魔幻の紙縒り 7
――私は暴発への第一歩をこの瞬間に踏み出したのだ。
蠢くものは、消去した私というプログラムを分厚い殻の中に閉じ込めました。「本当の孤独」という名の分厚い殻にね……。
このとき私は、この一回きりの人生を、死ぬまで独りで生きるという選択を余儀なくされた。
冒頭は、そのように書かれてあった。
防波堤の上、リュックサックの横に置かれた30枚の便箋には、文字が敷き詰められていた。
隣に置いてある、紙縒りの付いた紙にも文字が刻まれている。
続きを読んでみる。
――あの日、みんなが私に向ける眼差しは、もはや、同じ人間を見る目ではなかった。
解離性健忘という診断の原点を探っていくと、どうしても、あの幼稚園での出来事が最初ではないか……と思えてならない。
幼稚園の記憶が、なぜ、これほどまでに鮮明なのか……。逆に、小学生の頃から現在までの記憶が、なぜ、これほどまでに断片的なのか……。
あれ以来、現実の世界と、空想の世界・夢の世界・精神世界を行ったり来たりしている。
もう、こうなってしまうと、何が真実で何が幻想だったのかがわからない。
一つだけハッキリと言えることは、私にしか、この現象は起きていないということ。他の人たちは正常に生きている。これは個性の違いではなく、正常か異常かの違いだった。
私は人間として存在できなかった。
分厚い殻の中から見えるあっちの世界こそが、本来、私が送るはずだった人間の世界だった気がする。
あっちの世界を眺めていると、そこでは、みんなが笑顔で生きていました。家族と団らんする姿、友人と語り合う姿、恋人と愛を分かち合う姿、どれも幸せそうでした。
あっちの世界に行きたいと願えば願うほど、それに反比例するように、殻は、どんどん分厚くなっていきました。
みんながいた世界が、どんどん見えなくなっていきました。
学生時代なんて、振り返ってみれば、あっという間に終わってしまった……、そう思うのが普通なのに、私にはその時間が、とても長く感じました。
もっと早く、そこから抜け出せていれば間に合ったのかもしれない……。そう思うこともあるけど、残念ながら手段が何一つ無かった。社会に出たときにはもう、自殺願望と殺人願望以外、何も残っていなかった。
この社会で生きていくには、仮面を被らなければならなかった。自殺と殺人が丸出しになっている人間になど、誰も近づいてきませんから……。社会は、そんな人間を門前払いします。
本性を隠し続けなければならないのは、本当に辛くて苦しいものでした。それに、全てを隠せたわけではありません。異様な雰囲気だけは消せなかった。だから、外見と性格を整形しなければなりませんでした。他に方法はなかったのです。外見は外科手術で、性格は薬物で脳内物質をいじくりました。親しみやすく、明るく、そして、優しい外見と性格でなければ、生きていけない状態でした。完璧な人間像を求め、それになるしかなかったのです。
誰かが生活の面倒を見てくれるのなら、身体や精神に変更を加えてまでも社会に適応する必要はありません。ただ、私は違います。生きるためには、どんな手段を使っても社会に適応しなければならなかったのです。まぁ、それだけのことをしても、適応はしませんでしたが……。あっちの世界は遠かったです。
あっちの世界の人には、こっちの世界の実情は一ミリもわかりません。家族主義国家日本で、家族を失うというのは、全てを失うと言っても過言ではありません。それほどまでに生きられない世界です。自分がそういう経験をしない限り、この話は通じません。どんなに居場所が無くて独り立ちしたくても、0歳から一人暮らしをすることはできません。10代後半までは何もできません。その間は、ただ、誰かの奴隷としてそこに居るしかないのです。
問題は、たとえ年齢がクリアになったとしても、持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)と、親や監護者にどういう環境でどう育てられるかという他者啓発の結果が、社会に適応できる水準に達していなければ生きてはいけないということです。
私が社会に出たとき、その水準には程遠く、とても適応できなかった。もちろん、社会での競争に勝ち抜ける武器も無かった。整形なんて、焼け石に水で、ただ単に仮面を被ってその場しのぎをするというだけ……。とても適応というところまではいかなかった。本来、あったであろう武器も、虐待と育児放棄を食らったことで、蕾のまま削ぎ落されたと思っています。
まだ携帯電話が無い時代だった。もちろん、ネットやメールもありません。情報収集は、雑誌・本・新聞・テレビのみで、あとは何もなかったです。
当時は、連帯保証人がいないと家を借りることができなかった。家代わりとなる24時間居住可能な店も、その時代にはありません。免許は無いですし、車を買うカネもないから、車中生活もできません。まだ外国人がいない時代なので、外での居住は、すぐに警察官に声をかけられてしまいます。実際に何度も声をかけられました。身元保証人がいないので、働ける場所がほとんど無かった。行政機関は警察官同様、「家族は?家族は?家族は?家族は?」と聞いてくるだけなので、全く使えなかった。答えたところで法定代理人である親に連絡がいくだけですし……。それは、虐待と育児放棄から命を繋ぐために飛び出した私には最も使えないコンテンツでした。生活保護も同じでした。
「東京に行けば何とかなるさ」の時代はすでに何十年も前に終わっていたので、東京に行ったところでどうにもならなかったです。
生きるか死ぬかのピンチに陥ったとき、最後にモノを言うのは人間性だと知りました。まぁ、自殺願望と殺人願望しかない私に、そんなものは無いので、知ったところで何もできませんけど……。
やんちゃ系の遊べる人間と違って、私のような真面目系の遊べない人間は、こういう状況になったら真っ先に潰れるなぁと実感しました。
私には帰る場所が無かった。生きるためには、住み込みの仕事に飛び込むしかなかったのです。保証人がいないので、当然、警戒されますし、距離を取られるので、人間関係が上手くいくはずがありません。もともと苦手な人間関係なのに、いきなりそんな対応をされたら、こちらも自分を守るために「舐めたら殺すぞ!」というレベルの、勝ち気な自分でいなければならなかった。だから、上下関係は全くできなかった。職を転々とする中で、社会とは何たるかを体で覚えていくしかなかったです。
気が付いたときには、裏社会に片足を突っ込んでいた。いや、両足かな?
