「高校野球」と「コミケ」から考える、「プロ」と「アマチュア」の境界線

蒼風

0.二つの場所で起きた問題の共通点

 先日、高校野球の地方大会がちょっとした話題となった。夏の甲子園の出場校を決める地区予選。その岩手県大会決勝である。決勝の舞台に立った大船渡おおふなとのエースであり、プロ注目の右腕、佐々木ささき朗希ろうきが登板しなかったのだ。試合は12対2で花巻東はなまきひがし(大船渡の対戦相手)の圧勝。「令和の怪物」とまで言われた最速163km/h右腕(公式記録では160km/h)は甲子園の土を踏むことなく高校最後の夏を終えた。


 大船渡を率いる国保こくぼ陽平ようへい監督によれば、佐々木の登板回避は「肩肘の故障を防ぐため」だという(鷲田2019)。ちなみに佐々木はこの前日の準決勝に先発し、129球を投げたばかり。これだけの球数を投げたピッチャーが翌日も先発する。しかも短いイニングではなくきちんと試合を作るところまで投球をする前提で登板するという事は、一発勝負となるアマチュアのトーナメントではままあることだが、プロ野球ではほぼほぼ見かけないことだ。


 ところが、この決断に決して少なくない批判が寄せられている。大船渡には決勝の翌日、かなりの数の苦情が来たという話もある。また、プロ野球を経験したOBでも「投げさせるべきだった」と断言する人間もいるほか、高校野球の指導者でも、そういうつらい経験を乗り越えてこそだ、と自信満々に言い切る人間もいる。


 一方で、否定的な意見も多い。研究が進んだ昨今では若い時期に球数を投げすぎたり、連投をしたりすることは良くないとされることが多い。プロ野球でも、中継ぎ投手の連投は二連投までにしないと故障リスクが増大するとして、やめるように指示が出ている球団も存在するくらいである。


 アメリカでは「肩肘は消耗品である」という考えたかたも強く、キャンプでも出来る限り球数を投げない調整をするなどの取り組みが行われている。どうすれば肩肘を故障するのかという問いに厳密なこれという答えは存在しないのもまた事実ではあるが、少なくとも129球を投げた高校生が、翌日も長いイニングを投げるつもりで先発するという行為が肩肘に良いものとは到底考えられない(私的な感覚ではあるが、佐々木のフォームは体への負担が強く、余り連投には向かないような気もしている)。


 佐々木の能力は間違いなくドラフト一位クラスであることは間違いが無いし、今後の成長次第ではメジャーという可能性も見えてくるかもしれないのだ。だからこそ国保監督は彼の連投を避けたのだろう。その判断は、佐々木の故障リスクを考える上では正しいものだったように見える。


 にもかかわらず、この決断は多くの批判にさらされた。その中には当然「凄い投手を甲子園で見たい」というエゴによるものもあっただろう。しかし、中には「他の部員たちはここで野球をやめるかもしれないのに、何で手を抜くんだ」という声もあった。


 確かに、甲子園に出場するレベルの学校でレギュラーをはっていたとしても、プロになれるとは限らない。大学や社会人で野球を続ける人もいるだろうが、かなりの数が「高校で野球を引退する」という選択をする。彼らにとって、当然甲子園は夢の舞台であるし、そこに行きたいと思う(また行かせてあげたいと思う)のは当然である。前述の批判は、それを犠牲にするのかという論理なのだ。


 この論理は一見、筋が通っているように見える。しかし、よくよく考えてみるとこれは「最後の夏となってしまう多くの同級生」の為に「これからもプロとして活躍するかもしれない才能ある投手」を犠牲にしろという論理なのだ。もっと分かりやすく言えば「大多数」の為に「一人」を犠牲にするべきだという論理に他ならない。ちなみに、近代世界史で、似たような論理で全体主義を推し進めた国が存在している。ここでは名前を伏せておくことにするが、それくらい危うい理論なのだ。にも関わらず、この論調は無くならない。


 ここで視野を大きく動かしてみよう。先日東京ビッグサイトと青海展示場で一つの催し物が行われた。コミックマーケット(以下コミケ)である。


 このイベントは例年夏と冬にそれぞれ三日間行われているのだが、今回は国際展示場の東展示場が使えないという事情も手伝って、初の四日間開催。有料化。そして青海展示場の仕様と、いわば初めてづくしのコミケとなった。


