その言の葉は、いつわりか、まことか

斉凛

第1話

 遥か昔、絢爛豪華に彩られた花街も、文明開化から幾数年、今やすっかり草臥れ、侘しい佇まいに変貌した。それでも、どんな時代も男は女を求め、遊女の仕事がなくなる事はない。

 とある妓楼に明里あけさとという名の花魁がいた。ほっそりと華奢な身体と、繊細な美貌。そして今時の遊女には珍しい深い教養を持っていた。


 明里が三味線を引きつつ、都々逸を口ずさんでいる。


 ──惚れて通えば 千里も一里 逢えずに帰れば また千里。


 囁くように唄う明里の声は、並みの男ならその声だけで惚れてしまいそうな、しっとりとした色気を含んでいた。


「姐さん、文が届きましたえ」


 明里付きの禿・鈴が、文を持ってくる。恐る恐る差し出すと、明里は涼し気な切れ長のまぶたを伏せがちにし、ちらりと文に視線を落とした。

 鮮やかな紅葉の枝に結びつけた、その粋なさまを見て、すぐに誰の文かわかった。


「今時こんな古風な遊びをなさるのは、犬神大佐くらい……ああ……そういえば、准将におなりんしたか」


 昨年、他国との大戦で大活躍をした功績を認められ、三十半ばという異例の若さで准将になった。犬神准将はいまや国の英雄である。そのせいか、以前はせっせと明里の元に通い詰めた上客であったのに、最近は少しご無沙汰だ。


「どうせ……あちきに会いに来ない言い訳でありんす」


 鈴から枝をそっと受け取ると、結ばれた文を取りもせず、おもむろに葉をむしり取った。鈴があっと驚く間に、薄様の紙にさらさらと一言書き付ける。


『あちきに秋(飽き)たと言いたいんでござんしょ? あちきの心は葉の落ちた枝の如く、寂しいでありんす』


 流麗な筆運びに満足し、枝に結びつけた。


「このまま旦那に届けるように」


 明里は残された紅葉を宝物の様に、黒漆に蒔絵の施された文箱にしまいこんだ。手紙も見ずに、葉をむしった枝をつきかえす。とても無礼な態度に見えて、これが明里と犬神の日常であった。




 その夜、犬神准将は明里の元にやってきた。月の無い暗闇に、燭台の灯りがぼんやりと部屋を照らし、怪しくゆらめく。夜のしじまに、男と女の吐息が響いた。

 犬神は布団の上でだらしなく座り込み、明里を後ろから抱きしめる。


「明里……お前の機転が効いたところが好きだ。他の女がつまらなく思うよ」

「文明開化のこの時代、遊女が詩歌や書を嗜むなんて、時代遅れでありんす」

「俺は頭の悪い女は嫌いなんだ」


 色気を含んだ低音の囁きが耳を撫でる。しっとり汗ばむ女の肩を撫でながら、首元に赤い花を残した。


「旦那。跡がつくのは……花街では野暮でありんす。あちきを身請けしてからにしてくだんせん」


 明里は白く絹の様に滑らかな素足を、そっと犬神の足に絡ませた。顔をわずかに後ろに傾け、黒々と光るまなこで犬神を見上げる。

 艶めいた仕草をうけ、犬神は曖昧な笑みでかわす。

 素肌に軍服の上着を肩だけに引っ掛けた姿は、遊び慣れた色香を漂わせ、うっかり勘違いしてしまいそうだ。自分は愛されているのだと。

 本気で愛しているのなら、身請け代を払うくらいの甲斐性はある。独身で五月蝿い親戚がいるわけでもない。それなのに……三年も通って贔屓にしてる割に、一度たりとも身請けしてやろうなんて言った試しがない。


「天下の帝国軍の准将様が花魁の一人も身請けできないほど、懐が寂しいなんでことはないでありんす?」


 明里が犬神の腕から逃れ、振り返ってよろめくように片腕をつく。近くにあった着物をひっかけ、白い素肌を隠し婉然と微笑む。その妖艶なさまに犬神は笑みを返し、明里の腕を掴んで引き寄せた。

 明里の首筋から胸元へと唇を這わせ、柔らかな双丘の狭間に顔を埋めて言った。


「軍人ってのは……いつ死ぬかわからん商売だ」


 明里は思わず身を振るわせ、ほう……と溜息を零す。


「死ぬ……だなんて哀しい事言わないでくだんせん。旦那が死ぬなんて考えるだけで、あちきの心が壊れそうでありんす……」


 そっと犬神の頭を胸にかき抱き、自分の顔を見せないようにした。愛しい男が死ぬかもしれないから、震えている。そう見せなければ。

 

