サピエンチア

三津凛

第1話


サピエンチアが修道会に入ることは、あらかじめ予定されていたことなのかもしれぬ。

父母も、兄弟も絶えたところでサピエンチアは、とある修道会に半ば攫われるようにして洗礼を受けた。

下界と接触を断ち、ひたすら聖書を読み祈りを捧げ、朝早くから畑に出る日々はたちまちサピエンチアを強くした。彼は痩せていたが、芯はなかなか剛健な男であったのだ。

説教の飲み込みもよく、彼より年長の修道士の中にはそれを妬む者もいた。彼の元の名前は平凡なものであったが、その切れる頭を讃えて教会長はサピエンチアと洗礼名を授けた。

それは叡智という意味である。

サピエンチアは終生この名を使い、元の名前はそれから一切口にはしなかった。



サピエンチアが修道会に入ってから、4年ほど経った時、教会長が変わった。彼は今までの方針から一転して、むしろ修道士は下界に積極的に降りていくべきだと説いた。

古参の修道士たちがあからさまに反発する中で、教会長はサピエンチアに白羽の矢を立てた。サピエンチアは修道士たちの中で一等若く、老獪な新しき教会長の御し易い男であったのだ。

「サピエンチアよ、お前は誠に賢く、主の御心を理解しておる。か弱く堕落した人々に、教えを説いて回りなさい」

サピエンチアは一人、下界に降りて説教をして回った。そこはサピエンチアのかつて生活していた里である。里は変わらず、痩せた土地であった。サピエンチアはそこに肩を寄せ合うようにして日々を送る人々を、心底憐れなるかな、と思った。

人々はサピエンチアをあの痩せっぽちの坊やであるとは思わない。サピエンチアは子どもを集め、親たちに聖書を説いて回った。

行商人を呼び止め、時にパンとワインを共に分かち主へ祈りを捧げた。

次第にサピエンチアは下界にも馴染み、サピエンチアのために大工たちが小さな小屋を建てて説教をそこでするようになった。

同僚の修道士たちはそれを良くは思わなかった。

だがサピエンチアは教会長から一目置かれ、古参の修道士を差し置いてその補佐をするようになった。

そこで初めて、サピエンチアは権力を知ったのだ。サピエンチアは若いながらも、人々から敬われるようになった。それは今までサピエンチアには向けられることのなかったものである。彼はその若さゆえに、傲慢になっていった。人々と権力の賞賛とが彼を酔わせたのである。



「サピエンチア、お前はどうも最近遠慮がなさすぎる」

ある時、2歳上の修道士からサピエンチアは叱責された。だが彼は怯むことなく、言い放った。

「遠慮がなさすぎるというわけでなく、あなた方が閉じこもりすぎるのですよ。教会長様をご覧なさい、彼のなさるように我々もするべきなのですよ」

「お前はどうも……」

「山奥にこもって人が救えますかな。わたくし以外に誰も、里へ降りて説教もしない」

「下界には悪が多すぎるのだ。我らは清らかでなければならぬ。お前はいつか道を誤る。酒に賭博に、それから女がいるのだ。堕落することは許されぬ」

「わたくしたちには主がいらっしゃる。ご心配には及びますまい」

サピエンチアは鼻で嗤った。若い彼にとって、古参の修道士たちの頑なさは臆病に写ったのだ。

サピエンチアの孤立は一層深まってゆく。彼は一向それに構わない。

サピエンチアは次第に、命令を下すばかりで自分は教会長の台座から動こうとしない教会長までも軽んじるようになった。その傲慢さは、教会長も敏感に悟るほどで、彼は生まれ故郷の下界から少し離れた土地で説教をするようにとの命令を出された。

そこは、Sという少し栄えた古い街である。

そんな折に、サピエンチアは一人の女に出会ったのだ。




カリタスは給仕女であった。羽振りのよい地主の屋敷で使われている女である。

よく働き、気も効く女ではあったが、少しだらしのない女でもあった。

カリタスは黄金色の髪に、青い瞳を持つ女である。身体は細いというのではないが、肥えているというわけでもない。胸はふっくらとし、尻と脚の肉付きも健康的で骨張った感じがない。それは男好きのする身体付きであった。カリタスはいつも唇を半開きにして、物欲しげに笑う癖がある。そして、彼女は自分に好意を寄せる男に容易くもたれてしまう。

