Epilogue:未来の音
生きることは難しいこと。
生きることは大変なこと。
生きることは――とても辛いこと。
そんなことはとっくに解り切っていたのに、今更になって血塗れの体が痛く感じるのはきっと、それすら忘れられる目的というやつを、私が失くしてしまったからだろう。
傍で共有してくれる、たった一人の親友もいなくなって――思い返す度、ページを捲る度に苛まれていた過去の痛みが、単純に苦痛でしかなくなってしまったから。
痛みには許容限界がある。続けばいつか、心は自ずと死を選ぶ。
そうなる前に適当な形で逃避して、人は何とか痛みを忘れようとする。
†
「サボってしまった……」
だから今、己が足を学校に向けることなく、近くの公園のブランコに腰かけて休憩しているのは一時的な逃避――無論、連絡も入れていない無断欠席だ。
携帯端末を起動させて確認した、今の時刻は午前九時とちょっと。
固定電話は持っていないので、とりあえず学校も保護者名義の電話番号に連絡を入れて、そして何の反応の無さに困惑するのだろう――少し前ならそれを受け取って、きっとシズから鬼のような着信があったはずだ。
「……いえ」
あぁ、違う――そもそも無断欠席だって。
記憶を取り戻す以前は、しようとも思わなかったか。
「……いい天気」
ぼんやり見上げた空に流れる雲が、時間をかけてゆっくりと千切れていく。
最近空ばかり見上げるようになったのは、確かな繋がりを欲する私なりの新しい癖なのだろう――この世界のどこにいようと空が同じだというのなら、きっとシズと繋がれている気がするから。
姿が見えなくなったって、思い出までが消えてなくなるわけではない。
だが消えないからと言って――それが救いになるとは限らない。
タミが死んだ、という現実すらどこか、中途半端にしか受け入れられていない私に、鮮明な思い出はかえって毒だった。じくじくと、じわじわと、蝕むように傷跡を腐らせていく大切な記憶。そこにシズとの思い出も加わって、いよいよ腐り落ちる寸前の体を引きずりながら、何とか私は生きている――こんなゾンビのような生き方を、果たして生きていると呼べるのかはわからないけれど。
「……ねぇ、タミ」
ブランコを揺らしながら、揺れる心が思わず零す。
あなたは本当に、こんな世界で私を生かしたかったの?
ただ傷ついて、失うだけの悲しい世界を、毎日苦しみながら。
一人ぼっちで生きていくことが、等身大の幸せなの?
ずっと一緒にいることを放棄してまで――もしそうなら。
「私には解らないわ――あなたの言う、幸せが」
幸せなんて、生きるなんて――ただ重くて辛いだけじゃない。
†
「――ここは」
公園にいることにも飽きて、私は帰路をゆっくり歩いていた。
そういえば朝方のサイクロポリスはあまり知らないな――そう思っていたけれど、やはり普段と大して変わりはない。道行く人々は好奇の視線を私に向け、この時間帯だとむしろ、制服姿の私の方が嫌に奇抜で、目立ってしまっているらしかった。
「最後に来たのは、一か月前ね」
そんな中、私の足がふと止まったのは、例のお気に入りの本屋。
記憶に残るタミの音が時折聴こえ、シズや先生や博士と時を過ごした、喫茶店の併設してある本屋である。まだ朝の早くだからだろう――「close」の看板をぶら下げる入口に、思わず零れたのは自嘲的な笑み。
「……バカみたい」
聴こえるはずがないのだ――死者の音など、どんな手段を用いても。
それすら知らず、幻想を抱えていた日々が、この本屋には蓄積されている。
最近来なくなったのは、もうここに来る理由がなくなったから。
タミの死が決定的なものになって、音を探す意味もなくなって。
一人の時間をあえて作りたい環境から追い出され、思い出すのも怖くなって。
だから意図的に避けていたのかもしれない。
記憶を取り戻す前の私が、無意味に縋っていた希望から、目を逸らすために。