 ──決して、この男を殺そうと思っていると悟られてはいけない。


文民統制シビリアンコントロールなんて……馬鹿げた事がまかり通る国だからな。戦争をやりたがる馬鹿が掃いて捨てるほどいるんだよ」

「軍人さんなのに、戦争が嫌いでおざんす?」

「軍人だからこそ嫌いなんだ。勝てない戦争はしない、勝っても旨味の無い戦争はしない。戦争の玄人だからこそ、戦争が始まる前にそういうのはわかる。だが……戦争のいろはも知らぬ政治家は、それもわからん愚か者なのさ」


 また溜息がこぼれそうになって、明里は犬神の頭に顔を埋めた。


 ──この男を殺せと命じるのは、その政治家の頭。なるほど、だから殺したいのか。


「あちきには難しい事はわかりゃんせ……先の戦争では旦那の活躍で大勝利、隣の小さな国くらい、恐るるにたらず……なんて新聞でも言って……」

「あの勝利がまぐれなんだよ。勝利に溺れて自軍を過大評価し、小さな国と侮って敵軍を過小評価する。その時点で勝てる見込みもないさ……」

「でも……旦那なら……」


 そう……言いかけて、唇を塞がれた。深くむさぼる様な口づけと共に、胸を揉みしだかれる。


「つまらねぇ話はこれで終わりだ。現世うつしよの辛気くさい話、花街ココでは野暮ってもんさ」


 押し倒され抱きしめられると、明里は頭の芯がぼーっと痺れた。

 嗚呼……いけない。今日も殺せない。この人に触れられるだけで、身体が火照って、殺せと命じられてる事さえ忘れてしまう。

 この人が寝てる隙に……と思っても、犬神はあまり無防備に寝顔をさらさない。


 ──何人も人を殺してきたっていうのに……今更何を躊躇うっていうのさ。


 遊郭で人が死ぬ事はそれ程珍しい事ではない。遊女から病気をもらったんだ……昇天して逝っちまったんだ……などと言われるソレが、遊女の殺しだと気づかぬ輩も多い。

 ろくに眠りもせずに、日が昇りはじめたまだ薄暗い刻に、犬神は服を身につけた。


「あちきが旦那を忘れぬうちに……また来てくだんせん」

「また来るよ。明里」


 気だるく倒れ臥す明里の頬に唇を落として犬神は帰った。

 次こそは旦那を殺さないと。そんな事をおくびにもださず、明里は婉然と微笑む。




「明里! 早く犬神を殺せ!」


 口の端に泡がつく程、がなり立てる老人の唇に、明里は人差し指を押し立てた。


「旦那。そんな大きな声をだしたら、他の人に聞こえますえ」


 はっとしたように老人は小声になる。


「お前程の手だれが手こずるなど……よもやあの男に惚れたと抜かすか?」

「いいえ……存外用心深い男で、なかなか隙を見せずに苦労してるのでありんす」


 媚びる様に顎から首へ……そして胸元と、撫でながら言ってみたが、ぱしりと手を振り払われた。


「卑しい遊女の分際で触るな」


 花街にやってきておかしな話だが、この老人が明里を抱いた事は一度もない。正体を隠したお忍びの客……という振りをした、殺しの依頼の為だけだ。

 犬神准将。国民の間では「英雄」と持て囃す者も多く、軍部が力を持つ事に反対な政治家達にはさぞ目障りだろう。


「あの人はあちきに首ったけ。何度も通ってくださんす。次こそは……」


 そう言いかけたところで、老人が立ち上がった。視線の先には禿の鈴がいる。老人に睨まれ、鈴は怯えた様に身を震わせた。


「そうか……なら、次に殺し損ねたら、この娘とお前を殺すぞ」


 思わずぞっとして表情を引きつらせる。自分を売った家族の事など欠片も覚えてないし、妓楼に義理立てする程の情もない。だが……この子だけは別だ。姐さん、姐さんと慕ってくれる鈴の事が可愛い。