それで、カリタスは半分は売春婦のように生活していた。地主は若い頃の道楽の人脈を使って、よく夜会をした。そこで宮廷楽団を招いたりして、芝居なんかもやる。そこにわんさかと集まる男たちに誘われるまま、カリタスは男に好きにさせる。

俗物であるこの地主の屋敷にサピエンチアが招待されたのは、まったくの彼の気紛れからであった。だが宗教人らしからぬ雄弁で野心的なサピエンチアを地主は気に入って、時折屋敷に呼んでは講義をさせるようになった。そうして、サピエンチアとカリタスは出会ったのである。



サピエンチアはこの地方独特の寒気に弱く、慢性的な頭痛に悩まされていた。その日の寒気は特に酷く、サピエンチアは講義が終わった後で地主の拵えた専用のミサ室にこもって唸っていた。カリタスは子熊が母熊を乞うような唸り声に哀れさを感じて、そこを訪ねた。

カリタスはなるべくサピエンチアを見ぬようにして、そっと熱い茶だけを置いて引っ込んだ。サピエンチアは人の気配に気づいてミサ室を出たが、そこで今しがた置かれたばかりのティーセットを目の当たりにして、誰がこんな親切をするのかしらん、と温かな気持ちになった。有り難くそれを飲むと、不思議と痛みも柔らかくなって気分も上向くようであった。

そうした出来事はミサ室にこもった時に決まってされるようになった。サピエンチアはこの親切の主の正体を知りたいと思って、定期の講義の休憩の際にミサ室にこもって静かにしていた。

やがて人の気配がして、食器の触れ合う音がした。サピエンチアは滑るように歩いて、扉を開けた。

「……あら、申し訳ございません」

カリタスは目を見開いて驚いた。

置かれたばかりの飴色の茶が、動揺を写すようにして揺れていた。

「あなたがわざわざここまで茶を」

「えぇ、少しお加減がお悪そうな時におこもりになられるので……」

カリタスは慎み深く言った。あまりサピエンチアと目を合わせようとはしない。

サピエンチアはその遠慮深さに心を打たれて、首を垂れる。

「あなたの無償の真心に、わたくしは心を打たれました。幾分、頭の痛みも和らぐようでこの頃は茶をこうして置かれることを楽しみにしているくらいですよ」

「まあ、あなた様のようなご立派な方が私なんぞのすることに……そんな」

サピエンチアは上機嫌になって、カリタスを眺めた。なかなか綺麗な顔をしている。産毛の柔らかそうなことは、サピエンチアでも思わず手を触れたくなるほどの微細さである。

それは植物のような、自然に造られた美しさである。媚びへつらいのない、美しさである。

衣は地主の華美さとは似つかぬほど質素で素材の悪いものであった。

だが、きつく締められたエプロンの帯などが腰の細さと、下半身の適度なふくよかさを際立たせている。指先は過酷な水仕事のせいで少し皮も厚く、赤みを帯びていたがそれがかえって好もしく映る。

サピエンチアは知らず知らずのうちに、よく動くカリタスの脚と股の間に自然と作られる衣の窪みに目がいった。カリタスの方も、サピエンチアの気が次第に神とは別方向に向きつつあることを機敏に悟った。そうなると、カリタスは雨粒が天からそのまま落ちるように自然と蠱惑的に振舞ってゆく。

