4-8
「あく、つ……?」
状況が整理できない。
ぼくは阿久津の熱い体温を胸や腹で感じながら、頭も目も回っている。
なぜ阿久津は突然、失神したのか。
「やあ」
黒いフルフェイスが、ぼくたちの頭上にひょっこりと現れた。
フルフェイスが外されて、現れたその顔は――
「ゆうくん、元気にしてた?」
「綾乃先輩……」
柿原綾乃だった。
以前、ぼくを助けに来た時と同じ服装をしていた。黒のランニングウェアを纏い、闇に紛れるように黒く、そして動きやすそうな恰好だ。
「やっぱりさ、ゆうくんの背中あたりにGPSを付けさせてほしいな。ここまで来るのに、こんなに時間がかかっちゃったじゃない」
「駄目です」ぼくは即答した。「でも、いったいどうやってこの場所が分かったんですか」
「ゆうくんの匂いを辿ってきた」
「そうですか……」
何の答えにもなっていないような気もしたが、綾乃先輩ならあり得るのかもしれないと思い、ぼくはそれ以上考えることを止めた。今はそんなことを追及している場合ではない。
綾乃先輩がぼくの手を引いて、ぼくは起き上がった。
先輩は、ぼくの隣に倒れている阿久津を見下ろしながら、ため息をつく。
「私と同じ匂いがする人……面白そうだから、せっかく放っておいてあげたのに、こんな結末だなんて、なんだか
「先輩は、阿久津の正体に気づいていたんですか?」
「私は、嘘吐きなら見れば一目でわかるから」
先輩は即答した。それから続けて、
「殺しちゃうのは惜しいけど、でも仕方ないね」
と、呟いた。
「え?」
問い直す時間さえなかった。
綾乃先輩は、檻から放たれた獣のような目にもとまらぬ速さで阿久津の腕を引き上げると、
「ゆうくんに悪戯をした悪い腕はこれかな?」
その手首を、雑巾を絞るように
「……うッぁぁぁああアアアアアッッ!?」
阿久津が、痛みのあまり失神から目覚めた。もがこうとしているが、先輩が後ろ手に押さえこんでいる。
「ゆうくんに意地悪をしたイケない指はこれだね?」
先輩は、捩り上げた阿久津の右手の小指をいとも簡単に――折り潰した。
「痛ッ……ぁぁあああああアアアッッ!!」
阿久津は、状況を理解する時間すら与えられず、突如自分を襲う激痛にも、ただ叫ぶことしかできない。
「それじゃあ……」先輩は、いつの間にか床に刺さっていた軍用ナイフを手にしていた。
「ゆうくんを傷つけようとした悪い頭はここから刺そうね」
先輩は、
そしてその阿久津の怯えきった瞳に、ナイフを突き刺して――
「先輩ッ、やめてくださいッ!」
ぼくは叫んでいた。
先輩がぴたりと動きを止め、こちらを向いた。阿久津はその隙に昆虫の如く床を這い、先輩の下から逃げ出した。
「先輩は、ぼくと約束したじゃないですか……」
そうだ。
ぼくは知っている。
綾乃先輩は、決して久遠を助けに来たわけではないことを。
綾乃先輩が、阿久津を襲ったのは、自分の獲物を横取りされたくなかっただけのことを。
綾乃先輩が、今夜、ぼくの目の前に現れたのは――
五年前の約束を果たすためだけのことを。
なぜなら、今日、八月十七日は――
ぼくの十六歳の誕生日なのだから。
「阿久津、行けよ」
「……え?」
阿久津は立ち上がり、乾いた目でぼくを見ている。その右腕は捩じられ折られ、力なくぶらぶらと揺れていた。
「行けって。そして、もう二度とぼくたちの前に現れるな。いいな?」
阿久津は驚いた様子でぼくを見つめていたが、
「ゆう、きっとお前は後悔するぞ。いいのか?」
「行けよ!」
ぼくにそう言われた瞬間、阿久津は目を逸らし、少しだけ寂しそうに笑って、
「……いつか必ず後悔させてやるよ」
「いいんだ?」
ぼくの隣で、綾乃先輩が囁いた。
「いいんです。だって……」
ぼくたちには。
罪深い約束を交わしたぼくたちには、あの殺人鬼を断罪する権利なんてあるはずがないのだから。
「そうだ、久遠は……?」
ぼくは、ステンレス台に置き残されていた小さな鍵で、久遠の手錠を解いた。彼女の手首の脈を確認する。大丈夫、気絶しているだけだ。
「よかった……」
うす暗い闇の中に浮かび上がっている久遠の色白な素肌に、ぼくは上着を被せる。そしてゆっくりと息を吐いた。
黒いTシャツ一枚きりになったぼくの背中に、温かくて柔らかいものが当たる。
ぼくの背中に、綾乃先輩が身体を寄せてきたのだ。彼女は背後から、ぼくの肩に腕を回した。
「もう、いいんだ?」
耳元で、吐息混じりの甘い声がした。
「はい……」
ぼくが頷くと、首筋に冷たく固いものが当たる。わずかに濡れているのは、ぼくの血か、それとも阿久津の血だろうか。
「ずっと、心待ちにしていました……あなたと初めて出逢った時から」
「そっか」
ぼくの首の薄い皮膚の表面に、ナイフの刃先が沈んでいく。
これが、ぼくの運命だったのだろう。
怖いか、と訊ねられたら、怖くないとは言えない。
けれど、胸は高鳴っていた。
生まれた時からこの瞬間をずっと待っていたような気がする。
ぼくは静かに目を閉じた。
死にたくない!
身体が、ぼくの意思を無視して叫んでいる。
ぼくは今、震えているのだろうか。
もしもそうだとしたら、そんな情けないところを先輩に見られながら、先輩に感じられながら、死んでいくのは嫌だな……。
「ねえ、ゆうくん。こっちを向いてよ」
綾乃先輩が言った。
ぼくは振り向く間もなく、肩を強く掴まれ、そして――
「ッ――」
――唇に柔らかいものが当たる。
声すら出せない。
ぼくは目を開いた。
「ど、どうして……」
目を開いた先の世界には、綾乃先輩の顔が間近にあった。その唇が濡れていた。
先輩は声を出さず、唇のかたちだけを変えて、
「と、け、い」
「え?」
「もういっかいっ」
「待っ――」
綾乃先輩は、待たない。思えばいつもそうだった。先輩が顔を近づけて、ぼくと先輩の距離はゼロになる。ぼくの内側は、思っていたよりもずっと長い先輩の舌に、一切の容赦なく
吐息しか音のない時間は永遠よりも永く続き、ようやく綾乃先輩はぼくを離した。
先輩が指さしたのは、ぼくの腕に嵌められた時計だ。
文字盤が示す時間は、午前零時三分。
「わたし、ゆうくんとの約束を破ったことないよ?」
「それは……」
「君を殺せる日は終わっちゃったから。また次の機会までよろしくね」
綾乃先輩は、はにかむように笑ってみせた。
ぼくは、初めて出逢った夜と同じように――彼女に見蕩れていた。
だからだろう。
綾乃先輩の、その笑顔が、ぼくだけに向けられたものではないことに気づくのには、少々時間が要った。
ぼくは、自分の背後からただならぬ気配を感じ、思わず振り向く。
ステンレス台の上で、上体を起こした久遠が、ぼくたち二人を見つめたまま絶句していた。
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