「……シズ」
墓守は――シズはどんな気持ちで私の話を聞いていたのだろう。
タミの音がする、と無邪気に喜ぶ私の姿を、コーヒーを片手に笑いながら。
心の中ではどれだけの憎悪と憐憫が渦巻いていたのか――想像すると、彼女が何も言わず出て行ったことが、帰ってこないことがむしろ、至極当然に思えてくるのだ。
それを嘘吐きなんて責め立てた、あの日の自分の首を絞め落としたくなる。
せめて謝らせてほしいと、願ってももう叶わない。
生者と死者が交わらないのは当たり前で、それは生者同士でも同じで。
シズと二度と擦れ違わない世界にいるのだ――あぁ、本当に私は。
いつだって手遅れの物語を、そうなってから嘆くことしか――
「よっ、女子高生! 一か月ぶりじゃない?」
その時脳内に響いた音は、私がずっと探し求めていた音。
主を失って久しい――もう聴こえるはずのない音。
太陽の光が差す朝、網戸を開けた時のような。
人知れず流れる小川のせせらぎに、花弁をそっと浮かばせたような。
埃の匂いがする図書室で、分厚い本をゆっくりと閉じた時のような。
どれにも当てはまらないからこう表現するしかない――優しい音。
「でもダメだよ、学校サボっちゃ……それとも何かわけあり? 良ければお姉さんが話を聞いてあげようか! ちょうど今、店入るとこだったしね!」
「――――」
そう言って返事を待たず、扉に鍵を差し込んだ彼女の声と顔すら。
記憶として思い出したそれと瓜二つで――思わず私は呟いた。
「タ、ミ――?」
「……んん?」
細くて流れるような、ふわふわの茶髪をポニーテールにしたその人は。
丸い焦げ茶色の瞳を持つその人は、不思議そうに首を傾げて、
「あたしの名前、教えたことあったっけ?」
どこか困惑したように、ふにゃりと笑って見せた。
†
「まだ開店前だから遠慮しなくていいよ」
私と彼女だけの静かな空間は、見慣れた店内であっても違う世界のよう。
否、静寂だけが理由でないのは明らかで――目の前に「ショートケーキでいいよね?」と、一緒にアイスティーも置いた彼女の顔と声と音が、どこまでも私を困惑させる。
「それにしてもいつ名前教えたっけ? あたしは君のこと、名前までは知らないんだけどなぁ……話しかけたのも今日が初めてだよね」
「あ、いや、その」
「まぁいいや――一応自己紹介しとくね。あたしは
よろしく、と差し出された手を、恐る恐る握り返す。
顔と声、そして音、トドメに名前――さすがにあのタミだとはもう思わない。
記憶の中の彼女より遥かに大人びて、三年どころか十年ほど歳を重ねていそうな民子さんの正体を、しかし察するのは容易かった。
彼女はおそらく、タミのオリジナルなのだ。
使い道を知ってか知らずか、博士に遺伝子を提供したのが彼女。その遺伝子を基に作り出されたデザイナーズベビーが、私のよく知るタミ。まさかサイクロポリスに、どころかこんな近くにいたとは思わなかったが――道理で居心地良く、あの子によく似た音が聴こえたはずである。
「君の名前は?」
「……
「うん、よろしくね――成美ちゃん」
ふにゃりとした笑顔を浮かべる民子さんは、私をナルと呼ばない。
彼女はタミであってタミじゃない。だから当然のことだ。
細胞単位でタミと同一人物で、発する音もタミそのものでも。
だけど私の愛したタミじゃない、全く違う人生を歩んだ別の人。
出自からして違う二人が、まったく同じ人生など歩めるはずもなくて。
なのに、つい考えてしまう。あの日、あの場所で、私が失敗しなかったら。
私なんかの為に命を削らなければ、こんな未来だって。
もしもの世界が、あり得たのかもしれない――なんて夢物語を。
「で、いったい何を悩んでるのかな」
「悩み……」
「こう見えて、あたしも色々経験してるからね――解決はできないかもしれないけど、どう? 誰かに話せば、背負った荷物も少しは重くなくなるんじゃないかな」
