或る時計店の話

三島武比古

第1章 彼

師匠は目を使えない人だ。先天的なものか、はたまた何か過程を経てそこに盲目者として存在しているのか皆目見当がつかない。私は彼に理解を馳せたいと思うのであるが、私のそれは彼のコアの部分を知るに留まり、理解に近付けないことを何処かで確信していたのかもしれない。

 私が彼の所に身を寄せて近々五年になろうとしている。現在彼に妻子はいない。作業場はいつも彼と私の顔が多様な変化を催すばかりである。すなわち彼以外で彼のことを知っているのは私だけである。

 最初、彼は私が師匠と呼ぶことを忌避していた。彼は自身が師匠と呼ばれる程の者であると認めていない。だからこそ、私は彼にその呼称を付与するのである。

 彼は甚だ気の進まない態度で幾日も現前としているのであるが、その姿が又私の彼に対する尊敬の念を駆り立ててしまうことを彼は知らないのである。結局、彼の方が先に折れた。  

今では私が師匠と呼ぶことを彼は甘受している。現に私が師匠と呼ぶ度に牙を抜かれた虎のように諦めに満ち満ちた表情で声のする方を向いているのであるが、黙ったままである。普通の者ならば自身の敬愛する師匠からそのような表情をされたら閉口するものであるが私が口を噤むことなどありはしない。その姿も又私の好物なのである。

 師匠は表情が実に豊かな人だ。自身の顔を見ることの叶わない彼の宿命は実に冷酷なものである。私は度々、彼が現在どのような表情を呈しているのか彼に伝えようと試みるのであるが、実体を視覚において認識することの叶わない彼にそれを伝えることは困難である。いつも思考を数多巡らすのであるが、彼の表情を明瞭に表現することはできなかった。今し方、彼の表情を表そうと試みるのだが適当な言葉がやはり見つからないのである。剰え、彼は私の表現を聞いて彼も私もわからない渋面を浮かべるのである。

「そろそろ春ですね」。

私はそう口にしながら重く閉ざされたカーテンを引く。するとそこには万年雪の白化粧をした美しい富士の山と梅の花が映っている。彼はいつも通り黙ったままである。

 ここ山中湖畔にある小さな高木時計店はどこにでもある普通の時計屋である。唯一、店主が盲目であるという点を除けばただの古びた、どこか哀愁漂う時計屋である。店内に入ると時計を構成する木々の匂いが客人の鼻腔を擽る。そこには「もはや戦後ではない」という時代の謳い文句を掻き消す雰囲気があちらこちらに認められる。

「今日は、東山小学校から預かった掛け時計三つを修理する予定となっております」。 又しても彼は黙ったままである。

 この時期になると毎年近隣の公立小中学校から時計の修理依頼が寄せられる。高木町は古い校舎の学校ばかりで時計も年季の入ったものが多い。一度壊れたら新しい時計を買えば良いものだが、高木町の小中学校は世間の常識を介さない領域にあり、こうして態々高木時計店まで修理依頼を寄せるのである。

「小百合くん、コーヒーを一杯頂けないか」。

小百合とは私の名前である。彼はいつも決まってこの言葉を口にする。私がここでお世話になるようになってから一ヶ月が過ぎた頃に、彼が私にコーヒーを所望する前にコーヒーを入れていると、

「私が頼む前にコーヒーを作るんじゃない」。と酷く叱責された。その後も

「そんな横着をしてはならない」。

だとか

「第一、私がコーヒーを飲まなかったらどうするんだ」。

などとブツクサ小言を言っていた。

 当初、私には何故自分が彼に叱責されたのか理解することができなかった。そもそも、私の知る限りコーヒーを飲まなかった朝など一度たりとも無かったし、大体所望される前にコーヒーを作っているというのは気が利いており褒められて然るべきである。

 しかし、今考えてみれば彼はコーヒーを頼むことを私との会話の切り出しに使っているのだろうと理解できる。現に、彼はその時以外でコーヒーを飲むことはなく、又コーヒーを残すことも屡々あった。恐らくだが、彼は然程コーヒーが好きではないのであろう。

「コーヒー、入れましたよ」。

そっと彼の作業机の上に置く。コーヒーカップから昇る白い湯気は、平時の朝の匂いを含有していた。

 彼は目が見えないが、慣れた手つきでコーヒーカップの取っ手部に、皺を乱雑に寄せ集めたような手の親指と人差指を掛け、そっと渇いた唇へと運んだ。その瞬間に私は「生」という得体のしれない事象を感得するのであった。

「それで、今日は何をする日かね」。

彼は頓狂な声で私に尋ねた。最近、記憶力が乏しくなったのではと思わせる場面が数多ある。

「ですから、東山小学校の掛け時計三点の修理です」。

彼の表情が曇った。恐らく、「ですから」に反応したのであろう。しかし、それは一瞬の出来事であり、すぐに表情は快方に向かった。その理由を私は知っていた。

「東山小学校の時計か。あれは実に面白い時計だ」。

彼の言うところの面白さとは何を示しているのか分からないが、彼は時折この「面白い」という曖昧かつ明瞭な語を使うのである。

 当初、私は彼のそれが理解出来なかったために、色々と研究し、懊悩したものだが結局は確かな理解に至らなかった。しかし、彼の元で作業の手伝いをしていると何故かは分からないが、彼の言うところの「面白さ」なるものを感得することがあるのである。それは非常に観念的なところの「面白さ」であった。

 コーヒーを半分程飲み終えたところで、

「それでは、作業へと移ろうか」。

と彼のやる気に満ち満ちた声が作業場に木霊する。その音が作業場を冬から春へと移行させた。

「はいっ」。

私も彼に追従して非力ながら精一杯の声を響かせた。

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