ブルー・エトランゼ Blue Etranger

みなもと瑠華@ミナモトルカ

第一章 父さんの青い花

Ⅰ. 安藤ルカ

 

 ――自らの裡に内なる太陽を求めよ。

 さすれば、すべてのねがいは叶えられ、すべての業も与えられん。



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 世の中には手に取れるようで、まったく手に取れないものがある……。いつものように朝露に濡れた葉の生い茂ったツタの絡まる小薔薇のトンネルを抜け、少しガタの来ている庭先の扉を開けて、初夏の朝霧にかすむ夜明けの石畳の参道を、焼きたてのパンとワインの入った小籠を抱えながら登る。今年13歳になったばかりの少女ルカは、それだけで不思議と心が踊った。


 そう、私にとってまったく手に取れないもの。まだ小さい頃に別れて音信不通となった、私の父さん。父さんは園芸研究家で、様々な花や植物の苗や種を外国から買い付けるバイヤーの仕事をしていた。だから、いつでも家を空けることは日常茶飯事だったろうし、きっと私が生まれる前からそうだったのだろうけど。


 ブオォーー。今朝もまた。あの汽笛の音を何度、心待ちにして聴いただろう。それは多分そんなにある訳ではない私の父さんの記憶へとつながる、そしてきっと父さん自身の行方へと続いてる、どこか心懐かしい音。あの港から毎日出ては入ってくる蒸気船に乗って父さんは。一体どこへ行くんだろう、そしてどこから帰ってくるんだろう。


「おはようルカ!」

「おはよう」


 石畳の坂道の参道を、小さなパン屋を営んでいる母の手伝いで少しパン粉にまみれたエプロンとスカートを気にしながら進むと、街の角の宿屋の年配のサマンサおばさんに声をかけられ、ルカはすかさず挨拶した。


「今日も早いね、また母さんの手伝いかい?」

「うん。今朝は頼まれてる届け物があるの」


 と、脇に抱えたパンとワインの入った小籠に目をやる。本格的な配達とかはまだ無理だけど、私にもこのくらいは。父と別れてから女手ひとつで娘の自分を育ててくれた気丈な母のことを思う。ちょっと天然だけどあたたかい、その柔らかな手のひらそのもののような私の母さん。それは幼い頃からずっと私を優しく包んでくれてた、私の故郷である、この港町の風景と重なる。父さんのいない日常。その無意識の日常を潤してくれてた、その当たり前のことを今更のように感謝。おばさんと別れ、ルカはさらに町外れの小高い丘へ登る分かれ道へと歩を進めた。


 この極東の島国でも、地中海に囲まれたここは比較的穏やかな温暖な気候で、この街の貿易港を拠点に静かに栄えていた。どこか異国情緒漂う、石畳の街角。港では外国船が常に行き交い、そのためか外国人も大勢住まう。教会の鐘の音。外国風の墓地。そして聖書。その教会付属の学校に通うルカの鞄の中には、常にそれが入っていた。名前は安藤瑠花。他に何もないけれど、この心懐かしい港町でルカは育った。


 季節はもう5月。新緑の葉がそよぐ木立の小さな林を抜け、朝焼けの空を飛び交うカモメの鳴き声を追って丘へと登る。ボォォー、また港から聞こえくる汽笛がルカを誘う。父さん……。いつだってそれは私をまだ見ぬ父へといざなう、どこか不思議に心躍る、心懐かしい合図なんだ。ルカ自身の中にある、幼い頃の父さんの記憶は酷く曖昧で、それがかえって様々な想像をかきたてた。


 家のパン屋で母さんの手伝いをしていても、学校で授業を受けていても、常にどこか上の空で、心はいつでも父さんが向かった、まだ見ぬ旅の空の下。きっとそれは見たことも聞いたこともない、不思議などこかへと続いているんだ。どうしてか、ルカにはそう思えた。決して寂しくはないけど、それでもどうしようもなく恋しくて。一人っ子のルカにとって父さんは、やはりなくてはならない存在だった。


 いつものように丘へ登って定位置の草むらに腰掛け、見下ろす。まだ朝も早いのに、港では今日もまた様々な船が行き交う。まるで鉄の塊のような蒸気船が、汽笛の音と共に煙を吐き出しては、せわしなく港を出て行く。きっとあれに乗っていけば、父さんに会いに行けるのかな?今日もぼんやりとそう思う。私が大人になったら、父さんを探しに行けるのだろうか。今はまだ無理。それでも……。


 どうして父は私と母を置いて、突然いなくなってしまったのだろう。どうして母さんは、父さんのことを、あまり何も言わないのだろう。どうしたら、父さんを探しに行けるのだろう。そんなとりとめのない思いが胸を行き交い、ルカは頬杖をつく。何かの予感に不思議と心ざわつく。そう、それは。


 ……小さい頃に、園芸研究家である父の書斎で見た、不思議な青い花の写真。ルカ、これはブルー・エトランゼと言ってね、世界中である一箇所でしか咲かない、とても珍しい花なんだ。ぶりゅ、う?まだ幼いルカには、まるでそれは呪文の言葉のように思えた。朝露に濡れて、美しく半透明の虹色に輝くその幻の青い花は、ルカが生まれた日に父の書斎の温室で花開いたのだそうだ。


 そう、世界中で、ある場所でしか咲かないその幻の花を、何年も何年もかけてやっと手元のラボで咲かせた父。その花の美しい青い花びらに見とれて身動き一つ出来なかった幼いあの日。その不思議な花の記憶と父の記憶が、どこかきっとないまぜになり、こうしてずっとルカの心を占め続けていた。父さんが名づけたという、その花ブルー・エトランゼは、きっと父そのものだ。まだ小さい頃だったから、顔もよく覚えていない。だから。


 父さんは、見知らぬ旅人。私の、ブルー・エトランゼ。

 

 ぼんやりとした不思議な回想から、ようやっと立ち上がり、ルカは丘をあとにして届け物の先の、叔父が開業医を営む、小さな診療所へと向かった。そのあとは学校。今日もまた、とりとめのない、でもルカにとって新しい一日が始まる。けれどルカは、その当たり前の日常の中で、父さんの足跡へと続く不可思議な旅の欠片をそこここの場面で見出すことになるなんて、まだ想像することすらなかった。

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