残念ながら、私の居場所はそこにもありませんでした。
社会に適応できなかったから裏社会に流れたのに、今度はその裏社会にも適応できなかった。
当時、仕事と住む場所はセットになっていたので、その両方を失い、最後は路上に行き着きました。
いつもと違って仕事を探すための行動が取れなかったのは、もうこの時点で、生きる意味・気力・目的・希望を失って、無気力になっていました。
当初は、家出したときと同様、どこで何をしていればいいのかがわからず、外をウロウロしていましたが、虫の襲撃と雨風がムリで、しばらくしてから地下道に移りました。そこには他にも路上生活者がいました。結局、同じ状況になると、人は同じ場所に集まってくるんだなぁと感じました。
あの路上生活は本当に苦しかった。自分で自分の体の臭さがわかるのが嫌でしたし、それ以上に、劣等感と自己嫌悪に潰されそうでした。それでも声をかけてくる人間はいました。もちろん、日本人ではありません。日本人は襲撃してくることはあっても、助けてくれる人は一人もいません。そういうことをしてくるのは、当時、まだほとんどいなかった外国人でした。宗教の布教活動で日本に来た、と言っていたのは覚えています。
この頃……、蠢くものは、私という人間に、何か新しいプログラムを書き込んでいるような気がしました。それが良いプログラムでないこともわかりました。
もう、どうにでもなれ!
何かに背中を押されるような形で、犯罪に手を染めていく私がいました。その「何か」というものを私たち犯罪者は、神と呼ぶことが多いです。もう、自分では止められなかった。逮捕されたとき、少しホッとした気持ちになったのはそのためでしょうか……。ただ犯罪の深さのせいで、いきなり実刑を食らいました。刑務所では、なかなか物思いにふけるという時間がなかったけど、裁判が確定するまでの勾留中にはそういう時間がたくさんあったので、それまでの時間のことをよく振り返っていました。その中で湧いてくる疑問は、いつも同じでした。
私は、何のために生まれてきたのか?
何のために存在したのか?
一回きりの人生とは何だったのか?
人間とは何か?
日本人とは何か?
私の人生経験では、日本人は自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない民族で、他人の人生には無関心だということです。恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがる人しかいません。すぐに、努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……などという薄っぺらい言葉を口にして、何でもかんでも、自分の力で勝ち得たことにしたがります。どいつもこいつも、当たり前のように家族がいて、当たり前のように住む家があって、当たり前のように友人がいて、当たり前のように恋愛ができて、当たり前のように結婚できて、当たり前のように子供がいる、または、そのどれか一つでも叶えられている恵まれた人生ばかりです。
この国には、そんな薄っぺらい人間しかいません。
当たり前のようにいろいろなものが備わり過ぎているから、当たり前じゃない世界で生きる人間のことなんか一ミリもわからないのです。おそらく、自分自身が恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた、ということに気づいてもいないでしょう。
努力・我慢・行動……などという薄っぺらい言葉は、こっちの世界では使いません。心に思うことすらありません。それくらい無駄な言葉なのです。そんなのは私にとっては当たり前のように実践している、ただの既成事実でしかありません。こっちの世界では、それを怠ること……、それは死です。自分を励ますとか、自分を高めるとか、自分を超えるとか、違う自分になるとか……、そんなのは、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがる人の、戯言でしかないのです。
こっちの世界に来ればわかります。そんな言葉は使わなくなりますから……。
もう一つ、世の中の人は、運という言葉を頻繁に使うような気がします。運という言葉は、単体で成立しますが、極めて主観的な言葉なので、何を持って運というのかは人それぞれかと思います。それに、そういう成功事例は極めて稀かと思います。
あっちの世界の人たちとの決定的な違いは……。
孤独……。
そう、この言葉以外にはない。
あっちの世界の人たちも、孤独という言葉を使います。主観的な言葉なので、人それぞれが好き勝手に使います。家族がいる人も、友人がいる人も、恋人がいる人も、結婚している人も、子供がいる人も、みんなが使います。そこに客観的指標はありません。その人が孤独だと感じたら使用できるので、この言葉自体、あまり意味のあるものではありませんね。私の使っている孤独は、明らかにあっちの世界の人とは違うものなので、「本当の孤独」という言葉を使って分けています。
これは家族崩壊から天涯孤独、そのあと、路上生活から刑務所に入った私にしかわかりません。この日本で独り……、この世で独り……、そんな毎日から、突然、誰かと一緒に生活をする毎日に変わると人間は大きく変わります。それが牢屋の中であったとしてもです。むしろ、牢屋の中だからこそ、そういう変化が体験できるのでしょう。勾留施設・拘置所・刑務所は、ルールが若干違いますが基本は同じです。24時間、誰かと一緒にいます。それが、どのような変化をもたらすかなんて、実際にその状況からそこに入ったものにしかわかりません。そのときの年齢によっても、その変化には違いがあると思います。私はその場所で、初めて、家族という言葉に触れました。まぁ、疑似家族でしたけどね。
「人は独りでは生きられない」という言葉をよく耳にしますが、これは間違いで、「人は独りでは真っすぐ生きられない」が正解です。
この世で独りになると、人間は真っすぐに生きることができなくなります。生きる意味・気力・目的・希望を失うからです。もちろん、これには個人差があります。あっちの世界で生きる人の一般的な視点で言うと、同居の両親が他界し、同居の配偶者が他界し、子供がいなかった場合、その時点で初めてこの世で独りになります。ただ、その頃には、自分自身が50代、60代、70代になっている人が多く、残りの時間はあとわずか、という状態です。人と過ごした時間が長ければ長いほど、思い出や充実感の方が勝り、人生への無念や絶望を最小に抑えることができます。家族関係のみならず、そこに友人関係・恋愛関係などが加わると、さらに思い出や充実感は増します。
