一夜のキリトリセン

黒中光

第1話 一夜のキリトリセン

 これは、2年前に私が体験したことだ。夏のころに経験した、たった一夜のお話。


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 目覚めると、川にいた。背中にごつごつした石があたってメチャクチャ痛い。起き上がってみると、でっかい河原が広がっていて、辺りには花も草もなく、殺風景な印象を与える。その上、空が今にも降り出しそうな真っ黒な雲に覆われていると来るんだから気が滅入るのもなおのことだ。


 しばらく、私はそこにアホみたいに突っ立っていた。そりゃあ、そうだ。こんなバカでかいだけの川見たこともなけりゃ、来ようとも思わない。海みたいで向こう岸なんかほとんど見えないんだぞ。そもそも、私は自分の家のマンションから出たばかりのはずだ。そう、その時急に強い光が襲ってきて。地面が揺れるくらいの低い音がして――。


 こつんとかかとに何かが当たって記憶がすっ飛んでいった。むっとして見ると、足元にはきりが落ちていた。持ち手のところは黒く変色しているが、針のところは錆び一つなくピカピカだ。しっかりと手入れされて、使い込まれた風格がある。ただの大工道具のくせに、気圧けおされる。手にしてみると、ズシッとくる。


「ああ、それは儂のだ。拾ってくれてありがとうよ。女学生さん」


 渋い声で近寄って来たのは、角刈りのおじいさんだった。年は70くらいいってそうなのに、背筋がピンと伸びている。日焼けした腕もたくましそうで、なぜか工具箱まで抱えている。真一文字に引き結んだ顔は厳しそうで、古き良き恐ろしき大工の棟梁って感じだった。


 それにしても、女学生って。いつの時代だよ。しかも、眼つき悪いし。私はきりを渡すとそそくさと距離を空けた。あんまり関わり合いになりたくない雰囲気だった。


 そう、最近こういう感覚になることが多い。だいたいお母さんと一緒にいる時だ。もう高校生なんだから放課後にカラオケ行ったりしたいのに、帰ったら「こんな時間まで何してたのっ」ってヒステリックに怒りだす。今は丁度、家に帰ってお母さんに見つからないようにしてる時に似ている。


 しばらく、気まずい空気の中にいると、暗闇から舟がやってくるのが見えた。ちょうど、小学生のころに行った渓流下り、あれによく似た木造の舟だ。ただし、もっと小さいし、ぼろい。船縁なんか、朽ち始めてるんじゃないかっていうくらいで、浮いてるほうが奇跡みたいなやつだった。船頭さんは編み笠をかぶって、年は私のお父さんよりちょい下くらいかな。痩せているけど、川に突き刺す竿をしっかりと操っている。


 船頭が落ち着いた声で言った。


「乗りなさい。向こうまで連れて行こう」


 ありがとうございます。とはすぐには言い出せなかった。だって、ぼろいんだよ。近づいてきたので覗き込んでみたら、ちゃんとしたイスとかもないんだよ。骨組みがむき出しでそこに座るタイプ。花の女子高生が喜び勇んで乗りたいとは思えない。服が汚れそう。


「あの、お気持ちはありがたいですけど、ご遠慮します」


 磨き抜かれた愛想笑いを船頭さんに惜しげもなく披露する。これは女子高生の必須スキルだ。男子がやったらむさ苦しいだけだが、可愛い女子がやればみんなイチコロ。これさえあれば、赤点とっても補修から逃れることができる。他にも、成績の良い人から宿題を写させてもらったり、部活の負担を減らしたり。まさに、万能アイテム。


 しかし、この船頭には効かなかった。


「あんた、乗らないっていうけど、ずっとここにいるつもり?」

「……」


 冷静な返しに言葉も出ない。もう一度見まわしてみるが、ここにあるのは水と石だけ。道すらないし、もちろんコンビニもない。スマホを取り出してみたら圏外ときた。どんな僻地だよ、ここ。


 まあ、つまりここにいたってどうしようもないわけだ。なら、一縷の望みをかけて向こう岸にいくしかない。


「分かった。乗ります」


 私のすぐ後から、棟梁も無言で乗り込んでくる。渡し舟はすぐに出発せず他の乗客を待っているようだった。次に乗り込んできたのは、若い男の人だった。細身で大学生くらいかな。顔はまあまあで、右目の縁に泣きぼくろがある。最後が、私のお母さんくらいのメガネをかけたおばさん。コロッと丸くてメガネをかけている。とっつきやすそうで、いかにもおしゃべり好きって感じ。私と大学生相手に、生まれたばかりの孫の話をしてくれた。


