4-9
「ティーカップ・ゴースト」という喫茶店を知っているだろうか?
とある郊外の住宅街の、そのまた片隅にあるささやかなカフェだ。
さる初秋の
「ゆうくん、きょろきょろして店内の様子をうかがわないの。今日はお客さんとして来てるんだから」
「それは分かっているのですが……」
しかし、落ち着かないものだ。
今日、ぼくは綾乃先輩と一緒に、このティーカップ・ゴーストを訪れていた。あくまでも客としてだ。しかし、店内はほぼ満席に近く、ぼくは立ち上がってオーダーを取りに行きたい衝動を胸の中に抑え込んだ。
「うぎゃーっ」
キッチンの方から華ちゃんの声と謎の爆発音が聞こえてきた。これで既に本日三回目となる。ついさっきも、華ちゃんはホールのど真ん中で転びかけていた。原因は、きっと生垣さんが来店していて緊張しているからだろう。とうの生垣さんは言えば、窓際にほど近い席で、落ち着いた様子で読書を楽しんでいた。先ほど挨拶をしに行ったが、彼女が読んでいたのは、谷崎潤一郎の『卍』だった。
「もう、いつまでよそ見をしているのさ」
そう言われてようやく、ぼくは視線を前に戻した。わずかに頬を膨らませた綾乃先輩がいた。彼女にしては珍しい表情だった。
四人掛けのテーブル席に、ぼくたち二人は向かい合って座っている。店長特製の自家焙煎珈琲がやって来るのを待っている。
九月。
学校が始まり、ぼくたちは日常を取り戻していた。
阿久津は転校した。詳しくは知らないし、誰かに訊ねることもしなかった。
図書委員の後藤先輩は、今も失踪中だ。結局、ぼくはあの山小屋の最奥に鎮座した壊れた大型冷蔵庫を開けることをしなかった。あの場には、久遠もいたからだ。この世界には、ぼくたちが知らなくてよいことが多すぎると思う。
それからもう一つ、ぼくは自分の勘違いに気が付いた。
「綾乃先輩」
「うん?」
「ぼくたちが夜の小学校で初めて出逢った時に、先輩は飼育小屋の中で兎を抱いていたじゃないですか」
「そうだっけ?」
「そうですよ……」ぼくにとっては極めて重要な、人生のひとかけらが、先輩の中では路傍の石程度に取るに取らない記憶であることを感じ取り、ぼくは少なからずショックを受けていた。「あの兎って、もしかして先輩が手をかけたのではなく……」
「ああ、わたしが来た時には、既にああされてたよ。さすがにあの時は、先を越されたと思ったよね。あれもきっと、阿久津ちゃんがやっていたのかなあ」
「やっぱりそうですか、はあ……」
あの兎の目を潰したのは、先輩ではなかった。
あの夜、先輩は既に殺された兎を抱き上げていただけなのだ。
「なに、ため息ついてるのさ」
「いや、自分の愚かさに嫌気が刺してきたんですよ……」
「ふうん、そうなの? でもゆうくん、よくそんな細かいことを覚えてるね。わたし、あの夜のことで覚えてるのは一つしかないよ」
「それっていったいどういう……」
ぼくの背後で、入口のドアチャイムがからんからんと鳴った。ぼくは反射的に「いらっしゃいませっ!」と声を張り上げそうになり、慌てて口を押さえた。今日は、珍しく綾乃先輩がティーカップ・ゴーストに行きたがったから来たものの、やはりバイト先でのデートはいろいろと無理があるのではないかという気がしてきた。
「いらっしゃいませえっ!」
華ちゃんが、ぱたぱたと足音を立てながら、来店したお客さんの下へ走る。
「何名さまですかぁ?」
「一人です」
この、鈴の音のような涼しげな声は、まさか――
「ああっお客さまっ、申し訳ございません。あいにくただいま満席でして、相席でもよろしければ……」
華ちゃんが対応する声が背後から聞こえてくる。ぼくは若干の疑問を覚えた。店内奥の方に、帰り支度をしているお客さんが一人見える。来店者に少し待ってもらえば、わざわざ相席にする必要はなくなるはずだ。何しろここはカフェだ。長居をする前提の店なので、店長からも、できれば相席は避けるように言われていた。
「構いません」
凛、とした声が返ってきた。
「ありがとうございます。それでは……」
二つの足音は、だんだんと近づいて来て、ぼくたちのテーブルの前で止まる。
華ちゃんが、ぼくたちに頭を下げながら、
「お客さま方、大変申し訳ございませんが、相席でもよろしいですか?」
「えっと、高屋敷先輩……」ぼくは、店内奥の席が空きそうな旨をこっそりと伝えようとしたが、
「もちろん、いいですよ」と綾乃先輩。