私のように10代から天涯孤独になり、人間関係ゼロの状態で、それが死ぬまで続くと、人生に対しては無念と絶望しか残りません。
私から見たら羨む人生でも、そいつらは平気な顔をして「私には子供がいなかった」と、被害妄想を振りまいてきます。不幸の背比べを仕掛けて、意地でも勝とうとしてきます。あっちの世界の人は、生きていれば誰もが経験する「人生の山あり・谷あり」と、この世に誰もいない「本当の孤独」を同列にして話をするので、私とは会話が成立せず、あっという間に喧嘩になってしまいます。
「本当の孤独」に陥ると、この家族主義国家日本では、必ず私のように、元受刑者、元路上生活者、元自死ダイブ実行者、元精神病棟患者……など、様々な肩書が付く人生になります。その過程で命を落とす人もいるでしょう。実際に、そういう人間を何人も見てきました。それは不可抗力で、地球を覆う大気のように自分の世界を支配されてしまいます。人間の力では、どうすることもできません。あっちの世界の人々には、この概念が一ミリもわかりません。奴らは、持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)と、親や監護者にどういう環境でどう育てられるかという他者啓発の結果が社会に適応できる水準に達していて、それを当たり前の概念として捉えるため、そのことを考えたり掘り下げたりすることなんか、一切ありません。奴らは、あまりにも恵まれ過ぎていて、そのことを含めた全ての事象を「努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……」の結果と捉え、何でもかんでも自分の力で勝ち得たことにしたがります。それを人生の美学だと思っているのですから、たまったものではありません。そういう物差しを持って、私の人生を土足で計測して、「努力不足・我慢不足・行動不足……」と暴言を吐いてくるわけですから、喧嘩になって当然です。それが一人や二人ならいいのですが、日本人のほぼ全てがそんな状態では、その薄っぺらい価値観が社会のルールになってしまうので、私に居場所なんてあるはずがないのです。
日本人が助けるのは困っている外国人だけ……。困っている日本人は、身内の論理で切り捨てられます。身内の論理とは、同じ日本人という括りだけで、なぜか同じ能力、同じ条件、同じ環境で生きていることに設定され、「そうなったのは自業自得だろ」「努力不足だろ」というセリフを吐きたがる自己陶酔野郎の思考回路から繰り出される考察のこと……。ほぼ全ての日本人を指している。「不可抗力でこうなった」と反論しても、その概念すらわからないため、誰も相手にはしてくれません。
身内の論理による切り捨ては、裏社会でも、裁判でも同じです。同じ大量殺人罪でも、日本人は死刑になるけど、外国人は無期懲役になる。私はこれを「おもてなし裁判」と呼んでいる。
外国人の社会的弱者の場合、そのバックボーンになっている国際的に活動をする人権団体、環境団体、社会団体が小突いてくるので、それだけで、すぐ日本人は白旗を上げる。そのくせ、同じ日本人の社会的弱者には「努力・我慢・行動……の足りない奴ら」という身内の論理で情け容赦なく切り捨ててくる。
私は、それを被告人席に立ったときに痛感しました。
私が服役してわかったことは、「本当の孤独」と「あっちの世界」はリンクしているように見えて、実際にはリンクしていなかったということ……。それを、その二つの居場所(刑務所とシャバ)を行き来することで証明しました。まるで円を周っているかのように、その無限ループからは抜け出せません。出所したときは、「あっちの世界に来たんだ。」と錯覚してしまいます。再び、服役したとき、「やっぱり私は、ここでしか人間でいられない。」と納得してしまいます。そこには疑似家族の存在が大きく関わっています。
「もう一度、刑務所に戻りたかった……。」
そんな言葉を残して、罪を犯す元受刑者がいます。
あっちの世界で生きる人々には、この言葉の意味を理解できないでしょう。私には、この言葉の意味が痛いほどわかります。24時間、他人と共同生活を強いられる勾留施設・拘置所・刑務所では、それが疑似家族の役割を果たしました。そこに浸っていると、不思議なことに、壊れた人間性が修復されていくのです。
これは天涯孤独の路上生活から刑務所に入った私の経験ですが、他の受刑者も似たような感覚になった人は多いと思います。看守は父親と母親に思えました。同じ受刑者たちは兄弟姉妹のように思えました。「同じ釜の飯を食う」とは、まさにこのことで、これが私にとっては家族でした。失ったはずの、生きる意味・気力・目的・希望が漲ってきました。精神は充実し、集中力が高まり、身体も動くようになりました。早くシャバの世界に戻りたい、仕事をしたい、資格を取りたい、旅行がしたい、友人を作りたい、恋もしたい、そんな欲求に駆られました。
私は見違えるくらい変わりました。
家族観が形成されるって、こういうことなんだなって思いました。それがあるか・無いかで、この家族主義国家日本では天と地ほど違うんだな……と、身を持って理解しました。同時に、これが生まれたときからずっと続いていて、それが死ぬまで続くであろうほぼ全ての国民(あっちの世界の住人)の、精神性を知りました。私もあっちの世界に生まれていたら、良い人生を送れたんだろうな……と、確信を持った瞬間でもありました。奴らが「努力・我慢・行動……」なんて薄っぺらい言葉を口にする理由も、何となくわかりました。出所したとき、自由という解放感よりも、疑似家族で形成された家族観はシャバの世界でも維持できるのか?という焦燥感の方が際立っていた気がします。なんか、妙な感覚でした。
シャバの世界に戻ってから、しばらくはその精神性を維持できたのですが……。次第に、それが錯覚だということがわかるようになってきました。そう、ここには誰もいませんから……。表面上の会話やメールができる相手すらいませんから……。心の拠り所、つまり、私が帰る場所は、結局、ああいう場所しかないと思えるようになりました。
