魔幻の紙縒り 8

波の音が聞こえる。

日本海は果てしなく広がる。

大きなリュックサックは防波堤の上に置かれたまま……。その横で、一人の女性が仁王立ちしていた。

女性の手には機関銃が装備されている。

園庭には、幼い二人が横たわっていた。


「ねえ、聞こえるでしょ?ほら、聞こえるでしょ?最高のショーが始まったことを告げるオープニングテーマが。素敵なメロディだと思わない?」


女性が言った。

曲なんて流れていない。聞こえるのは恐怖に怯え、すすり泣く園児たちの泣き声だけだ。

園児たちは死体の近くに集まっていた。

それを、自らの体を盾にして守ろうとする先生の姿があった。とても強い目をしていた。

女性は、機関銃のグリップをしっかりと握っている。銃口の先、つまり、標的はこの先生の全身である。

引き金には、すでに指がかかっていた。ゆっくりと狙いを定める。


「やめて!」


先生が叫んだ。


「さあ、みんな、苦しみから解放してあげるからね、いくわよ!」


女性が言った。


「待って。待って。待って。待って!」


先生は万歳をしながら、必死の形相で女性に訴えかけた。

次の瞬間、まだ、引き金は引かれていなかった。


「なに?悪あがきはよしなよ。みっともないでしょ。どこに撃ちこんでほしいかリクエストして。あなたは良い人生を送っているのだから、未練なんか無いでしょ?」


女性は狙いを定めたまま動かない。


「ちょっとお話しませんか?」


先生が冷静な口調で言った。


「先生、あなたとは価値観が違いすぎる。人生が違い過ぎる。これ以上、話をしたって何の意味もないわ。駄目よ、時間稼ぎは……。誰かがこれに気づいて通報してくれるとでも思っているの?意味ないよ、そんなの。私、実戦経験あるの。日本の警察が来ても、多分、そいつら全員死ぬと思う。さっき見たでしょ?動いている標的だってピンポイントだから……。私には勝てないよ。」


「人を殺すことにそれだけの自信があるのに、どうして恋愛をすることに自信が持てないの?自信を持てばいいじゃないですか。自信を持って頑張れば、これから恋愛なんていくらでもできるじゃないですか。」


「キャハア、どこまでも最高。自信っていうものはねえ、結果が出て初めてつくものなのよ。恋愛だけじゃなくて、どんなことをするにしてもそうなの。あなたが言いたいのは闇雲に突っ走れってことでしょ?それは自信を持って行動する事とは意味が違うのよ。わからない子ね。神の絶対的な意思なの。」


「違う!運命は自分の力で切り開くものよ。妄想にとらわれているだけ……。」


「ハハハハハッ。私はどこの誰よりも現実を受け止めて生きてきた人間なの。その私が何をどんなに捻じ曲げても、逆立ちしようとも、背伸びしようとも、恋愛はできなかった。自分では運命を切り開いたつもりでいても、実際は神の手のひらの上で、もがいていただけ。人生はね、生まれた瞬間に決まっちゃうのよ。恋愛はテストで良い点を取るのとは訳が違うの。生まれた瞬間に決まるの。どんな人間に生まれて、どんな環境で育って、どんな思想を植え付けられたかで決まるの。それは自分の力ではどうすることもできないの。大人になってから、どんなに自分を変えたいと願って行動を起こしても変えられないの。それは運命、つまり、神の意思。わかった?」


「変わる必要なんてないじゃないですか?ありのままの自分でいいじゃないですか。必ずいるよ。わかってくれる人。立派に生きていれば必ず見つかるの。良い出会いがなかっただけよ。ただ縁がなかっただけ。どういう人間になれば彼氏ができるってものじゃないの。ありのままの自分を理解してくれる人が必ずどこかにいる。」


「はぁ?どこかってどこよ!」


「それは立派に生きていれば、必ず……。」


「ハハハハハハハハハハハハ。あなた薄いわね。恋人っていうのはね、ある日突然、目の前に降ってくるものじゃないのよ。恋愛が一度もできずに人生を棒に振った地獄の苦しみを「縁がなかった」の一言で片づけられてたまるか、バーカ。彼氏を作るためだけに生きてきたの。人生の全てだった。それだけが唯一の生きがいだった。あとは何もいらなかった。一番ほしかったものが手に入らず、どうでもいいような社会的地位や責任だけは歳とともに膨れ上がっていく。そのスピードについていけなかった。辛いなんてもんじゃない。私は資本主義社会の一労働者としてのみ、この世に存在したのよ。車に例えたらタイヤのような存在なの。ただ走って、磨り減って終わり。たったそれだけ……。たったそれだけのためにこの世に存在したの。私は愛されたかった。大好きな人に思い切り抱きしめてもらいたかった。もう終わった。終わったの。そして、これからそういう人生を送るであろう予備軍たちに対して、それを味わう前に助けてあげるの……。私は殺人者じゃない!救済者なの。勘違いしないで!」


女性は大声で叫び出した。


「落ち着いて。落ち着いて。これからいくらでも恋愛はできる。できるよ。まだまだこれから、これからよ。今まで不幸だった分、幸せが待っているわ。」


「うるさい、クソ女。人間は平等じゃない。毎年のように、運に恵まれただけの他人に、これからだ!これからだ!と言われ続けて、私はもう疲れたんだ。生涯、恋愛はできなかった。あんたみたいに幸せの手のひらの上で生まれた奴等が、そっちの世界から他人事のように、これからだ!これからだ!と言うことが許せないんだよ。ムカつくんだよ。わかってたまるか、この苦しみ……。」


「ええ、わからないわ。でも……。」


「じゃあ、死ね!」


時間が止まった。


風も止まった。


ここはどこだ?


大地の息吹が聞こえない。


音が全く聞こえない。


人間たちは走り出している。

怒り、憎しみ、嘆き、悲しみ、人間たちは何かを絶叫している。

まるで、音声の壊れた動画をスーパースローで見ているようだ。そこには追い詰められた人間たちの様々な表情が映っていた。

もし、これが映画なら、映像とともに、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」が流れているのだろう。

20世紀は戦争の時代……、では、21世紀は何か?国家・宗教・イデオロギーといった大世界の衝突から、家族・個人間の、小世界の衝突へと移行する時代なのか?そこにはいったい何が待っているのか?その深淵に見えるものは何か?家族の概念が崩れた孤独な人間たちの暴走か?愛無き世界の住人が、世界を破滅させるために武器を取る?いや、ここの住人は、おそらく……。あっちの世界の人間を、自分たちの世界に引きずり込むために武器を取る……。


心地良い振動が全身を揺さぶる。

轟音のダンスが止まらない。

空中に吹き上がる鮮血たちは、とても勢いが良かった。

逃げ出す園児たちが見えた。

太陽、そして、空の世界も見えた。

何が起こった?

振動が大地を揺さぶる。

ゆっくりと……。止まった時間が、元に戻っていく。

先生の身体を無数の銃弾が貫いていく。

全身が傾き始めた。


90度から80度へ……。


70度……。


60度……。


倒れている二つの小さな身体が近づいてくる。

人生の終焉?

