入る時はノックしやがれ①

  □ □ □






 俺の記憶に関しては、当時の俺の心理状態が間違いなく深く関わっているということで、そちらは一旦カウンセラーのパドフさんに任せて他の用事を済ませることにした。

 用事とは、つまり俺の体のこと。この孤児院の専属小児科医、チェンにこれから話を聞きに行くところだ。


 正直気が進まない。チェンは腕こそ確かだが、俺としてはいい思い出がない。まったくない。食堂を出て、階段を下に下っていく俺の足どりは重い。


「何だよナダ、医者ぎらいかよ」


 俺の浮かない顔をイコがニヤニヤと覗き込んできた。さっきまでのしおらしさはどこへやら、もういつもの意地悪モードに戻っている。

 ちなみにベイは、そろそろ子供たちが帰ってくるというので桐生に部屋へと押し込まれた。たぶん今頃一人でせっせとベッドメイクでもしていると思う。護衛の扱い方がおかしい気がするけど、まあベイだし別にいいや。


「医者は別に」

「ホントかァ? ただの注射嫌いなんじゃないの」

「まあそれもあるけど」


 研究施設で培われたほどのトラウマは感じなくても、体に針を刺して血を抜かれたり薬剤を注入されたりというのは苦手だ。

 だが俺がチェンを苦手なのは、もっと別のことだ。そう言い張っても無駄に思えるので、実際に会ってみればいいと考えた俺はそれ以上何も言わなかった。






 医務室は地下階のほぼ全フロアを占めている。残っているスペースはボイラー室のみだ。

 それだけの空間に一体何があるのかと言われると、俺も説明できる自信がない。検査室だけでいくつかと、手術室と、診察室に処置室、普通に個人病院を開設できるくらいの設備が整っている。

「何故そんな設備が教会併設の孤児院に設けられているのか」などと突っ込んではいけない。この孤児院の七不思議くらいに留めておくのが一番だ。


 階段を降りていくと、それまでの古くて温かな趣は姿を消し、一気に消毒液の匂いが染みついた無機質な光景が広がる。せめて電球の色を暖色にすればいいものを、蛍光灯をそのまま使っているため青白く冷たい印象の空間になっている。

 ほとんどの子供たちがここが苦手なのだが、理由はこの居心地の悪さが主ではない。


 桐生はさっきから無言を貫いていたが、あまりの異様さに口数の減ったイコを気遣ってか、おもむろに口を開いた。


「まあ……なんだ、ナダはこう言うが、そんなにおっかねえ奴じゃねえよ。俺より怖え人間がいたら是非ともお目にかかりてえもんだ」

「俺はチェンの方が怖い」

「黙ってろナダ。……たぶんこの部屋に居るはずなんだが」


 桐生がある部屋の前で足を止めた。チェンの“自室”だ。

 検査室と同じ金属の引き戸には、いくつもの張り紙がされてあった。


 〈関係者以外立ち入り禁止〉

 〈桐生の宗教勧誘はお断り〉

 〈入る時はノックしやがれ〉


 ……何というか、相変わらずだ。

 三周回って安心するよ、まったく。


「チェーン、入るぞー」


 無造作に桐生がドアをノックした。無機質な廊下にその音がゴウンゴウンとこだまして響いた。返事を待たず、無遠慮に桐生の無骨で大きな手が引き戸を開ける。


 中は暗かった。点きっぱなしのコンピュータの画面が光源になっており、その青白い光が、机に散らばる紙や試験管立てや謎の器具、飲みかけのコーヒーの入ったマグカップを照らしていた。

 マグカップの横には、伸ばす途中で机に落っこちたと思われる手がだらしなく転がっている。手から腕を目で追っていくと、やがて白衣に変わり、手入れのされていないボサボサの茶髪が現れた。


