夜の雲

涼城若葉

第1話

春樹が家でゲームをしていると、窓を叩く音がした。

「よっ!」

窓を開けると透が居た。春樹はマンションの1階。透は同じマンションの3階に住んでいる。

「何してんの?」

透が部屋の中を覗き込む。

「ゲーム」

「またかよ」


この頃、透とは上手くいってない。今週ずっと透はぶすっとしていて、春樹に話しかけてこなかった。思い当たる原因はひとつある。


「遊びに行かへん?」

透はよくこうやって窓から遊びに来た。春樹は時計を見た。短針と長針はちょうど真上を指している。

「もう12時だよ」

小学校の5年生にもなると、このくらいの時間まで起きているなんて当たり前だ。でもこんな時間に外に出たことなんてない。


「ええやん。靴持ってきいや。窓から出たらわからへんって」

春樹は悩んだ。今は親ともめごとを起こしたくない。でも逆に、今だから透と一緒に行きたいと思った。


「待ってて」

こっそり玄関から靴を持ってくる。家の中は真っ暗だ。

「おばちゃん寝てた?」

「たぶん」

靴をはき窓から抜け出す。外は6月らしくじっとりと湿っていた。生暖かい風がどんよりと溜まっている。


「雲って、夜でもあるんだ」

春樹は空を見上げた。

「なに当たり前のこと言ってんねん」

透はさっさと歩きだした。春樹は夜空というものは、真っ暗で月と星しかないものだと思っていた。


「まぁ、当たり前と言えば当たり前のことなんだけどさ」

透の後をついて、てくてく歩く。夜の雲は青黒く、空に溶け込みそうで不気味だった。

「どこ行くの?」

春樹が聞いても、透は何も答えなかった。空には雲が多いが、丸い月も光っていた。


「学校?」

透が立ち止まった先を見て、春樹はつぶやいた。透を見ると、するするとフェンスをよじ登っている。

「ちょっと、何してんだよ!」

フェンスのてっぺんによじ登った透は、下を指差した。


「プール」

フェンスのすぐ向こうにはプールがある。

「入るの?」

透は無言で飛び降りた。裸足になって、服のまま飛び込む。

春樹が呆然としていると、透は奥まで泳いでいった。端に手をつくと、また戻ってくる。


「早よ。気持ち良いで」

プールの水面はゆらめいて、月と校舎が映っていた。水の中は真っ暗で何も見えない。

夜のプール。少し不気味で良いかもしれない。ぞくぞくする。

フェンスを越えて、靴と靴下を脱ぐ。靴下を丸め1足ずつ靴の中に入れる。プールサイドに座り、足だけ入れる。まだだいぶ冷たい。


「なに女子みたいなことしてんねん」

透が近づき足を引っ張る。お尻を打ちながら引きずり込まれる。

「なにすんだよ! 鼻に水入ったじゃん」

「ははっ! きったねー!」

透はクロールで逃げ出した。バタ足でものすごい水しぶきをあげる。型も様になっていて、とても速い。


春樹は透の飛ばす水滴を避けながら、透が泳ぐのが速かったことを思い出した。バスケも、サッカーも上手い。頭だって良い方だ。だから女子にもモテる。


バコン


考え事をしていたら、頭を叩かれた。体の横をビート板が流れていく。どうやらこれで叩かれたらしい。

透が脇にビート板を2、3枚抱え、プールサイドに立っている。


「せっかくプール入ってんのに、なにぼーっとしてんねん」

春樹は離れていくビート板を捕まえた。

「いや、どうして透は俺なんかと友達してるのかなって思って」

春樹は口数が少なくておとなしい。自分で自分のことを暗いと思っていて、それがコンプレックスだ。透は明るくて面白くて皆に好かれる。


「はぁ? なに言ってんの? そういう暗いこと言ってるから友達でけへんねん」

春樹はぶくぶくと音を立てて水の中に沈んだ。水面が目の下ギリギリまできて、目の中に入りそうだ。透はビート板を置いて、Tシャツを脱いだ。


「すぐすねよるし。よっと」

透がジャンプして飛び込んでくる。春樹は目に水が入らないよう目を閉じた。すると透が頭を掴んで沈めてくる。

