5

 何年ぶりかのお祭りを楽しむ方法は、すっかり忘れてしまっていた。

 最後に夏祭りに来たときは、お父さんも一緒だったと記憶している。あのころは、まだ手を繋いでもらって歩いていたし、小さくなって捨てるときに泣いて悲しんだほどのお気に入りの浴衣を着ていた。

 その後、お祭りに行く機会はなくなった。お母さんとふたり暮らしをするようになってからは、お祭りに来ていない。年齢が上がって遊び方の好みが変わったことも一因だろうけれど、それ以上に、母と娘のふたり暮らしがわたしをお祭りから卒業させた。夕食近い時間に買い食いをして楽しむなんて、とてもできなかった。

 そう思うと、久々の夏祭りはお母さんとの関係の変化に因果があるのかもしれない。

 でも、楽しめない。

 かつてお父さんにねだって買ってもらった焼きそばにも、焼きとうもろこしにも、かき氷にも、わたしの欲は向かわなかった。屋台という特別感がもたらす付加価値が購買意欲を奪っている――学校に一日通うより高いお金で、一時の美味しか手に入らないのではもったいない。

 五人の三歩後ろを、きょろきょろと屋台を物色するふりをして、距離を保って歩いた。

「あれ、奈緒子は何も買わないの?」

 暢気にりんご飴を齧りながら、藤江さんがこちらを振り返った。

「うん、迷っちゃって」

「なんかわかるわ、あたしもりんご飴より綿あめ買えばよかった。……あ、あいつらようやく来たよ。遅いぞ、一時間も遅刻して!」

 わたしの背後に、遅刻してきたふたりの男子を認めたらしい。わたしも振り返って見てみると……やっぱり、知らない人だ。日焼けした背の低い人と、背が高く赤色のアロハシャツが派手な人が手を振りながら近づいてくる。

「俺じゃなくて、こいつが時間を間違えたんだよ」

「誘われたのが随分前だから忘れてても仕方なくない?」

 そのふたりはお互いに遅刻の理由を擦り付け合い、じゃれつきながら近づいてくる。さっきも感じたような雰囲気、この手の人たちはいつもこんな調子なのだろう。

 背が高いほうの人は、ちらりとわたしの顔を確認して、藤江さんに尋ねる。

「この子、この前明音が言っていた人?」

「そうそう、奈緒子だよ」

 ぎょっとする。藤江さんが別のところでわたしの話をしていても構わないけれど、それを聞いた初対面の人に、わたしの口からではなく、紹介した藤江さんの口から名前を知られるなんて。

「普通」の感覚が違う――母親と契約したわたしが言えることではないけれど。

 わたしの訝しんだ顔を察したのか、背の高い人は、わたしに上から視線を向ける。

「なんか怪しい人みたいな感じ出ちゃったな。俺、明音の元カレ」

「あたしは付き合っていたとは思ってないケド」

「ああ、はいはい。……何でもいいけど、要は明音のバスケ部の先輩なのよ。同じ高校のよしみで、よろしく」

 わたしの視線は彼の目ではなく、その首元にある金属のアクセサリに向いていた。彼はきっと、制服を着ていれば爽やかで好印象な青年に見えるのだろう。藤江さんもそのひとりかはわからないけれど、そういう人たちから衆目を集める存在に違いない。

 彼は努めて良い印象を与えようと笑顔を向けてくる。どうやら、それによっていろいろなこと――遅刻とか、藤江さんとのやり取りによる悪印象とか――を帳消しにしようとしているらしい。ひょっとするとそれが常套手段なのかもしれない。いつもなら上手くいくし、実際、笑顔それ自体は魅力的なのだと認めざるを得ない。


 でも、ダメだ。

 こわい。


「でもさ、うちらもう一時間も楽しんでたわけで」

「だよね、もう別のところに行きたい。カラオケとか」

「いいね! カラオケ行こうよ」

「うん、もともとそのつもりだったしね」

「待てよ、来たばっかりで何も食ってないんだけど」

「そうそう、俺も腹減ってるから飯に行きたい」

「あんたは充分食べてたでしょ」

「カラオケで何か食べればよくない? ちょっと高いけど」

「ペナルティとして遅刻したふたりが払えばいいんだよ」

「それいいね! そうしようよ!」

 七人でどんどん話が進んでいる。

 ご飯? カラオケ? 聞いてないよ。そんなにお金、持ってきてないよ。わたしは藤江さんと、会いたくないけど何人かの中学のクラスメイトと、夏祭りに遊びに行くとしか知らなかった。約束はそこまで、その先はなかったはずだよ。

 どうしてわたしの意見は聞いてくれないのかな? どうしてわたしに事前に知らせてくれないのかな? どうして約束をするときの大切なマナーを軽く扱うのかな?

