故障と不測と記憶の空白②

  ■ ■ ■






 白い壁に囲まれる中、エリック兄さんがおれに授業をしている。算術の授業だ。

 おれが算数が不得手なことを理解してくれていて、計算式と結果を丸暗記するように助言してくれたのはこの人だった。


「よし、九九は完璧。流石だな。だがこの先何があるか分からん、せっかくなら九十九まで覚えてしまおう」

「ええー……」


 げんなりして顔をしかめて見せると、兄さんは爽やかに笑って頭を撫でてくれた。


「はは、そんな顔をするな。ナダならすぐ、まるっと覚えてしまうだろうさ。今日のところは易しい十の段を覚えたら終わりだ、その後は一緒にナダの好きな遊びをしよう」






  □ □ □






(……ダメか)


 深くない眠りが終わり、観念して目を開ける。

 部屋の窓の外は夜明け前を映していた。夏至が近いためか日の出も早く、午前三時の空は綺麗に白み始めている。星をちりばめた群青色とのコントラストが静かに美しい。


 カーナビ事件の後、無事に町を見つけることができ、そしてイコが事故を起こすこともなく、夕方頃には町に着くことができた。

 宿は安宿。二段ベッドが一つ置かれただけの狭い部屋だ。運転で疲れたイコは文句を言う気力もなかったが、上の段を陣取る余裕はあったようで、真っ先にベッドをよじ登って寝息を上げた。今、上の段でイコが歯ぎしりしながらガンガン壁を蹴っている。とてもうるさい。せっかくの夜明けの景色が台無しだ。


 ベッドから這い出ると、壁にもたれていたベイが顔を上げた。

 眠っているように見えたが、ちゃんと起きていたようだ。仕事とはいえ偉いなあ、と素直に思った。


「だから早えって。寝てろよバカが」

「バカだから寝覚めが早いんだよ。顔洗ってくる。俺の使ってたベッドで寝たらいいよ。出発は明日だけど、休めるうちにちゃんと休んだ方がいいぜ」

「そのセリフ、そっくりそのままお前に返してやるよ。……寝てねえだろお前」


 思わず苦笑いが浮かんだ。

 記憶の反芻は眠りではない。脳を働かせているからだろう。本当はあの記憶の続き──“思い出せていない記憶”を探っていたのだが、見ることは叶わなかった。


「今寝ようとしても眠れないと思う。明日はちゃんと寝るよ」

「そうしろ。お前の体調のケアまでするのは御免だぜ」


 言うだけ言ってさっさと寝床に潜り込むと、数分後には寝息が上がった。どこでもすぐに眠れるように訓練されているのだろうか。俺もできるようになった方がいいかな。

 先程までベイが座っていた場所に腰を下ろす。今日は宿で朝食が出されるので、炊事の必要はないから、このまま異変がないか番をするだけでいい。


 バックパックから覚え書きノートを取り出した。ほとんどのページが隅々まで、走り書きや文献の写し、地図などの書き込みで埋まっている。書かれている文字は普通の人が読めないものだが、俺にとっては幼少から慣れ親しんだ文字だ。

 同じ文字で新しいページに書き込みをした。


【覚えていない記憶】

【今はまだがない?】


 ペンを額に当てて、思いを巡らせる。

 俺がはっきりと思い出せるのは、研究施設にいる間と出た後だ。ところがどうやって出たのかが分からないし、意識を取り戻してみればとある孤児院にいた。その孤児院で、俺はしばらく世話になったのだが……。


(そうだ。ちゃんとハッキリ記憶があるのは孤児院だ)


 最初の頃は混乱していたし、あとから聞くと高熱にうなされていたというから、本当の意味で“思い出せる”記憶はもう少し後から──落ち着きを取り戻した頃になってからだ。混乱していた時期のことは正直思い出したくなかったし、孤児院の人に問いただすのも気が引けていた。


 だが今はそんなことを言っている場合ではない。少しでも俺の中の重要なカギを見つけなければ。

 決意を籠めてペンを走らせる。少し震えた字でこう書かれた。


【手掛かりは孤児院に?】






  □ □ □






 二日後には町を出た。今度は東へ行く指示が出たという。

 ただ次の町まではかなり遠く、車でも三日はかかる上、途中深い森を抜けねばならないらしい。滞在中に食糧は買い込んでおいたが、節約を心がけた方がいいかもしれない。フロントガラスの向こう側に暗い深緑を湛える森が見えた時、口には出さないがその思いをより強めた。


 辛うじて続く道を、イコはハンドルを忙しく回しながら進む。いつもは荒ぶっているドライビングも今ばかりは穏やかな徐行運転だ。

 そしてベイはここ数日で初めて見るくらいに気を張り詰めている……俺もイコも声を掛けられないくらいに。




 俺の腕時計が十七時を示す頃、車を停めて野営の支度に取り掛かった。

 木々の葉が生い茂っているせいか、森にはほとんど日光が射し込まない。時計に従って行動するのがいいだろうと全会一致で決まった。

 幸い雨も降っていないし、屋根となる車があるのはとても有難い。あとは火をおこして夕食を作り、イコと俺とが先に床に就く。真夜中になったらベイと見張りを交代する。野宿の役割やローテーションが定まりつつあった。


 俺が焚き火の準備をする間、ベイは黙々と作業をしていた。

 奴の周りの空気がピリピリどころかビリビリしている。イコを見れば、我関せずとばかりに車の点検をしている。

 ああそう、俺の役目ってことね。


「ベイ、上から何か言われたのか? そんなに怖い顔してると獣も寄って来ねえぞ」


 ベイが集めた木っ端から水分を抜く作業を終えたところで声をかけた。手持ち無沙汰になったベイはうろうろとその辺を彷徨っては、指示もしていない予備のたきぎ集めをしていた。


