4-7

「そうか……お前の仕業だったのか」


 ぼくがその呪われた小屋に辿り着いた時、ぼくはようやくこの小屋が数々の惨劇の舞台となってきたことを理解した。


 若い女性の失踪事件――


 時に誰かの口の端に上るそれは決して都市伝説などではなかった。


 六月。ぼくは赫い目をした女と遭遇し――その都市伝説を看破したつもりでいた。孤独な教師の正体を見破り、もう事件はすべて終わったような気がしていた。


 なんて、愚かさだ。


 都市伝説の正体は――たった一人の人間の犯行とは限らないではないか。


 その山小屋の一室は、料理場になっていた。

 部屋の中央に鎮座する銀のステンレス台は、幾人もの血が流されて乾くことを繰り返してブラックベリーのような色味になっている。奥には大型の業務用冷蔵庫や、大鍋や牛刀、手錠、ハンマー、ペンチなどの「調理器具」が並べられたラックも見えた。どこからかツンと鼻を刺す悪臭がする。


 ステンレス台の上には、目を閉じた久遠が磔刑たっけいに処されるかのように手錠で四肢を縛り付けられていた。


 そしてその隣には、そんな久遠を見下ろすかのように、


「阿久津……」


 制服姿の彼女が立っていた。


「まったく、ぼくの身の回りの人間たちは……」


 揃いも揃って暗黒で獰悪で汚濁ダークダークダークな奴らばかりではないか。

 阿久津は首だけをこちらに向けた。


「なんだ、ゆうかよ……」


 さもつまらなそうな顔をしていた。その手に刃渡りの長い軍用ナイフを握っている。


「阿久津、お前が久遠に目をつけていたなんて、まるで知らなかったよ」


 だが今ならすべての辻褄が合う。


「人食い人形の館で、浮浪者女の目を潰したのは、お前か」

「そんなことをいまさら知ってどうする?」


 阿久津はわらって答えた。


 綾乃先輩ではなかったのだ。


 ではなぜ、阿久津は人食い人形の館にいたのだろうか。

 ぼくたちに気づかれないように、物陰に潜んでいたのだろうか。

 答えは決まっている。

 あの時から既に、久遠を拉致しようとしていたのだ。


「そうか、そうだったのか……」


 目を潰すのが三度の飯よりも好きなのは――眼前のこの女だ。


 幼い頃に見た、目を潰されて国道で轢かれた大型犬の死体を思い出す。

 あの野良犬の末路を、誰よりもいち早く知らせに来たのは誰だ?


 阿久津だったじゃないか……。


「……これはお前の忘れ物か?」


 ぼくは彼女に向かって、白い粉の入ったビニール袋を投げた。


「へえ、さすがゆうだな、お前ならそこまで気づくか」


 発する言葉の内容に反して、阿久津は何の感慨もなさそうに言った。


「知ってるか、ゆう? ヤク中の女は、肉も骨もボロボロで食べ甲斐が無いんだ。噛み応えもなければ、舌の上で踊ることもない。それに比べて、この久遠ちゃんの肉を見ろよ」阿久津は、露わになった久遠の太腿に指を乗せ、まんだ。「極上の肉だ。指先で触れただけで味がしそうなくらいに、柔らかいぞ」

「やめろ! 久遠に触れるな!」

「おお、怖い怖い」


 阿久津はおどけた素振りで、久遠から手を離した。


「阿久津、人食い人形の館なんて都市伝説は元々存在しないんだろう。全部、ぼくと久遠を罠にかけようとした君の作り話だったんだ」

「ゆうはいつも人聞きが悪いことを言うなあ。言いだしたのはぼくじゃないぜ。ちゃんとこの耳で、街角の噂を聞いたことがある。ま、噂の正体はぼくかもしれないけどさ」

「……君は、薬物中毒の人間を、薬を餌にして山奥まで誘き寄せていたんだな」


 それが、人食い人形の館の真実だったのだろう。

 そして、そのオーナーが阿久津だったのだ。


「薬物なんて、いったいどこで手に入れたんだ。君は普通の女子高生だろう」

「今夜はやけに知りたがりなゆうだな。そのくらい、もっと前からもっとぼくのことに興味を持っていてくれたら、良かったんだけどな」阿久津は口笛を吹いた。「まあいいさ、教えてやる。簡単なことだよ。ぼくには、馬鹿な大学で馬鹿なサークルに入り馬鹿な友達に馬鹿な遊びを教わった馬鹿な兄貴がいてね、奴は今やとっくにぼくの奴隷というわけだ」