「ありがとうございます。ではすぐにメニューをお持ちしますねっ」
去って行く華ちゃんの横顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいるように見えた。
果たして、ぼくの隣に座ったのは――
「……く、久遠?」
坂井久遠だった。
――なんてことをしてくれるんだ、華ちゃんめ……。
しかしそんなぼくの内心とは裏腹に、久遠はこともなげな様子で、
「ねえ、ゆうは何を頼んだの? 私も同じのにするから」
「……ここの特製コーヒーだよ。店長が自家焙煎に拘ってて、おすすめなんだ」
久遠は頷くと、すぐに華ちゃんを呼び寄せて特製アメリカンコーヒーをオーダーした。
「ご注文ありがとうございますっ。ではでは、ごゆっくりっ」
ぼくは、華ちゃんが消えていったキッチンに邪念を送っておいた。三分後に、また「ひぎゃーっ」という声がキッチンから聞こえてきた。
それからは、沈黙――
久遠と会ったのは、あの夏の最後の夜以来である。
あの山小屋で――ぼくは、深い眠りから醒めた久遠に、必死に状況の説明を行った。だが、下着姿の久遠は、ぼくの顔には一切視線を向けることなく、うっすらと笑う綾乃先輩を無言で睨みつけるばかりだった。
あれから、久遠と話したいと思っていた。
しかし、坂井神社に向かう足取りは重かった。
いったいどんな顔をして何を話せばいいのか分からなかったのだ。
口火を切ったのは、久遠だった。
「どうもありがとうございました」
久遠は、綾乃先輩に深々と頭を下げて言った。
「あの時、私の命を救ってくれて、とても感謝しています。それだけをどうしても言いたかったの。それでは」
「久遠、待ってくれ!」
席を立ちあがる久遠を、ぼくは引き留めた。
「ぼくも君に伝えたかった。ずっと君に謝りたかったんだ。あの日、君があんな目に遭ったのは、ぼくのせいだから……」
「何を言ってるの、ゆう。あれは私の自業自得よ」
「わたしは、君からお礼を言われる義理はないよ、久遠ちゃん。わたしは、ゆうくんに会いに行っただけだから。君を助けたのは、ゆうくんだよ」
綾乃先輩がさらりと言った。
久遠は、立ったまま、黙って綾乃先輩を見ている。
綾乃先輩は淡々とした表情のまま、
「せめてコーヒーが来るまでは座ってて、一口くらい飲んでいけばいいじゃない。どうせ、この店を出ても、またわたしたちの後を尾けるだけなんでしょう?」
「なっ……」
久遠の顔がみるみるうちに紅潮していく。
「え? 後を尾けるって何の話……?」
「ゆうには関係ないから。まあいいわ。せっかく頼んだのだし、コーヒーは飲みます」
久遠は、澄ました顔で再び着席した。
綾乃先輩は、やれやれといった様子で、
「わたしたちのこと、そんなに羨ましいかな? わたしからすると、逆に久遠ちゃんの方がよほど羨ましいんだけどね。久遠ちゃんは、わたしがゆうくんと出逢うよりも前のゆうくんを知っているから。
「綾乃さん……でしたっけ? さっきから私のことをちゃんづけで呼んでくれて、随分と馴れ馴れしいんですね」
「じゃあ何て呼べばいいのさ?」
「久遠様……かなあ?」
「じゃあわたしのことは、綾乃女王様って呼んでね? あ、ゆうくんも今後は、わたしを呼ぶ時は、女王様を忘れずに」
「え、ぼくもですか?」
ぼくが言うと、綾乃先輩と久遠がそろって、ぼくを見た。
綾乃先輩の口元はかろうじて笑みをかたどっていたものの、二人とも目が笑っていなかった。
あ、これは、間に入り込んではいけないタイプの会話だ……。
ぼくは
「それにしても、久遠ちゃんには嫌われたものだなあ。わたしは久遠ちゃんのこと気にいってるのにな。ちんまりしててカワイイし、ゆうくんよりもペットっぽくていいね」
「はあ?」
久遠の目元がひくひくと引き
「それに、久遠ちゃんは、おっぱいが小っちゃいねえ! そこも良いよ。まずわたしの競争相手にならないもん」
などと
「いきなり何なんですか? 馬鹿にしてるんですか?」
「重要でしょ? だって、ゆうくんはおっぱいおっきいひとが好きだもん」
「は……?」
久遠が目を丸くして驚いていた。その隣で、ぼくも目玉が飛び出るくらいの衝撃を受けている。
「わたし、初めて久遠ちゃんに会った時も、まったく同じことを言った覚えがあるんだけどなー」
ぼくは県立図書館前での二人の