お得意さんが元気ないのは、あたしも見てて寂しくなるからさ――そう言う彼女がタミでないことは、はっきり解っているけれど。きっと彼女の優しさの引力が、偶然私を捕まえただけだとは、分かっているけれど。
そのふにゃりとした笑顔が、私の心を容易く抉じ開ける。
その甘くてくすぐったい声が、私の心を優しく撫でる。
当たり前だ――そのくらい大好きだったんだ、タミのことが。
「……大切な人達がいました」
アイスティーで湿った口が、選びながら言葉を紡ぐ。
「大切で――大好きな人と、好きな人が。私を私にしてくれた人と……私じゃなくなった私を、ずっと支えてくれた人……。二人のこと、私は本当に、大切で……なのに私は、二人の為に何もできなくて――ずっと二人に守られていたことすら、知らなくて」
全てを説明してもきっと理解してもらえないだろう、と思って零し始めた言葉は、しかし端折り過ぎて意味の分からない、酷く曖昧で抽象的な独白で。
けれど民子さんは無言で、時折頷きながら聞いてくれた。
段々と尻すぼみになっていく、何も知らなかった少女の懺悔を。
「何もできなかったから、何も知らなかったから……だからせめて、二人の願いは叶えたくて、頑張って生きてみたけど……こんなに苦しいなんて、思いもしなかった……!」
蘇った記憶の中で託された願い。
シズが記録した三百八十二回分の願い。
背負うには重すぎて――だけど私が果たさないと、タミが散らしたたった一つの命も、シズが抱え続けた罪悪感も、全部が無かったことになってしまいそうで。
だけど、だけど――ねぇ、タミ――
「ただ傷ついて、失っていくだけの世界で……生きていたって苦しいだけじゃない……! 悲しくて辛くて、報われもしないなら……どうして私に、生きろなんて言ったの……!? 何の為に、私は生かされたの……!? もう分からないよ、タミ……!」
寂しい――寂しくて寒い、この世界で。
隣に誰もいない温度が、毎日脳裏を過る思い出が、選び損ねた幸福が。
二度と取り戻せないのなら――生きていたって、仕方ないじゃない。
「……その人達には、もう会えないの?」
「……」
やがて民子さんの問いに、私は嗚咽を噛み殺して頷いた。
タミはもうこの世にいない。シズはきっと会えない。
守りたかった物、守ろうとした物――掌から零れ落ちて、もう二度と。
「――そっか」
どこか困ったように微笑んで、民子さんは自分のアイスティーを一口。
永遠とも思える沈黙が流れ、彼女は「難しいね」と。
「詳しいことは分かんないけど……辛いこと、悲しいこと、確かに生きてるからいっぱいあるんだと思う」
でもね――その時、私の知ってるあの子の面影がチラついた気がした。
重なるように、同調するように溶けていって、やがて。
「でも、喜びを感じられるのもきっと、生きてる人間だけだよ」
あぁ、その言葉は――その言葉が。
その言葉が、私を向こう側から引き戻したんだ。
その言葉が、私に今を与えたんだ。
「成美ちゃんはさ、多分だけど……いつも他人を理由に行動してきたんじゃないかな。選ぶ時も、決断する時も、それこそ生きようって思った時も」
「……!」
「他人を理由に動くのは、すごく尊くて敬うべき理念だけど……でもすごく脆くて、すぐに壊れちゃうから。自分が正しいと思うこと、為すべきことが何か分からなくなって――結局、本当にやりたかったことまで忘れちゃう」
あたしにも似たような経験があってね、と民子さんは苦笑いして、
「運命を切り開けるのは自分自身だけだから――それを見つけてほしくて生かされたんじゃないかな。だからまずは、自分が何をしたいから、どうなりたいから生きるのか……それを見つけなきゃダメだよ、成美ちゃん」
「私の……したいこと……」
私のしたいこと――したかったことは、タミと一緒に生きること。
