アップルパイと試験
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明かりの消えた、こぢんまりした礼拝堂。窓から入る陽射しとステンドグラスの乱反射が、神秘的で神聖な空気をもたらしている。大きな音を出すのが憚られる中を、四人でぞろぞろと通り抜ければ、こだまする足音に居心地が悪いような気さえ起きてくる。
誰もいない礼拝堂を抜け、渡り廊下を行く間、桐生が地鳴りのような声で話した。
「子供らが帰ってくるまでまだ少し間がある。その間に今日の寝床をそれぞれ準備してもらうぞ。そんで悪いが、そこの兵隊さんよ」
「所属は民間だ」
「そりゃ悪かった。兄ちゃん、お前さんガラクト地方出身だな?」
ベイは返事をしなかったが、前を行く桐生はウンウン頷いた。
「肌の色で判断して悪かったな。が、アタリならお前さんは子供らに姿を見せねえ方がいい。理由は何となく分かるな?」
「ああ。俺のことは気にすんな」
俺は首を傾げたが、桐生もベイも説明してくれそうな気配がない。
桐生は一方的に話し続ける。
「宗教がどうのとか内心いろいろ複雑だろうが、ここに来る奴ァ等しく客人だ。俺の子供が連れてきたんなら尚更な。遠慮せず過ごしてくれや。飯も食ってけ、たらふく食って肥え太れ」
「桐生、さっきから何の話をしてるんだよ」
「お前には話してねえ。世の中にゃ、ごたごたとめんどくせえ事情が山ほどあんだよ」
その事情が一体何なのかを聞いているのに……尚も尋ねようとすると、イコが俺の脇腹に肘鉄を食らわせて睨んできた。イコも何か知っているということか?
「イコ、痛いんだけど」
「そうかよ、デリカシーのない奴め」
「んでお前は? イコっていうのか」
桐生がイコに顔だけ向けて会釈すると、イコの頭がまた少し俺の陰に引っ込んだ。慣れるまでは仕方がないのかもしれない。
「
「ジュウゴです」
「ほう。年の割にしっかりしてるな、結構けっこう。ここはちょうどお前くらいの年頃の子も多い、仲良くしてやってくれ」
「う、うん……」
「あー、ところでパドフさん元気?」
これ以上はイコが床に穴でもあけて潜ってしまいそうな勢いだ。俺が話題を振ることにした。
パドフさんはここの副施設長をやっている人で、他にも経理だとか施設管理人だとか、あとゴスペルサークルだとか、いろいろと兼任している。桐生よりも多くの仕事を請け負っているが、クールに何でもこなしてしまう、かっこいい仕事人だ。
桐生が肩を竦めて笑った。
「あいつァ相変わらずだよ。俺がちょっと機材買うだけで文句つけて来やがる。俺の金だってのによ」
「神父が副業やってる方がおかしいんだよ」
「儲けた金は全部この孤児院に寄付してるってのにな。さあ、着いたぜ。お待ちかねのアップルパイだ」
イコが噴き出した。ベイの顔が笑いを堪えようと歪んだ。
──もうお前ら、覚えてろよ。
教会スペースを抜け、渡り廊下を通っていくと、木でできた古い床と落書きだらけの漆喰の壁が現れる。ここが孤児院の建物だ。
廊下の突き当りで桐生が食堂の扉を開ける。ふわりとバターの香りが顔にかかり、条件反射のように唾液が口内に溢れる。
「やあ、いらっしゃい。待っていたよ」
銀縁眼鏡が知的に光る黒人の男が、ゆったりと深い声で歓迎してくれた。かわいいピンクのミトンでオーブンからパイを取り出しているところだった。
彼がパドフさんだ。
「パドフさん、久しぶり。元気そうで何よりだ」
「ああ、大きくなったなナダ。……ちゃんと食べてるのか?」
金がなくてあまり食べていません、などとは言えるはずもないが、パドフさんは察したようだ。柔和な印象の顔が曇る。
