寛政の改革についての私見


 

 藤瀬の独り言にお付き合いいただいてありがとうございます。


 今回は寛政の改革についての私見ということで、本文中でも触れていますが、私が考える寛政期の社会の様相というのは一般的な理解とはちょっと違っています。


 教科書的な寛政の改革を紐解くと、

 ①田沼時代の行き過ぎた重商政策を是正し、株仲間を解散させて自由商業を推奨した

 ②人足寄場によって軽犯罪者や無宿人に職業訓練を施した

 ③囲い米によって飢饉の対策に備蓄米を作った

 ④七分積金で町方に自治会費のような基金を作らせ、橋の改修や道の修繕などインフラ費用に使わせた

 ⑤棄損令によって札差(いわゆるマチ金)からの旗本の借入のうち、六年以上前の物は無効にさせた

 ⑥寛政異学の禁によって朱子学以外を禁止した


 こんなところでしょうか。


 しかし、①に関しては各商人の社史を見ると完全に間違いです。

 株仲間の代表格である十組問屋はほとんどそのまま存続してますし、干鰯仲間など新たな株仲間を設立すらしています。

 ③については天明の飢饉による反省のためと思われます。

 ④は町のインフラ整備を幕府だけではなく民間の資金を使って行おうという試みです。

 ⑤はいわゆる過大な借金によって首の回らなくなった者がこれ以上治安を悪化させないようにという配慮かと思います

 ⑥については昌平坂学問所において扱うのを朱子学だけにしただけで、民間の国学を禁止したという事実は私の調べた限りではありません(海防論などの過激な思想は発行した者を処罰したりしてますが)



 そして、ポイントが②の人足寄場と思います。


 寛政元年は天明の飢饉の終息の二年後になりますが、当時は農業で食えなくなった小規模農民や小作農が大挙して都市部に流れ込んだ時期でした。

 金もなく明日を生きる米もない人達が大量に江戸に流入したわけです。


 そうした人たちにとって、江戸では米を蓄えている米屋の蔵が目の前にある。

 江戸・大坂で起こった打ち壊しはこの辺が原因かと思われます。


 さて、米屋を襲って当面の米を確保したところで、明日の米がないのは変わりません。

 むしろ、明日の米を供給してくれる米屋を壊してしまったことでますます米が不足してしまうという状況。

 何とかして食わねばならない。


 そういった人達に真っ先に思い浮かぶのは、戦国期と変わりません。

 隣の米を奪って食う事です。

 治安は見る見る悪化した事でしょう。


 つまり、当時の江戸では『失業率の上昇による治安の悪化』という、現在の先進国でも良く見かける光景が展開されていたと考えます。

 フランスの黄色のデモなどは記憶に新しいところです。



 そこで『鬼平』こと長谷川平蔵の献策で、石川島に人足寄場を作って職業訓練を行い、明日を生きる技術を身に付けさせようと苦心します。

 また、帰農令によって何とか村方で新しい仕事(農業)に就くように勧めたりもしました。(帰農令には強制力はありませんでした)


 その結果、江戸では棒手振りや屋台の食い物屋などのサービス業に従事する者が増えます。

 寛政期の後に来る化政文化の時代が、こういったサービス業の職業が多いのも、この頃に職人のような長い修行を必要としないサービス業を覚えた者が増えたからだと思います。


 つまり、寛政期の社会の様相は平成の『就職氷河期』の頃と非常に似ている社会情勢かと思います。

 続く化政時代の江戸では『フリーターだらけ』と表現されるのも、あながち間違いでもないかと。

 棒手振りや屋台の食い物屋などは現代の目で見ると先々の安定が少ないフリーターと言えるでしょう。


 となると、民衆の間で不景気だと言われたのもある意味当然で、消費者たる庶民がカネを持っていないのだから、国内消費が盛り上がるはずはなく、結果として寛政の改革によって不景気になったと見えたのでしょう。

 松平定信は社会福祉に重点を置くために、そこそこ金のある町人や富裕農家達には倹約してできるだけ税金で納めさせる政策を取りました。

 田沼の濁りが恋しいのもある種当然かと思います。


 つまり、倹約令で不景気になったのではなく、不景気に対応して福祉を充実させるために倹約させて増税したというのが正しい順番ではないかと思います。



 証拠という訳ではありませんが、この頃の商人の決算資料を並べて比較してみると、天明期に業績が底を打って寛政元年を境に盛り返し始めている商人が実に多い。

 越後屋、山形屋、大丸、岩城枡屋、十一屋、住吉屋、市田麻屋などなど。

 天明の飢饉が未曽有の不景気だったという事かもしれませんが、約三十年続いた寛政の改革が不景気の原因だというならば、業績の回復は寛政の改革が終わる文化年代後半まで待たねばならないはずです。


 また、寛政期に越後屋や山形屋などが大幅な組織変更を行っている事を見ると、事業の再構築リストラによって新たな社会情勢に対応する組織へと生まれ変わったと推測できます。

 リストラには同時に優秀な人材の強化が必須です。


 隣の商人が従業員に有利な制度を採用すれば、こちらも対応しなければ人材は流出する一方になります。

 そのため、各企業が従業員に有利な制度を次々に採用していってます。




 こうして考えていくと、寛政の改革が通説通りの物であるならば『化政文化』ではなく『文政文化』と呼ばれるようになっていなければ不自然です。


 また、ロシアを始めとした諸外国が日本近海に出没するのもこの頃ですので、幕府の喫緊の課題は諸外国にどう対応するかという事のはず。

 そう考えれば、寛政の改革とは失業対策と治安維持によって国内の安定を図ることに熱量が向けられたと考えられるのではないか。

 そして、『外国』があることで『日本国』に帰属する『日本民族』という意識を日本人が持つきっかけになったのではないかと思う訳です。



 まあ、経済指標などカケラもない時代なので、あくまで手に入った決算データからの仮説にさらに仮説を重ねています。

 それを証明することは事実上困難なので、トンデモ論として笑っておいてください。


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コラムの轍 藤瀬 慶久 @fujiseyoshihisa

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