 桐生が深々と溜息をついた。

 部屋の明かりを点けても白衣の人物はピクリともしない。


「チェン、起きろこの野郎」


 容赦なく桐生が白衣の襟を掴んで椅子に引き戻すと、ぐにゃりと上を向いた首が俺の方を向いた。虚ろに目を開けて、口がだらんと力なく開かれている。

 ゾンビかな。


「チェーンー」

「……んぁ。あー、ああ、ん。起きた起きた」


 起きていない。焦点がそこらへんを彷徨っている。

 チェンを揺さぶり引っ叩く桐生は放っておいて、俺はマグを手に大きなデスクの横に設置されているコーヒーメーカーに向かった。豆は入っている、よし。


 スイッチを押すと機械が全身を震わせた。上部に設置されている透明な入れ物のコーヒー豆が少し減り、ゴリゴリと豆を挽く音、次いでプシューとかコポコポとかいろいろと音が鳴って、電子音が出来上がりを告げた。

 小さな扉を開ければ、ほら、淹れたてコーヒーの香ばしくかぐわしい香りが──


「はい! 飲みます!」


 扉からマグカップが消えた。後ろを見れば、マグは白衣の男の手の中に納まり、柔らかな湯気と共に琥珀色の液体が男の喉に消えていくところだった。


 イコがいつの間にか桐生の黒服の陰にすっぽりと隠れている。

 仕方がないと思う。出来ることなら俺も隠れたい。イコちょっとそこ譲ってくれ。


 一服して人心地ついたのか、コーヒー中毒末期患者の小児科医チェンはようやくマグを置いて俺たちに向き合った。


「ようチェン。さてはまァた徹夜したな?」

「仕方ないだろぉ、やってもやっても追いつかねんだからさ……ねえ桐生、今おれって幻覚見てる? ナダっぽい男がそこに立ってる。幽霊かなこの教会の」

「アホ言ってねえでこいつを診てやれ。正真正銘のナダだよ」


 チェンはそれまで寝起きの頭をゆらゆら動かしていたが、その動きがピタリと止まった。

 虚ろだった目が光を宿し、俺を捉えた。


(大丈夫だいじょうぶ。怖くない怖くない)


「……ナダぁ!?」


 にへらぁ、とその口が弧を描く、その様に当てはまる文字は二つしかない。

 狂気。




 ──無理!




 ぞわっと鳥肌が全身に広がった次の瞬間、俺はチェンの部屋から脱兎のごとく逃げ出していた。背中を悲壮な声が追いかけるが構やしねえ、逃げるが先決で勝ち。


 と思ったら、後ろから聞こえる声がいつの間に足音に変化していた。

 思わず振り返ると、青白い廊下の奥から白衣を乱した男が走ってきていた。


(ざっけんな、何であんな速いんだ!?)


 怖くないなんて誰が言った?

 ふざけんな、サイコホラーの塊じゃねえか!