「最近はちゃんと食ってるよ。大丈夫」
「そうか……? まあいい、冷める前におあがりなさい。今日はとてもうまくいったんだ」
俺、イコ、ベイ、それに桐生がテーブルに着くと、それぞれの前に切り分けたパイが置かれた。出来立てのパイはほかほかと湯気を立ち上らせている。バターと砂糖、そしてリンゴの焼けたいい匂いを、かすかなシナモンの香りが彩っている。
おいしさを約束された匂い。絶対うまいに決まっている。
「さあ召し上がれ。今紅茶を用意するから」
「ありがとう、パドフさん。いただきます」
パイにフォークを入れると、サックリとした感触と音。生地をこぼさないようにゆっくりと、注意深く口へ運ぶ。
次の瞬間──俺の脳内に祝福のファンファーレが鳴り渡った。
「うまい……ああうまい、生きててよかったァ……」
「ははは、その一言が何よりだ」
感嘆の息をつくと、紅茶を淹れるパドフさんの顔がほころんだ。
彼のお菓子作りの腕前は一級品だ。そんなに甘党でない俺すらも、パドフさんの作るスイーツは大好物と呼べるほどだ。ワイユの町の人をはじめ、この孤児院に訪れる各方面の人たちからも絶賛で、プロのパティシエから声がかかったとか出版社からレシピ本の打診があったとか、そういう伝説まである。
このうまさで世界を平和に出来るかもしれない。いや出来る。断言できる。
さてイコはどうかと隣を見ると、涙を浮かべていた。ベイは戦争が終わったかのような顔をしていた。
ほら見ろ。
「さァて、人心地ついたみてえだし、本題に移ろうか」
桐生の一声で、場の空気が一気に凛と張り詰めた。
口調は砕けているのに、こういうところはさすがだと思う。
「ナダ、通信で言ってた“相談”について話してくれるか。いきなり押し掛けるたァ、相当切羽詰まってんじゃねえか?」
「押し掛けたのは謝るよ。連絡できなかった事情もあるんだけど……その辺も話さなきゃな」
俺がここ最近起きた一連の出来事を離すと、桐生とパドフさんの顔がだんだん険しくなっていった。桐生の顔に険が差すと人殺しみたいな顔になるのでやめてほしいが、今はそうも言っていられない。
「それで……」
一通り話し終わり、俺は紅茶で一度喉を潤してからまた口を開いた。
ここからはイコもベイも知らない話。俺の夢──“過去の記憶”の話だ。
「どうも、俺の中に覚えてない記憶があるらしくて。主に研究施設から脱出する前後の辺りなんだけど」
「覚えてないってどういうこと?」
イコが声を上げた。俺の脳スペックが記憶力に全振りしているのをよく知るからだろう。最初「キモイ」と言われたけど。
「ナダがこの孤児院に現れた時ってのァよ、まだ十を数えたばっかりの年頃だぞ? よほどショックな出来事だったんで、精神の防御反応が作用して、“忘れた”んだろうよ。パドフもあン時そう診断したろ」
桐生の言葉にパドフさんも頷いた。パドフさんはこの施設専属のカウンセラーで、心に傷を負った子供たちのメンタルケアも行っている。俺も受けたのだろうが、そこも少し記憶が曖昧だったりする。
「……夢を見た。気絶したり、眠ってる間に。今まで俺の頭の中になかったけど、あれはただの夢なんかじゃない、記憶だ。──白い部屋みたいな場所で、白い壁に向かって叫びながら体当たりを繰り返してた」
その場にいる全員が絶句した。誰からも何の言葉も返って来ないが構わず話を続ける。
「その先を見ようとしたけど出来なかった。“おれ”が──その、施設にいた頃の姿をしたおれが俺に言ったんだ。『この先は見せられん。まだ早い』って」
「ふむ……見せられん、ねえ……」
