6
うるさいくらいのノックのあと、お母さんが部屋に入ってきた。
「きょうから二学期でしょ、学校行かないの?」
八月最後の月曜日が始業式の日だった。
しかし、わたしは目覚ましも鳴らさずに朝を迎え、ベッドからも出なかった。時間はすでに、遅刻しないためには朝食も食べられないほどになっている。わたしは寝間着のままで、整えるのに時間のかかる自慢の髪だって寝癖だらけ。お母さんが部屋に入って来てからも、壁紙の花柄のひとつをじっと見つめていた。
「……お腹痛い」
「嘘。あんた食べすぎでもなきゃお腹を下さないじゃない」
「……頭痛い」
「それくらい頭を使っているのはわかるけどね」
「何でもいいから」
「うん」
「きょうは学校行かない。行きたくない」
学校、という言葉を口にすると、喉の奥がじわりと強張った。身体を丸めて、背後からの静かな圧力に抵抗する。心の奥底から溢れてくるどろどろとした感情には、抗うよりもやり過ごすことを選択し、その時間が欲しかった。
「どうしてきょうに限って行きたくなくなったのさ? 夏休み中、バイトも部活も、クラスの準備にも普通に顔を出していたじゃない」
だって、それらに出かけて行っても、顔を合わせないで済むじゃないか。
久々にクラスメイト全員が顔を合わせる始業式という日では、そうはいかない。
同じ学校に行くでも、誰がいるかを意識し区別することは初めてだ。いままでなら、ただ学校に行って勉強するだけで良かった。学校に行けば将来のためになると思っていたし、友達がいて楽しいし、お小遣いももらえた。でも、あの夏祭り以来そんな楽天的にはいられなくなって、周囲を見回し警戒しながら、不意の遭遇に備えるようになっていた。
お母さんはわたしが寝坊をすると、掛け布団を引っぺがしてわたしをベッドから引きずり落とす。今度そうされたら嫌だ。タオルケットをぎゅっと巻きこみ抱きしめて、抵抗する準備をする。
ところが、そうはならなかった。お母さんがわたしを強引にベッドから出すのは、契約を交わす前の話だった。
「『学校に行け』って、言わないの?」
つい、素直な疑問が口を突いて出てしまった。
「私が奈緒子に課した義務は、学校に行くことじゃなくて高校を卒業することだからね。卒業単位に影響しなければ、別に休まれてもどうってことない。きょうは授業もなく、くだらない儀式だけだし尚のこと。奈緒子、貧血でぶっ倒れたこともあるじゃない」
「……なら、どうして起こしに来たの?」
「娘の緊急事態には全力で対応する契約だからね」
「いまは緊急事態なの?」
「そりゃそうでしょ。朝が苦手なあんたでも、行きたくないとごねたことはなかった」
確かに、緊急事態かもしれない。こんなわがまま、初めて言った。
でも、そうか。お母さんはわたしのピンチに対応する義務があるのだった。
「お母さん、きょう、仕事は?」
「きのう締め切りの原稿は全部片づけた」
「じゃあ、少し話を聞いてくれる?」
ようやく、身体を起こす気になった。
エプロン姿で腕組みしたお母さんは、ため息でわたしを迎えた。
「先にご飯食べなさい。お父さんとの約束でしょ」
お腹が満たされれば機嫌が良くなるのだから、わたしは単純だ。
気分が重いからといって、一度ふて腐れたふうを作ってしまうと、意地になってそのままふて腐れていようとしてしまう。人間の感情には行動に伴って生じる面もあり、ふて腐れるのをやめてご飯を食べるのに集中していると、不機嫌でいること自体を目的にして機嫌を損ねていたことがバカらしくなる。
朝食を食べ終え、最低限の身だしなみを整えていたら、とうに始業時間は過ぎていた。いまごろ出欠を取っているか、体育館で整列しているか、というころだろう。
人生初めての無断欠席だ。
例のごとく交渉のテーブル。お母さんはお気に入りのマグカップでコーヒーを淹れて、ゆっくりと深く腰掛けた。
「それで、どんな話?」
契約を結んでからというもの、お母さんはわたしから話をさせようとする。わたしが困っているとき、悩んでいるとき、彼女のほうからわたしにはたらきかけてくることがなくなった。それは果たして、親子として寂しいことなのだろうか。
最初はお母さんの手元のマグカップを見つめて、その後は目を見て話した。
藤江さんとの関係を、時に中学時代の関係性にも触れつつ、入学から夏祭りのあの日まで順を追って話した。話の途中には、彼女がバスケットボール部で活躍した背の高い人だとか、進学後茶髪にしてイメージを変えたこととか、話の本筋からは逸れて、彼女の為人も伝えた。そうして話を広げていくと、わたしとは馬の合わない「友達の友達」に関することも、自分を傷つけないで語ることができた。
でも、話せば話すほど、気が楽になることはないと思い知る。藤江さんの顔を思い浮かべるごとに、深い螺旋階段を一段ずつ下っていって、後ろ向きの憶測がぽつぽつと出てきてしまう。
仲良し同士で遊びたくて、わたしは人数合わせで誘われた? 肝心なことを伝えないでわたしを呼んだのは、そうしないと断られるとわかっていたから? いま付き合っている人のいない先輩に、知り合いの女の子を紹介しようとした? 高校生になって急に仲良くしようとしたのは、交友関係を広げる足掛かりにするため? わたしと親しくなりたい気持ちは、最初からなかった? わたしと夏祭りを一緒に楽しもうとは、考えていなかった?
