月時雨
広咲瞑
0.白昼夢
空色の真珠を孕んだような美しい潮風が吹き荒れる。焼け尽きた太陽の身代に、地上の守を任された月が、浜辺に凍った光を零し、私と貴方の姿の下の、蒼褪めた陰に初霜が降りる。
「踊ってくれないか、ぼくの、黒い瞳のベアトリーチェ」
冬夜はその大きな指で、私の頬を薄く薙ぐ。猫の甘噛みを思い出すような口付から、二糎の距離を隔てて、黒瑪瑙の瞳が鏡と替わる。ああ、こんなにも――握った指には熱が満ち、呼吸の度に淡い檸檬の薫りが、雀斑だらけの私の鼻を、綺麗な舌で、洗っていく。
頬は、もう、元々の色を忘れたようで、私は冬夜の願いに応えられない。二十と一つの音階を経て、尚余裕を残す筈の私の咽喉は、気違えた蒸気機関を思わせる動きのこの胸の百合の花に惑わされて……、繊細なゆらぎを奏でるにはあまりにも不安定だ。
「冬夜、わたし、解らないのです」
思ったとおり、声と成した一音は裏返り、はっと私は瞳を伏せる。冬夜は笑って膝を折り、私の下から問いかけた。
「なにが――ですか」
「自分の、心が」
私は貴方に背を向けて、音のする方を見上げている。それは風、さらさらと時に弱く、皓々と時に強く、表情豊かな琴を弾く、得体を持たない神の吐息。
屑折れるように、私は冷たい砂へと屈み、その一掴みを押し潰す。
「合わせたこの指の温度のように、また、捕らえた一握の砂のように、それが明白であればよいのに」
「そうだね、であれば、どれ程人は幸せでしょう、――でも」
冬夜のあたたかな大きな手が、私の冷えた両肩を抱いた。ふわり、静かな風が動いて、温い吐息が首に奔った。貴方の囁く愛の言葉が、私の器官に耳朶を食むような恍惚を渡した。
私の右手から零れた砂を、貴方の右手が受け止める。
「それならば、ぼくに対するあなたの気持ちは、あなたにとって不明確かな」
「……そんなことは」
「だったら、そんな悩みは、この海に流してしまえばいいよ」
そして貴方は、右手の砂を風と散らして、私を浜に押し付ける。
「ねえ、春香」
冬夜の声の甘さに、惹きつけられた蜜蜂としての私が、冷たい浜辺に舞踏を刻む。
塞いでは開かれる視界の狭間、雲間に浮かぶ凍結の月に、私は僅かな歌を捧げる。
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