 このコミケでいくつかの問題が起きた。猛暑の中長時間待機していたことによって、熱中症で倒れたという人が複数人いた、というのだ。それだけであればこれだけの猛暑ということも有り、想定も出来る事態だったのかもしれない(夏にやる必要性に関しては疑問点が残るところかもしれないが)。しかし、それ以外にもAEDを要請したが、届かなかったという報告も見られるという(ねとらぼ2019)。


 それ以外にも、並んでいる人がいるのにも関わらず入場規制が解除され、後から来た人が先に入場できるようになるなどの問題が発生、準備会はこれらの対応に関して謝罪文をだし、特に前者の自体に関して「準備不足のオペレーションと長時間待機の結果」という説明をしている(同上)。


 上記の事態以外にも、長年コミケスタッフを務めていた人が「コミケ準備会のスタッフの扱い方が目に余るレベルに到達したから」という理由で、スタッフを引退すると述べる(個人の特定を避けるためソースは貼りませんが)など、不満と議論が噴出するコミケだったと言って良いだろう。

 

 自分は別に専門の研究者ではない。従って、定点観測的に毎回のコミケ反響を集めているという訳でもない。ただ、以前までのコミケでは、こういった問題が大きく表面化することは無かったのではないだろうか。少なくとも、準備会が対応を謝罪するということはおおよそ無かった事ではないかと思う。


 もちろん、原因は色々あるだろう。日程も展示場もいつもとは勝手の違うコミケ。以前よりも気温が高く、危険性のある夏の気候。問題が生じる土壌は整ってしまっていたのかもしれない。


 しかし、前述の「今回で引退を決めたコミケスタッフ」は、何も今回酷かったからやめることにした、という訳ではない。ここ数回分の「目に余る扱い」を受けてやめることにした、という趣旨で語っているのだ。つまり、半年前までの「いつものコミケ」でも問題は既に起こっていた。それが今回顕在化したというのが正しい理解なのでしょう。


 さて、視線を再び高校野球に移そう。登板を回避した佐々木は言うまでもなくプロ注目であり、甲子園どころか地方大会に出場しなかったとしてもドラフト1位はまず確実と言って良い投手である。だからこそ彼を連投させることを避けるという発想が生まれるのだ。


 一方で彼の同級生は必ずしもここでプロ入りをするわけではない。そうなると佐々木一人を守るために他の部員には甲子園を諦めてもらわなければならないという事態になってしまう。これが一つの争点となっているのだ。佐々木はプロ入り確実、でも同級生はそうでもない。佐々木の肩肘と同級生の一生ものの経験。この2つを両立させるのが困難な状況にあったために起きた問題であるといって良いだろう。


 目まぐるしくなるがもう一度視線をコミケに移そう。コミケは基本的に「アマチュアイズム」の精神が強い。例えばサークル参加者は同人誌を「販売する」とは言わず、「頒布する」と表現する。これはあくまで営利目的ではないという意識を現した表現であるが、では実際に金銭のやり取りが無いのかと言えばそんなことはなく、普通に値段が付けられている。また、大手のサークルともなれば、書店で「委託販売」を行うことも多く、これもやはり値段が付けられ、「販売」されているのだが、意識としてはあくまで商売ではないというものが根底にある。


 また、一般的なイベント系の催し物と違い、コミケはこういった同人誌やグッズ類を買い求める人間も「客」ではない。お互いが参加者としてコミケという場を作り上げていく。そういった理念が存在している。だからこそコミケの準備会(運営のようなもの)はボランティアによって賄われているし、入場料も無料となっているのはそういう理念があるからこそなのだ。


 ところが、コミケの会場を眺めてみれば、その限りでないことは明らかだ。企業の参加は言うまでもなく「商売」全開であるし、同人誌に目を移してみても、一次創作の18禁同人誌が、都内の専門店に行けば必ず売られているというレベルのサークルも存在する。正直なところ、ニッチな商業漫画よりも見かける頻度が高いくらいだろう。


更には最近では有名な少年漫画の作者(一応アシスタントという体にはなっているが、作者本人がいるらしい)が自作の18禁同人誌を頒布している。作者本人が自作の同人誌を頒布するという例は他にも存在し、グッズを売っているという場合も存在する。