鮮血が四方八方に飛び散る。

笹の葉と短冊たちが見える。でも、風の音は聞こえない。波の音も聞こえない。


50度……。


40度……。


美しく輝く指輪に、鮮血が降りかかる。

彼からプレゼントされたときの光景が思い出される。

忘れられない、あの日の誕生日……。

胸いっぱいに感じた幸せ……。

いろんな場面で交わしたキス……。

手と手を繋ぎ合わせて歩いた道……。

楽しかったデート……。

何気なく一緒に過ごした時間……。

共に駆け抜けた青春時代……。


30度……。


20度……。


彼の優しい笑顔が最後に浮かんだ。


「お前のこと、ずっと好きだったんだ。」


「キスしようか?」


「はい。プレゼント。お誕生日おめでとう。」


「今度の休みに、この前言っていた映画、見に行こうよ。」


「初めて作ったわりにはおいしかったよ。全然、いける。」


「風邪治った?なんか作ってやろうか?」


「このこたつ、暖かくないんだけど……。」


「いいだろ、新車は。一番初めに座ってもらうために、ずっとキープしていたから。」


「どうして泣いているの?」


「大丈夫だって、一人じゃないから。」


「こんな店できたんだ。今度、行ってみようか。」


「こうして一緒に居られる時間がずっと続けばなぁって、本気で思うよ。」


「へえ、保育士の資格取るんだ、頑張れよ。」


「思い切り、抱いてもいいか?」


「輝いているよな、この指輪……。」


「死ぬほど好きだよ。」


「大好きだよ。」


「ずっと二人で生きて……。」


10度……。


零度……。


心臓の鼓動が止まった。

逝ってしまった。早すぎる旅立ちだった。たくさんの思い出を胸に、二度と戻れない世界に行ってしまった。

輝きを失った指輪は血に覆われていた。

かすかに零れ落ちた涙の雫が頬を伝っていた。

銃撃が止んだ。


「助けて!」


轟音が消えたあと、走り去る園児たちの悲鳴だけが聞こえていた。


「みんな、どうしたの?どうして逃げるの?私は助けに来たのよ。ねえ、お姉さんと手を繋いで、楽しく行こうよ。だから戻っておいで。」


園児たちは、すでに園舎を飛び出し、無我夢中で逃げていた。


「怖いよ、お母さん。」


泣きながら走り、助けを求めて幼稚園から離れていった。

女性は防波堤から園庭に降りてきた。


「神よ……、運命のパズルは完成させないとダメでしょ?一つでもピースを無くすとこうなるのよ。私一人だけが、こぼれ落ちちゃったじゃない。九九人に幸せを与えたのなら、残りの一人にも幸せを与えないとダメでしょ?あなたのミスよ。」


海からなだれ込んだ潮風が、女性の全身を包み込んだ。

もう誰もいないのに、再び、轟音が鳴り響いた。


「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」


女性は狂ったように叫んだ。

このとき、足元に置いてあった一枚の紙に異変が起きた。

紙縒りの付いた一枚の紙だ。

なんと、紙から幽体離脱するように一羽の白鶴が大空に向かって飛び立ったのだ。


いったい何が起こったのか?


「ハハハハハハハハ、ハハハハハハハハ。みんな死ね!みんな死ね!みんな死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」


女性は絶叫していて、この異変に気づいていなかった。

絶叫のダンスは激しさを増していた。

これは、「気が狂っている」という表現に留まらない、何か別の領域に到達していた。

何と言えばいいだろうか……。

これを表現するのにふさわしい言葉は何だろう?


魂が弾ける。


まさに、そんな感じだった。もはや、生身の体がどうなったかではなく、精神的にどうなったかでもなく、魂が暴走しているようだった。

女性は、神の使いにでもなったつもりだろうか?

絶叫が鳴り響く中、何か不穏な空気が漂っていた。


これは、いったい何だ?

地球に変化が生じていた。

少しずつ世界の形が変わり始めている。

何が起こったのだろう。

大地の不気味な変化とともに、時間軸にも異常が起こり始めた。しかし、人類は誰一人としてその変化に気づいていない。今までと同じように、何の違和感もなく、一分一秒の時間が流れ、いつもの日常がそこにあった。


女性の絶叫は止まらない。

激しいリズムとともに、その笑顔は最高潮に達した。


「畜生!クソガキどもがああああ。」


突然、轟音は止んだ。

装備していた機関銃の銃弾を、全て使い切った。それなのに、まだ、引き金を引き続けている。


「死ね死ね死ね死ね死ね!日本人は、みんな死ね!」


狂ったように、その場で360度、クルクルクルクルと回っている。

自分以外は全て敵ということなのだろうか?


「ハハハハハハハハハハハハッ、ハハハハハハハハハハハハッ。」


女性の笑い声が響いた。

ただ、その動きは、突然、止まった。


「ん?」


女性は思わず声を漏らした。音の無い世界に違和感を覚えたのだろうか……。

静まり返った園内は、とても不気味だった。

怒涛のごとく降り注いだ銃弾の雨は、園舎の窓と壁を激しく破壊していた。凄まじい光景だった。

相変わらず、辺りに人の気配は無かった。

海からの潮風は、笹の葉をサラサラサラッと揺らしていた。今は、自然の音しか聞こえない。

血生臭い空気さえなければ、ここは心地よいはずだった。

傾きかけた太陽の光が女性を照らした。その表情は、魂を抜かれているような感じだった。

女性は、ジッと辺りを見渡した。

海だけはいつもと変わらない光景だった。

何だろう、この静けさは?

潮風は、園庭に転がる死体の頭髪たちを、静かに靡かせていた。


「先生、先生!」


突然、声がした。

可愛らしい声だった。園児の声だ。

なんと、亡くなった先生の横で、しゃがんでいる女児がいた。どうやら一人のようだ。両手で先生の体を摩りながら話しかけている。

あれだけの銃弾が飛来したにもかかわらず、逃げずに残っていたのだろうか?特に怖がっている様子もなく、きょとんとした表情をしていた。


「先生、先生!」


小さな声だった。

先生は、すでに死んでいるため、何の反応もない。

穏やかな風は、この女児の頭髪も靡かせている。


「重たいんだよ!」


女性はそう叫ぶと、弾切れになった機関銃を地面に放り捨てた。

まだ女児の存在に気づいていない。

女児は、当然、女性の存在に気づいているはずだが、無関心だった。


「先生、先生!」


何回呼んでも答えは返ってこない。

女性はリュックサックを持ち上げると、ゆっくりと歩き始めた。


「駄目、駄目よ、駄目じゃない、逃げたら。あれ?ひょっとして、誰も死んでない?みんな地獄に落ちなかったの?どうして?生き続けるのは、それ以上の地獄なのに……。」


女性が言った。

リュックの中には、まだ実弾入りの短銃が何丁も詰まっている。

さっき不思議な現象を起こした一枚の紙は、ボールペンとともに防波堤の上に置かれたままだ。

女性はリュックを持ったまま、再び、園庭の地面に飛び降りた。

このとき、初めて女児の存在に気づいた。ゆっくりと近づいていく。


この頃……、先程、大空に旅立ったはずの白鶴は、どこか不思議な空間にいた。

ここは?ここは……、いったいどこだろうか?