 彼女の話が一段落したのを合図に舟が動き出す。ゆっくりとしたスピードと波がほとんどないせいで、滑るように揺れがない。


「いよいよ、最後の旅ですねえ。みなさん、よろしくお願いします」


 おばさんがニコニコ笑って挨拶する。屈託のない笑みだが、最後、という言葉が妙に気にかかる。


「あの、最後って」

「ああ、そうね。あたしたちもう死んじゃってるからねえ。最後も終わっちゃってるか。ハハハハ。ああ、そう言えば。みなさん、どうしてお亡くなりに? お二方はずいぶんお若いのに」


 おばさんが井戸端会議みたいにして私と大学生に向かって話しかける。しかし、話題が話題なので全くノレない。えっと、死んじゃってるってどういうこと。わけわかんないんだけど。どういうジョーク? 笑うとこ、だよね……。


 不安にざわめく胸を抱えながら周囲を見渡すが、船頭は黙々と舟をこぐばかり。棟梁もたしなめずに、じっと聞いている。大学生に至っては。


「ぼくは白血病ですね。去年気づいたんですけど。若いがゆえにですかね、進行が早くて。水泳やってたから体力に自信はあったんですけどね」

「まあ、そう。白血病ってあれでしょ。血のガンっていう。あたしは、胃の方。一回手術したんだけど、再発しちゃって。まあ、孫も抱けたし余命より2年ほど生きたから、もう十分満足なんだけどね」


 そんなことを言いながら、おばさんと大学生はひとしきり治療話で盛り上がっていた。抗がん剤やらなんやらで話が広がる広がる。


 正直、私としてはのんきにこんな話題でしゃべり倒す2人の神経が分からない。まともに聞く気にもなれなくて、威圧感丸出しの棟梁に話しかけた。怖いけど、この2人の話題に入るよりはね……。


 蓋が空きっぱなしの工具箱の横に移動した。使い込まれた金づちやかんなきりが鈍い光を放っている。これじゃあ、ごつごつした河原で道具を落っことすわけだ。


「あの……」

「うん? ああ、儂は肺やな。医者は『養生せい』ゆうとったが、大事な工事があったんや。それ仕上げんのに力使うたら、このざまや」

「あら、じゃあ無理しなければ長生きできたんですか?」


 まともだと思っていた人までおかしなことを言いだして唖然としていると、話を聞いていたおばさんが非難するように声を上げる。しかし、棟梁は太い腕を組んでまったく揺るがない。


「どうせ、儂は年やったんや。養生したって知れたもん。そんなら、若い者に技伝える方が大事や。人生かけて儂が磨いたもんが残り続けてくれたら、それだけで生きてきたかいがあるっちゅうもんや」


 力強い言葉に一同が圧倒される。その中で、船頭だけが無言で竿を操っている。薄暗い世界にピチャ、ピチャと。ある意味こっちもプロだ。


「ねえ、君は何だったの?」

「え、私?」

「そうそう。あなたまだ、高校生でしょ。何があったの?」


 大学生とおばさんが興味津々と言う口調で尋ねてくる。そう言われても、心当たりが全然。


「え、病気とかじゃないの」

「あ、はい。私、別に死んでなんか……」

「ちょっと、じゃあ、この子まだ生きてるってこと!?」

「それは、あり得ません」


 取り乱して詰め寄るおばさんに、船頭が淡々と言葉を返す。編み笠を上げて、私の方をちらっと眺めると、ごましおみたいな髭の生えた顎に手をやる。


「この舟には死人しびとしか乗れないんですよ。おそらく、死んだ時の記憶が飛んでいるんでしょう。ようく、記憶をたどれば。河原にくる直前のことを思い出していけば良いですよ」


 半信半疑のまま、言われた通りにしてみる。まあ、いきなり河原にいたなんて訳分かんなかったしね。


「ええっと。たしか家のあるマンションにいたんです。ちょうど帰っていた時にお母さんに会って――」


 そこで夏休みの過ごし方でケンカになったんだ。私は短期のバイトをするつもりでいた。高校で知り合った友達の趣味が山で、みんなでキャンプみたいなことをしてみようという話になっていたからだ。見晴らしの良い景色を眺めながら皆でだべるなんて気持ちよさそうじゃん。お泊りもするとなるとなおさら。


「でも山登りって靴とか寝袋とか結構高いんで。バイトしようと思ったんです」


 それなのに、親は夏期講習に放り込もうとしていた。「高校に入ってからあんまり成績が良くないでしょ。早めにしなきゃ手遅れになる」とか言って。ただ、それをやればほぼひと夏丸ごと勉強づくめになる。せっかく学校が休みなのにそんなのってない!


