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「卒業おめでとう。そして、大学進学おめでとう」


 コーヒーの香りが漂う、いつもの交渉のテーブル。数時間前に受け取ったばかりの卒業証書と、三年間の務めを果たした契約書とがわたしたちのあいだに置かれている。

「きょうで契約満了だね」

「娘としての義務、お疲れさまでした」

「こちらこそ、お母さんもお疲れさま。娘はもう少しだけ、自分の将来を決めるため学校へ勉強しに行きます」

 第七条の3の規定により、わたしが高校を卒業したことでわたしたちの親子関係を定めた契約は自動的に解消される。新たな契約を結ぶ予定は、ない。

「そういえばさ、一度も適用されたことがない条文があるの、憶えてる?」

「もちろん。いつでも待っていたのに、奈緒子にその気がないから」

 任意のその規定には、少なからず反感を持っていた。

 第六条は、娘から母親に対し、母親の義務の遂行の対価を任意の額で支払うことができると定めている。要するに、お母さんがわたしに通学の対価としてお小遣いを与えたように、わたしからお母さんへ現金でお礼をできるということだ。

 ふざけるな、と何度かお母さんに言ったことがある。

 契約のせいで、わたしがどれだけフラストレーションを募らせたことか。高校生らしいことができなかったり、余分な苦労をしたり。それなのに、堂々と条文を設けて娘から感謝の証を受け取れると定めるなんて、図々しい。せめて、わたしが好意で設けた条文なら良かったものを。

「まあ、これだけ面倒見てもらってゼロ円は悪いかな、と思って。最後だから、三年分払ってあげる」

 ポケットから取り出したお金を、契約書の上に置いてお母さんのもとへすっと滑らせた。

「一円?」

「親孝行でしょ」

「……そうね。本当に、自慢の娘だよ」

 そう呟くと、お母さんはたった一枚の硬貨に涙を流した。


「きょうまで契約を破棄しないでいてくれて、ありがとう」



 ――あれ、おかしいな。契約満了は、何年も前のことなのに。


「ああ! 寝坊した!」

 布団から飛び起き、まずは時間を確認する。時刻は九時になろうとしていて、出発予定の時刻は過ぎてしまっていた。これから着替えをして、化粧をして、自慢の髪をセットしていたら、せっかく立てた予定を大幅に狂わせてしまう。

 それから布団の隣にいたはずの彼の姿がないことに気づき、頭を抱える。怒るような人ではないけれど、がっかりさせてしまったかもしれない。朝寝坊の失敗はいままで何度か犯してしまったし、旅先でこの失敗は痛い。

「あ、おはよう。よく寝ていたね」

 寝室が騒がしいのに気がついたのか、彼が襖を開いた。朝風呂を済ませ、出かけられる恰好に着替えているのを見て、申し訳なさが募る。

「ごめん……たまの旅行なのに、起きられないなんて」

「いいんだよ。奈緒子が朝に弱いのは体質的にも仕方のないことだし、どうせ、食べ歩きに予約の時間も何もないから」

「もう、優しすぎるよ。約束を破ったんだから怒ってもいいところだよ?」

「それは奈緒子でしょ」

 彼はからからと笑う。わたしでは持て余してしまうほどの包容力だ。

「約束って聞くと、いまでも奈緒子と出会ったころを思い出すよ」大学四年以来の付き合いの彼は、事あるごとに昔のわたしの話をしたがる。「ゼミの資料を手渡ししたくて会ったついでに、お茶に誘ったら『そういう約束はしていないでしょ』って帰っちゃって」

「ああ、うん」このタイミングでその話をされるのはあまりに気恥ずかしくて、寝癖を直すふうに髪を撫でて彼の視線を誤魔化した。「そんなこともあった」

 軟派に慣れていない彼曰く、下心を見抜かれたと思ってかなりショックだったという。当時のわたしは悪いことをしてしまった。約束がどうとか、そういう形式的なことを無暗に振りかざすと相手を白けさせる。

 はあ、と自分の悪癖に嘆息。

「結局、自分が接せられたようにしか、人に接することはできないってことだね」

「ああ、奈緒子と契約したっていうお母さんの話ね」

「そう。ひどい親に育てられて、嫌な性格になったものだよ」

「そんなことないと思うけど。仮にそうだとしても、僕はそのお母さんに育てられた奈緒子が好きだし」

 いまでも時々、彼には疑いの目を向けることがある――こいつ、本当に軟派の趣味はなかったのか?

「契約にしても何にしても、人との約束を大切にできるって、とても良いことじゃないかな」

 わたしも、彼のおかげで自分の長所がわかるようになった気がしている。

 伸びをして、布団から出る。

「急いで支度するから、外に出ようか。わたしのせいで、朝ご飯まだでしょ?」





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