 こうなってくると、参加者の意識も必ずしも「非商業」とは言っていられない。タテマエとしてはあくまで「非商業」ではあるが、実際には物を売り買いする場所である。企業も躍起になり、そこで限定のグッズを出して売ろうとする。既にコミケという場を用いなくても、一定のファンがいるであろう描き手もまた、コミケに照準を合わせる。


 ところが、長らくコミケに参加する人々の意識にはやっぱりアマチュアイズムがある。物を売り買いする「プロ性」と、あくまでも表現の場としての「アマチュア性」。これら2つが何となくで混在している。

 

 その結果「本来ならばボランティアで実施されるはずのない規模のイベント」が「ボランティアで実施される」という事態になってしまう。言ってしまえばコミケに関する問題の殆どは「アマチュア」と「プロ」が曖昧に同居しているという部分にあると言えるのではないだろうか。


 「アマチュア」と、「プロ」。この二つのフレーズを持って、今一度高校野球の問題へと戻ってみる。高校野球で起きている問題は「プロ入り確実と言われている投手の肩肘を守ること」と「その他の高校生たちの甲子園への夢をかなえること」が両立出来ないことにある。


 高校野球は一応「アマチュア」ではあるが、時にそんななかにぽつりとひとり「プロ」がいるということが存在する。大船渡の投手が全員「アマチュア」かどうかは分からないが、少なくとも佐々木とは「実力のレベルが違う」ことだけは間違いない。実力が相違ないのであれば、他のピッチャーとローテーションを組んで投げればよいだけなのだ。そうならなかったのは彼の実力が飛びぬけていたからに他ならない。


 ところが、高校野球の、特に地方大会においては日程が過密である。もちろんここには故障に対する認識が不十分であった時期に組まれた日程が今だにそのままであるという部分もあるにはあるだろう。実際、古くはプロでも完投翌日に中継ぎで複数イニングということも珍しくなかった。つまり、現在の日程でも「プロ」と「アマチュア」が両立出来ていたのだ。


 ただ、現代プロ野球においてはそのような連投はまずありえない。そうなると、現代の高校野球は「アマチュア」の土台になんとなく「プロ」も同居しているという状態なのだ。その為、「勝ちあがるために一人に連投させる」という行動に行きついてしまうのである。


 高校野球と、コミケ。一見して全く共通点のない二者であるが、これら二つには共通点がある。悪い意味での「アマチュア」と「プロ」の混同である。この二つはお互い目指す所も大分違い、本来であれば混同してはいけないものである。


 しかし、これらの境界線は今、悪い意味でかなり怪しくなりつつある。特に出版業界において数字、特にPV数などを重視し、既に人気のある作品を出版するリスク回避の傾向があることは自著『何故”なろう系”は嫌われるのか(以下なろう系)』などでも述べた通りであるが、この数字は統計さえとってしまえばどれが一番大きい数字かは誰でも分かる。この選択はプロ性が薄いものであるが、割と普通に行われている事だ。


 『なろう系』でも書いた通り、一般的に言われる”なろう系”と呼ばれる作品群は、人気を博した作品の後追いをしたものであるが、全く同じような構造(異世界転生で、俺TUEEEで……)の作品で、人気のある作品を引っ張ってくるという行為はこれまたプロ性の薄いものだ。本来ならばプロが行っていた「作品を見極める」「作者を育てる」という行いが、どこかないがしろになり、アマチュアへと近づいていく。そんな流れが良いものであるようにはどうしても思えないのだ。


 大分前置きが長くなってしまった。本稿では「高校野球」と「コミケ」の問題点とざっくりとした解決策をそれぞれ模索したのち、主に創作におけるプロ性の喪失を、野球のスカウトという部分をヒントにして考えていきたい。長い旅になるかもしれないが、どうか最後までお付き合い頂けると幸いだ。



【ざっくりポイントまとめ】

・ドラフト上位指名確実の投手が登板を回避し、論争になっている。

・彼を投げさせることは間違いなく肩肘の故障リスクを増大させる。

・にもかかわらずプロ野球OBですら「投げさせるべきだった」と発言。

・初の四日開催など。「初めて尽くし」だったコミケで様々な問題が発生した。

・それ以外にも準備会上層部への不信感を表出させる発言も見られた。

・こういった事態は以前余り見かけなかった事ではないか。

・二つの事例はいずれも「プロ」と「アマチュア」を曖昧に混同したために起きたのではないか。

・本論ではそれぞれの解決策を模索したのち、「プロ」と「アマチュア」という論点で、「創作」全体について考えていく。

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