何か強烈な時間の歪みを感じる。宇宙空間らしいのだが、どこか違う。生と死の狭間だろうか……。

360度、無限に広がる幻想空間に、ポツンと小さな島が浮かんでいた。この島の大地から上を見上げると、無限に広がる光の世界が広がっている。逆に、下を覗くと、無限に広がる暗黒の世界が広がっている。この幻想的なコントラストの狭間に浮かぶこの島は、いったい何なのだろうか?

とても現実の世界とは思えない。

この浮遊島の直径は一キロほどだ。島の中央には神秘的なデザインの巨大宮殿があった。建物はここだけで、それ以外の場所は、光と水と緑に覆われた幻想的な大地が広がっていた。

ここは神の国なのか?

白鶴は優雅な飛行で宮殿の中へと入っていった。

中で何が行なわれているのか……、少し覗いてみる。

宮殿内の間取りと装飾は、光と暗黒が入り混じり、とても幻想的だった。そこには一人の人物、いや、生物が慌ただしい動きを見せていた。

何者だろう?

その姿はまるで……、古代メソポタミアの、人類最古の文学作品「ギルガメシュ叙事詩」に出てくる、森の守護人フンババを彷彿させる異様な出で立ちだ。その手には、偶然、奇跡、幸運、不運を暗示する四枚のカードが握られていた。

何が始まるのだろうか?

この生物の前に、巨大な渦が、幻想的な光を放ちながら蠢いていた。これはきっと……、運命の渦だろう。人の運命が集まっている。宇宙、存在、幻想、神秘、時間、数学、宗教、瞑想、自然、心理、哲学、地球、精神世界……、万物が異様な形で凝縮されている。

宮殿内には、不穏な空気が流れていた。

この生物は、かつて彦星様と織姫様をも引き離した、神と呼ばれる道士だろうか? もし、運命を掌る神ならば、ある人間を、自ら作ったシナリオ通りにするために、ある日突然、殺すこともできるだろう。宇宙の創世すら可能な万能者ならば、人間から見たら神と言っていいだろう。神が、いつ、どこで、どのカードを使ったとしても、人間の力ではどうすることもできない。少し覗いてみてわかったことだが、人間がよく口にする予感という言葉は、神がどのカードを使うのか、それを熟慮しているシーンを、一瞬だけ覗かせてもらうことを意味するのかもしれない。なぜなら、結果はどうなるかわからないが、次に何かが起こるという事だけは、なんとなく察知できるからだ。

女性に運命のときが迫っていた。そのことを女性は予感できているだろうか……。


「先生、先生!」


先生の死体を摩っている女児の手は、もう血だらけになっていた。丸まっているために全身がバスケットボールくらいに小さく、癒される可愛さがあった。

近づいてきた女性が、女児の目の前に立った。


「ねえ、あなた。どうして逃げなかったの?」


リュックを片手に女性が言った。意外にも冷静な口調だった。

女性は、幼い二つの死体の横を何の感情もなく通り過ぎ、先生の死体までたどり着いた。


「先生、寝ているの?」


女児が女性に向かって言った。


「そうだよ。おねんねしているの。もう永遠に目覚めることはないけどね。どうして逃げなかったの?怖くないの?殺されるところを見ていたんでしょ?目の前で……。」


「明日、先生と遊ぶの。一緒に遊ぶって言ってたよ。」


「なあんだ、ただの馬鹿か……。勇気があったわけじゃないんだね。」


女性は独り言のように呟くと、女児のすぐ隣にしゃがみ込んだ。それと同時にリュックが地面に置かれた。

小さな体、小さな手、小さな足、はち切れんばかりのふっくらとした可愛いほっぺたが、女性の目の前にあった。


「ねえ、あなた名前は?」


女性が言った。


「ゆき。」


女児は死体を見つめながら答えた。


「ゆき?それがあなたの名前?ふうん、ゆきちゃんか……、ゆき……ね……。」


女性は、感慨深げに言った。


「お姉ちゃん、名前は?」


ゆきが女性の顔を見た。


「名前?ああ、そうだね。ウーン?忘れちゃった……。」


ゆきは一瞬、女性に何かを聞きたそうな表情を見せたが、何も言わず、再び、視線を下に向けた。

ゆきは先生の体を摩っているが、蘇生を試みるというよりは、無意識のうちに手を動かしているという感じだ。


「ねえ、ゆきちゃん。死ってわかる?」


女性が言った。


「……。」


「わからない?死くらいわかるでしょ。ゆきちゃんがこれから大きくなってね、どんどん歳を重ねていくでしょ?最後はお婆ちゃんになって、そのあとにやってくるものなんだよ。わかるかなあ?」


「うん。」


「本当に?」


「うん。」


ゆきはわかっているのか、いないのか、判断しにくい表情をしていた。


「ねえ……、本当に怖くないの?みんな逃げ出しちゃったのに……。」


「うん。」


ゆきは無表情で軽くうなずいた。


「ゆきちゃんの同級生は、もう永遠に動かないのよ。本当に怖くなかった?」


「うん。」


女性は不思議そうな表情を見せた。

園内には、この二人以外、誰もいなかった。

辺りの住宅地や道路にも、誰もいなかった。

動きがあるとすれば、笹の葉と死体の髪が風にさらされることと、あとは……、太陽に照らされる鳥の姿が地面に投影されることくらいだ。

太陽の光は、防波堤の上をずっと照らし続けている。あの紙にも光が当たっている。

気のせいだろうか?

紙縒りの付いた一枚の紙だけ、なぜか白銀色に輝いているように見える。とても光の反射には見えないが……。不思議な情景だ。

時折吹きつける少し強めの風は、血生臭い幼稚園の空気を一掃してくれる。また、それと同時に、笹の葉たちのこすれ合う音が大きく園内に響く。短冊たちも大きく揺れる。

願いは届くのか?


「ねえ、ゆきちゃん。どんな願い事を書いたの?」


「ええとね、お友達がほしいって書いた。」


「お友達?お友達がほしいんだ。今、お友達はいないの?」


「うん。」


「そっか。先生はよく遊んでくれたの?」


「うん。」


「そっか。優しい先生だったんだね。」


「うん。」


女性は目の前の死体を見つめながら、複雑な表情を浮かべた。


「願い事って叶うの?」


ゆきが言った。


「うん。叶うよ。ゆきちゃんがね、いつも良い子でいたら叶うんだよ。そうやって人生経験の薄い大人たちに言われなかった?」


「叶うの?本当に?」


「うん。本当だよ。でもね、何もしなかったら駄目。お友達がほしかったら自分から話しかけるようにしないとね。人間関係は距離感と強弱を上手に使いこなすことが大切なんだ。明るくて優しくて、笑顔弾ける自分を演じていれば、そのうち誰かが話し相手になってくれるよ。」


「本当?」


「うん。」


「男の子も?」 


「男の子?ゆきちゃんは男の子の友達がほしいの?」


「うん。」


「そっか、男の子か……。」


女性は近くに横たわるリボンとミサンガを見た。血で真っ赤に染まっている。

女性の感情に、波が立ち始めた。

男の子と友達になりたいという、ゆきの願望は、無意識のうちに湧き上がってくる恋心なのだろうと女性は感じた。


「誰か、好きな男の子でもいるの?」


「うん。」


「そっか、いるんだ。じゃあ、その子とお友達になりたいのかな?」 


「うん。」


「ねえ、ゆきちゃん。それはお友達になりたいじゃなくて、正確にはその子の恋人になりたいってことでしょ?まあ、お友達とも言うけどさ……。好きなんでしょ?その子のこと。だったら、短冊にはお友達じゃなくて、恋人になりたいって書いた方が良かったかもね。」