「わかったならさっさと殺せ。いいな」


 それだけ言って老人は帰っていった。もはや躊躇う猶予もない。次こそはあの人を殺さないと。



 雪が降っていた。こんな寒い日じゃ、客なんて来ないだろう。無意識に畳の縁をなぞり、退屈を持て余す。

 煙管を咥え、窓から外を眺めた。いつもは賑やかな花街なのに、雪がまるで音を吸い込むみたいに静かな夜だ。


 ──人を殺すなら雪の日がいい。例え悲鳴があがっても、雪がかき消してくれるだろう。


「……姐さん」


 鈴が震えるような声で明里を呼ぶ。ゆったりと振り返ると、まなじりに涙を滲ませ、明里の袖の端を掴んだ。


「姐さん。あたいは殺されてもいいから……だから犬神様を殺すのは辞めてくだせぇ」

「何を馬鹿な事を言ってるんだい?」

「だって……だって……姐さんは、犬神様に惚れてるんでしょう?」


 この子がこの妓楼に来て何年経ったか。年が明けたら新造としてお披露目をする予定だ。末は花魁か……そんな噂も立つ程に器量の良い娘。花街に売られたというのに、すれた所のない、いじらしい子。

 明里は優しく微笑んで、鈴の頭を撫でた。


「まだ男も知らない生娘が。何を生意気な事を言ってるんだい。あちきは旦那を愛してないし、旦那だってあちきを愛してるわけ……」

「犬神様が最後に来た日から一週間。そろそろ来る頃になると、いつも姐さんはそうやって窓の外を見ている。それは……待ちこがれているからでしょう?」


 そんなつもりはなかったが、そんな風に見られていたのか。


「そんなんじゃないよ。ただ外を見たくなっただけさ」


 自分の髪を撫で付け、簪に触れた。銀の土台に珊瑚の花と真珠があしらわれた贅沢な簪。


「その簪は犬神様がくださったもの。そろそろおいでになる頃合いになると、姐さんは決まってそれをつける」

「それは……自分が贈った品を遊女が身につければ、客が喜ぶから……」

「その簪を身につけて、窓の外を見る姐さんは、一番美しく、せつなくて、女のあたいも、思わず惚れそうなのに」

「そんなんじゃ……」


 そう言いかけ、雪の降る道を軍服姿の男が歩く姿が、視界に飛び込む。一瞬犬神かと思った所で、鈴が手鏡を取り出し明里に差し出した。鏡に映る自分の姿にどきりとする。こんな顔をしていたのか。まるで恋に浮かれる生娘みたいじゃないか。気恥ずかしくて眼をそらした。

 間近まで来て、軍服を着てるだけの別人だと気づき、恥ずかしくていたたまれない。鈴は明里の手を握りしめて言った。


「好きな人を殺してしまったら、姐さんは一生後悔します」

「……もし、あちきが旦那を好きだとして、だからといって靡きもしない男に義理立てする必要なんざないよ」

「犬神様だって姐さんの事が好きです」


 鈴が何故そこまで言い切れるのかわからない。すっかり火の消えた煙管をトンと、煙草盆に打ち付けて、また火をつける。煙管を口に咥え気持ちを落ち着かせる。


「あちきは旦那のただの遊び相手さ」


 煙と共に想いを口に吐き出して見ると、存外寂しくて、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 鈴は首を横に振るわせ、恐る恐る口を開いた。


「禿仲間が他のお客さんから聞いた噂で……」


 犬神准将は昔から遊び慣れた男だった。だが遊び慣れているからこそ飽きるのも早い。今までなら持って半年。それなのに明里には三年も通っている。しかも明里の元に通えぬ日は他の女に行く事も無い程首ったけだと。


「お前の考え過ぎだよ……」

「あのお年で、あの身分。当然縁談だっていくらでもあったのに、全て断ったって」


 あの人を殺せと命じたあの老人も、自分の孫娘との縁談を断られた腹いせに、殺そうとしてるのだと鈴は言う。


「まさか……」


 ──あの人があちきを本気で愛してる?


 そう思うとざわざわと心が騒いで落ち着かない。三味線も筆も持つきになれず、ぼうっと煙管を咥えて物思いにふけってしまった。あまりにぼうっとしていたから、騒がしくなっていた事に気づくのが遅かった。