私は、再び、出会いを探しました。この精神性が消えないうちに……という思いでした。精神に負担がかかることくらいわかっていましたが、諦めきれなかった。命を懸けて、全てを使い果たしましたが、やはり、誰とも出会えない。時間が経つにつれて、徐々に、刑務所に入る前の状態に戻っていきました。「本当の孤独」と「あっちの世界」はリンクしているように見えて、実際にはリンクしていない。私が人の輪の中で生きていられると思えたのは「疑似家族」であって、彼らは刑務所の中にしかいない。形成されたはずの家族観もニセモノで、全てが嘘だった……。
私は生きる意味・気力・目的・希望を、再度、失いました。もちろん、就いたばかりの仕事も手につかなくなり、辞めざるを得なくなりました。路上と刑務所を経験済みだったので、もはや、生きるためだけに仕事にしがみつくなんて、とてもじゃないけど無理でした。気が付いたら、自殺願望と殺人願望以外、無くなっていました。
人は独りでは、真っすぐ生きられない……。
これは、あっちの世界の人が知らない概念です。
「もう一度、刑務所に戻りたかった……。」と言って再犯をする人は、この無限ループに、はまっている人なのです。私はその無限ループから抜け出そうと出所の度に思うのですが、「本当の孤独」には勝てません。出会えない運命なら、あの「疑似家族」を求めてしまいます。
私はなぜ、こんな人生しか送れないのでしょう?なぜ、私の世界は、大気のように覆われたままなのでしょう?これでは、学生時代と何も変わらない。
あの時代……、私は、学校でいじめられ、家では虐待を受けていた。
まだ「いじめ」や「虐待」なんて言葉は、世の中に出回っていなかった。いじめは、子供同士のやんちゃな遊び……。虐待は、躾……。それで片付けられた。私が人間でいられたのは、登下校時の、学校と家との間を一人で歩いている時間だけ……。幸い、学校と家との距離が遠かったため、より長くその時間を過ごすことができた。よく自然を観察した。道路、街路樹、公園、川、池、石、草、花、森、小動物、踏切、歩道橋、U字溝……。加えて、私が作り上げた空想の世界で、自己満足に浸っていることも多かった。その世界では、いつも私が主人公で、いつもそこでは輝いていた。晴れの日も、雨の日も、曇りの日も、風の強い日も……。春の日も、夏の日も、秋の日も、冬の日も……。ずっと、そんな時間がそこにあった。あの歩いている時間だけが、歪な人間関係から解放された妙に心地のよい時間だった。
いじめられた原因はわかっている。育児放棄だ。
初めて集団生活をした幼稚園で、同学年のみんなについていけなかったことで、いじめの対象になった。本来なら一人でしなければならないのに、それができなかった。教えられていないと、その概念すら頭に存在しない。よく職場で「わからないことがあったら聞いて」と言う上司なり先輩社員がいるが、わからないことと知らないことは違う。概要はわかっているけど、その処理の仕方が不明な場合と、それ自体を知らない場合とでは全然違う。私も上司という立場で仕事をしたことがあるけど、わからないことは聞いてくるのを待っていればいいが、知らないことは教えなければ永久に知らないまま……。あとから、どこかでその概要に触れて、聞いてくることはあるかもしれないけど……。
私が、箸を使えなかったり、一人でトイレに行けなかったというのはそういうことだろう。
もちろん、幼稚園という集団生活までに、大人が箸を使っていたり、一人でトイレに行っている姿は見ているはずだから概要を知らなかったわけではないのかもしれないけれど、まだ3歳だったので、そういう思考がなかった。だから、どうしようもなかった。
では、虐待はいつから始まったのか?
正直言って、私自身の主観では、生まれたときからずっと……。もちろん主観なので、「虐待」の定義も含め、他人と客観性をもって比べることはできない。明らかに異常だった。そもそも育児放棄自体、もはや虐待と言えるのではないか……。常に、同学年のみんなについていけなかった。私は「勉強しろ!」以外の言葉を両親からかけられたことがない。日々の会話なんてしたことがない。学校で集団生活をしていると、明らかに「何かがおかしい……」ということに気づく。他の家で生まれ育っているクラスメイトたちの言動・表情・仕草・行動が、明らかに私と違う。どう考えてもおかしい……。私の見知った世界は、全て、嘘だったのか……。私の当たり前は、世間一般の当たり前ではないのか……。激しく悩みました。
プレゼントをもらう、誕生日を祝ってもらう、どこかに食事に出かける、どこかに遊びに連れて行ってもらう、そんな経験はしたことがない。そもそも家から一歩も出たことがない。
私は同学年のみんなから置き去りにされている……。
言いようのない恐怖と不安は歳を重ねるごとに大きくなっていきました。友達がいないのは当たり前……、むしろ、いたらどうなっていたのだろう?両親はどんな反応をしたのだろう?想像するだけで恐ろしい。祖母が亡くなってからは、家で笑ったことなど一度もない。
この先、私はどうなってしまうのだろう……。
恐怖と不安しかなかった。
父親による暴力は物心つく頃からありましたが、本格化したのは、10歳のとき……。それが原因で顔面神経麻痺を発症したのが、18歳のとき……。母親は、えげつないほどに心に刺さる言葉の暴力を、物心つく頃からずっと続けていました。暴力がなぜ始まったのか?その原因はわかります。あれは、小学4年生のとき……、私は学校の校舎裏で集団リンチを食らった。この頃、いじめはどんどんエスカレートしていき、昔、幼稚園で受けたのと同じレベルの制裁を食らっていた。身体を押さえられ、殴られ、その上、トロトロとねっとりとした犬のウンチを食べさせられた。しかも、それが、給食が終わったあとの掃除の時間だったため、担任の先生が、「お宅の子供は、掃除の時間に掃除をさぼって、校舎内のどこかで遊んでいる」と両親に連絡を入れてしまった。そこでスイッチが入ったのだと思う。その日、家の空気感が変だった。どことなく狂気に満ちていた。突然、髪を引っ張られ、殴る蹴るの暴行を加えられた。まさか、そんな連絡をされているとは知らなかったし……。新人の先生は自分を守るために生徒を犠牲にしたのだ。両親は、私と日々の会話をしたことがないので、当然、私が学校でいじめられていて、友達や会話の相手が一人もいないことを知らない。仮に聞かれても言わなかっただろう。私は……、この理不尽な状況に追い込まれたのは「お前たちのせいだ」と、心の中で叫ぶのがやっとだった。
次に、なぜ顔面神経麻痺になったのか?だが……、これに対する答えを言葉にするのは難しい。もちろん、鼓膜が破れるほどの殴打を食らったのが原因だと思うけど、それ以外にも、精神的に何か飽和状態だったものが溢れた……という感覚があった。
