1.光の下
朝露と苔で黒くなった石段をゆっくり降りていく。まばらな紅葉の隙間から抜け出した光が、音も無く落とした影の色は水彩の淡さを成していた。秋はもうすぐ終わろうとしている。今の季節が何時までも続けばいいと願う、私の下にさえ、もうすぐ新しい季節が来てしまう。
「気をつけてね、春香、転んでしまっては一大事だ」
耳元で冬夜の声が囁いた。私は声の方を見てから、うん、と頷いた。
私の想像の世界の中で、あの頃と同じ優しい笑みを称える冬夜は、本当はもう此処には居ない。
見上げた先で、潤んだ風が渦を巻いているようだった。呼吸の度に私の肺が、その冷たさを吸い込んで、体内で澱を成したそれが涙になって滲もうとする。石段を囲んだ羊歯や檜の葉が、風の匂いを一層強くしている気がした。植物の葉からは、酸素と一緒に、人の心を癒す成分が吐き出されて――そんな事を教えてくれたのが、冬夜であったことを思い出す。
私の右手をいつだって握ってくれていた冬夜が死んでしまったのは、三ヶ月前のことだ。
その言葉に実感がない。
今でも冬夜は、私の手を握ってくれている気がする。
生まれたばかりの私が、この世の空気を呼吸した、その瞬間にはじめて目にしたのは、母の顔でも乳母の顔でもなく、まだ清冽な青さと若草の匂いを保った畳の色でもなく、私よりほんの少しだけ早生まれだった、冬夜の顔だったのだと思う。
冬夜の掌は子供の時から大きくて、私の頭を撫でるとき、すっぽりと包むようなやり方がくすぐったくて、いつも私はけらけら笑った。
母は身体が弱く、余り父の我侭を聞けなかった。父はそれが気に入らなかったらしく、家に帰って来る事が殆どなかった。偶に帰って来たかと思えば、口から鼻につく匂いを撒き散らし、呂律の怪しい濁声で喚きながら、母を障子の奥に幽閉するのだった。
私と冬夜は、「いいか、絶対に覗くのではないぞ」という父の言葉を忠実に守った。蝋燭の炎が揺らぐ中、淡い影たちが一個芸術のようなさざめきながら、苦しそうな声が上がるものだから、私は何度その襖を開き、母さまに何をするのですか、と父に叫んでやろうと思ったか知れない。
だが、私が立ち上がろうとするたび、やんわりと冬夜が私を止めた。大丈夫だよ、春香、きみは約束を守らなくてはいけない、と言った。
今となっては、冬夜の言葉が正しかったのだと私は思う。身体の弱い母は私たちが八つの時に肺結核で天に召されたが、死に際にも関わらず私たちに見せた笑顔と、父親に向けた労りの眼が、そして、竈で焼かれた母の遺骨を拾う父親の横顔が、障子の向こうで三日三晩流れ続けた嗚咽の唄が、何よりも明確な証拠だと感じている。
父は塞いだまま帰らぬ人となり、私たちだけが広い家に残された。冬夜は私の唯一の肉親であり、私は冬夜を兄として慕うと同時に、父としての役割をも求めたように思う。
そして私たちは恋人でもあった。
いつからか私は、冬夜が私の頭を撫でるやり方にけらけら笑わなくなっていた。私は多分その頃から、頬を熟れ始めた白桃の色に染めて、冬夜の胸に身体を預けるようになった。
まるで男の人のような、堅い胸板に守られた冬夜の心音は、私と同じにか弱かった。そのことに、ああ、やはり私たちは兄妹なのだ、と実感して、冬夜の名前を囁いた。
かくん、と右足に強い負担が掛かった。石段の最後の一段を踏み損ねた所為だった。
少しだけ、義足に嵌めた太腿の先が痛んだ。
白昼夢でも見ているのだろうか、私の意識は時折、滑らかに水を切る鮎のように、何処か遠い所に泳いで行く癖があった。冬夜がいた頃は、そんな私を笑っていると同時に、何時だって手を繋いでいてくれたから、私は迷子にならずに済んでいた。
――あの海は何処にあるのだろう、と私は思った。
一度だけ私は冬夜と海を訪れた事がある。その美しい景色と、寄せては返す波の不思議さは、幼い私の心に深く染み込んで、今でも時々思い出すのだった。
どうやらその瞬間から、私は白昼夢に捕らわれ続けていたようだった。
曖昧な意識の中で、私の足は、あの海を探して歩き始めている。
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