だけどそれはもう叶わなくて。だから私は自分の力で、自分の意思で。
自分自身の願いを見つけなくちゃいけない。
自分自身の願いと向き合わなくちゃいけない。
私は何がしたい? 私はどうなりたい? 私は――どんな生き方を。
「――ただ、もう一度」
「うん」
「ありふれた世界でいい。ただいまって、おかえりって、おはようって、おやすみって――言えるごく当たり前の世界が欲しい」
失った時間はもう戻らないというならば。
完全に元通りになどならないというのならば。
それでもいい――どれだけ傷ついて、泣きそうになってしまっても。
私の存在が彼女を傷付けるだけだとしても、それでも。
「もう一度――シズに会いたい」
星のない夜に見上げた、満月のような音を持つ彼女を。
新月の浮かぶ空のような音の、サイキックを抱く彼女を。
三年間ずっと一人で何も言わず、墓守を続けてきた彼女を。
大嫌いな私の話を、それでも笑いながら聞いてくれた彼女を。
今度は私が救いたい。その寂しさに寄り添いたい。
傷が癒えることなどなくても――涙に触れていたいんだ。
「……それは、さっき言ってた大切な人?」
「はい、二度と会えないかもしれないけど」
それでも私は、何度でもシズを探し続けるだろう。
今日、明日、明後日、一週間後、一か月後、一年後。
どれだけかかっても構わない。私がそうしたいと思ったから。
「それでも探し続けます――言いたいこと、沢山あるから」
だからこれは、紛れもない私の願い。
辛くて悲しい世界で――やっと見つけた、私だけの理由だ。
†
「水曜日は……確か魚が安い、はず」
店を出た私は、そのまま足をスーパーに向けて歩き出す。
コンビニ弁当の残骸塗れだと、料理が好きだったシズは難色を示すだろうから。
私の帰る場所がそうであったように――今度は私が、シズの帰る場所になる。
タミの代わりにはなれないし、相変わらず嫌われっぱなしかもしれないけれど。
私がシズのことを嫌いになれない以上――諦めてなんてあげないのだ。
「掃除もしなくちゃ……あと他に買う物は」
あの本屋兼喫茶店にはしばらく行かないだろう。
民子さんは「また来てね」と言っていたけれど――私もちゃんと、向き合わなくちゃいけないから。悪戯に決心を鈍らせるほど、愚かではない。
次に訪ねる時はきっと、あの星のない夜の満月の音を連れて。
私の聴いた音が幻でなかったことを、自慢してやるつもりだ。
「――あ、そうだ」
あとは、すっかり枯らしてしまった、竜胆の苗をもう一度買おう。
あの優しい音を思い出せるよう、野紺菊も一緒に。
水をあげて、花を咲かせて、種を採って、そして。
そしていつか――タミの眠る場所を、花畑に変える為に。
一歩踏み出す度、足音は軽やかに、速度は増していく。
急ぐ必要はない――生きている限り、私は前に進んでいる。
進み続ければ、歩き続ければ、いつかその先で会えるだろう。
会いたい人にも、失われた愛にも――きっといつか。
その時になれば言えるだろうか。
ちゃんと生きたよ、と胸を張って。
私の幸せを見つけたよ、と笑顔を浮かべて。
「――っ」
その時、タミの最後の言葉が、ふと聴こえた気がした。
音ではなく声――だからこれは、私の中に在るタミの言葉。
消えてなくなったりはしない。私の傍にいつもいる。
胸に抱いた彼女の欠片に呟いた。
いつかその欠片が、綺麗な花を咲かせると信じて。
「私も――ずっとずっと、大好きよ」
†
以上が、欠けていて不完全だった、私についての
なんともつまらない、それでいて滑稽な物語を、しかし私は記し続ける。
いつか本を閉じ――あなたに読んでもらう、その時は。
あなたが見つけた種で咲いた、私だけの花を携えて。
Lost Note Cemetery 溝呂木ユキ @mutemarizumu
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