 俺の見たところ、ベイは図体に似合わずかなり器用な奴だ。荒っぽい口調と纏う雰囲気で“怖い人”という印象を抱かせるが、こうして行動を共にしていると、意外とマメな人物に思える。

 現場の俺たちと上層部の間を上手く取り持ちながら、危機判断や状況把握にも長けている節もある。先日盗賊に襲われた時も、イコに気を配りながら俺の安全も確保しつつ、遠距離から盗賊の腕や足を打ち抜くというスゴ技をやってのけた。護衛役が自分一人なことを不満げに語ってはいるが、それだけの実力と器量があるからこその配置なのではないか。当事者は大変だろうが。


 そのベイが、落ち着きなく周囲を気にする。一体何があるというのだろうか。

 わざとからかうように問いかけた。


「この森にヤバい怪獣でもいるとでも聞いたか?」

「いや……別に上から聞いたわけじゃねえが……」

「何だよ、歯切れ悪いな。心配事があるなら先に言っといた方がいいぞ、カーナビ故障事件の時みたいに、俺の二の舞になりたくなきゃな」


 一瞬迷うように目線を彷徨わせ、ベイは俺の横にどさどさと薪を追加した。……ちょっと多すぎる。小さめのキャンプファイヤーが出来そうだ。

 がっしりした肩から銃を下ろし、地面に座り込んで声を潜めた。


「このルートは通りたくなかった。やめた方がいいって指示役に上申したんだがな」

「今通ってるけど」

「却下されたんだよ。情報不足ってことでな」


 苦々しくベイは言い捨てる。

 普段から刻まれている眉間のしわが、いつになく濃い。


「昔からここはいい噂が立たねえ。タチの悪い賊がいて、女子供を攫っては東──治安の安定しねえ大陸の東部地域だ、そっちに売り飛ばすって話だ。東の方じゃ人身売買が横行してるからな。いい“商品”を手に出来りゃ、あとは遊んで暮らしても金が余る、それぐらいの額がポンと懐に入る」

「思った以上にアングラな話だな……」


 俺もそういった輩に出くわしたことがある。

 見目珍しいからと即座に捕まり、危うく闇オークションにかけられるところだった。寸でのところで脱走できたが、あのまま売り払われていたら俺はいくらになったんだろう。まあどうでもいい。


「有名な噂なんだろ? 情報が足りないってことはないだろうに、どうして上は聞き入れなかったんだ?」

「この森を避けて通るルートの方が危険が多いらしい。ここはもうセラン州の外れだ、難民騒動で情勢が不安定になってる。だからって別の町は行くには遠い。消去法でこの森しか残らねえってわけだ」

「なるほど、たしかに州境の辺りが物騒だってニュースでもやってたものな……さっさと抜けたいところだけど、今日みたいなカメ並みのスピードじゃ厳しいな」


 こうも蛇行運転するのでは、予定の三日では足りない。かといって車を捨てる訳にもいかない……。

 一つ溜息をついて、ベイは肩を竦めて言った。


「最大限警戒しながら進む、それしかねえ。気配を感じたらすぐにコイツで……」

「前も言ったろ。殺しはナシだ」

「威嚇するって言いかけたんだよ。分かってる」


 ベイはイライラと舌打ちした。口ではこう言うが、この間も頭を撃つようなことはしなかった。

 薪を組んで火をつける。油分の多い枝を使った焚きつけからあっという間に炎が上がり、ほどなくして勢いよく太めの枝を舐め始める。これで枝に燃え移ってくれれば、あとは時々薪を足すだけで焚き火は持続してくれる。


「ナダー、鍋持ってきたー」

「お、サンキュ。そろそろ始めるか」


 無事に薪の内側から炎が揺れ出したのを見計らい、俺は夕飯の準備に立ち上がった。






  □ □ □






 それは三日目、明日には森を抜けられそうだというところまで来た時だった。

 俺たちはまた野営を張っていた。最後の野営になりそうだ、早く屋根のある場所で寝たい、などと和やかに話している時だった。


 突然ベイの瞳孔が開き、銃を構えた。

「俺の後ろに着け」と低く短く俺とイコに指示を出し、銃の安全装置を外して辺りを静かに窺った。


 同時に俺も森の空気が乱雑に揺れるのを感じていた。

 動物や風ではない、人間が動かす独特の空気。それも荒れた動きだ──どう考えてもお行儀のいい集団ではない。


「見えるか、ベイ」

「いや。くそが、奴ら視界の悪い時間帯を狙って来やがった。手慣れてるな」


 ベイが悔しそうに悪態をつく。こういう、薄暗い時間帯は夜よりも視界が悪くなるものだが、今がまさにそれだ。

 油断なく辺りを探るベイの後ろで、俺もナイフを取り出して構えた。腕に覚えがないことはないが、相手の人数によっては切り抜けられないかもしれない。


 ピンチだ。

 張り詰めた空気がザワザワと肌を粟立たせる。



 ──次の瞬間、俺の視界が突然ひっくり返った。


「ぐあ……ッ!?」


 背中をしたたかに地面に打ち付け、息が詰まった。

 そのまま俺の体はズルズルと、どこかへ引きずられていく。抗おうにも手足の自由が利かない、その状況にますます焦る。


「ナダ、ナダ! どうしようベイ……ってうわヤバ撃ってきた! 何これロープ!?」

「イコ慌てんな、トラップだ。大人しく俺についてろ……くそッ、ナダ! どこだ!」


 ここだ、と叫ぼうとしたが声が出ない。顔に腕にロープがめり込んで身動きが取れない。喘ぐと喉に土が入ってきて更にむせた。

 何とか大声を出したが、頭に衝撃が走り、俺の意識は暗闇に支配されたのだった──。






  □ □ □

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