 阿久津は下卑た笑みで言った。


「阿久津、君は……っ」


 ぼくは、それ以上言葉を継ぐことができなかった。

 けれど、言いたかった。


 喉まで出かかっている言葉がある。

 けれど、つかえて出てこない。


 なあ、阿久津……。


 君は決してそんな顔で笑う人間じゃなかったじゃないか……!


「もういいだろ。ゆう、悪いことは言わないから、帰りな」


 阿久津は、ナイフを持ったまま一歩ずつ近づいていた。


「ぼくたち、今夜ここで出会わなかったことにしようぜ? そうしたら、また明日も学校で変わりなく笑顔で会えるだろ?」

「会えるわけないだろ!」

「なんだよ、ゆう。おかしいな。今まではぼくのこと、何でも許してくれてたじゃないか」

「は? 何を言って……そうだ。君が付き合っている図書委員の後藤先輩だって、君がこんなことを知っていると知ったら悲しむだろ」


 ぼくは、以前、綾乃先輩と高校の図書室に行った時に見た、後藤さんの優し気な笑顔を思い出した。


「いや、全然? そもそも先輩ならさっきからずっとここにいるだろ?」

「なに……?」


 阿久津は得意げに顎で自分の背後を示した。

 そこには、大型の業務用冷蔵庫がある。


 さっきからこの部屋を漂っている腐臭の正体は――


「お前、まさか……」

「先輩はいつもぼくを応援してくれてるよ。料理中は、待ちきれないらしくて、たいてい後ろから急かしてくるんだ。可愛い奴だろ?」


 ぼくはもう、その冷蔵庫を直視することが出来なかった。


「阿久津、君はどうしてこんな真似を……人を殺すだなんて」

「人殺しじゃないと、君の隣にいられないからさ」

「は……?」


 ぼくは阿久津の言ったことがよく分からなかった。

 今、ぼくはきっと世界で一番大馬鹿野郎の顔をしていることだろう。


「ぼくは、ゆうのことが大好きだよ。ゆうは、どんなぼくも受け入れてくれた。ぼくが男のような言葉遣いであっても、女のくせに女を好きになっても、ゆうだけは笑わないでいてくれた。小さい頃からずっと傍にいてくれたじゃないか」


 それは事実だ。


 ぼくにとって阿久津のパーソナリティはどれも素敵で、他人の誹りを受ける必要など一つもないと、真実、そう思っている。


 だってぼくも、小さい頃から「女みたい顔だ」とずっと誰かから笑われてきたから……。


 確かに――女でありながら女好きを公言する阿久津は、ぼくの学校で、いや、世間一般でも多少珍しい存在だったかもしれない。それでも、図書委員の先輩と付き合うなんて言っていたものだから、ぼくは陰ながら応援していた。


 だから。


「阿久津、君はぼくの大切な友人だ。確かにぼくは君のどんな部分も受け入れてきた……。だけど、殺人まで認めた覚えはないぞ!」

「嘘吐き」

「え?」

「ゆうの大切な人はどうなんだよ?」


 その時、ぼくは初めて、阿久津が言わんとしていることが分かった。


「彼女は人殺しなんかじゃない。これまで誰も殺したことなんてないんだ。君とは違う!」

「どうしてそう断言できるんだ、ゆう? ぼくに言わせてもらえば、あの女はぼくと同類だ。隠せないんだよ、こればかりはさ!」


 阿久津が足を踏み込んだ。数メートルは離れていたはずなのに、ぼくの喉元でナイフがきらめいている。とっさに頸を捻って躱す。ぼくは、阿久津が伸ばした腕を掴もうとしたが、容易くすり抜けられる。刺突しとつの挙動で前につんのめった阿久津の背後に回り、またもその腕を取ろうとしたが――