 わたしは除け者、数合わせ。

 だったら、出ていってもいいよね? 帰ってもいいよね?

「奈緒子、行こう」

 一行が進む向きを変えたのに合わせて、置いて行かれそうになったわたしに藤江さんが呼びかけた。元カレという人もすぐそこでわたしを待つ。楽しもうというときに置いてけぼりにしないでくれるあたり、藤江さんたちは親切で、良い人だ。その代わり、放っておいてはくれないし、暗黙の了解を大事にしすぎている。

 わたしは爪先を反対側に向けた。

「ごめん、もう帰らなきゃいけないの。うち、夕飯に帰るって言ってあるから」

「ええ! そんなの、メールすればなんとかなるでしょ」

「そうだけど……」

「ご飯は奢りだよ? 来ない手はないよ?」

「ううん」

 藤江さんが苦戦しているのを感じたのか、元カレさんも加勢する。要らないところで察しの良い人たちだ。

「せっかく初めて会ったんだから、俺、奈緒子ちゃんと話してみたいな。俺に免じて、一緒に来ない?」

 あなたに免じる義理はない。それと初対面にして呼び方が気持ち悪い。

「あ、大人数が苦手だったら部屋をふたつにするのもいいよ。四人ずつだし、ちょうどいい」

 いまさら遅いよ。それに、また「ちょうどいい」から?

「う、歌わなくてもいいから! 恥ずかしかったら、ごめんね?」

 そういう問題ではないことくらい、気づいているくせに。

「奈緒子……あたし、奈緒子が来ないと寂しいよ?」

 嘘だ。

 そして、こっちのセリフだ。

「……聞いてない」

「え?」

 わたしの内側で、何かが沸騰している。もう、噴き出してしまう。

「全然知らなかったよ、同じ中学の人が来ることも、初めての人と会うことも、カラオケに行こうとしていたことも」

 ああ、ダメだよ。藤江さんの「意味わからない」って顔、見えているでしょ? そんな相手に、自分だけ一方的にこういう態度に出るのは間違っている。そういうやり口は、わたしの嫌いなあの人のやることだ。自分がひどく嫌な思いをしたのと同じことを、友達に対してやってしまうの?


 ――我慢ならない。


「約束と違う!」


 声が大きくなった。先を歩いていた五人もこちらを振り返る。


「何も聞いてないし、何も知らない。これ以上は、約束してない。もう帰らせて」


 友達が本気で悲しそうな顔をしている。

 なんかわかるわ、その気持ち。気分悪いよね、人間関係を約束事として割り切って、曖昧にしたいニュアンスや見逃しても大きな支障のないことを、わざわざ引っ張り出して問題化されるのは。嫌な思いを何度もしたから、わかる。

 わかるからこそ、やってしまう。

 しかも、自分が正しいつもりになってしまう。やってはいけないことをしていても、それをわかっていても、仕方のないことだと正当化しようとする心理には抗えない。

 踵を返して、みんなが出ていくのとは違う通路から境内を出る。引き留める声が聞こえたけれど、追っては来ないようだから気にしなかった。気にしないつもりで一歩を踏み出すごとに、胸に重たい感情がつっかえる。

 わたし、寂しいよ。

 藤江さんとふたりで、せっかくの夏祭りを楽しめると思っていたから。

「……そう言えばよかったのに」

 渡りに船で停まっていたバスに飛び乗って、家路についた。

 わたしには、家に帰らなくてはならない理由がある。

 夕飯はできるだけ家族みんなで一緒に食べる――それが我が家の契約、もとい、家訓である。お父さんとの約束だ。



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