2.海へ

 寂れた停留所でバスに乗った。車窓から見える景色の流れが美しかった。私はぼんやりとまばたきをしながらいつかの海のことを考えていた。私たちの街は平地の、海から遠い場所にあり、海を訪れたのは気の遠くなるような昔だったから、頼りになるのはあの夢だけだった。

 バスは何度も停車し、その度にわずかな人を吐き出しては新たな人を飲み込んだ。その入れ替わりの中で、私だけが取り残されたように、長い距離をバスに揺られた。

 太陽が頂点に差し掛かった頃、窓からちらちらと海が見え始めた。私はその街で降りた。

「あのう」

 突然声を掛けられた。振り返ると男の人が居た。短い髪をして、背は私より少し高いくらいで、優しそうな顔立ちをしていたけれど、冬夜とは似ていなかった。

 私はバスの乗客の中にその人がいた事を思い出した。シートがいくらでも空いているのに吊革に下がって、どこでもない所を見つめていた。その視線が何度となく、私に向けられたような気がして、少し居たたまれない気分になっていたのだった。

「失礼ですが、あなたの足は」

 躊躇うような口調でその人は言った。目線が私の足と、顔の少し下辺りと、遠くの景色を行ったり来たりしていた。それだけ沢山の場所を見ていたのに、その人は、私の目だけは一度も見ることがなかった。

「足が何か?」

「いえ、その……、失礼かとは思うのですが……」男の人は意を決したように言った。「不自由、なのですか?」

「そうですけど」

 私が答えると、そうですか、やっぱり、というような事を口の中で呟いていた。よく見ると視線だけではなく、手や足や腕も、そわそわと落ち着かない様子で動いていた。私はその人の意図が見えなくて気味が悪く、早くその場から立ち去ることを考えていた。

「何処に行かれるのです? 俺、良ければ、案内しますけど――」

 彼は優しい人のような顔をして、私の肩に触れようとした。それは自然な動きだったけれど、私は咄嗟に振り払っていた。

 あ、と泣きそうになった顔を見て、私は払った手を引っ込めた。それから「……すみません」とだけ言ってその人に背を向けた。

 私は意図的に歩調を速めた。私の体を冬夜以外の人に触れられたくなかった。さっきの一瞬のことを思い出し、身震いをしながら、私は何度も肩を払った。


 私は生まれたときから右腿から先がなかった。そのままで行動をするのは体裁が悪いし、何より不便だったから、私は義足で歩いていた。

 幼児にとって、立って歩くということは労力の要ることだけれど、私にはそれが殊更に大変だった。冬夜が自分の足で、走ることも飛び跳ねることも当たり前になった頃、私はようやく右足を引きながら歩けるようになった、という具合だった。

 その頃使っていた義足の質が悪くて、そんな歩き方でなければきちんと歩くことが出来なかったのだ。残った足の形と、足を入れる穴の形が僅かに違っていて、少しでも体重を掛けた途端、擦り剥けて血が流れ出したのだった。

 勿論私の歩き方は、幼い子供にとって笑いの種だった。

 ――やあい、びっこの春香が来たぞ……。

 誰かが戯れにそう私をからかった。その時の私は、その言葉の意味を知らなかったけれど、囃し立てる言い方から、良い意味の言葉ではないことを悟って、泣きそうになった。

 すると冬夜が、突然彼らを殴りつけた。そこから取っ組み合いの喧嘩になって、冬夜は生まれて始めて不注意以外の理由で怪我をした。

 それからも、私の足をからかう子供は時々いて、そのたびに冬夜は喧嘩をした。冬夜は負けてばかりだったけれど、あんまりいつものことだから、やがて私をからかう人がいなくなった。

「はるかはもう、泣かないよね?」

 傷だらけの顔で冬夜は笑い、私の頭を撫でた。

 私にはそれが嬉しかったけれど、その所為で冬夜が怪我をするのは嫌だと思った。


 塗炭屋根の並ぶ街並みを歩いていた。道が急な坂になっていて、秋の暮れなのに額に汗が浮いた。

 歩きながら私は色々な事を思い出していた。それらが悉く冬夜のことばかりだったことに、私は赤面した。

「それならぼくは、とんでもない幸せ者だね」

 それが空耳とは言え、茶化したような口調が気に入らなくて、私はわざと大きな溜息をついた。その後で、冬夜がご機嫌取りに頭を撫でてくれた気がして、別に怒ってるわけじゃないよ、と呟いた。


 途中で立ち寄った駄菓子屋で休憩することにした。二十円払って水飴を買い、店先の腰掛を少しだけ借りた。水飴は薄い苺の色をしていて、混ぜると糸を引いた。空に透かすと、水飴の向こうの景色が綺麗に見えた。