春樹は抵抗したが、透の手が外れないとわかると水中で蹴りを入れた。透が滑って春樹の上に倒れる。春樹が起き上り、透を沈める。今度は透が春樹を引きずり込む。


2人は長いこと水中で暴れた。

「あっ! ちょっ、待って!」

透が春樹の腕を掴む。

「なんだよ、今更」

「ちゃうちゃう。あっち見てみい。見つかったで!」

遠くの方から明かりが近づいてくる。

「逃げんで!」


透がプールから上りTシャツを掴む。春樹も後を追いプールから出る。Tシャツも短パンも、水を含んでとても重い。

「おーい。誰か居るのかー?」

明かりの主が叫ぶ。

「やばっ。用務員のおっさんや。早よ行くで!」


透は素早く靴を履くと走り出した。

「待ってよ。走ると短パンが脱げそうだ」

まだ水を絞っていない短パンは走るとずり落ちてきて、水で引っ付いたパンツと一緒に脱げてしまいそうだ。


「なにやってんねん。早よせえや」

ピタリとしたジーンズをはいている透は、足踏みをしている。春樹は靴の中から靴下を取り出した。靴をはくと、濡れた足で裸足のままだから、とても気持ちが悪い。落とした靴下を拾いながら透の後を追う。



「ここまで来ればええか」

透は息を吐いて止まった。駅前のロータリーだ。いつもは車がずらっと並んで、買い物をしているおばちゃんや子どもたちでごちゃごちゃしている。

でも今は誰も居なかった。排気ガスでむっとする空気もなく、濡れた体の横を冷んやりとした空気が通り過ぎる。街灯がぽつぽつと寂しげに立っていて、電信柱が寄り添っていた。


「すごい。駅員さんも居ないよ」

春樹はシャッターの閉まった駅員室を見た。

「当たり前やろ。もう4時やで」

透はベンチの横に立っている時計を見た。どろどろに汚れてクモの巣だらけだ。文字盤はぼんやりと黄色に光っていて、できの悪い月みたいだ。空には本物の月が、これ見よがしに青白く光っている。


「俺、こんな時間まで起きてたの初めて」

隣を見ると、透はジーンズを脱いでしぼっていた。

「おい! こんな所で何してるんだよ!」

透はベンチにジーンズを投げ、Tシャツをしぼった。


「大丈夫やって。他に誰もおらんやん。春樹もしぼった方がええで。風邪ひいてまう」

透はベンチに座り靴を脱いだ。

「うへー。裸足でスニーカーとかバリ気持ち悪い。春樹平気なん?」


春樹はぐっと黙った。気持ち悪かったからだ。黙って透の隣に座り靴を脱ぐ。左右を見て誰も居ないことを確かめると、短パンを脱いだ。しぼると水は大量に出てきた。

「なんや、気持ち悪かったんやん。パンツもしぼりたいな」

透が立ち上がりパンツに手をかける。

「おい! それは止めろよ」

「ええやん、別に。男同士やろ」

「てゆーか、ここ道だし。誰も居ないけど。さすがにまずいよ」


透は少しのあいだ考えていたが、やがて座った。

「春樹ちゃんは気にしいやねぇ」

透が軽く口笛を吹く。

「何それ」

春樹はしぼった短パンをはいた。濡れているから気持ち悪いが、だいぶマシにはなった。

透はパンツ姿のまま足を組んだ。頭の後ろで両手を組む。


「誰もおらへんのにパンツもしぼられへんし、プール入る時もびびってたし」

「びびってないよ。ちょっと迷っただけだよ。それに、公道で何も着ていないのって犯罪なんだぞ」

「そういや、家抜け出す時も迷ってたな。肝っ玉ちっこいのう」


春樹の方を見ずに言う。春樹は足の裏に付いている泥や小さな葉っぱを払った。靴下をはき、まだ湿っているスニーカーの中に足を入れる。

「そう思うならそう思えば。それなら俺なんて誘わなければいいじゃん」

立ち上がって帰ろうとすると、透も立ち上がった。

「バカにされても言い返すこともでけへんしなあ!」

春樹が振り返ると、透は真っ直ぐ春樹のことを見ていた。春樹は自分の足元を見た。

「こんなことで言い合っても仕方ないよ」


透は真っ赤な顔をして春樹の肩を突き飛ばした。

「仕方ない、仕方ない。そればっかりや。そら仕方ないことの方が多いかも知らんけどな。俺ら子どもやし、できることの方が少ないし。それでも、ちょっとくらい相談とかせえや!」