「エントランスで口げんかしちゃって、それでマンションを出たんです」


 別に、家出とか大それたことをしようと言うんじゃなかった。ただ、向かいの公園にでも行って頭を冷やそうと思った。そう、その時に私はヘッドライトに照らされ、右の方から――。


「トラックに、轢かれたんだ」


 気づけば、道路に倒れてた。腕やら頭が脈打って血の代わりに針が流れてるんじゃないかってくらい痛かった。体の中心がどんどん冷やされていって、息もまともに吸えなくて。最後に見たのは、太陽が沈んだ後の空に浮かんだ雲。真っ赤に染め上げられた雲が、綺麗だった。


 ああ、死んだんだ。そう思った瞬間、涙が流れてきた。頬をすうっと零れ落ちていく。おばさんが、まるまるした腕を伸ばして、抱きしめてくれた。ぽよぽよで、温かい。


「親御さんの目の前で急にか。ずいぶん、親不孝なことしたなあ」


 棟梁が胡坐あぐらを掻きながら不機嫌そうな声で呟く。ずいぶんと耳が痛いが、自分が撥ねられる瞬間を傍から見ていたと想像すると、何も言い返せない。


「だいたい、学生の本分は勉強やろうに。息抜きが悪いとは言わんが、成績が悪いんやったら、そっちをちゃんとした方がええんとちゃうか」

「いや、友達との思い出だって、立派な社会経験ですよ」

「経験は構わんわ。ただ、己の本分をきちっとしてからにせいゆうとんのや」


 なだめに入ってくれた大学生が棟梁に一喝される。怒られた大学生は気まずそうに、舟の後ろに移動していった。


「まあ、色々と遊びたい年っていうのは分かるけどね。お母さんだって、別にいじめようとした訳じゃないから。ただ、子供の将来って親からしたら不安でね。どうしても、良い成績とって、無難に生きていって欲しいと思うもんよ」


 おばさんが、ぽんぽんと肩をたたきながら心にしみこませるように言葉を紡ぐ。今まで、親目線でなんて考えたことなかったけど、すとんとお腹に落ちてくるようだった。


「でも、今になって分かってもなぁ」


 もう、死んじゃってるんだよね。情けないと思うけど、声が震えてしまった。会いたいな。ホントに、そう思うんだよ。お母さんに会って、謝ってちゃんと話がしたい。けど、無理なんだよなあぁ……。


「最近の若いもんは泥臭く生きるっちゅうことがないな」


 がちゃんと工具箱を叩いて、棟梁が立ち上がる。


「若いもんが親不孝したまんま死ぬちゅうのは、むず痒いわ。なあ、船頭さん。元の岸に戻ったら、この世ちゅうんに戻れるか」

「戻れますよ。ただ、この舟はあの世にしか進みませんし、降りることもできません」


 静かに告げられた言葉をフンと鼻息を漏らすと、棟梁は舟の外に手を出そうとした、が。


 腕が船縁の真上で止まる。太い腕の筋肉を最大限に、腕が細かく震えるくらい力を込めているのに、ピクリとも動かない。そこから先には進めないのだ。この世とあの世をつなぐ舟。摩訶不思議な力が働いてもおかしくない。


「お判りでしょう。舟からは降りられません」


 舟に沈黙が下りる。舟はまだ、あまり進んでいない。なのに、もうあの世に行くしかないのか。嫌だ。嫌だけど、どうしようもない。ピチャン。あの世にまたもや近づく。


 しかし、棟梁だけは諦めていなかった。ガチャガチャとうるさい音を立てながら工具箱を漁っている。


「なるほど。舟からは降りられん。なら、舟やのうなったら、どうや?」


 棟梁の右手には、愛用のきりが握られていた。私が河原で拾ったやつだ。色の染みついた木の持ち手に、鋭くとがった針がついている。わずかな明かりの中で妖しく光る。


「やめろ!」


 船頭が慌てて竿を放り出して、棟梁につかみかかる。しかし、右手が振り下ろされる方が一瞬早かった。


 ボロボロだった船底にきりが突き刺さる。慌てて船頭が手で塞ぐが、棟梁は構わず手当たり次第に突き刺していく。穴からは水がどんどん溢れ出してきて、小さな船に溜まってゆく。