子供に託した自分自身の夢が叶いそうにないとわかり、「使えない道具」というレッテルを私に貼ったあと、使えない道具なら何をしてもいいだろうと、感情を剥き出しにしたのでしょう。
幼少期から、勉強においてスパルタ教育が施されていた私の家庭では、私の成績がガタ落ちしたという現実を、到底、受け入れることなんてできないでしょう。やり場のない怒りが、殺意という名の暴走に変わったのだと思います。父は、私の顔に毎日のようにサバイバルナイフを突きつけ、「今度、成績が落ちたら殺すぞ!」と殺害予告を繰り返してきました。母は、それを見ながら、毎回、不敵な笑みを浮かべていました。両親の学歴コンプレックスは嫌というほどわかっていましたが、その過度な期待に応えていけるだけの気力が、私にはもうありませんでした。なぜ、今まで、その過度な期待に応えようとしていたのか……。他人にはわからないと思いますが、それ以外、私の人生観・世界観には存在していませんでした。
当時の時代背景は、全てを根性論で片付けてしまうので、精神や身体に深刻な異常が起きても、黙っているしかなかったです。今の時代だったら、双極性障害または鬱などの診断書を声高々に掲げることによって、被害者という名の殻の中に閉じこもることもできたでしょう。たとえ、他人から被害妄想クズ女のレッテルを貼られようともね……。
高校3年生にもなると、ついに、卒業も危ういレベルまで成績が落ちてしまった。私の顔面が麻痺して、私から喜怒哀楽が消えたのが、その年の夏……。みんなが爽やかに青春を謳歌しているときでした。
「そもそも、オレが食わしてやったのだから感謝されることはあっても非難される覚えはない」と、それまで、何をしようが自分を正当化してきたのだから、なるべくしてなった結果かと思います。
尊属殺の規定があった当時、親とは、神のように慕われなければならないという風潮があった。だから、そういう古い日本社会の風潮と現実との狭間で戦っていた子供の存在なんて、
当然のごとく、家族だけでなく社会からも抹殺の対象でしかなかった。
当時、私が自殺をしても、その理由は誰にもわからなかったでしょう。
残念ながら、その風潮はあれから何十年も経ったけど、あまり変わっていない気がする。「自殺の原因は親である!」と叫んだところで、この家族主義国家日本では、誰からも相手にされることはないでしょう。親が作り上げた人生観・世界観の中に、子供の心を閉じ込め、出られなくしておきながら、子供が「この檻から出なくてはとても生きていけない。」と、危機感とともにSOSを発しても、檻を解放するという作業はしないくせに、自分の望んだ結果だけは偉そうに求める。その狭間で居場所が無くなり、命を絶つという選択をした子供が被害者であり、親は加害者である。それが、この家族主義国家日本で生きる人間には一ミリもわからない。悲しい現実だ。
あのとき、私が自殺したら、おそらく似たような展開になっただろう。
自殺をした私は「弱い人間」というレッテルを貼られ、死んだあとも各方面から罵られただろう。実際は強い人間で、その強さを遥かに上回る負荷がかかっただけかもしれないのに……。
子供から親子の縁を切ることができ、新しい戸籍のもと、新しい名前、新しい住所、新しい生活圏が付与され、生きたまま人生をリセットできるという法律がこの国にあるのなら、若年層の自殺率は一気に減るだろう。なぜなら、親が原因だからね。
今の時代、学校が原因なら行かなくても社会から抹殺されないし、仕事が原因なら終身雇用の時代ではないので会社を辞めればいいだけだし、ネットが原因ならコメント欄とメール設定をオフにすればいいだけ……、残念ながら、親子関係だけは、今も切ることができない。
そこで、一つの疑問が湧いてくる。
なぜ、両親は私を作ったのか?
当然の疑問だ。
子供が邪魔なら最初から作らなければ良かっただけの話……。なぜだ?
私は不慮の事故によってこの世に生を受け、本来なら、生まれてくるべき人間ではなかったのだろうか……。今思えば、二人とも子育てには全く興味が無かった。それは痛烈に感じていた。では、なぜ作ったのか?
私の答え……、それは「道具」がほしかったからではないだろうか……。
逆らえない相手を服従させることで得られる快感……、また、「子供のため」と言えば、この家族主義国家日本では、たとえ育児放棄をしていたとしても、各方面から承認欲求が得られるので、その快感……、さらに、老後の孤立を防ぐためという理由や、将来の介護用ロボットとしての役割など、「道具」としての用途に必要性を感じたのだろう。私が牢獄に閉じ込められているような感覚しかないのは、そのためだ。
私は自分の運命を考えずにはいられなかった。
将来という言葉が、成長するたびに、どんどん迫ってくる。逃げ道は無かった。当初は、ただ漠然と……ただぼんやりと……見えていた未来だったけど、詳細に見えるようになってきた。
おそらく、私はみんなと同じように生きられない。将来のどこかの時点で、この街を去らなければならない。私が生きた痕跡も消さなければならない、追跡不可能なレベルでね。そして、もし、それができなければ……、それに失敗したら……、私は死ぬ。生か?死か?選択は二つしかなかった。
家族主義国家日本で、10代で家出するのは簡単なことではない。亡命と何も変わらないからね。決断は容易ではなかった。それは、同年代たちが羽根を伸ばすように冒険を楽しんでいたのとは違う。まだ見ぬ世界へ、道なき道を行く……、片道切符の過酷な旅路だった。実際に、その旅路は、私の覚悟を遥かに上回るものだった。
家族主義国家日本では、父と母は尊敬されるものという大前提がある。尊敬できない人間は、子供扱いとなる。尊敬できるようになって「大人になったね。」と言われる。これが私には、幼い頃からずっと苦痛だった。いったいどんな人生を送ったら、そんな発想が生まれるのか、私には全く理解できなかった。なぜ、父の日・母の日があるのか?もちろん、日本だけで設定されている日でないことくらいは知っているけど、これは、家族という保証人がいないと、家族主義国家日本では何もできない……、それを象徴するような日だ。虐待と育児放棄を食らって、奴隷という立場で家の中で塩漬けにされた私が、なぜ、国家や社会に親への感謝を強制されなければならないのか……、私にはそれが全くわからない。それをしなければ、なぜ子供扱いされるのか……、それもわからない。就職・結婚などの人生の節目を、いちいち親に報告したり承認を得たりする行為も、私にはさっぱりわからない。それが家族主義国家日本の流儀であり常識であるという世界観を知ったとき、私には恋愛や結婚は一生無い……と悟った。家族観があるかないかは、この国で生きる私の年代では、命取りになるかならないか……、それくらいの事案だった。現に、それが原因で命取りになったと思う。
