魔幻の紙縒り 6

1ヶ月前、女性はそこに居た。

ここは中部地方の玄関口、名古屋である。その場所は、名古屋市よりも少し東側にある郊外の住宅地だ。その一角に、女性にとって思い入れの深い場所があった。

この辺りの土地は、1960年代から70年代に掛けて、住宅地として開発された。辺り一帯は綺麗に区画整理されており、当時の新居の定番である瓦屋根の二階建て住宅が軒を連ねている。

網の目のように区画整理された住宅地の一角に小さな広場があった。面積は20平方メートルくらいだろうか?名称は、星の広場……。地図に記載されているわけではない。ここの町内会と広場の所有者が、手作りのプレートを制作して入口に掲げているだけだ。周りが住宅で囲まれているため、近くに住む子供たちのちょっとした遊び場になっていた。こんなちっぽけな広場にもかかわらず、遊具があった。滑り台と子供用のブランコだ。それに、砂場も設けられている。どれもかなりの年季が入っていた。

この場所は、かつて幼稚園の園庭として使用されていた土地の一部だという。少子化の影響で幼稚園自体は、15年以上も前に無くなっている。だが、そのとき使用されていた遊具の一部が、今も現存していた。滑り台は、黄色いペンキで綺麗にコーティングされているがムラが目立つ。おそらく廃園になったあと、近くの住民によって上塗りされたのだろう。もう一方のブランコは、鉄の部分が完全に錆びついている。幼稚園が無くなって以来、何の手入れも施されてはいないのだろう。そんな遊具たちに、今日も穏やかな光が照りつけている。


「お母さん、早く早く。」


広場の入口から3歳くらいの女の子が入ってきた。遊具に向かって小走りで駆けていく。

この広場、空から見ると全体が正方形の形をしている。東側と南側は道路に面しており、公園との境には高さ2メートルのメッシュフェンスが張られている。北側と西側は高さ3メートルほどの土手があり、その上には住宅が建っている。入口は、東側の真ん中に一カ所あるだけだ。広場の四隅には6メートルほどの背丈がある立派な木が植えられており、深緑に生い茂る葉っぱたちが、区画整理された住宅地の中では癒し的存在になっている。広場内には、南西の隅に滑り台がある。南東の隅には子供用のブランコがある。滑り台とブランコの間にはフェンス沿いに小さな砂場が設置されている。


「お母さん!」


女の子が大きな声で呼んだ。滑り台を前にして母が来るのを待っている。一緒に滑りたいみたいだ。

少し遅れて、母がこの広場の中に入ってきた。

女の子は母の姿を見た瞬間、安心したのか、滑り台の階段を一気に上り始めた。単純な行為であるが、一生懸命だ。

母は滑り台の降り口に到着すると、早速、笑顔を作って待ち構えた。上りきった女の子はこれから滑るワクワク感で自然と笑みがこぼれている。


「おいで。」


母が言った。

太陽の日差しを浴びて、少し温まった滑り台を、女の子はスーッと滑り下りた。楽しそうだ。


「もう一回、もう一回。」


無邪気な声が辺りに響いた。

新緑の香りに包まれた初夏の昼下がりにおいて、何となく癒される光景だった。

今年も、もうすぐ七夕がやってくる。この女の子も神様に願い事を託すのだろうか?

その昔、この場所が幼稚園であった頃、七夕の日に願い事をした園児たちは、すでに大人になっている。それぞれがそれぞれの道を歩んでいる。20代、30代、40代、50代になっているだろう。また、その人たちが園児だった頃にいろいろなことを教えていた若い先生は、すでに人生の重みを肌で痛感する年齢に達している。当時の経営者だった園長先生が生きていれば、もう100歳くらいになっている。時が過ぎるのは、あっという間だ。昔、自分が居た場所を久しぶりに訪れると、そのスピードを痛感してしまう。


「もう一回、もう一回……。」


女の子の声は途切れることなく続いていた。


「星の……、広場……。」


広場の入口に一人の女性が現れた。小声で何かを言ったようだ。視線の先には、親子の仲むつまじい光景が映っていた。10秒程度、この光景を見つめたあと、広場内に足を踏み入れた。

この女性、見た目の年齢は30歳くらいで、グラマーな体型で肌は色白、それにかなりの美人だ。茶色に落としたサラサラの長い髪が、辺りにジャスミンの香りを撒き散らしている。ただ、全体的に躍動感がない。それに目が死んでいる。何か木箱のようなものを手にしていた。

女性の雰囲気は、辺りの光景と釣り合いが取れていなかった。佇みに来たのだろうか?