「アッハハハ。おい、女学生さん。はよ生き返ってきなさい。ええか、親御さんを大事にするんやで。そんで、自分がこれだけはやり切ったって胸張って言えるもんを見つけなさい」


 棟梁が豪快に笑う中、おばさんが私の両肩に手を置く。そして、私の顔をしっかりと見て告げる。


「ご両親は、時々おせっかいなことをするとは思うけど。でもね。それはあなたのためを思って、あなたのことが心配で言ってるの。もちろん、あなたの人生だから全部言いなりになる必要はない。ただ、親はいつでも子供が心配してるだけっていうことは覚えておいて。あたしも、親だからそれは保証してあげる」


 じゃあね。そう言って、おばさんはくるっと私の体を反転させると、ポンと川に突き落とした。


 水の上に顔を出した私は、手を振るおばさんと、いかめしい顔でこっちを見る棟梁の姿を目に焼き付けると、元の岸に向かって泳ぎだした。


 距離はだいたい7、80メートルほど。川の流れはほとんどない。これなら、なんとか泳ぎ切れる。そう思ったけど。


 甘かった。私は今、制服なのだ。


 最初の方はまあ良かった。いきなり水に入ってびっくりしたけど、割とぐんぐん進めた。でも水を吸った服が体に張り付いてきて思うように動かなくなる。靴とかポケットにあったものを捨てたりして身軽にはなったものの、なかなか進まない。


 とにかく、水を飲まないようにだけ気を付けながら進んでいく。20分ぐらいかけてようやく残り25メートルほどまで来た。ただ、もう全身がクッタクタだ。正直、浮いてることすらキツイ。


「ガボ、ゲホゲホッ」


 ついに、水が口から入り始めた。息継ぎのたびに吐き出そうとするが、徐々に入ってくる量が増える。肺が焼けるように熱くなってくる。口を開けちゃダメ。そんなこと分かってるけど、息が吸いたい。


「ゴフッ、オウッ」


 意識まで朦朧としてくる。ただ、肺が痛い。うう、生き返りたかったのに。お母さん。辛いよ……。ごめんね。お母さん。


 耐え切れずに口が開く。肺が爆発しそうだ。お母さん。


 手首を掴まれた。顎のあたりを掴まれて無理やり水面の上まで持ち上げられる。


「ほら、がんば、れ。あとちょっと、で、足が――つくようになる」


 一緒の舟にいた大学生だった。ぐったりした私を引きずるようにして泳いでいく。


 やがて、つま先に石があたるようになり、私は岸に向かって駆け出した。肺はまだ痛い。一歩つくたびに、私の中で暴れまわる。


 ようやく元の河原にたどり着くと同時に、私は倒れこみ意識を失った。


 次に目覚めたとき、私はベッドの上にいた。窓からは金色こんじきの朝日が差し込んでいた。


「あ、目が開いた。ねえ、母さんよ。もう大丈夫だからね。大丈夫だからね」


 涙で顔をぐちゃぐちゃにしたお母さんがそばにいた。いつもの小言の多いお母さんがワンワン泣いて抱きしめてきた。体がきしむように痛かったけど、嫌な気持なんか全然なかった。


「お母さん。ごめんね。ただいま」


 ********************


 その夏は結局、山にも夏期講習にも行かず、夏休み丸ごと入院生活に費やすことになった。おかげで、後遺症なく日々を過ごしている。


 お母さんとケンカになることはいまだにある。でも、あの日以来、ただ反発するだけじゃなくてお母さんの気持ちと言うかそういうのをくみ取れるようになった。


 一途に打ち込むものはまだ見つかっていないけど、かわりに今やらなきゃと思ったことに全力を注いでいこうと決めている。とりあえず、高3の今は受験勉強かな。


 今の私は、あの出来事がなければいないと思う。それぐらいのインパクトがあった。


 親に愛されてるなとも思ったし、あの時舟にいた人たちに生かされたと思う。だから、とりあえず精一杯生きてみる。


 この話は私の一番大切な、一夜のきり離船りせんにまつわるお話。


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