「お嬢さん、初めて見る顔だで、何処ぞに行きなさるんけ」

 駄菓子屋の守をしていたお婆さんが、私に声を掛けてきた。

「はい……、海を見に行こうと思っています」

「そうけ、海はええなあ、広くて、晴れとる日にはきらきらしてなあ……。だけんど、早く引き上げた方がええで、今日は時雨が来るかもしれんけ」

 そう言ってお婆さんは西の空を見た。そこには灰色の雲が淀んでいて、確かに、いかにも激しい雨を降らしそうだった。

「降ったらいけんから、この傘、持ってき」

「え……、いいんですか」

「ええ、ええ。女の子が体濡らされん」

 私は申し訳なく思いながら、お婆さんから傘を受け取っていた。


 足に疲れがきていた頃だったから、私は傘を杖代わりに歩いた。時々痛んだりもしたから、ひょっとしたら傷になっているのかもしれなかった。お婆さんに心の中でお礼を言いながら、私はまた長い距離を歩いた。

 冬夜は時々、戯れに私のことをベアトリーチェと呼んだが、私にはその意図が未だに見えない。ダンテ・アリギエーリは確かに彼女を終生愛し続けたが、当のベアトリーチェはダンテよりずっと早くに亡くなってしまっているからだ。

 それならば、むしろ冬夜こそが私にとってのベアトリーチェではないのだろうか。

 私は苦笑した。冬夜の顔立ちは優しかったが、女性的ではなかったからだ。もしそう言ったら、彼は何と言うだろう。冬夜もまた苦笑いをしながら、私の頭を小突いてくれたかもしれない。そう思うと少し微笑ましい気分になると同時に、冬夜ともうそんな思い出を作れない事が、寂しかった。

 もしも――と、私は不意に思う。

 もしも、暗い森に彷徨う私の魂を、至高の頂まで導いてくれるのが、冬夜の掌だったのならば。

 それが約束されるなら、私は今ここで死んでしまっても構わない気がした。


 少しずつ右足の痛みが強くなり、息が荒くなり始めた頃、目の前に堤防が見えた。その頃にはもう潮風の薫りが、私の鼻に触ったり、運ばれてきた飛沫が私の髪に弾けたりしていた。

 階段を一歩ずつ下って、浜に降りた。曇ってきた空のお陰で浜辺の色はくすんで見えた。

 砂の上を歩くのは思ったより大変だった。振れた義足が砂に引っかかって、ちゃんと進むことが出来ないのだ。また、汗に濡れた靴の中に砂が入り込むものだから、ざらざらして気持ちが悪かった。

 それでも私は海を見られたことが嬉しかった。体重を左足と傘に預けて義足を浮かせると、少しだけ進むのが楽になった。

 海の水の塩辛さや、冷たさがひどく懐かしかった。まるで子供に戻ったみたいに、冬夜と水を掛け合って遊んだ記憶がよみがえった。浜辺でぼんやり座っていたら、予想外に大きな波に襲われて、二人して腰までびしょ濡れになってしまった時は、おかしいやら悲しいやらで何だか判らなくなって、最後には一緒に大声で笑ったりしていた。

「懐かしい、海だね」

 私は隣にいた冬夜に届けるつもりで、そんな風に囁いていた。

 だけど、海に近付くにつれ、私からは笑顔が消えていった。

 それは冬夜と見た海ではなかった。少なくとも私の記憶にある海ではなかった。

 浜に打ち上げられた大量の塵芥で、海は焼いた眼の色に濁っていた。波打ち際に放置された西瓜には大量の蠅が集っていた。茶色く汚れたビニール袋から、病んだような虫が這い出しては、波の中に消えた。私は悲しくなって、冬夜、と呟いた。私の声に返事はなく、ただそれだけで、この海があの海でないことを判った。

 その時になってようやく、私は思い違いをしていたのだと気付いた。

 例えこの海が宝石の色を成しても、冬夜がいない海は、押し込めた蓋の底のように昏い。

 私は笑っていた。笑うしかないと思った。本当に――白昼夢もいいところだった。ひょっとしたら、ここに来れば、居なくなった冬夜に逢えるかもしれないなんて妄想染みた思考は。

 ぽつり、と雨が降り出した。大きな水の粒が、私の身体で幾度も弾けた。

「ねえ、冬夜」

 私は冬夜に尋ねていた。

 本当は泣いていたのかもしれなかった。

「私がここで身を投げたら、冬夜、あなたの元に行けますか?」

 私は傘を捨てた。それまで抑えられていた負担が右足に突き刺さった。しかしその時の私に痛みはなかったし、痛みを感じる暇もない位、冬夜の名前だけを叫んでいた。

 一歩進むごとに雨脚は強まっていった。今日は時雨が来るかもしれんけ――というお婆さんの言葉が、頭の中で聞こえた。

 針の降るような雨の中で、汚れた海に踏み出した。濡れた足が溶ける気がした。水の抵抗はただただ重く、私の進む邪魔をした。波が寄せる度に私は追い返され、返すたびにより深いところに身体が引き込まれた。ならば、やはりこの海は私の味方なのだと思った。私は思い出の中に帰っていく。この海の中に帰っていく。そして再び冬夜に、右手を繋いでもらうのだ――。


 私は右手を伸ばした。

 その手を、確かに、誰かの掌が掴んだ気がした。

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