「恋人?」


「そう。恋人よ。この二人みたいになりたかったんでしょ?こういうのを恋愛って言うの。」


女性は愛し合って死んでいった二人の園児を指差した。

ゆきは何も答えなかった。


「どうしたの?ああいう風になりたかったんでしょ?」


女性は、再度、尋ねてみた。


「う……、うん。」


ゆきは小さな声で答えた。

女性は、気弱で不器用な感じに見えるゆきの姿に、少しばかりの共感を覚えた。血まみれの手で先生の体を摩る姿が、かつて砂まみれの手で砂山をいじくっていた女の子の映像と重なった。

傾きかけた太陽の光が二人の顔を照らす。


「お姉ちゃん、結婚してるの?」


突然、ゆきが切りだした。あどけない顔はとても可愛かった。


「結婚?」


女性は驚嘆した。

突然、ゆきからこのような言葉が飛び出すとは予想できなかった。感情の波が少し荒くなった。


「結婚はしてないよ。」


女性は無表情で言った。その口調は、まるで警察署の取調室で「していない!」と容疑を認めない無実の容疑者の口調に似ていた。

辺りが静まり返っているので、話し声はいつもより遠くまで響く。さっき、あれだけの銃声が鳴り響いたのだから付近の住民が様子を見に来てもおかしくないのだが、なぜか人の気配は全くない。

七夕の短冊たちが揺れる。その中には「結婚したい」という願い事が書かれた短冊もあった。


「私、結婚するの!」


突然、ゆきが力強く言い放った。


「は?」


女性は思わず声を出した。驚きというよりは、少し攻撃的な口調だった。

園児が幼い世界観の中で放った一言に対し、女性はそれを大らかな気持ちで包み込んであげることができなかった。

結婚という言葉が「大人の女性」という名の薄っぺらい表皮を突き破り、その奥にあった「恋愛経験なし」という名の劣等感を突き刺した。人生の先輩として接しているつもりが、実は人生経験はこの子よりも下なのではないか……という不安と恐怖が、自己嫌悪の抑制を不可能にした。

女性はこの言葉を受けて、今まで見せつけられた数多くの恋する二人の笑顔が浮かんだ。

突然、感情が沸騰する。

女性はゆきに対して、なぜか急に「見られたくないものを見られた」という気持ちになった。


「ダメ!ダメなのよ。結婚はダメ!ダメダメダメダメダメ!絶対にダメ!」


女性はこう言い放つと、隣に置いたリュックサックを思い切り蹴り飛ばしたのだ。


このとき、優雅な舞を見せる白鶴の視界に、ある光景が飛び込んだ。

絶対者である神が、どのカードを切ろうかと決断を下そうとしていたのだ。


女性は感情の波を、大波に変えていた。

ゆきは女性のこうした変貌に対しても、特に怖がった様子もなく、ポカーンとした表情で下から女性の顔を見上げていた。

女性はリュックの中に詰め込まれている短銃たちに目をやった。

ゆきと接してから、それなりに心の豊かな大人の女性を演じてはみたものの、所詮は何もできずに人生が通り過ぎた劣等感の塊でしかない……、いくら相手が幼い園児であっても、浴びせられる言葉に対して大人の対応などできるはずがなかった。孤独な生活から見える幸せな他人への憎悪、失った若い時間に対する喪失感、生きる意味・気力・目的・希望の無い現実と、老いと孤独と死しかない未来に対する絶望、才能や運に恵まれなかったことに対する神様への不信感、ありとあらゆる競争に負け続けた無能な自分に対する嫌悪感、同年代の幸せと成長を尻目に、何もできずに終わった一回きりの人生に対する焦燥、空っぽの自分を見透かされているのではないかという不安と、その現実に対する虚無感……、それらは劣等感という、自分が作り上げた大地にのみ存在し、自分を形作ってきたが、その大地が丸ごと砕け散ろうとしていた。

それに抗うべく、激しい大津波を自分から引き起こした。


「ハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ。そうだよね、みんな一緒だもんね。人間なんてみんな一緒だよ。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ。勝手に結婚すればあ?」


女性は狂ったように言った。

ゆきは相変わらずポカーンとした表情をしている。

つい先程まで「恋人がほしければ短冊に書けばよかったのに……」と言って恋愛に対して肯定的だった女性が、「結婚する」と言った途端に豹変して真っ向から否定してきたことが、ゆきには理解できなかった。

その疑問は言葉となって表に出た。


「恋愛と結婚って違うの?」


ゆきが言った。


「ハハハハハハハハハハハハハッ。可愛い顔してそんなこと聞くの?お前みたいなガキに話してもわからないと思うけど……。一応、冥途の土産ということで教えてあげる。恋愛っていうのは妥協ができないの。結婚っていうのは妥協ができるの。結婚は相手の存在が全てじゃないんだよ。寂しくて一人では生きられないとか、家族が急かすからとか、子供がほしいとか、相手のカネにしがみつくとか、ジジババの介護要員募集とか、仕事や家名の後継者募集とか、いろんな理由があんのよ。でね、私はそういう妥協した結婚と死を秤にかけたとき、死を選ぶ人間なの。わかるかな?妥協した結婚をするくらいなら一人で野垂れ死んだ方がマシ。家族観の無い私には、そういう結婚は不可能なの。私にとって結婚は『駆け落ちをする』という意味以外では存在しない。それは若いときに心ゆくまで恋愛をして、愛に満ち溢れて、人間的に成長を遂げたあと、戦友とともに残りの時間を歩むという意味……。短い一回きりの人生で大切なのは、そこに至るまでの一分一秒の時間を磨り潰すように味わい、濃厚な時間にすること……。それが人生の中核となり、やがて、それが人生の意味となる。だから、恋愛の延長線上にあるような、相手のことしか見えない愛に満ち溢れた結婚以外は興味がないの。恋愛が一度もできずに若い時間を終えたとき、私の人生は終わったの。大した努力や我慢もしないで、幸運に恵まれ、恋愛を重ね、愛に満ち溢れる人生を手に入れた人間を、私は許せなかった。こんな事を口走ると、恋愛をしてきた人間たちは、一斉に私を馬鹿にするし、あんたの先生みたいに『まだ、これからだ』とか、『努力が足りないからだ』とか、『理想が高いからだ』とか、適当なことばかり言って見下すけどね。」