これが、カリタスの女としての性である。

目の前の男は純潔の修道士であるが、紳士であるべきなのは彼女をいつも誘う地主の友人たちも同じである。

よく見るとこの若い修道士は、なかなか綺麗な青年である。

サピエンチアは、自分の意識が天上から地俗へと堕ちていることに気がついていなかった。それと気がついた頃には、もう目の前の女を欲する自分を止められはしなかった。

サピエンチアは自分にこんな激情があることを、初めて知った。カリタスの纏う衣の皺や窪みや陰までが、そのまま女体のいやらしさを誇示しているようで熱くなる。

カリタスは男が欲情していることに、満足した。だから一層、カリタスは挑戦的になる。

サピエンチアは乱れて、カリタスを貪った。カリタスは翻意して、激しく抵抗した。サピエンチアの黒い法衣がまるで豹のように暴れて、広がる。

カリタスの脚が衣から見えた時、サピエンチアはその白さに目を細めた。痣になるほどそこを吸って、立ち上がった拍子に不浄が漏れた。

カリタスは薄笑いを浮かべて、この若い修道士を迎えた。

サピエンチアはそれを悪魔の所業だと思った。だが、もはや主も十字架も忘れた。

カリタスは両手を広げて、法衣の背中に爪を立てた。それは彼女の癖であった。それが一層、炎をたぎらせる油となるのだ。

サピエンチアは不浄が迸る側から、再び蓄えられていくことに恍惚とした。



逢瀬は幾度となく繰り返され、2人の所業は呆気なく露見した。

カリタスとサピエンチアは、有無を言わさず火刑にされることになった。カリタスはサピエンチアの処刑を待ってから、処されることになった。



「お前はまこと、愚かなやつよ。おお、サピエンチアよ」

まるで愉しむよつに、修道士たちが輪になってこの火刑の周りを巡る。

実際、彼らは嘲笑っていたのであった。

彼らはわざわざ唄まで作って、サピエンチアを貶した。



おお、運命の女神よ。

汝は我に薔薇の笑みを授けたり。

我は悦び愉しみて、汝らを摘み取れり。

だが汝らは地獄の業火なり。

嘲笑いて、汝ら我を焼き尽くすなり。

汝らまことに、地獄の業火なり。


おお、運命の女神よ。

汝は我に薔薇の笑みを授けたり。

我は悦び愉しみて、汝らを摘み取れり。

だが汝らは地獄の業火なり。

嘲笑いて、汝ら我を焼き尽くすなり。

汝らまことに、地獄の業火なり。





サピエンチアは地獄の業火を見た。

炎の柱の中で、溺れた女の白い腿を見たような気がした。それになおも、サピエンチアは劣情を駆り立てられる。


おお、哀れなるは浅ましき男の性なり!


「カリタス、カリタス、汝は我をいかにせん……」

サピエンチアは焼かれながらも女を乞うた。

炎は一層燃え上がる。それは天を焦がし、主も面をそらすであろうと思われた。

生きながらにして、サピエンチアは灰になってゆく。

カリタスの白き腿にサピエンチアは尚も悶えた。焼けゆく指をその幻に伸ばす。

次第に皮膚が破れ、サピエンチアは耐え難い苦しみの中で目を見開いた。目玉も焼けただれ、もう何ものもサピエンチアは見れなくなった。

だがサピエンチアは首を上げ、星空の彼方に住みたもう方を探した。

だが何も見えない。何も、もはや感じることはできなかった。

サピエンチアは命の終わりを予感しながら、心から悔いた。

もう遅い、何もかもが遅い。

修道士たちの黒い法衣が、悪魔たちの舞のようだった。

遂に頭を下げ、サピエンチアは細々と苦しく祈った。煙までもがサピエンチアを焼いていく。

喉の奥から、鶏を締めるような音がする。それが自然に絞り出されたものなのか、自らの意思で出したものなのか、サピエンチアには分からなかった。

刻はようやく夜が伸びをする頃である。炎は勢いを増して、星々はそれを厭うように高く昇る。天は高くなり、闇を濃くしていく。

サピエンチアは一際高き星空の中に、主を見た。



刻は夜の盛りである。その向こうに、主がいらっしゃる。

一つの灰になってゆく罪人がいる。

罪人が綺麗に灰となる頃には、もはや夜も去り主も失せた。

あとには黒い法衣の修道士たちが、まだ熱の残る灰をかき集めるばかりであった。







世界を内面から動かすことこそ神にふさわしい、

神が自然を己の内に、また己を自然の内に懐いて、

神の中に生き、働き、存在するものが、

つねに神の力と精神とを見失うことなき状態こそ神にふさわしい。

ゲーテ

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サピエンチア 三津凛 @mitsurin12

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