「痛ぅッ……」


 阿久津が振り返りざまに薙いだナイフがぼくの右手指を裂いた。鮮血が飛び散り、阿久津の青い頬と白いブラウスを朱色に汚した。


「へえ……」阿久津は頬に付いた血を指で拭うと、舌で舐めとる。「ゆうの血って、なかなか甘いじゃん。やっぱ、ゆうって甘ちゃんなんだね」

「まるで当たっていなそうな血液診断をありがとう」

「余裕そうだけど、けっこう深くイっただろ?」


 阿久津はぼくの右手をナイフで指した。


「このくらいなら、むしろ気持ちいいよ」


 悔しいが阿久津の言うとおりだ。

 右手が熱い。

 手の甲から親指にかけて一文字に斬られ、鮮血が止めなく床にしたたっている。


「ゆうらしくない台詞だね。誰から教わった?」

「君じゃない誰かさ」

「嫉妬するぜ。じゃあ、次はどこを気持ちよくしてほしい?」


 阿久津が、来た。

 再びぼくの喉元にナイフを突き出し――


「喉を――ッ?」


 ――弧を描くように上に払った。

 いや、違う――

 狙いは、ぼくの瞳だ。


「狙いが分かりやすいんだよ……ッ!」


 ぼくは顎を仰け反らせて躱すと、今度こそ阿久津の腕を握りしめた。阿久津の腕は、思ったよりもずっと細かった。


 揉み合いになれば、力の差がある。ぼくたちは倒れこみ、ぼくが上になり、阿久津が下になっていた。気づけば、ぼくの血まみれの右手にはナイフが握られていた。


「あーあ……」


 阿久津は、目の前で起きている出来事のすべてが他人事であるかのような、力のない声を出した。ぼくは阿久津の顔を見ようとしたが、阿久津の顔はぼくの影に隠れている。表情は分からない。嗤っているようにも思えたが、瞳はただ昏かった。


「なんだよ。いいぜ、早くぼくを刺せよ、ゆう」

「……」

「ほら、早く。突き刺して、じって、抉って、掻き回して、早くぼくを犯してみろ」


 阿久津は嗤っていた。

 まるでそれを遥か昔から待ち焦がれていたようにすら見えた。


「阿久津、ぼくは……」


 ぼくはそこで押し黙った。

 彼女に伝えられる言葉を、ぼくは持ち合わせていなかったからだ。


 ふいに――かつてこの山小屋で見た光景がフラッシュバックする。


 綾乃先輩が、とある教師の濁った目を潰した時の喜々とした表情を――


 ぼくは今、どんな顔をしているのだろう?


「くッ……」


 ぼくの血まみれの腕が、ぶるりと震えた。


「チッ」


 阿久津は舌打ちしたかと思うと、右手で床の砂をぼくの顔に投げつけてきた。目を細めた隙に、ぼくは右頬をしたたか殴られた。阿久津は、華奢きゃしゃな身体から想像できないほどの膂力りょりょくでぼくを突き飛ばして起き上がり、一瞬でぼくのナイフをひったくった。


 わずか数秒での形勢逆転――阿久津は仰向けになったぼくの上に跨り、ナイフをぼくの顔の上に掲げた。 


「なあ、ゆう。聞いてくれ」


 ナイフの柄に付着したぼくの血が、刃先を伝って、ぼくの頬や髪を汚していく。

 ナイフの先端が震えている。ぼくの目の焦点が定まらないだけか、あるいは。


「お前のことを愛してる。信じちゃくれないだろうけど、ずっと前からそうさ。本当だぜ? それでお願いなんだけどさ――」


 阿久津は、一緒に遊んでいた幼い頃と同じように、屈託くったくなく笑って言った。


「――先に地獄で待っててくれよ」


 死ぬ――

 ぼくは死ぬ。

 今、ここで。

 ぼくの頭上でナイフがきらめいて、振り下ろされ――


「あ――?」


 ぼくの首筋を数ミリだけかすめ、木床に突き刺さった。

 ぼくの上に跨っていた阿久津が、ふらつきながらぼくの胸に倒れこんできた。

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