霧の村で熊を狩れ②

  □ □ □






 ベイは偵察に数日を費やした。

 少し時間をかけすぎではないかとも思ったが、奴なりの懸念あってのことだろうと任せきりにしていた。下手に俺が動くとイコが一人になってしまうし、俺は俺でやることがあった。

 能力を積極的に使う練習だ。


 これまで俺は極力目立たぬよう、生活に必要な場面以外で能力を使うことはしなかった。が、逆にそれが裏目に出たのかもしれないと孤児院で指摘されてからは、事あるごとに能力を使うようにしていた。

 単に手から炎なり水なりを出すだけが能力ではない。応用すれば、気配察知や地形の把握もできるし、かなり頑張れば明日の天気も少しだけ予測ができる。「あっちの方から水の気配がするから、明日の朝にかけて雨が降るだろう」という程度の、もやっとした天気予報だが、それでも村の人には喜ばれた。




 ──だから、ベイがいつもと何となく違う空気をまとって村に帰ってきたことも、すぐに察知したのだった。

 窓の外を窺いながら腰をあげると、イコが靴に手を伸ばした。


「ベイ帰ってきたの? わたしも迎えに……」

「いや」


 何だか空気がおかしい。寝る支度が出来上がってしまったイコをベッドに押しとどめ、カンテラに火を入れて椅子から立ち上がった。


「お前は風呂あがったばかりだろ。体冷やすぞ」

「わー、ナダがまともなこと言ってる」

「アホ。ベイが帰ってきたってことは明日あさってには出発だ。運転に備えてしっかり休んでくれ、ドライバーさん」

「うーい。ベイによろしく言っといて」


 眠気はあったらしい。素直に布団に潜り込んで手を振ってきた。片手を上げて返してドアを閉め、村長宅から外に出た。






 山の夜は夏でも空気が凛と澄んでいる。この緑豊かな山では生き物や虫も多く、夕方になると四方八方から虫の合唱が鳴り響く。

 だが今夜ばかりは、いつもはうるさいくらいに思えていた虫の声がまったくしない。加えて空に浮かぶは上弦の三日月、月光をあてにするには暗い夜だ。


 そんな中を、ベイは灯りひとつつけずに歩いていた。

 山道ではなく藪を通って、長い銃アサルトライフルを手に、身を低く屈めながら。


「おかえりベイ。遅かったな」


 暗がりから黒い視線が刺さってくる。カンテラを掲げて自分の顔を照らして見せた。ややあって、ベイは藪から出てきた。しかし一定の距離からこちらには踏み込んでこない。

 だから俺も踏み込まない。俺には俺の事情があるように、ベイにも口に出来ない何かしらがあるのだ。いずれ道を分かつやもしれないこの男と、ある程度の線引きを図っていく──それがきっと最善の関係だろうと思う。


「何があったかは訊かねえよ。麓の町が危険だってことが分かれば俺はそれでいい。だがそのままイコの前に出てみろ、車に乗せてもらえなくなるぜ」

「……何が言いてえ」

「その殺気を仕舞え。俺やイコの前に、泊めてくれた村の人たちに迷惑だ」


 ベイからは怒気でも苛立ちでもない、肌を刺すような鋭い空気が発せられていた。殺気というのは感情ではなく、空気で作るナイフのようなものだ。慣れていないものがそれに当てられれば、正気ではいられない。

 少ない明かりが照らすベイの双眸は瞳孔が広がっていた。一体麓で何を見たのか、恐らくベイは話すつもりはないのだろうが、このままでは困る。


「少しは抑えられないのか?」

「……どうだろうな」

「やれやれ。獣を飼った覚えはなかったが。ちょうどいいから俺のに付き合ってもらうぞ。村のご老人方から、最近厄介な熊に困っているという話を聞いてな、お礼も兼ねて退治しようかと思っていたところだ。ついて来い」


 カンテラを持ち直して森に足を踏み入れると、ベイは大人しくついてきた。猛獣でも従えている気分だ。

 ベイが放つ異常な殺気のせいだろうか、虫の鳴き声がしないどころか、夜行性の動物たちすらも気配を忍ばせながら遠くを横切っていく。風の音と、時々飛び立つ鳥の羽ばたきの音、それから近くを流れる小川のせせらぎくらいしか、耳に届かない。



 静かだ。


 とても。



「……お前がいない間、“夢”を見たよ」


 俺の声は果たしてベイまで届いているだろうか。木々に音が吸い込まれそうだ。


「昔の夢だ。新しい俺の記憶。……村のじいさまたちの口調に触発されたかな。気をつけていないと、俺もまた口調が素に戻るんだ」


 聞こえてはいるようだ。藪をかき分けて進む足を止めず、俺は話し続けた。


「今回思い出したのは研究施設での記憶じゃなかった。俺が……まだ故郷にいた俺が連れ去られた時のことだ。俺はいとこや友達と森で遊んでいて、いつものエリアに見覚えのない物体を見つけたんだ。やけにのっぺりして、冷たくて、生き物みたいだけど全然動かなくて。金属だった、キースじゃ金属は貴重だったから、大人に知らせて持ち帰ろうとした」


 本当のことを言うと、これまで思い出せなかったわけではなかった。でもやはり、誘拐の一場面は衝撃が大きくて、なるべく思い出さないようにしていたのだった。夢を見ている間は心臓が苦しくなったし、翌朝ひどくうなされていたとイコから聞いた。


「そうしたら突然そいつが動き出して。“腹”がばっくり口を開けて、女の子を飲み込もうとした。咄嗟にいとこが突き飛ばして、その子は無事だったけど……気づいたら俺の目の前に真っ暗な空洞が見えてさ。代わりに俺が捕まったんだ」