あっちの世界の連中は、家族観の無い世界などわからない。父の日・母の日を、虐待や育児放棄を食らって育ってきた人間がどう思うか?なんて……、そんな思考は、連中には一ミリも存在しない。社会的行事に逆らうことで「ああ、悪かったな、非国民で……」と言いたくもなるが、それを言って何になるだろう?私が、どれほど苦しい嘘をついてきたか、わかるだろうか……。どれほどの思いをして、家族観のある人間を演じてきたか、わかるだろうか……。当たり前のように、父の日・母の日の定義を振りかざし、ギフト商戦を展開するこの国の国家観と、それを認容する社会が、私にはあり得ない。
身元保証人がいない天涯孤独の世界というのは、私に言わせれば、足あと一つ残らない獣道だった。
結局、私が故郷で生まれ育ち、そこで得たものは、自殺願望と殺人願望だけ……。その結果、誰とも繋がれずに、ただ「生きるためだけに生きる人生」という選択を余儀なくされた気がする。
そして、あの日がやってきた。故郷で過ごす最後の日がね。学生生活の終わりとともに、私は失踪という形で、あの街を去った。
私がこの世でやり残したこと……。
そう……、それは、恋……。
同じ一回きりの人生……。同じ一回きりの若い時間……。何もできずに終わった無念と絶望は、言葉では表現できない。私には、なぜ、青春時代が無かったのか……。
あのとき、みんながしていたことは……、好きな人に愛の告白をして、または、誰かに告白されて、付き合いがスタートする「恋」というものだった。
家族主義国家日本で、天涯孤独となった私にはこの「恋」が、唯一の突破口であり、生きていくための手段であることは、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた大半の日本人にはわかるはずがない。まさか、この「恋」ができないという十字架まで背負わされていて、その重荷に耐え切れず、人生自体が潰れてしまうなんて……。今まで、幸せそうに恋をする二人と、何回すれ違ったのだろう。何百万回、何千万回、何憶回、いや、それ以上か……。
学生時代……、恋愛は、未来のある時点で必然的に発生するものだと思っていた。
10年後の私は、きっと最愛の人と恋愛をしているのだろうと、勝手に想像していた。ただ、現実は違っていた。今、この時にしかできないことだった。
家族観が無ければ恋愛や結婚は不可能だと、当初から、心のどこかで感じていた。それでも、きっと違うはずだと、言い聞かせる自分もいた。
恋愛ができる時間は、もう終わってしまった。たとえ、今、あの時代に戻れたとしても、私はあの時と同じように何もできずに終わってしまうだろう。今となっては、人生の全ての時間が、恋を追いかける時間だったような気がする。
私は恋がしたかった……。
死ぬほど、恋がしたかった……。
ただ、恋がしたいという単純な願望だけでなく、恋ができなければ、この先の人生には進めないという……、言わば、恋とは人生の登竜門の役割を果たしていたような気がする。だから、叶うまで追いかけるしかなかった。次のステップに進むため……、つまり、生きるためにね。それなのに……。
あのとき、みんなが恋をしていた。
私が高校生のときの話だ。
教室、廊下、校庭、通学路、学校からの最寄り駅、駅のホーム、電車の中……、あらゆる場所で、同じ制服を着た、恋する人たちがあふれていた。
今しかできないことを、今、全力でそれを実行し、そのときにしか得られない色に染まっていた。
私も、あの当事者になりたかった。その思いは強かったけど、どこか、異世界の物語のようにも見えた。あれを人間的な成長というのなら……。私には、あの壁を超えられない。とても、ついていけなかった。
16歳になった途端、周りのみんなは、急に社会性を身につけるようになった。将来を見据えた勉強をしたり、アルバイトをして自分で稼いだり、仲の良いもの同士が集まって旅行に出かけたり、メイクをするようになったり、大人の下着を身につけたりと……。
私はこの急激な変化に、ついていけなかった。それに追い打ちをかけるように目の当たりにしたのが恋だった。物心つく頃から「勉強以外は何もしてはいけない」と言われ続けた私は、いつしかマインドコントロールの状態に陥っていた。恋愛をするという行為は、私の生まれ育った環境による知見では、テストで悪い点を取ることや、友達を作って遊ぶこと、人を殺すこと、それと同じくらいの罪意識があった。
それに告白なんて、とてもできない。そんな勇気や自信はないから……。
私のした努力と言えば、通学中に化粧をして、少しだけ色っぽく魅せることくらい……。結局、そんなことをしても異様な雰囲気の私に言い寄ってくる男性は一人もいなかった。恋をする同級生たちの一瞬、また次の一瞬が、一コマずつ私の記憶に焼き付いた。それはまるで、宇宙ステーションの窓から、青くて美しい地球を眺めるかのように……、分厚い殻の中からの眺めでしかなかった。
本当に苦しかった。
記憶に焼き付いた同級生たちの恋愛シーンがあまりにも膨大に膨らみ、メモリがそれで埋まったとき、私は勉強が完全にできなくなってしまった。親からの暴力よりも、こちらの苦しみにとどめを刺された感じだった。
恋愛に関して言えば、私は見事なまでに敗北を重ねた。
恋人のいる毎日や、恋人と過ごす一分一秒の時間って、どんな時間なのか……。何十年も追いかけたのに、私はそれを一秒も味わうことなく、この世を去らなければならない。もう、それが可能な時間は終わってしまったからね。出会えない運命と、その枠の中でしか生きられなかった人生……。そんな人生の意味を問い続けた。無念に苛まれながら……。毎日毎日、一分一秒単位でそれを考え、悩み、苦しみ……、何も手につかないまま惰性で世の中に合わせてきた。最後は、その惰性すらできなくなった。年齢を重ねる度に、同年代の幸せと成長が眩しく映るようになっていった。それは、20代の頃に最も激しい衝動をみせた。さらに年月が流れると……、あるとき、それはスーッと消えていった。実際には、消えたのではなく、私から届かなくなるほど離れていっただけ……。あれが見えなくなるまで離れたとき、あいつらと、あいつらの子供は、殺戮の対象となった。
恋とは何だったのか?
