への単なる身内意識とか優しさとは、また別の違った理屈で、この叔父はルカたち安藤親子と、こうして関わっているらしかった。だから余計、どうしたのかなと勘ぐってしまう。


 実際、父についての突っ込んだ会話はほとんどなく、母さんでさえ普段その話はしないようにしていたので、この叔父の反応に少しばかり驚いてしまう。そしてほとんど常日頃から、この叔父とは会話らしい会話もせず、届け物を渡したら、すぐさま帰ってしまうルカだったのだが、この日は少しばかり勝手が違った。


「私、父さんを探しに行きたいと思っていて……でも今、その方法がみつからないんです」


 やめとけ、とも言わず、そして馬鹿にして笑うでもなく、叔父は言った。「お前は、あいつに似て頭がいいからな。どうせ学校なんか行かなくても、どうにでもなると思ってるんだろ?」その叔父の言葉に、虚を突かれてルカは息を飲み、黙った。そう、そうなのだ。学校なんか行かなくたっていい。今すぐにでも、父を探しに行きたい。心の底ではずっとそう思っていたのに。何かが今までルカの心と体を、この場所に引き止めていた。


 やっぱり母さん?母さんを一人にして家においていけない。それも違う。宏武叔父との会話は、ルカのその心の隙をついて、さりげなく本心を引き出したのかもしれない。

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