「じゃあ、恋愛してから結婚する!」


ゆきが言い放った。

今、話したことが理解できているとは思えないが、その言葉はとても力強かった。

女性の劣等感に突き刺さった刃は、この勢いのある言葉を受けて、さらに深淵まで抉った感じだ。


「フフフッ。ゆきちゃん、最高。最高よ。」


女性は興奮気味に言った。同時に、チラッとリュックの中を確認した。

覚悟を決めた視線の先には、短銃たちが犇めき合っていた。

ゆきの顔に恐怖はなく、女性の発する言葉に対しての反応も薄く、ポカーンとした表情をしているだけだった。


「幸せを……、幸せを手にする奴は、みんな死ねばいい。私は助けに来たんだ。劣等感にまみれて憎しみをぶつけに来たんだじゃない!フフフッ。悪気はないんだけどね……、運命だと思ってあきらめてね。私だって好きでこんな人間になったんじゃない。どうすることもできなかった……。人間の力ではどうすることもできないの。人間は誰も助けてはくれない。正確に言うと、日本人は誰も助けてはくれない。自分さえ良ければ他人なんかどうなっても構わないという、日本人の本質に触れ続けた結果なのよ。最後の最後まで、他人の踏み台だった。ただ、踏みつけられた。いろんな人間に踏みつけられた。そんな一回きりの人生だった。我慢強かったと思うけどね。死ぬまで我慢っていうのは無理だったわね。私は踏み台という立ち位置から、踏んづけている奴らに、ただ銃口を向けただけなのよ。何が悪いのかしら……。ハハハハハハハハハハハッ。何が悪いの!何が悪いんだよぉ。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね、死んじゃええええええ。大好きな先生の元へ送ってあげる!」


興奮は最高潮に達した。

女性は地面に置いてあるリュックの開封口の中に、勢いよく手を突っ込んだ。

その瞬間だった。


「うっ!」


女性は思わず声を出した。

鈍い音がした。


いったい何だ?


まるで瓶入り炭酸飲料のコルク栓が、中の圧力に押し出されて吹っ飛んだときの音に似ていた。

かなり大きな音だった。


時間が止まった。


風も止まった。


女性は今までの人生で目に映った全ての場面が、一瞬で同時再生されたような感覚に陥った。


「今の音は何?」


女性は音の正体を探った。


どこから聞こえた?


「なんだろう、この感覚は?ここはどこだ?」


女性は白鶴の目を借りて、その光景を見た。

空の向こう、あの太陽の向こう、宇宙の果てをさらに進み、時空を超えた無限という名の世界の姿を……。

そこでは光と暗黒が美しいグラデーションを奏でていた。

誰もたどり着くことのできない天堂の世界だ。そこに小さな島が浮かんでいた。そう、ここは神の国である。

遙か彼方に存在するこの国で、今、何かが起こった。

この国には運命を掌る様々なカードが存在する。その中でもレアカードとして、偶然、奇跡、幸運、不運、といった四枚のカードがあった。これらのカードは、神と呼ばれる魔導士だけが持つことを許される。

ここから見える光景は、運命の渦の前で、仁王立ちする魔導士の姿だった。

ん?何か変だ!二枚、足りない。つい、さっきまで、四枚のカードを手にしていたはずなのに……。

「四枚のカードを手にしていた」というのは錯覚でも予感でもなかった。「覚えている」という言葉には遠く及ばないが、記憶の深淵にかすかに触れる程度の……。それをどこかで感じていた。この世界との繋がりを感じていた。

魔導士は何をしたのだろう?

運命の渦は異様な輝きを放っている。

白鶴は見ていた、その行動の一部始終を……。どうやら魔導士は、この女性に対して、四枚のカードのうち、二枚のカードを使ったようだ。

なんだろう、この鳴り止まない歓声は……。

神と呼ばれる魔導士が、カードを使ったことに対して歓声が上がったのだろうか……、それとも、運命の分かれ目に立ち会えたことに歓声が上がったのだろうか……。姿は見えないが、大観衆による大歓声が聞こえる。声の主は、おそらく神に仕える司教たちだろう。どこからともなく聞こえる大歓声は、きっと神の行動を賞賛する歓喜の歌なのだろう。

女性は白鶴の能力を借りて、それを見た。


「何だ、これは?私の運命?」


神は女性の行く末を冷静に眺めていた。


「何?四枚のカードが二枚しかない。何だ?私に突き刺さっているのは、偶然のカードと不運のカードのみ。この二つが、私の運命に氷の刃と化して突き刺さっている。あれ?残り二枚はどこにあるの?幸運のカードは?奇跡のカードは?どこにあるの?神の手元に残っているのは?あれ?か……からだ……、体が……。」


女性は棒立ち状態となった。

思わず視線を胸の辺りに移す。すると、おびただしい量の血が流れ出ていた。

女性は目を背けるかのように、反射的に視線を上げた。

何が起こったのか全くわからない。

手で胸を触ってみる。温かい血が、脈々と流れ出ている。


「何が……起こった?なんだ?」


明らかに女性の体に異変が起きていた。

どこからともなく恐怖の影が忍び寄ってくる。


「こ……、これは?」


女性は、再度、体の異変を目で確認した。それは、まるでエンジェルフォールを上から眺めているような光景だった。

女性は反射的に滝口を手で塞ぐ。しかし、勢いは止まらない。

尋常でない量の血が、滝壺に落ちていく。

女性は何かを悟った。


「私、撃たれたの?」


ゆっくりと周りを見渡してみる。

ゆき以外は誰もいない。視界に、怪しい人影はない。


「何?何なの?」


何が起こったのか?

リュックの中からうっすらと煙が上がっている。火薬の臭いがした。

銃火器の扱いに詳しい女性は何かを察知した。


「ま、まさか!」


リュックの中を見た。

そこにはランダムに詰め込まれた短銃たちがあった。銃口の向きは上下左右いろいろな所を指している。この中の一つから煙が上がっていた。


「ぼ、暴発?」


胸の痛みとともに、意識が薄れていく。

流れ落ちる自分の血を何度も確認する。服が真っ赤に染まっていく。

幼稚園の園庭は静けさに包まれていた。


「そ……、そんな……。」


女性は、ようやく短銃が自分に牙を剥いたことを理解した。


「こ……こんなことって……、こんな……、嘘でしょ?ハハハハハハ。マジかぁ。」


銃弾は女性の胸を完璧に貫いていた。


「わ……私……。私……、ヘヘヘッ。」


女性はニヤリと笑みを浮かべて、ゆきの顔を見た。

あどけない顔がとても可愛かった。

オレンジの太陽が全身を照らす。海から吹き付ける潮風が全身を揺らす。

防波堤の上には、紙縒りの付いた一枚の紙と、30枚の便箋、それにボールペンが転がっていた。

なんだ?この声は……。動物?海鳥の鳴き声か?何か神秘的な音が、この静まり返った空間に鳴り響いた。


その、次の瞬間だった。


どこからともなく一羽の白鶴が舞い降りてきた。

そのまま防波堤の上に着地した。

こちらを見ている。

太陽に照らされているせいか、白鶴自身が光を放っているように見えた。

移ろいゆく季節、過ぎていく時間……、なぜか、突然、時間の流れを感じた。

穏やかに揺れる笹の葉がとても儚く映った。願いを込めた短冊たちにも、同様の感情を持った。

リボンの死体とミサンガの死体、それに指輪の死体が見える。

女性は、光輝いていたあの指輪が、何かを訴えかけてくるように思えた。


「嫌だよ。マジかよ、神様。こんな所で……。」


女性の胸から流れ出る血の量は半端じゃなかった。


「嫌だ。嫌だ。嫌だああああああ。ちょっと待ってよ。何よ!嫌だ。死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない。キュ……救急車、救急車呼んで!嫌だよ、絶対に嫌だよ。死んでたまるか。まだ、全然、足りない……。」


女性は空を見上げた。

絶対者である神は、天堂の世界からこの姿を見て何を思うのだろう。

女性の運命に突き刺さった氷刃と化したカードからも、大量の血が流れ出ていた。

神はなぜ、この二枚のカードを選んだのだろうか?神は自らこの女性に宿命を与えておきながら、暴走したことを理由に途中で見切りをつけたのだろうか?それとも、初めからこうなることが宿命だったのだろうか?