私は服役していたとき、24時間、誰かと一緒に過ごすことによって、たとえそれが疑似家族であったとしても、この家族主義国家日本で生きるには絶対に必要なものだと知った。ただ疑似家族はニセモノで刑務所に中にしか存在しないので、シャバの世界に戻ったら消えてしまう。それとともに私に培われた人間性も消えてしまう。あのあと……、もし、あれが受刑者仲間ではなく、恋人だったらどれほど違ったのだろうか?と……、暇を見つけては考え込むようになった。
残念ながら、私の若い時間は終わったので、もう、それを立証する術はない。私はこのことを、死んだあとも問い続けると思う。同年代の幸せと成長を尻目に、私の一回きりの人生は、何もできずに終わってしまった。私は、幸せそうに恋愛をする二人の姿を、観察することしかできなかった。最後まで、当事者にはなれなかった。天涯孤独の私が、結婚どころか、恋愛どころか、たった一回のデートすらできずにこの世を去る。そんな運命が、どれほど無念で、どれほどの絶望かなんて、誰にわかるだろうか……。
小学生のとき、すでに敗北という恐怖はあった。それが、どうにもならないほどにどうにもならない神レベルの話であることも含めて……。本当に、本当に、無念でしかない。あの家にさえ生まれなければ、みんなと同じように恋ができた気がするから……。
改めて、恋人のいる毎日とは、いったいどんな時間だったのだろう。
そこには、どんな毎日の一分一秒があったのだろう。その経験を得たあとの人生は、どういうものになったのだろう。
私のように家族観の無い人間は、駆け落ちという逃避行ができる人間以外は無理……。そんな人間は、この家族主義国家日本では、どこをどう探したっていない。実際に、命を懸けて探しても、どこにもいなかった。
一回きりの人生が何もできずに終わってしまうなんて……。
どの国で生まれ育ったか、どの地域・どの環境で生まれ育ったか、誰が両親か、その全てを自分では変えられないなんて……。
私の人生の突破口は「恋」しかなかった。それなのに……。
私の無念など知る由も無く、世の中の人間は、当たり前のように恋を手に入れている。なぜ、そのとき、私はそこにいなかったのか……。
高校時代……、外を歩けば、同年代の、恋する人たちと、何度も、すれ違った。
二人はいつも楽しそうに笑っていた。
社会人になり、過ぎていく年数が積み上がると、今度は10歳くらい年下の、恋する人たちとすれ違うようになった。さらに過ぎていく年数が積み上がると、今度は一世代下の、恋する人たちとすれ違うようになった。
私は今まで、ありとあらゆる場所で、恋する人たちとすれ違った。生きている限り、これからもすれ違い続けるのだろう。テーマパーク、大型ショッピングセンター、レストラン、コンビニ、学校、会社、書店、飲食店、雑貨店、映画館、街の歩道、山、海、河川敷、橋の上、道路、駐車場、公園、駅のホーム、階段、マンションの通路、アパートの通路など、一つ一つの場面が鮮明に蘇る。春夏秋冬、それぞれの季節の色を添えて……。晴れの日、曇りの日、雨の日、台風の日、雪の日、それぞれの天候の色を添えて……。早朝、朝、昼、夕方、夜、深夜それぞれの時間帯の色を添えて……。
私もあっちの世界に行きたかった。
恋がしたかった。
だって、私にはそれを求めるしかないのだから……。
残念ながら、私は幸せそうにデートを楽しむ人たちの姿を、ただ、見ていることしかできません。自分を変えられないのです。もう、あの家を離れて随分と時間が経過しているのに……。物理的支配からは逃れられても、精神的支配からは逃れられないのです。いつまで経っても人を殺すことと恋愛をすることは同じ罪に思えました。自分からブレーキがかかってしまいます。
どうしたら良かったのでしょうか?人生は一度しかないのに……。
あの頃、私は焦っていました。
一度も付き合ったことのない私が恋愛に踏み出せるのは、精々20代までだと思っていたから……。30歳を過ぎたら、きっと何もできずに通り過ぎた若い時間への喪失感と、一度も付き合ったことがないという劣等感で押し潰されるだろうと……。
時間が迫っていました。もう、手段を選んでいる場合ではありませんでした。
今、恋愛ができなければ、生涯できない……。
そんな強烈な危機感が私の背中を押しました。
私は自分の運命を変えるために全身整形を始めたのです。もともと外見は悪くはなかったけれど、異様な雰囲気を和らげるために顔も整形しました。その結果、モデル並みの顔、張りのある巨乳、引き締まったウエスト、プリンのように弾けるふっくらとしたお尻を手に入れました。ほぼ完璧でした。
少しばかりの自信を胸に、数々の出会いのパーティに参加しました。もちろん、ネットでの出会いも頑張りました。
努力の結果なのでしょうか、私に言い寄ってくる男性が山ほど出てきました。私も積極的にいろいろな人と話をして可能性を探りました。だって、死ぬほど恋がしたかったから……。
男性と話ができるようになったのは大きな進歩でした。しかし、結婚を前提としたパーティでは私の求めているものは手に入りませんでした。要するに、理解者がいないのです。あれだけたくさんの男性と話をしても、一人も見つかりませんでした。
私が求めていたのは、失ったあの時間を取り戻すことでした。それは手の届かないファンタジーでした。
現実は、全く違うのです。
私自身、好きとか愛しているとか、そんな言葉遊びなんかどうでも良いと思えるほど、人生に疲れ切っていました。たとえ「好き」と言われても疲れるだけで全く響かないのです。だから何?という感じでした。交際が、好きとか愛しているという言葉でスタートする若い精神脳は、一度も使用していないにもかかわらず、時間の流れの中で、知らぬ間に無くなっていました。交際に発展するには、「孤独」という言葉の本当の意味を知る人間を見つけて、その人と一緒に、共通の敵である「孤独」に打ち勝っていくといった理念が大前提でした。要するに、生きるための戦友探しです。
私はもう……、このような形でしかパートナーを探せない状態に陥っていました。
「好き」や「愛している」が排除されてしまうと、相手の要望と言えば、収入や資産管理をどうするか、住居をどうするか、家事をどうするか、子供を何人作るか、親の介護をどうするかといった、リアルな生活感だけが残ってしまいます。そのような重荷を恋愛経験が一度もない私に唐突に突きつけられても、それに向き合えるだけの人生経験がありませんでした。私は家族に対して憎しみの感情しか持てません。それは他人の家族に対しても同じです。それに幼少期からの辛い出来事を払拭して、みんなと同じように立ち居振る舞うだけの強さもありませんでした。だから、結婚相談所や婚活パーティといった場所では可能性がゼロでした。
では、ネットでの出会いはどうだったか?というと……。
ネットは気楽な気持ちでメールのやりとりができ、結婚を前提にしない分、私の求めているものに少しは近づけると思っていました。しかし、こちらも全くダメでした。単なるマッチングの問題なのかもしれませんが、既婚者が独身を装うケースが多く、悪質業者によるサクラ・なりすましも横行していて、この体を抱くことだけを最終目標に掲げている男性ばかりでした。