ようやく反応したのは桐生だった。重低音を更に低く唸らせて、思案気に腕を組む。イコとベイは血の気の引いた顔をしていた。特にベイは、浅黒い肌がそこまで青くなれるものなのかというほど、顔色が悪くなっていた。
たしかにショッキングな話だ。幼い子供が叫びながら壁に体を打ちつけ続けるなど、どう考えても異常極まりない。
ただ……その行動が一体何から来るものなのか、どんな事実と繋がるものなのか。今俺が思い出せる限りの記憶の中で、繋がりそうな手掛かりはまったくない。
と、桐生がパッと顔を上げて、隣に座るパドフさんを見下ろした。……身長二メートル越えの大男はこの場の誰よりも座高が高いのだ。
「なあパドフ、この際言っちまっていいんじゃねえか?」
「……桐生さん、それは」
「ナダも覚悟してきたんだろうよ。前よりゃ肝の据わった
「私は反対です。余程のもののはずだ。普通は大の大人でも耐え切れない、それを尚更子供が負ってしまったから、私は──」
「ナダ」
なおも言いつのろうとする
「思い出したっていうその記憶だけでもう分かるな。相当だぞ、お前ン中に眠ってる記憶ってのは」
「ああ、分かってる」
「
──何故。
違う。これは理由の一つではあるが本筋ではない。あくまでついでだ。
強力な記憶力を持つのに、足りない記憶があるのが気持ち悪いから?
それも正しくはない。今まで思い出さなくてもやって来られた。俺が生きる上で必要な記憶ではない。
そんな理由ではない、俺が思い出したいのは。
思い出さなければならない理由は。
「……『罪を知るため』」
気が付くと、そんな言葉を口にしていた。
無意識だった。俺が喋ったんじゃなかったのかもしれない、“おれ”が言わせたのかもしれない。けれどその言葉はしっくりと、欠けたパズルのピースがぴったり埋め込まれるように、俺の胸にすとんと落ちた。腑に落ちた。
「俺は……“おれ”は、きっととんでもないことを仕出かした。忘れているのは楽だ、思い出すのは……苦しいよ。苦しいに決まってる。でも、ちゃんと“俺”の記憶にしないと。じゃないと……」
それ以上は続けられなかった。その続きの言葉は、俺の記憶にないものだから。俺の知らないことだから。その先の主導権は、今は“おれ”が握っている。
「罪って……」
少し高い声がした。この場の誰よりも高い声だが、イコにしては低い声だ。
蒼白な唇のまま、イコは薄茶の瞳を揺るがせた。
「だってさ、捕まってたんだろ? 状況が状況なんだし、たとえばナダが誰かを殺したんだとしても正当防衛じゃん。悪いことじゃないよ」
「そう思えたら楽だろうよ。けどそれを許さないんだ、“おれ”が。昔の俺が。……何かやらかしたのを、一度はなかったことにしようとした俺が」
「でも……ちょっと思い出そうとしただけで酷い思いしてんじゃんか。そのうちナダが壊れちゃうんじゃないの……」
……これは何だろう。
イコがここまで心配そうな顔を向けてくるのが初めてで、その顔に俺はとても申し訳ないような、なのにその顔を向けられて心が軽くなるような、どうにも矛盾したものが胸に生まれた。
俺の頬に微笑みが浮かんだ。イコのくすんだブロンズの猫っ毛を撫でた。久しぶりに浮かんだこの笑みも、きっと俺が長年忘れていた顔なのだろうと思った。
「大丈夫だって。何とかなるさ」
「そうかな」
「そうだよ」
俺がちゃんと“人間”だということを……その情緒を、色を、揺らぎを、お前が思い出させてくれる。──口に出来るようになるには、俺がもう少し大人にならなきゃいけないけど。
桐生はにっこり笑って大きく頷いた。
「合格」
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