「嫌だよ。嫌だよ……。嫌だ嫌だ嫌だ。こんな終わり方、絶対に嫌だ!」


出会える運命のもとに生まれた人間と、出会えない運命のもとに生まれた人間……。恋愛ができる運命のもとに生まれた人間と、恋愛ができない運命のもとに生まれた人間……。同じ一回きりの人生……。同じ一回きりの若い時間……。神に幸運のカードを使ってもらえた人と、不幸のカードをもたらされた人……。全てを手に入れる人、何も手に入らない人……、それほどの差をつけるとは……。

人間の力が遠く及ばない運命の世界って何?人間は神の手のひらの上で、踊らされ、遊ばれている。全てを出し尽くしたところで、神の前では、あまりにも無力……。

女性の意識が薄れていく。

溢れ出るサラサラの血が地面に広がる。両手、両腕はすでに真っ赤になっている。

呼吸をすることに強烈な違和感があるようだ。心臓の鼓動にも同様の違和感があるようだ。

絶望感が漂う。


「血が……こんなに大量の血が……。」


女性は自分の胸を確認して、ほんのりと笑みを浮かべた。

そのまま、数秒間……、動きが止まった。

潮風は、血の臭いを辺りに撒き散らしていく。

女性は神の視線を感じ、再び、ゆっくりと空を見上げた。

そこにあった女性の表情は、幼くて優しいものだった。


「私……、私……。」


女性は棒立ち状態のまま、体が傾き始める。

もう、立っていられなかった。

背中から地面に落ちていく。

徐々に狭まる地面との角度……。


90度から80度……。


70度……。


「フフフッ。ゲームオーバー?私という名のゲームは強制終了かよ。ここで終わり?こんな終わり方?一回きりの人生……、冗談だよね?私、死ぬの?ここで死ぬの?フフフッ。まだ、終わりじゃないよね?」


体の中で起きた異変に対して、各器官で状況の分析がされている。その大半が、もはや助からないだろうという判断であり、そういった信号が次から次へと脳に送られていった。


「やっぱり、もう駄目なのかな?終わるのかな?」


さらに、意識が薄れていく。

消えゆく生への希望と、膨れ上がる死への恐怖が交錯した。

生の世界が遠ざかっていく。

あっという間に遠ざかっていく。

精一杯、生の世界にしがみついてきた。

他人を踏み台にしてまで、しがみついてきた。

こんな断崖絶壁だったけど、しがみついてきた。

力の限り、しがみついてきた。

なぜか……、手が離れてしまった。

落ちていく。死の世界へと、落ちていく。


60度……。


50度……。


まだ三人……。

自分の死と引き換えに奪った命は、たったの……。

幸せを手にして笑っている人間たちが、まだまだたくさんいるのに……。愛を分かち合う男女が、まだまだたくさん……。

今、死んだら……、今、死んだら、間違いなく人生の敗北者……。

犬死にという言葉が私に……。


40度……。


30度……。


このまま死ぬの?一人で死ぬの? 

誰もいない孤独な人生のまま?

一回きりの人生が……。

出会えない運命とともに沈む。

私の存在は何?

生きた証すら残らない?

住んだ借家には、新しい住人がやってくる。

使った物は捨てられるか、売りさばかれる。

残った財産は国庫に……。

ネット上に残した痕跡は、いつまで残る?

思い出がほしかった。

私は、誰かに気づかれること無く……。 

ただ、ひっそりと……、無縁仏として……。

誰かに看取られるはことなく……。誰かの記憶に残ることもなく……。


20度……。


10度……。


恋を……、恋をしてみたかった。

死ぬほどしてみたかった。

誰かと出会いたかった。

一回くらい……、一回くらい……、デートしたかった。

夢で見たことを、空想で思い描いたことを……、一回くらい……。

愛されたかった。誰かに愛されたかった。

ドロドロに抱き合いたかった。壊れるぐらい、激しく……。

笑ってみたかった。心の底から笑ってみたかった。

一回くらい……、一回くらい……。


零度……。


地面に倒れると同時に、激しく吐血した。


「ウウッ。」


まだ、息があるようだ。地面に大の字になっている。

静かだ。なんて静かなんだろう。音が止んでいる。何も聞こえない。


「フフフッ。マジかよ。死神か……。突然、現れやがって。フフフッ。私、もう終わりね。」


女性が小声で言った。

朦朧とする意識の中で、ぼんやりと目に映るこの光はなんだろう。

もう一度、しっかりと目を開けてみる。そこには、色鮮やかに広がるオレンジ色の空があった。果てしなく広がっていた。斜光は美しく輝いていた。

女性は思った。


綺麗……。なんて綺麗なんだろう。地面を背にして空を見ると、こんなに美しいなんて……。とっても綺麗……。吸い込まれるような感覚。これが最後の……。


目から大粒の涙が溢れる。頬をゆっくりと伝い、地面に落ちていく。

夕日が、全てをオレンジ色に染めていた。

これは大地を暖める光ではなく、心を温める光だった。そのオレンジに包まれていると、何か奇妙な光景が見えた。


何だ?この光景は?これは……、何?時間の……、時間の流れに揺られているみたい……。あれは、私……。私がいる。経過した全ての時間が一つになったような……、そんな感覚……。


女性は時間の渦に飲みこまれた。

俗にいう、走馬灯というやつか?


赤ちゃんの頃の私……。可愛い私……。満面の笑みを浮かべるおばあちゃんに抱かれる私……。お父さんがいる。お母さんもいる。みんな笑っている。私は歓迎されて生まれてきた?


時間の渦の中は、とても温かい。

心が癒されていく。

家族がいる。大好きだったおばあちゃんがいる。

咄嗟に言葉を投げかけた。


おばあちゃん。どうして居るの?私に会いに来てくれたの?また、遊んでくれるの?わかる?私が……。私を見て思い出すこと、あるでしょ?おばあちゃん、いつも言っていたよね。死ぬまでに一度でいいから、CMで宣伝していたあのケーキ、食べてみたいって。私が小遣いを全部使って、そのケーキを買ってきたの覚えてる?おばあちゃんの笑顔がどうしても見たくて……。ねえ、聞こえてる?私との思い出で、一番、覚えていることでしょ?おばあちゃん……。家で勉強ばかりさせられて、幼稚園ではいじめられている私の苦境を察して、連れ出してくれたよね。生まれて初めて行った遊園地はとても楽しかったよ。小さな観覧車に乗って一番高いところまできた私に、地上からカメラを向けて写真を撮ったでしょ?強張った表情の私の写真を、後から一緒に見たでしょ。初詣や節分の思い出、また、夏の夜には勝手口で花火をしたよね。一緒にこたつに入って、あやとりをしたり、折り紙をしたり、ビー玉を使って遊んだり……、本当に楽しかったよ。覚えてるでしょ。ん?聞こえてる?何か言ってよ。


時間の渦が勢いを増していく。女性は流されるままに漂った。

優しい表情をしていた。

自然と一体化している。


私が見える。全身血まみれの私が見える。私の人生は……。私の人生は何だったのか?私の存在は何だったのか?