それでは、ただ拒絶するしかありません。抱けないとわかると見切りをつけて去っていきます。男なんてそんなものです。恋には、年齢というタイムリミットがあります。期待と疲労が入り交じったパートナー探しは、やればやるほど精神が磨り減っていきました。なぜ、これほどまでに出会うことができないのでしょう。悔しさと無念だけが精神を支配するようになっていきました。
何年も……、何年も……、こんな事を繰り返しました。
自分だけが止まった状態で動かないのに、周りはどんどん恋に仕事に人生経験を重ね、年相応の自分へと成長していきます。同年代の幸せと成長を尻目に、私は……、あまりにも離れすぎてしまいました。
もう、追いつけない。
そして……、もう、実らない。
結局、一回きりの人生の、恋が可能な時間は、ただ何もできずに虚しく過ぎていっただけでした。
私は女子高生というあの時代の中に、みんなから10年、20年遅れで必死になって飛び込もうとしていました。しかし、時は流れ、歳も重ね、人はそれぞれ成長を遂げていきます。男性に会えば会うほど、あの時代には戻れないことを痛烈に感じるようになりました。あの輝きはあの時代にしか存在しないもので、同年代が10年前、20年前に経験したことを今さら追いかけても、そこにたどり着けるはずがありませんでした。恋愛経験が一度もないという事実だけが重く積み上がっていき、危機感は絶望へと変わりました。
「私は能力のない人間のクズで、社会のゴミなのだ」という強烈な自己嫌悪に陥りました。こんな手の施しようのない人間のクズが「恋がしたい」などと言っている時点でおかしいのではないかと思いました。恋をするために闇雲に走っている自分が情けなくなりました。強烈な劣等感は私から行動という二文字を奪いました。そして、気づいたのです。神には逆らえないということに……。
あの日……、そう、30回目の誕生日を迎えたあの日……。私は恋愛が一度もできずに10代と20代を終えて、生きがいと生きる意味を失いました。誰もいない部屋で大量の薬を飲んで、床に大の字になったまま、天井を眺めていました。恋をするための爆発的エネルギーは消え、廃人のようになってしまいました。もう、何も残っていませんでした。私はただ、強制的に設定されたレールの上を進んだだけなのかもしれません。それでも、私は諦めきれなかった。人生は一回しかないのだから……。何が何でも、恋がしたいから……。
その日から何年……、降りかかる葛藤の中で、恋を求めたでしょう。どれほど「神様、お願いです」と願ったでしょう。
「なぜ、私だけが……」という無念の言葉とともに死んでいく人間は、山のようにいます。私の運命は、きっとそういう人たちとは違うと、自分に言い聞かせてきました。残念ながら、私はその中心にいたように思えます。
人間とは何なのでしょう?日本人とは何なのでしょう?命とは何なのでしょう?
私の延長戦も、今の年齢になって、さすがに不可能だと思いました。恋愛が一度もできずに、たった一回のデートすらできずに、一回きりの人生が終わったのです。
360度、見渡す限り、岩と枯草しかない大地に、呆然と立ち尽くし、その景色を眺めているような感覚でした。喪失感は半端じゃなく、何も手に付かなくなりました。仕事を辞めて、部屋に閉じこもり、食ったら寝るという日々を繰り返していました。部屋はコンビニ弁当の食べ残しや空き缶が散乱するようになり、いつしかゴミの山に埋もれるようになっていました。唯一の会話の手段であるネットでは、ディスプレイの向こう側にいる人たちに対して「人の一生は生まれた瞬間に全て決まる。それを自分の力で変えることは絶対にできない」と宗教指導者のように説き伏せていました。
まさに、絶望の日々でした。
分厚い殻の向こう側に見えた世界は見えなくなり、希望の光は完全に消えてしまいました。私のいる世界では、ただ暗闇が広がっています。あの光だけを見て、蠢くものの支配に背を向けてきた私にとって、この暗闇は何十年にもわたる自分との戦いに終わりを告げるものでした。
私は神を探しました。なぜなら、答えを知りたかったからです。私の存在とその意味についての……。
神なら知っていると思いました。でも、居場所がわかりません。どこにいるのですか?宇宙でしょうか?
神は、なぜ人に宿命を与えるのでしょう。神は人に幸福を与えることもあれば、時に非情な決断を下すこともある。宿命は、人が生まれる前から決まっている。神との対話はいまだ叶いませんが、神の意図はわかります。神が私に与えた宿命は、「人は他人の幸せを目の前にして、いつまで憎悪を抑え続けることができるのか」だと思います。きっと、私の人生を使って実験をしたかったのではないでしょうか……。私は知らないうちに神が課した課題に取り組んでいたのでしょう。全ての人間は、お題は違えど、自分に与えられた課題に取り組むために生まれてくるのでしょう。
神を分析するだけの能力は人間にはありません。だから、神の正確な意図はわかりません。
ただ、神が絶対者であるということに変わりありません。人生を巨大な迷宮に例えると、どの入口から入って、いつ、どういう手段で、どういう経緯を経て、どの出口にたどり着くかは人それぞれですが、神はこの経路を始めから知っているのです。知っていながら実験をするのです。
神に言わせれば、実験は余興に過ぎないのです。だから、人生は儚いのです。全ては神の手のひらの上で起きていることであり、人の意思は関係ありません。努力は関係ありません。我慢も関係ありません。行動も関係ありません。一見、突発的に起こったように感じる、偶然、奇跡、幸運、不運といったものは、全て神の粋な演出に過ぎません。私は人生に行き詰まりました。でも、神に言わせれば、ただの途中経過なのかもしれませんね。すでに私の結末を知っているのですから……。
私はこれからどうなるのでしょう。どんな選択をすれば良いのでしょう。
恋愛……、できなかったです。一回きりの人生で……。苦しいです。
残りの人生って、老けて孤独に死んでいくだけですよね?違いますか?生きる意味、ありますか?
私、もう終わりにしたいです。
私は精一杯、叫びました。悔しい思いと、無念な思いを……、その状態でしか生きられない苦しみを……。
もう、疲れたのです。いや、全てに疲れ果てたのです。何もしなければ、この無念と絶望の日々はいつまでも続いていきます。この苦しみから逃れる術は何でしょう?答えは簡単でした。だって、二択しかありませんから……。
それは究極の暴発です。具体的に言うと、自殺か殺人です。
私は……、私を覆う大気を振り払うことができませんでした。もちろん、そこから抜け出すことも……。その選択をするしか、道が無いのです。
私は宿命とともに、日本を出国しました。
恋愛が一度もできずに終わる人生は、例えるならば、シャバの世界にいながら独房で無期懲役を食らっているのと同じです。
一回きりの人生……、無念としか言いようがありません。極限の孤独は正常な精神を壊してしまいます。私は行く場所も帰る場所も、そして、生きる場所も無くなりました。もう、どうにもなりません。
今度生まれてくるときは……。
今度生まれてくるときは……。
私は、神を恨みます。
さよなら、私の幸せ……。
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