春樹は自分のつま先を見つめたまま何も言えなかった。透が春樹の肩を掴む。

「なんとか言えや。なんでや。なんで引っ越すこと黙ってたんや。親が離婚するのは仕方ないとしてや。俺だってそれで去年ここに引っ越してきてんし。でも、春樹んところはどっちについて行くかで揉めたんやろ。それで、おっちゃんとおるんやったら引っ越さんでもええんやろ。なぁ、どうやねん!」

透は一気に喋ると肩で息をした。春樹は透の目をキッと睨むと、透の肩を突き飛ばした。


「言える訳ないだろ。マンション中で噂になって。皆して春樹くん可哀想ねなんて言われて。それでまだ俺に同情してくれって言わせるのかよ!」

押されて透は後ろに下がった。


「する訳ないやろ。俺だけは、絶対、同情なんてせえへん」

春樹は透から目をそらした。カエルの形をした変なゴミ箱を睨みつける。

「するよ。自分のことみたいに怒って、俺の親に怒鳴りつけるくらいのことはする」

透も春樹から目をそらした。

「俺はただ、春樹の力になんもなられへんのが悔しくて。皆知っとったのに、俺だけなんも知らんかったから」


春樹はこっそりと透を見た。唇を噛んで、握りしめた手が震えている。

「俺、暗いし、友達少ないし。離婚のこと知られてからは、皆よけいに気を使ってくるし。だから、透といる時くらい、そういうの忘れて笑いたかった」

透が顔を上げる。

「ごめん。俺、わかってへんかった。春樹の気持ち、なんもわかってへんのに、勝手に怒ってた」


少しのあいだ、どちらも口を開かなかった。春樹は笑って透の肩を叩いた。

「何も言ってなかったんだ。当たり前だろ」

春樹はベンチに座った。

「父さんとここに残るか、母さんと一緒に引っ越すかって聞かれた時。俺、迷わず母さんって言った。父さんほとんど家に居ないし、あまり仲良くないんだ」


透も春樹の隣に座った。透はその時初めて、春樹の口から父親の話を聞いたことがないことに気づいた。透に父親がいないから、あまり気にしていなかった。


「その後で引っ越すなら透と離れ離れになるって気づいてさ。透のことだから、なんでだよとか、ここにいろよとか言いそうだなって思ったら、決心鈍っちゃうじゃん。そしたら、なんか、言えなかった」

春樹は地面に転がる小石を蹴った。


「そっか。ごめんな。春樹がなんも言ってくれへんから、俺のこと友達と思ってないんかと思っちゃった」

春樹は笑いながら両手を組み、頭の上に伸ばした。

「引っ越すって言っても、もしかしたらそんなに遠くないかもしれないよ。案外同じ校区だったりして」

「なんやねんそれ。心配し損やん」

2人して笑いながら空を見る。濃い青色は薄くなっていき、黄色くなって白くなる。消えかけた月が薄っすら残っている。


「すげえ。もう5時やで。あ、新聞配達のバイクや」

辺りを見ると、人の姿がちらほら見えた。電車も動き出している。

寝不足な目で隣を見ると、透は裸足にパンツ姿だった。


「おい、透! お前パンツのままじゃん!」

「うわ、やっべえ! どおりで寒いと思ったわ」

透が慌てて服を着る。

「あはっ。Tシャツもう乾いてるで」

ジーンズをはこうとすると、塩素でパリパリにひっついている。はくのに手間取っている透を見て春樹は笑った。

「恥ずかしいなぁ、もう。なんか視線感じると思ったよ」

透が「嘘つけ」と笑う。


服を着ると、ベンチに座ってしばらくぼーっとした。10分のあいだに太陽が昇り、すっかり朝になっている。

「帰ったら怒られるだろうなぁ」

春樹がつぶやく。

「俺ん家は平気。まだ母ちゃん帰ってないやろし」

「看護婦さんも大変だね」

「看護婦ちゃうで。看護師や」


動く車が増え、スーツを着たおじさんたちが駅の中に吸い込まれていく。

「リーマンも大変やな」

「大変だね」

「春樹のおっちゃんもそろそろご出勤とちゃう?」

「さあ」


透の言い方は少しわざとらしかった。春樹はそれ以上何も言わなかった。あまり喋ると、透が行くなよとか、どおしても無理なんかとか言い出しそうだと思ったからだ。

「帰ろっか」

透が言った。

「帰ろっか」

春樹も言った。

2人して立ち上がり歩き出す。

「いっそのこと、うち泊まっていく?」

春樹は何も言わず透を蹴った。透は落ちていた小石を蹴った。春樹がその石を蹴ると、透も蹴った。石蹴りしながら帰った。

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