女性の口から血が噴き出す。

意識がなくなっていく。

あふれ出る涙が止まらない。


これが人生最後の景色か……。私は、ここで死ぬのか……。ここで一回きりの人生が終わるのか……。悔しいよ。虚しいよ。悲しいよ。そして、寂しいよ。私は何のために生まれてきたんだろう。なぜ、幸せをつかめると、最後まで自分を信じることができなかったんだろう。ただ……、あれ以上の我慢は、私にはできなかった。人生に運が無かった。ああ、綺麗な空……。


突然、その空に人影が映った。

朦朧とする意識の中で、ゆきの姿が視界に入った。


「ゆきちゃん?」


かすかに声が出た。

可愛らしいゆきの顔が目の前にあった。

血だらけになった女性の手を、小さな手で握ってきたのだ。もはや、女性には、その手を握り返してやれるだけの余力も残っていなかった。

死が近づいてくる。


死ぬ瞬間って、こんな気持ちなんだね。こんなに純粋なんだね……。


女性の口から血が流れ出る。

何かを話そうとしているが、声が出せなかった。


ゆきちゃん、ごめんね。私……、あなたを殺そうとした。何もわからないあなたを……。幸せをつかんでいないあなたを……。手を……、手を握ってくれてありがとう。


涙が止まらない。


私は幸せになれなかった。あなたは同じ人生を送っちゃ駄目よ。人はね、幸せになるために生まれてくるの。「仕事が生きがい」だなんて言うクズになったらダメよ。そういう言葉を発する人は、今、当たり前のように享受している幸せに気づかないゴミでしかないから……。この国の人は、その幸せに気づかない。本当の孤独に陥ってからそれに気づいても、もう二度とそれは得られない。若いうちにいろんな経験をして、自分の可能性に気づいてね。もし、幸せになれない運命なら、私が何とかしてあげるわ。幸い神様は、私に幸運のカードを切らなかったの。もし、私に切る予定だった幸運のカードがまだ残っているのなら、ゆきちゃん、あなたに受け取ってほしいの。きっと神様も最後の願いくらいは聞いてくれるんじゃないかな。ゆきちゃんの手って、とっても温かいな。温かいな。温かい……な。温かい……。


地面に落ちる一粒一粒の涙には、まだ体温を感じた。

女性の意識が薄れていく。


「お姉ちゃん?」


ゆきが言った。

女性は穏やかな表情をしていた。再び、口から血が噴き出る。

全身はオレンジ色の太陽光に照らされている。海からの潮風にも包まれている。


大地が揺れている。地球という名の大きな船に乗っているみたい。もう一度、星を見てみたかったな。織姫様……。彦星様……。もし、もう一度、生まれてくることができるのなら、あなた方のような恋をしてみたいな。絶対に、絶対に……、恋をしてみたいな……。


「好きだよ。」


「大好きだよ。」


「私、どう?」


「どんな私でもいいの?」


「何か作ってあげようか?」


「傍に居てあげようか?」


「私、泊りがけで旅行するの初めてだな。」


「雲一つないね。水平線が綺麗だね。好き!」


「意外に空いているんだね、ディズニーランドって。もっと混んでいると思ってた。最初、何に乗る?」


「退屈?私はこうやって、まったりとテレビを見ている時間も好きだよ。」


「ううん……伝わった。気持ち、伝わった。嬉しかった。」


「車のカギ、忘れちゃった。そこにあるでしょ?ごめん、今から取りに行く。」


「こんなに優しくしてもらったのは初めて。」


「幸せ……。生まれてきて良かった。」


「ううん。全然嫌じゃないよ。こんな高級な店で、こんな綺麗な夜景が見れて……、なんか場違いな気がするだけ。ありがとね、連れてきてくれて。」   


「私はあなたに会えると思うだけで、仕事やそれ以外の全てことを頑張れるの。それがなかったら何もできない。」


「こうして好きな人と一緒に誕生日を過ごせるなんて最高だよ。」


「ねえ、何の映画見る?」


「前評判はそんなに高くなかったけど……、いい映画だったでしょ?」


「あ、今日、クリスマスイブじゃん。」


「ちょっと何?ハハハハッ。なんでこたつが、ぺちゃんこになるの?足が下敷きになってるんだけど……。普通起こらないよ、こんなこと……。」


「あれ?ん?ちょっと……。ハハハハハッ。なんで着メロ一緒にしてんのよ。サウンドも一緒だし。わかんないでしょ、どっちが鳴ったか。」


「はい!誕生日プレゼント。」


「忙しい合間をぬってでも会いに行く。」


「どうしたの?大丈夫?」


「熱は下がった?可哀想に。」


「ずっと一緒にいたいよね。ずっと……。」


「好きだよ。」


「大好きだよ。」


流血が止まらない。涙も止まらない。

意識が無くなりかけている。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


ゆきが言った。

女性は優しい笑顔で返した。


そう言えば……。


女性は、突然、思い出した。

自分がゆきと同じ園児だった頃、たった一人だけ、仲良くしてくれた男の子がいたことを……。

女性は最後の力を振り絞った。


「幸せに、幸せに……なるんだよ……。絶対に……。」


音が聞こえた。

タンバリンの音だ。パン、パーンって鳴っている。

小さなぬいぐるみの目が、その瞬間を見ていた。旅立つ瞬間を見ていた。

長い年月、ずっと動き続けていた心臓が止まった。

安らかな顔だった。

頬に残る涙に、もう体温は感じなかった。

これからどんな夢を見るのだろう。

事切れた瞬間、海からの潮風につつまれた。優しくつつまれた。温かくつつまれた。


「ささのは、さあらさら……」


どこからともなく、音楽が聞こえてきた。

幼い声は懐かしく律動している。それは風に乗っていた。この潮風に乗っていた。笹の葉たちも、その風に乗って揺れていた。

願いを込めた七夕の短冊に、魂が宿る。

願いよ、届け!

願いよ、届け!