「今日も色っぽい女だな。明里」


 耳慣れた低音の響きに思わずまなこを見開いた。


「旦那。どうして……」

「ああ……花街のしきたり? 先触れをだしてから? 面倒くさい。惚れた女の所に通うのに、守っていられるか」


 惚れた女……と言われるだけで心の臓が跳ね上がる。思いかえせば、犬神は一度たりとも、惚れただとか愛しているとか言った試しがない。

 見れば犬神の軍帽にも軍服にも雪が降り積もっている。まるで慌てて駆けつけたように。それ程自分に会いたかったのだろうか? 想像しただけで心が激しく揺れた。

 雪を振り払って乱暴な仕草で脱ぐ。白いシャツのボタンを緩めると、明里を抱き寄せた。


「寒い……暖めてくれ」


 凍える様に冷たい頬に触れ、ほう……と息を吹きかける。犬神は嬉しそうに首筋に口づけを落とし、そのまま雪崩落ちる様に明里の膝に頭を落とした。軍帽を手で弄び、顔の上に乗せて小さく囁く。


「明里……身請けしてやろうか?」


 聞き間違いじゃないか……と一瞬疑って、その後もし身請けしてもらったら、これからずっと一緒に暮らせると胸が弾んだ。想像しただけで嬉しくて嬉しくて。

 帽子を取り除くと、犬神はぞっとする程意地悪な笑みを浮かべていた。起き上がって明里の肩を抱き寄せる。


「そんな顔してくれる程、俺の事を好いてくれていたのか……嬉しいね」

「も、もちろん……あちきは……旦那一筋……」

「一緒に暮らすか? 祝言でもあげるか?」


 明里の手を握り、耳元で甘い未来を囁く。その言葉の甘さにすっかり絆された。鈴に謝ろう。やっぱり自分はこの人が好きだから殺せない。

 明里の表情をじっくり堪能した後に、犬神はくっくと笑って言った。


「嘘だ。いつもつれない明里が可愛い顔をする。たまには嘘をついてみるもんだな」


 揶揄われた、弄ばれた。遊びだと解っていたはずなのに、うっかり期待してしまったせいで、酷く落ち込む。

 可愛い鈴を犠牲にしてでも、この人を殺すのを辞めようかと思ったのに。酷い男。気づかぬうちに涙が滲む。その目尻を犬神が舐めとった。


「まさか……泣くとはな、少し虐めすぎたか? すまん、すまん」


 子供をあやすかの様に、明里の頭を撫でる。


「あちきの心を弄ぶなんて、旦那も酷いお人。今日は床を別にしておくれやす」

「おいおい……それは勘弁してくれ。悪かった。謝るから……」


 明里が拗ねた振りをすれば、慌てた様に犬神は気を使う。遊女と客の駆け引きのはずなのに、いつもより甘くて、痺れる様に切なくて。


 その日……犬神は激しく明里を抱いた。長居をするのは野暮だと言って、いつもは日も登らぬ暗い時分に帰るというのに、日がすっかり空けても明里の隣で眠っていた。

 

「お天道様の下で旦那の顔を見るのは、初めてやねぇ」


 日の光に照らされると、黒髪が少し透け、茶色に光り輝いて見えた。顎に伸びはじめた髭を撫で、首筋に触れ……簪を引き抜いた。




 この人にもらった簪。これでこの首をついてやろうか。

 そしてその後自分の首を突き、心中してやろうか。


 ──どうせ弄ばれて捨てられるだけなのだから。


 簪を振り上げ……一気に振り下ろす。

 ざくり!




 良い音がして畳に突き刺さった。

 犬神の首からほんの少しずれただけ。それでも確かに殺気はあった。

 それなのにまるで目覚める気配もないほど熟睡している。英雄と持て囃される軍人とは思えぬ無防備さ。

 この人を殺して生き延びたら、自分は後悔するだろう。……そう想ったら殺意がすーっと引いていった。


「本当に……馬鹿な人」


 簪を投げ捨ててその胸にすがりついて揺さぶる。涙が滲みそうになるのを、必死に堪えて。


「旦那……」

「……ん……なんだ?」


 まだ眠そうにぼやけた声を聞いて、愛おしさが思わず唇からこぼれ落ちそうだ。


「愛してる。旦那だけを愛してる」

「……そうか。ありがとな」


 明里の身体を抱きしめ、耳元で「俺も愛してる」と囁いた。その言葉が、また嘘ではないといいと、本気で思った。


 軍服をきっちり着込んで、軍帽を被った犬神が立ち上がりかけた時、明里はその袖を引いて引き止めた。


「あちきが旦那を忘れぬうちに……また来てくだんせん」

「また来るよ。明里」


 もう来ないで。貴方を殺したくない。あの老人はもう私を許さない。鈴を殺して……その次は自分。貴方を殺すか、自分が死ぬか。

 それなら自分が死のう。……そう思いつつ、犬神とまた会いたいという欲がでて、なかなか思い切れない。


 ──次に旦那に会ったら、それを最後に死のう。


 そう、心に決めた。




 犬神と最後に会ってから、一月がたった。こんなにご無沙汰は初めてだ。もしや明里に飽きて、あの日を最後の戯れに揶揄ったのだろうか?