吐き出しても、吐き出しても、出し切ることはできなかった。
決してそう思いたくないのに、悪い妄想が藤江さんを悪の権化へと変えていってしまう。藤江さんと会うこと、彼女の元カレだという先輩と会うこと、それらをリスクとして捉えて、相手を悪く思い描くことで自分を正当化しようとしている。そうでもしておかないと、わたしは自分自身が角の生えた悪魔だとしか思えなくなる。
もとの親しい関係には、二度と戻れなくなってしまった。
一緒でないと寂しいとまで言ってくれた友達は、「約束と違う」なんて自己完結した怒りに任せて突き放したわたしを、人間関係を機械的に処理しようとする冷淡で身勝手な人間だと蔑むだろう。
わたしは、嫌われる人間になってしまった。
「そうねぇ……でもいつまでも避けていられるわけでもないし」
やはりお母さんは、わたしが予想する「普通」の回答をしてくれない。
「親なら『気にするな』とか『謝れ』とか言うところじゃないの?」
「ふうん、奈緒子はそういう親が良いと思うわけだ」
「…………」
「奈緒子の理想はこの際どうでもいいとして、あくまであんたの人間関係の話じゃないの。私は話を聞いてアドバイスくらいならするけれど、どうこうしろと強制するつもりはないよ」
「……そういう契約だから?」
「その通り。ようやく契約内容を憶えてきたのね。もとはといえば、恋人ができたときの規定のつもりだったのだけれど」
確か、第五条の規定だ。
契約の条文は決して多くはない。それでも、各条文に想定されている状況があるし、もしそこから外れていても、拡大解釈して対応を図る。親子関係を契約で定めるには、それくらいでないとカバーしきれないということか。
「避けていられないとは言うけれど、どうすればいいの?」
「そりゃ、喧嘩を勧めるつもりはないよ。相手の出方を見るために、コミュニケーションを取ってみるしかないんじゃないの? メールとかもらってる?」
首を横に振った。あの日以来、藤江さんとの連絡は途切れている。
お母さんは嘆息した。
「あんたたちも不器用ね、試してみないことには仕方がないのに」
「話さなきゃダメ?」
「ダメとは言わないけれど、馬が合わないからって付き合わなくていいなんて、無責任な助言はできないからね。そういう方法しか知らないとわかり合えない人間が増えるだけで、ますます住みにくくなる」
ああ、契約に書いてあることなら、お母さんは無責任な言動はできないと構えるのか。
わたしが良かったと振り返る口うるさくておせっかいなお母さんは、無責任にものを言うことがあったのかもわからない。契約する前から、家で働くためにいろいろな人と交渉した経験があっただろうに。
「諦めるのは早いってことね。何もかも失敗せずにいようたって、そうはいかない。今度は奈緒子のほうから誘ってみるとかして、気長にやっていけばいいのよ。まあ、これを言っても気休めにしかならないか」
「……うん」
変に共感されたり、凝った策を提示されたりするより気休めのほうがいいのかもしれない。
いまはまだお母さんの助言では物足りないけれど、いつかわかる日が来ると信じることができる。また次に上手くいかなかったとしても、また励ましてくれると約束してくれているような気がした。何度弱音を吐いても、呆れられることも見放されることもないというメッセージが、曖昧な励ましの中に含まれている。
時間が解決する?
そうではない。
わたしには解決する時間があると、自信を得たのだ。
「でも、喧嘩できて良かったんじゃないの? あんたが大事にしたかったことが、図らずもわかったみたいだし。その藤江さんも、あんたも」
「は?」
「いずれわかればよろしい」
意味深長な言葉を残すと、お母さんは時計をちらりと見やった。その視線を追って、わたしも時間を確認する。始業式は終わってしまったらしい。
「学校に行かなかったのは勿体なかったわね」
「完全な、サボりだね」
「きょうは有給にすればいいじゃない」
「そうする」
これで、お小遣いの計算のうえでは、きょうは登校したとみなされる。
「……思ったんだけど、どうして有給の仕組みを作ったの?」ごく当たり前に行われた契約上の手続きに対して、素朴に感じた疑問を述べた。「学校に行かせるのが親として正しい行いじゃないの?」
「そんなの、高校生にその権利がないほうがおかしいじゃない」あっさりと、お母さんは滅茶苦茶な答弁を行った。「私と奈緒子は大人同士の付き合いなんだから、私が無理やり奈緒子を学校に行かせるなんて、そんな一方的な関係はあり得ない。もちろん、こうした余暇が卒業と将来のために有効に使われて欲しいのだけれどね」
そうか、わたしたちは契約で結ばれた関係であって、自然な親子ではない。だから、義務教育ですらない高校に行くことを命令する親も、わたしにはいないのだった。「大人同士の契約」という条件に以前は絶望したものだが、いまは救われた。
「ねえ、一学期の三か月間学校に通ったから、休みは三日以上あるわけだよね?」
「そうね」
「休みたい」
「そうしたければ、どうぞ」
「いいの? 藤江さんと会えと言ったそばから」
「有給休暇は理由を問わないものよ。行きたくないなら、それでもいい」
「それなら、一日だけ残して、持ってる有給全部使う」
「わかった。お弁当もキャンセルね。あとでお金、返してあげる」
淡々と進んでいくやり取りが妙に心地よい。家の外の、本来的な「普通」の生活には、粘っこくて鬱陶しい人間関係や感情が多すぎるのかもしれない。そういう疲れ切った頭と心には、冷たすぎるくらいでも悪くない。
しばらく感じていなかった、「家にいる」感覚。
学校に行くよりはマシという消去法とはいえ、懐かしい。
お父さん。
契約でも、
かなり変な方法でも、
「親子」ってできるんだね。
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