声が聞こえる。園児たちの声が聞こえる。力強く、躍動感あふれる声が聞こえる。天に向かって叫んでいる。天に向かって……。




ここは防波堤の上である。

どれだけ時が流れたのだろう。

太陽が沈む。

弱々しい光が大地を照らしている。

ここには、ボールペンと30枚の便箋の他に、紙縒りの付いた一枚の紙が置いてあった。相当な熟慮の末に刻まれた多くの文字とともに……。

また、この一枚の紙には、明らかに人が書いたものではない神秘的な印字があった。まるで、あぶり出しのように、突然、文字だけが浮かび上がってきたかのようだ。

そこには、こう書かれてあった。


「魔幻の紙縒り(魂が弾けるとき、あなたの願いが叶います)」


これはタイトルだろうか?意味はよくわからないが……。

その次の行から、手書きで文章が書かれていた。


――神様、私の一回きりの人生ってどうでしたか?(笑)魔幻の紙縒り?面白いね。こんなアイテムが本当に存在するなら、私は幸せになれたかもしれない。古い木箱に加え、どういう構造になっているのかわからないけど、妖しい光を放つこの紙……、本当に魔法のアイテムみたいだね。子供だましには面白いかも。とは言え、これは私が大好きだったおばあちゃんの形見なので、この紙に最後の言葉を記したいと思う。

ごめんね。おばあちゃん。私、最後まで生きられなかった。力の限り生きたつもりだけど、及ばなかった。この世には高いハードルがいくつもいくつもあるんだね。おばあちゃんはどうやって越えてきたのかなぁ、あの歳まで。すごいなぁ。もうすぐ、そっちに行くから話を聞かせて。

ああ、そうか……。私は天国には行けないから、会えないのかな?これから日本犯罪史に残るような最悪の殺戮を行なう予定だから、私は地獄に真っ逆さまだろうね。

遺書って実際に書こうと思ったら、何を書いていいのかよくわからないね。自殺をする人は自分が死ぬ理由について、多くを語らず、薄い理由をほのめかし、ただ一言、「ごめんなさい」という言葉だけを残すらしいけど、それは私の人生経験から推測すると、その全てが本音ではなく建前なんだろう。

家族主義と日本的仏教価値の中では親批判はタブー。どんな合法かつ正当な理由があろうとも、口に出してしまえば社会から抹殺される。だから、私の身に起きたことは全て墓場まで持っていくしかない。誰かにわかってもらおうとすればするほど、その分だけ自分に跳ね返ってくる。その環境に生まれた時点で、詰みだ。

人はなぜ、殺人をするのか?なぜ、自殺をするのか?

私は、その答えを知っている。だが、ほぼ全ての国民はその答えを信じない。なぜなら自分の人生経験と真逆に位置するものだからだ。人生経験で得た答えは、その人にとっては絶対だ。揺るがない真実だからね。私の言葉が誰にも通じないのは、それが理由だ。

日本は家族主義国家だ。家出や失踪をして家族から離れるということは……、一党独裁国家や軍事独裁国家に例えると、党や軍から離れるということを意味する。すなわち、それは抹殺の標的になるということだ。持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)が、社会での競争に勝ち抜けるだけのモノだったら、この家族主義国家日本でも、最後まで独りで生きられたし、人生を開拓できたかもしれない……。無念だよ。私は無能な人間だから社会から抹殺された。そこには離れたものでしかわからない残酷がある。生きるために離れるという選択をせざるを得なかったのに、その先は孤独という暗闇しかなかった。そこは、全てのセーフティネットをすり抜けた人間だけが、たどり着く場所だった。その場所では選択肢が二つしかなかった。

自殺か、殺人だ。

私は、おそらく、その両方を選択する。

幸せという言葉なんて、どこにも存在しなかった。耐え難い不公平を是正するのには、殺人以外に方法は無い。命を絶つのは、そのあとだ。

私は残酷な運命に屈した。

「本当の孤独」が全てを奪っていった。

今となっては、このモデルの並みの美貌とグラマーな体も、儚く散った夢の残骸でしかない。

言いたいことは山ほどあるけど……、これ以上を語るのはやめておこう。

最後に願い事を一つ……。

「魔幻の紙縒り」って書いてあるから(笑)

私は人生の可能性を探り続けた。私に何ができるのか?と……。残念ながら、持って生まれた才能は変えられない。「何ができる?何ができる?」と呪文のように自問自答しながら、いろんな場所に飛び込んだ。その過程でいろんな選択をした。その選択の結果が今の私の立ち位置になるのだが……。もし、違う選択をした場合、その結果はどうなっていたのだろう。「魔幻の紙縒り」の説明書は何度も何度も読んだ。子供だましのおもちゃにしては、まともな事が書いてあるから驚いたよ。パラレルの世界って……、なるほどなって思った。

人生には無限の可能性があった。たとえ、才能や環境といった縛りを差し引いてもね。次の瞬間に何をするか?なんて選択肢は、ほぼ無限にある。選択した先には、次の選択肢が待っていて、それも、ほぼ無限にある。生きている限り、それが、瞬間、瞬間、という単位で自分に降りかかってくる。選択肢はほぼ無限にあるから何を選ぶかで、種類が異なる次の分岐点が生まれる。もし、何かを選んだ場合と選ばなかった場合で、それぞれが異なる世界を形成して、それが並行世界として存在していたら、無数の自分の中に理想の自分がいたのかもしれない。そういう世界があるのなら、私がこうなったのは運命ではなく、選択ミスをした結果なのだと立証できる。それはどんな自分なのだろう。その人は、私とは違う選択を繰り返して、今、そこにいる。今の私から見て、最良の選択を重ねた結果はどうなのか……、私はそれを見てみたい。可能なら、そこに行ってみたい。それが私の願い……。

おばあちゃんにも見せてあげたい。理想の自分がどんな姿なのかを……。

もう、随分と昔の記憶になるけど、おばあちゃんと過ごした時間……、楽しかったな。ありがとう。本当にありがとう。今度生まれてくるときは、恋愛ができる人間に生まれたい。幸せになれる人間に生まれたい。

さようなら。


涼しい風が吹いている。

夜が近づいてきた。

波の音は、絶えることなく聞こえていた。

夕日は、海を真っ赤に染めていた。

穏やかな風は、ここの血生臭い空気をさらっていく。

辺りは、さっきと違って慌ただしくなっていた。たくさんの警察官と報道記者がいた。

今頃、テレビやネットを通じて、この小さな田舎町で起こった猟奇殺人事件の現実が、世界中に配信されているのだろう。

付近の住民の姿も見える。涙を流している人もいた。

この事件は、日本犯罪以上、最も凶悪なものだった。

笹の葉が大きく揺れている。園児の書いた七夕の短冊は躍動感を増していた。なぜなら、間もなく夜が来るからだ。

今夜、もし、晴れていたら願いが叶うのだろう。どんな夜がくるのだろうか……。

日が暮れる。

今のところ、雨が降る気配はない。

オレンジ色の太陽と、夕日に染まる海の色は、類似色でありながらも、見事なまでのコントラストを描いていた。

 



数時間が経過した。

辺り一帯は真っ暗だ。

月の光が薄っすらと大地にかかる程度……。

夜の世界は静寂につつまれていた。

まだ、遺体は置かれたままのようだ。

時折、少し強めの風が吹いたりもしている。

そんな大地の息吹に嫌悪感をもって、ふと空を見上げると、一羽の白鶴が空を舞っていた。白銀色の光を放ちながら……。その視線は、銃の暴発で亡くなったあの女性の死体に向けられていた。まるで飼い主を失った犬が、その遺体を舐めて愛情を示すように、何かこの死体に未練があるかのように飛んでいる。

しばらくの間、その上空を何度も何度も旋回したあと、海の彼方へと羽ばたいていった。その後ろ姿はとても力強く、美しく、なぜか言葉にできないほどの妖しさを兼ねそろえていた。


どこに向かっているのだろう?


空には、いつも見えないはずの星たちが、たくさん輝いている。

敷き詰められた星たちを大地から眺めていると、まるで空に川が流れているかのようだ。そう、これが織姫様と彦星様を引き離した、あの天の川だ。

光り輝きながら飛んでいる白鶴の軌道は、そんな星々の流れに、大きな橋をかけているかのように、私には見えた。























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