 この出来事のせいだろうか、生活に支障をきたすほどではないが、俺は密閉空間があまり好きではない。孤児院にいた初期の頃は窓とドアを開け放して眠っていた。今思えば、これは研究施設でのトラウマというよりも、この捕まった時の出来事から来ているのだろう。


「その子は俺より年下でさ。ずっと俺とかいとことか、年の離れた兄貴分みたいな人にくっついて歩くような、寂しがりやの子だったからさ。俺でよかったと思ってるんだ。もし彼女が捕まってたら……施設でとても耐えられなかっただろうし、女の子が一人で逃げ回るなんて危ないだろ。男の俺より、ずっと」


 開けた場所に来て、俺は足を止めた。ピッタリ十歩離れてついてきていたベイも止まった。月が翳って、本当の真っ暗闇が訪れた。

 そんな中でカンテラの明かりが強く見える。明々とした光に、ベイの浅黒い顔が浮かび上がる。


「俺はさ。凄く不安だよ。いつの間にか何人も焼き殺していたことも、いつ能力が暴走するか分からないことも、それから……これから俺がどんな記憶を取り戻すのかも。ちょっと思い出しただけでこのザマさ、めちゃくちゃ苦しくて吐くかと思った。イコの前では努めて平静でいるようにしてる、だけど、いつボロが出てもおかしくない」


 心配をかけたくない。それに格好つけたいというのも、少なからずある。今更イコの前で取り繕えることなんてほとんどないけれど、イコには出来るだけ平穏な時間を贈りたい。イコの叔母アリカさんが願った通りに。


「そんな不安定な俺の他に、もう一人取り乱した奴がいてほしくはないんだ。……一応信頼してんだぜ、俺はお前を。文句言いながら何だかんだで仕事をこなすお前を。だからお前がそんなだと困るんだよ」


 ──ベイは俺より大人だと思っていた。

 けれど、この男だって人間だ。自分ではどうしようもない感情だとか、出来事だとか、そういうものの一つや二つや三つあるのかもしれない。完璧な人間なんてどこにもいやしないという言葉を知ってはいても、実感するのとはまた話が別だ。

 ようやく、俺は少し、その言葉を飲み込めた気がする。


「なので」


 カンテラを地面に置いた。明かりが薄らいで、草の影が辺りにおどろおどろしい効果をもたらす。

 ベイがたじろいだ。先ほどまで痛いくらいだった殺気が僅かに揺らいだ。

 俺の唇がニヤリとめくれ上がる。左手の腕をまくって、ベイに突き出した。


「てめ……何を」

「“傭兵ベイ”に戻ってもらうぜ。さァ頭冷やしやがれ!」


 言うや否や、宙に水の泡を発現させた。

 そしてそのまま呆ける傭兵に向かってぶつける。バッシャアと滝のような飛沫が上がって、束の間ベイがよろけた。


 だがまだだ。まだ足りない。


「こんなんじゃあ冷えねえだろうから、もういっちょ」

「ゲッホゲホッ、ゴホッ……待てこの野郎、ストップ、うぉあ!」

「アッハッハ! 誰が待つかバーカ!」


 今度はベイの頭を巻き込んで水の渦。さながら洗濯機といったところか。

 全身洗ってやらないだけ感謝されてもいい。奴の身につけているベストには火薬が入っているというから、一応濡らさぬよう心掛けてはいるつもりだ。

 第二弾“洗濯機”の洗礼から解放され、ベイは地面にがっくりと膝をついた。肩で息をしている。


「どうだい、頭は冷えたか?」

「うるせえ……やり方が汚ねえんだよバカ」

「バカって言う方がバカなんだぜ」

「バカに言われたかねえな。こんなアグレッシブな冷やし方があるか」


 ほう。コイツはまだ冷やし足りんらしい。

 再度片手に水を呼び出すと、慌てたように手や首を激しく振った。


「なんだ、張り合いのない。第三弾“水龍神”を味わいたいのかと思ったのに」

「やめろ! 何だその恐ろし気な技は!」

「ちなみに“水刀”、“水鉄砲”なんてのもできるけど……」

「いいいい、十分だ! これ以上食らったらフツーに死ぬ!」


 気分が良くて高笑いした。ベイもいつもの雰囲気に戻ったし、腹の中で渦巻いていた黒いものも晴れた。


「……熊なんていねえじゃねえか」

「口実さ。言ったろ“発散”って。人目のないところで力を使う相手をしてほしかったんだ。お前の殺気も散らせたし、めでたしめでたしだ」

「くそっ……びしょ濡れだよ俺ァ」

「乾かしてやるよ。ほい」


 左手を一つ揺らすと、ベイから離れた水が宙で再び泡を作った。グッと手を握ると泡は空気に溶けて消えた。あとは何事もなかったかのように虫が再び音色を奏で初める。

 カンテラを手に元来た道を戻りながら、俺は唸った。



「しかし、麓の町が両方とも危険だって言うなら行き場がなくなるな。どうしたものか……」

「ねえこともねえ。町を素通りしてその向こうの森に行く手もある。だがあまりいい話を聞かなかった、胡散臭ェが“魔女が棲む”とか何とか」


 ベイの一言に、思わず足が止まる。


「……今何て?」

「あ? 森には魔女が棲んでるって話か」

「その森の名前って……」


 怪訝そうにしながらも、ベイは答えた。


「“エバンズの森”。足を踏み入れたら最後、魔女に食われちまうって噂のある森だ」






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