8
温泉街の外れで開かれる朝市に行くのが、きのうまでの予定だった。
それが叶わなかったことで、朝食は早い時間から開いている安いお店の蕎麦をすすることになった。水が良いのでそれなりに美味しいが、地元のグルメを巡るスタートとしては不満足なものだった。
粗末な一杯はものの十分ほどで平らげられてしまった。食後は、これから回るルートを再検討する打ち合わせに充てられた。ロスした時間は一、二時間でも、開店時間や自動車での移動を考えると、当初の計画から半分ほど削られてしまう見込みだ。
話は意外とまとまらず、だんだんと話題が逸れていく。
「そういえばさ」
彼は唐突に切り出した。
「奈緒子はお母さんと血のつながりがないんだよね?」
「どうしたの、急に?」
きょうの彼は、久々の旅行に浮かれているのか、わたしの昔の話をしたがる。さっきもわたしが契約で育てられたことを話題にしていた。もしかして、契約満了のときの夢を見ながら、寝言でも言っていたのだろうか。
「いや、今朝から奈緒子の気分が上がらないみたいだったから。夢でも見たのかな、と思って」
寝言を聞かれたわけではなくても、彼には充分伝わっていたのか。
確かに、お母さんの夢を見ながら寝坊して、彼との約束を破ったことで、やや気分が上向かないところはある。このあとの予定が決められないのも、わたしに非があるからと彼の希望を通そうとして、わたしの希望を尊重する彼と意見がすれ違うからだ。
それにしても彼は、何を意図してわたしにお母さんの話をさせようとするのだろう? わたしがお母さんの話題、つまり契約の話題に未だに引っかかりを抱いているのはその通りだ。そうだとしても、わたしがそれを話したがっているように見えるというの?
訊かれたことに返事するくらいなら、昔話に抵抗はない。
「遺伝子的なつながりはないよ。お母さんがお腹を痛めて生んだには違いないけど」
「お父さんは小学生のころに亡くなって、小学校卒業のときにお母さんとの関係について知らされたんだったよね?」
「うん。何が変わるとも思っていなかったから、驚きはしたけど気にしなかった。……ほとんど話したことないはずなのに、よく憶えているね」
彼は一瞬、にっと歯を見せて自慢げに笑った。
その笑顔はすぐに引っ込めて、神妙な面持ちになる。
「でさ、その契約を持ちかけたお母さんのことは、いまでも嫌い?」
「え? そんなこと訊くの?」
「旅行は特別な機会だと思って、いいかなって」
「ううん……嫌いとまでは言えないけど」
お母さんは家族だ。高校三年間は契約で結ばれていたとしても、疑いようのない親子である。
母の務めとして、わたしのためにたくさんのことをしてくれた。お金を稼ぐのだって、ご飯を作るのだって、わたしの相談に乗るのだって、親として最善を尽くしてくれた。このことに文句を言えるはずがない。
気に入らないのは、その根拠が契約だったということだ。
契約なしには親子ではない、お母さんはそう言い切った。
この愛情と背中合わせの憎しみを、言葉にするのは容易ではない。
「それを訊いて、どうしたいの?」
再度はぐらかそうと試みるも、優しい彼は何に機を見出したのか、ここぞとばかり突っ込んでくる。
「さっき、奈緒子がお母さんに育てられた自分を嫌な性格だって言ったでしょ? でも、奈緒子をここまで立派に育てたあたり、お母さんだって理由があって契約を結ぼうと言い出したに違いない。それがわかれば、奈緒子も自分に自信を持ってくれると思って」
「だから、それでどうなるの?」
「少し思うところがあるんだ」
理屈で考えたときの答えとしては不満だけれど、適当に言っているのではないと見える。
興味を持つとしつこい性分の彼だ、真摯に応じることにしよう。
「嫌いではない……でも、契約の話をされたときはすごく傷ついた」
契約とはつまり、家族としてのクビ宣言、すでに愛情が失われたという証拠。客観的な約束ごとがなければ面倒を見る義理はないと、意地悪を言われたと受け取った。いままで通りの、言葉がなくてもつながっていられる絆を否定されたのだ。しかもわたしは、片親になったお母さんに心配をさせないよう、勉強に家事にと頑張っていたのに。
あまりにもあり得ないシチュエーション。
共感してくれる人などこの世にひとりもいない。
彼が気安くそういう態度をしてくるなら、どうやって言い返してやろうかと考えているときだった。
「そうか、そこに認識のズレがあったのか」
彼が素っ頓狂な声を上げて、抽象的に気づきを述べた。
「認識のズレ?」
「契約の受け止め方が違うんだ。その時点で違いがあったから、親に求めること、求められることに食い違いが起こって、奈緒子はお母さんに反感を抱いてしまった」
「はあ……?」
そんな迂遠な言い回しをされると、理解が追いつかず相槌も適当になってしまう。
抽象度は高いものの彼が言っていることに間違いはなくて、わたしとお母さんとでは思い描いている親の姿が違いすぎた。根本的には、契約の必要の有無――愛のある親子なら契約など必要がないと思うわたしと、大人同士の付き合いとしてけじめをつけようというお母さんとでは、実際の家庭生活がどうであれ理念のうえで合意できなかった。
それ以外にも何度か、お母さんはわたしの思う「良い親」の像を否定したり、疑問を呈したりした。それを考える高校生のわたしの認識は甘かったかもしれないが、常識的な理想像は持っていたはずだ。それなのに、お母さんは頭ごなしに斥けて、認めなかった。
「お母さんにとっては、契約でもしないと不安だったんだよ」
彼の声には、だんだんと熱がこもりはじめていた。
「不安?」
「うん、奈緒子にとってそれは、まったく心配していないことだった」
「もしかして、血のつながりのこと?」
彼は力強く頷いた。
そうは言うけれど、実感が湧かない。わたしはお母さんと遺伝子的につながっていないことを気にしなかったのだから、お母さんがわたしとの関係を心配する必要もないはずだ。親が心配するべきは、子が受け入れられなかった場合の反動である。
「お母さんに心配させたような言動はしなかったよ?」
「だからこそ心配だったんじゃないかな。高校生といえば思春期、反抗期。人間関係も広がって、家の外に居場所を見つけるかもしれない。中学生までの娘が親子の絆に疑問を持っていなかったとしても、心理的に一気に大人になる時期、関係が変わってしまうことを恐れていたんだ」
「ええ、そんなことある?」
と、言ってみてから気がついた。わたしが自分の認識を信じて疑わないように、お母さんもわたしが変わってしまうことを本気で案じていたなら?