「ゆう、あんた……」久遠は軽蔑のこもった眼差しを向けてきた。「人として最低ね。テンカウント以内に死ぬべきだと思う」
「待って、久遠。ぼくは何も言ってない」
頼むから、そんなに冷静に死の宣告をしないで欲しい。
その時だった。
「お待たせしましたあっ」
華ちゃんが、オーダーしたホットコーヒーを三つ持ってきた。
まさに
「それでは二人とも、店長が腕によりをかけた一杯を飲んで、落ち着きましょう……」
火花を散らせる二人を収めようとしたその時――ぼくはふいに背後から腕を回され、抱きしめられた。
「さっきから聞いていましたが、お二人とも、私の大切な後輩をいぢめないでくださいよう」
華ちゃんだった。彼女がどんな顔をしているかは分からないが、ぼくの隣の久遠と、向かいの綾乃先輩が、口をあんぐりと開けて、ぼくの背後を見ていることは分かる。
「た、高屋敷先輩、別にそんな気を遣わないでください……」
お願いだから、誤解のないうちに、キッチンでもバックヤードでもどこにでも行ってください。何もないところですっ転んでも、お皿を十枚でも二十枚でも割っていて構わないので、速やかにここから消え去ってください。
しかし、ぼくの祈りは、虚しくも霧散して消える。
華ちゃんは、なぜだか嬉しそうに、
「あれれぇ? おかしいですねえ、いつもは華ちゃん先輩って呼んでくれるのにぃ。先日なんて一晩中、私の部屋でえ、二人きりで複雑な会話を楽しんだじゃないですかあ。ゆうちゃんは、本当につれないですう」
「えっ!? 一番言ってはいけないタイミングで、なぜその話を!?」
どう考えても、この状況を楽しんでいるとしか思えない発言だった。いったい、ぼくを虐めているのは誰ですかと言いたくなる。
「うわっ、ゆう、キモ過ぎ、最低……」
久遠が、汚物を見るような目でぼくを見た。
「む、まずいな。この女、ちびのくせに胸はけっこうあるじゃない……」
綾乃先輩は、手を口に当て、冷静に思案していた。
「いや待って、綾乃先輩。なんでぼくの判断基準が胸ということになっているんですか。いったい、先輩はぼくのことを何だと思っているんですか」
「おっぱい」
「おかしいでしょ。意味わかんないですよ。『先生、トイレ』っていう小学一年生ですか、あなたは」
「ねえ、ゆう……あんた、本気で気持ち悪いんだけど。いったいあんたはいつから女性のことを胸で判断するような人間に成り下がったの?」
「きみはいつから、人を偏見と誤報で判断する人間に成り下がったんだよ、久遠。そんなわけないだろ。まず人の話を聴けよ」
すると、綾乃先輩が横から、
「そうだよ、久遠ちゃん。そういう思い込みの激しい性格だから、いつまで経ってもきみの初恋は実らないんだぞ」
「はあ!? ちょっ……ふざけんじゃないわよ、あんたッ! どこから沸いてきたんだか分からないような女のくせに調子に乗らないでよッ! この女狐ッ、泥棒猫ッ!」
突如、久遠が立ち上がり、烈火の如く怒りだした。
綾乃先輩はにやにやと笑うばかりだ。
もうぼくたちのテーブルは収拾がつかない。
「ふふふ……いつも澄ました顔で、私の失敗をカバーしてくれるゆうちゃんも、さすがに女の子三人には敵わないみたいですね。新鮮です」
「そんな暢気なことを言ってないで、助けてくださいよ、華ちゃん」
そもそも火に油を注いだのは華ちゃんである。
「んー、もう少しこのままで」
華ちゃんが、ぺろっと小さな舌を出して言った。
「鬼だ……」
ぼくの脳裏にその一文字が浮かび上がってきた。
この女は、決して高屋敷華などという名前ではない。
鬼――
そう、高屋敷鬼で間違いないだろう。
気づけば、久遠と綾乃先輩は、今にも取っ掴み合いの喧嘩に発展しそうなレベルに険悪になっていた。と言っても、久遠が一方的に激怒しているのだが。
「ねえ、ゆう、教えてよ。この綾乃って女、本当はあんたの何なの? 恋人なの? でも、そうだったとしても、絶対に、ただの、普通の恋人じゃないでしょう? ねえ――」
久遠は、
綾乃先輩が、挑発的な眼差しでぼくを見る。
華ちゃんが、興味深げそうな目つきでぼくを見る。
さて、それでぼくは。
「ぼくにとって、綾乃先輩は――」
《第4話 殺人鬼たちの夜 了》
《君と、知らない夜を歩く 了》
君と、知らない夜を歩く 天尾友哉 @amayuu
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