 そう思いはじめた時、鈴が大慌ててでやってくる。


「姐さん、姐さん、大変、大変」

「どうしたんだい?」

「犬神様が……姐さんを身請けするって」

「……へ?」


 あまりに唐突で、まるで現実感のない話だった。驚きすぎて、夢かと思っている間に、全ての手続きが終わって、あっさりと明里は自由の身になった。

 遊女の派手な着物ではない、上品な貴婦人の着物を着せられ、旦那の使用人だという人が、明里を迎えにきて馬車に乗り込む。未だに明里は夢のような気分だった。

 立派な門構えの屋敷につき、妙に静かなお屋敷に入る。奥の間で旦那が待っているのだろうか?


「こちらでございます」


 慇懃な様子の使用人にふすまを指し示され、そっと開けた。


 そこに犬神はおらず、代わりに季節外れの美しい桜が一枝。漆の枝に玻璃の桜でこしらえた、見るからに贅沢な品だ。その枝に文が結びつけられている。

 開いて最初に飛び込んできた文字は──



『遺書』



 思考が追いつかず、目眩がした。


「旦那様は先日戦地に行かれました。もし自分が死んだら、遺産の全てを明里様に譲るようにと」

「……そんな……ま、まさか……」


 沈痛な面持ちで頭を下げて告げた。


「先日電報がありました。ご立派な最後だったと」


 意識がぷつりと途切れ……闇に堕ちた。

 犬神の奥方になってこの屋敷の縁側で蛍を眺める。二人で杯を傾け、笑いあい、睦言を囁き合って。そんな夢だった。




 街は不思議な静けさとともに、異様な興奮で包まれた。英雄の名誉の戦死を悼み、個人の偉業を讃え、その恩に報いるべく、憎き敵国を必ずや討ち滅ぼすべし! そんな声高な声に人々が歓声をあげる。犬神准将は死して「神」となり、神社まで作られるという。

 そんな俗世の興奮が、他人事のように明里の側を通り過ぎて行った。

 荒っぽい軍人の手とは思えぬ程に、流麗な文字で書き綴られた『遺言』にはこう書かれていた。



 ──これをお前が読む時、俺は死んでいるだろう。

 明里。お前を愛していた。何度身請けして所帯を持とうと考えたか解らない。だが未練が残れば戦地で武器を振るう手が鈍る気がして、言う事ができなかった。

 どうせ死ぬならお前に殺されてやればよかった。死に際にお前の顔を見て、愛する女の腕の中で死ぬほど幸せな事はないだろう。



 自分が殺されそうだと解っていたのか。英雄だ、名誉な戦死だと持て囃されるより、遊女に殺されて花街で死んだ……などという不名誉な死の方がよかったと言うなんて、本当に馬鹿な男。


 ……でも、殺してあげればよかった。あの日、突き刺せなかった簪を手にとって、固く握りしめる。

 あの時殺しておけばよかった。そんな後悔をするとは思わなかった。

 遺書の続きに眼をやり、雫がぽつりと紙に落ち、墨が滲む。



 ──明里生きてくれ。生きて俺の事を語り継いでくれ。英雄じゃなく、ただの男としての俺を。お前が語り続ける限り、俺の魂はお前の側にいる。


「酷い……人。本当に、身勝手てで、我儘で……」


 後を追って死ぬ事も、犬神を忘れる事さえも許してくれないのか。ぽっかり開いた心の穴を、狂おしい程の嘆きを抱えたまま、愛した男の生き様を語り継げというのか。

 犬神との想い出の日々を思い返すだけで苦しく、言葉にするだけで崩れ落ちそうなこの身で……そんな事を続けたら、生ける屍の如くぼろぼろになりそうだ。


「酷い……本当に……酷い」


 濡れ光りした明里の漆黒の瞳は、恐ろしいほどに虚ろで、奈落の淵のように底が知れない。

 畳の上に座り込み、明里は強く簪を握りしめた。


 ──簪を持つ手を振り上げ、ぽつりと『言の葉』を零す。


「そんな約束、守ってあげない」


 ──そしてその手を振り下ろす。


 ざくり。

 遠く庭に咲く、椿の花がぽとりと落ちた。

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その言の葉は、いつわりか、まことか 斉凛 @RinItuki

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