でも、そのあとのお母さんの行動は不可解だ。矛盾している。
「契約したせいで、かえって親子の関係は乱れたんだよ?」
「そうかもしれないけれど、お母さんはそれで安心できたんだと思う。契約の内容を思い出してみてよ」
契約は、わたしの高校卒業と、お母さんの家庭の維持とを相互に義務付けるものだった。お小遣いが給与を模した仕組みだったり、お弁当が有料になっていたりと、おかしな部分はやたらと多かったけれど、お母さんがわたしと比べて重すぎるほどに義務を負うことで、家庭生活はそれなりに機能していた。
ともすれば片務的ともいえる契約は、何を狙いとしていたか?
「義務教育ではない高校を、確実に卒業させたかった?」
「間違っていないけれど、本質的ではない」
「約束を守る仕方とか、交渉の仕方とかを教えたかった?」
「同じことだよ、そういうことじゃない」
「じゃあ、何さ?」
「奈緒子にとっては、黙っていても親子だった」
「うん」
「お母さんにとっては、そうではなかった」
「そうみたいだね」
「それってつまりさ、奈緒子のことが大好きだったんだよ」
はあ? と汚い返事が口から零れた。
「意味わかんない」
「いやいや、わかっているはずだよ。奈緒子は、お母さんにとって自慢の娘だったんだ」
自慢の娘?
そんなはずはない。
わたしのことが好きなら、もっと世話を焼けばいいのだ。
「奈緒子は頑張っていたんだろう? お母さんに負担を掛けないように、家のことを手伝ったり、受験勉強を頑張ったり」
「うん。それなのにお母さんは契約を持ちだして突き放した」
「いいや、突き放してなんていないよ。繋ぎとめていようとしたんだ」
「え?」
確かに契約とは、そういう性格のものでもある。
相互に義務を課すことで、それを履行するために関係が保たれる。
でも、お母さんは母親としての権威を利用して、わたしに強引に契約を――
「……そっか」
結ばせたかもしれないが、必ずしもそうではない。
契約はわたしだけが一方的に破棄できた。その内容は、お母さんにばかり義務が偏っているというのに、お母さんは契約を解消できない。内容の変更を禁ずる条文さえあった。結べば自分が不利になる契約を強引に結ばせるなんて考え方、普通ならおかしい。
あるとすれば、引き留めるため。
相手に有利な条件を吊り上げて、喜んで契約してもらおうとするときだ。
「お母さんは、奈緒子が娘でいることを当たり前に思っていなかった。立派に育ってくれた自慢の娘は大好きだけれど、多感な高校生の娘が心変わりして、自分を親だと思ってくれない日が来るかもしれない。それが怖くて、契約をしたかったんだ。契約をして、奈緒子に改めて自分の娘になってほしかったんだ」
「…………」
「言うなれば、契約は親から子への孝行だったんだ。娘として生まれてくれたことを誇り、感謝するための、不器用で真面目過ぎる、最大級の誠意だ」
「…………」
「そうだとしても、お母さんのことは嫌い?」
「……嫌いだよ。約束するときは、お互いが全部わかっていないと不公平なんだから」
そういえばお母さん、契約したその日に言っていたな。
契約をした理由は、解釈によっては、わたしが実の娘ではないからだって。でも本当は、わたしが大切な娘だから。表裏一体の理由ゆえ、見方が分かれて当然だ。高校を出るころにはわかるなんて言っていたけれど、全然わからなかったよ。
一円を渡しておいて良かった。
「ねえ、この後の予定、どうする?」
「あ、時間食っちゃったね。余計行くところに迷うなぁ」
「もう決まらないならさ、お母さんに会いに行くのはどう?」
「え、うちの実家に? 車だから行けなくはないけど」
「高速ならあっという間だよ」
「ここから四、五時間は運転しないと着かないよ?」
「大丈夫、あしたはどうせ帰って家でゆっくりする予定だったし」
「……いいの?」
「僕も会ってみたくなった」
「何それ、興味本位?」
「結婚の挨拶だと思われちゃうかな?」
「バカ。結婚なんて自分たちで内容を決められない契約、するもんじゃないよ」
「それ、百回くらい聞いた」
「家族になるのに結婚は関係ないから」
「それも聞いた。そうだ、子どもが生まれたら契約するの?」
「ありえない」
「だよね」
「でも、約束を大事にする人に育ててあげたいな」
幸せ家族契約 大和麻也 @maya-yamato
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