 俺はもう全力で走った。

 コーナーを攻め、

 あらゆる扉を開けてフェイクにし、

 やがてボイラー室へ逃げ込んだ。階段へ向かえば奴と鉢合わせる。そして、ここには抜け道があることを、これまで何度もチェンから逃げた俺はよく知っている。


 壁に掛けてある梯子をよじ登り、天井のある一点をついて板を外した。

 ぽっかりと口を開ける穴に這い込んだ俺は、ああ油断だった、安心してしまったのだ。入り口をチラリと見てしまった。

 爛々と光る狂気の目と、目が合ってしまった。にたり、とその顔が歪むところまで見て、俺は声にならない悲鳴を上げて板を塞いだ。






  □ □ □






 穴を這い進み、よじ登り、やがて頭上に床板が現れた。

 昔と同じだ。手探りでポイントを探し出し板を持ち上げる。


「うわっ……びっくりした」


 声が上がった方を見ると、見覚えのある顔が俺を見下ろしていた。

 浅黒いがベイよりも明るい色の肌、来ている服はカーゴパンツ。


「あれ……お前ナダじゃねえか。何だよ、帰ってきてたのか!」

「ダニエル!」


 勢いよく床から這い出て握手、そして抱き合う。自分の顔がほころんでいるのが分かった。

 彼は俺と同い年で、ここにいた頃の同室メンバーのダニエルだ。昔よりもずっと声が低く、背も伸びている。


「帰るなら連絡寄越せバカ」

「そうもいかねえ事情があったんだよ。……なあ匿ってくれ、チェンに追われてんだ」

「またかよ。たまにゃ顔見せねえとこうなるって分かっ、て……」


 ダニエルの声が尻すぼみになっていった。

 背中から怪しい気配がする。首が軋むような音を立てて、俺は後ろを見た。


 茶髪を振り乱す白衣の何かが、そこにいた。


「──逃げろナダ!」


 ダニエルの掛け声とともにスタートダッシュを決め、俺はテーブルや椅子を適当に散らかしながら走り抜けて部屋を出た。






 ――昔、俺がここにいた時。

 特異体質だろうが何だろうが、健康状態は専門家に診てもらうべきだと諭され、孤児院専属の小児科医チェンに一通りの検査を受けたことがあった。

 それが悪かったと、桐生はある時俺に謝ってくれた。普段はただの寝不足の医者なのだが、能力の元……ベルゲニウムを宿す俺の体に興味を持ったらしい。


 以来、事あるごとにチェンはこうして暴走し、桐生やパドフさんが制圧するまで追いかけられるようになってしまった。

 だから俺は悪くない。悪いのはチェンの頭と人間性である。






 息せき切って這う這うの体で二階に駆け上がった。

 孤児院のある棟は三階建てで、二階から上は子供たちの部屋や勉強部屋、図書室、それから桐生の作業部屋がある。チェンを子供部屋のゾーンへ連れて行くわけにもいかず、俺は桐生の部屋へ向かっている。


 後ろからチャカチャカと怪しい物音が聞こえる。時間稼ぎに階段室の鍵を掛けてきたのだが、奴ァそんなの物ともしねえ、何故ならピッキングのスキルを持っているから。

「一医者が何故そんなスキルを」などと突っ込んではいけない。七不思議、七不思議。


 その間にも俺は何とか息を整えながら、一足ひとあしと桐生の部屋に近づいていく。あの部屋に行けば何かしら防具になるものがあるだろう。ちなみにナイフでは脅しにならない、昔チェンに対して使ったことがあるが無効だった。

 ナイフが無効の医者って一体……いや、考えるだけ無駄である。奴に常識は通用しない。


 すると廊下の奥から長身の影が悠々と歩いてきた。

 桐生だ。救世主だ!


「よおナダ。お疲れさん」

「まったくだぜ。何だアイツ、前よりパワーアップしてんじゃねえの」

「久々だからなあ。ま、安心しろ。この桐生サマが来たからにはもう安全。今回はとっておきの秘密道具がある」


 ……嫌な予感しかしない。

 思わず疑いの目を桐生に向けると、すぐそこの桐生の部屋からパドフさんが出て来て何かを放った。パシリと小気味よくそれをキャッチし、桐生は俺たちの前に出る。


「……大丈夫なのか?」

「大丈夫さ。念のため私の後ろにいるといい」


 穏やかに波打つ声でパドフさんはそう言い、俺を庇うかのように立ちはだかった。カッコイイ。


 そしてとうとう、鍵が破られる音がして、次の瞬間にはホラー映画に出てくるバケモノのような何かが奇声を上げながら走ってきた。

 俺の身が竦む。大人二人は動じない。それどころか桐生は、胸の前で軽く十字を切ってこう呟いた。


「悪霊退散、ッと」


 黒い袖に包まれた長い腕が突き出され、バチッと静電気を数十倍にしたような音と光が辺りに迸った。

 少し間をおいて白衣の体が傾ぐ。床に崩れ落ちる寸前、桐生がそれを支えて、よっこらせと担ぎ上げた。丸太でも運ぶみたいに。


「さアて、終わった終わった。子供らが帰る前に済んでよかったぜ。こんなチェン見せたらちびるだろ」

「一件落着ですね。安心するといいナダ、もうチェンが暴走することはない」


 桐生の言葉にパドフさんも頷く。チェンの腕がぶらぶらと所在なく揺れている。

 黄色くてごつい手に握られたスタンガンの電圧を見て……ちょっとだけ、俺はチェンが不憫になった。






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