女性は子供用のブランコに腰を下ろした。


「お母さんも一緒に滑ろっ!」


「うん。いいよ。」


滑り台での親子の戯れが聞こえてくる。

ブランコに腰掛けた女性にとっては、この二人の姿はどうでも良いようだ。ほとんど関心を示していない。

手に持っていた木箱を膝の上に置き、目を上下左右に動かしている。住宅、道路、木々、滑り台、砂場と、ゆっくりとした動作で辺りを見渡している。時折、足で地面の砂を突っついてみたり、握ったブランコの鎖を見つめたりもしている。とても感慨深げな表情だ。


あれから何年が経過したのだろう。この辺りの町並みは、金沢とそんなに変わらないかもしれない。昔もこんな感じだったかな?あのとき腰掛けるだけでも精一杯だったこのブランコも、もうこんなに小さいなんて……。


女性は少しだけブランコを揺らしてみた。心地よさと同時に虚しさが襲ってくる。


あのとき、今の自分を想像できただろうか?ハッキリは見えないけど、何となく、心の中に潜む暗い影として、今の自分は存在していたような気がする。でも、未来は無限に広がっていて、いつかなるようになるものだという楽観的な期待の方が大きかったかも……。友人を作ったり、恋人を作ったり、結婚をして子供が生まれる……、そんなのは、年齢を重ねていけば必然的にやってくるものだと思っていた。まさか、命を懸けても手に入れられないものだとは思わなかった。無限に広がっていたのは暗い影だけだった。それは私の生きた全ての領域を覆いつくしていた。私が自暴自棄に陥っても、誰も相手にはしない。まるで、隔離が初めから用意されていたかのよう……。自暴自棄もピンからキリまでいろいろあるけど、私は最悪だろう。時間の流れとともに、幸せと成長を手に入れた同年代を尻目に、私は取り残されてしまった。これが私を覆いつくした世界……。どこをどう探しても、あっちの世界へ行ける扉など無い。無念だよ。たった一度でいいから、心の底から思い切り笑ってみたかった。


女の子は滑り台から砂場へと興味を移していった。早速、楽しそうに砂をいじっている。

母親は傍らに立って見守っていた。

表面の砂はサラサラであるために、少し走っただけで靴の中に入ってしまう。おそらく履いている靴下は砂まみれになっているのだろう。踏み込むたびに、小さな足が砂に埋まる。


私にはあの時間は無かった。家族愛とは何か?私にはわからない。いろんな荷物を背負わされた。その荷物は私の心臓と連結されていて、荷物を捨てたら、私も死ななくてはならない。私のような自殺実行者にはそれがわかる。当時、虐待は躾、いじめは子供同士のやんちゃな遊び、そういう概念しかなかった。育児放棄に至っては、言葉も概念も何も存在していない。振り返れば、とんでもない時代だった。あれを古き良き時代と言っている同年代が信じられない。時代は流れたが、私の立ち位置は変わっていない。相変わらず、私の居る場所って、時代が追いついてこない。死期って、わかるもんだね、予感ではなく確信として……。故郷という言葉は私には存在しない。だけど、今、そこにいる。なぜ居るのか?ちょっとわからないね。望郷でないことは確か……。この町に来るのは学生時代以来……。町の景色も随分と変わった気がする。同世代が結婚をして土地を買って家を建てているからね。空き地が無くなっている。なんか、私はよそ者・お尋ね者……、そんな気分。どうしてここに来たのだろう。宇宙、存在、幻想、神秘、時間、数学、宗教、瞑想、自然、心理……、いろんな概念が私をここに導いた気がする。あの砂場……。遠い日の私が見える。それにしても、あの子は楽しそうだ。お母さんが傍らに居るからなんだろう。あの場所であんなに楽しそうに笑っていられるなんて……。




「ミホリちゃん。ミホリちゃん。」


声が聞こえた。みんながいた。幼稚園がそこにあった。


「ミホリちゃん、今日もお山を作っているのかな?」


先生が言った。


「うん。」


ミホリは質問に対して首を縦に振った。

先生の言葉なんかどうでもいい。聞かれたら合わせるように答えているだけだ。ただ、先生が嫌いなわけではない。自分一人の先生であってほしいというミホリの独占願望に対して、先生は誰に対しても平等に接している。そこが気に入らないのだ。

お山を作るとき、いつ先生が来てくれるのかを期待している。先生は園庭で他の園児と遊んでいるときもあれば、教室で遊んでいるときもある。仕事の義務感からなのかどうかはわからないが、全員と平等に接しているため、ミホリの前に現れるのは週に一回か二回である。友達ができず、泣いてばかりいて、時には酷いいじめを受けるミホリから見て先生という存在は、それらの苦しみから守ってくれる唯一の盾なのだ。

ミホリは知っている。こんなクズみたいな自分に、先生が好んで接してくれているわけではないということを……。それが本当かどうか、図ったりもしている。そんなミホリの繊細な心は、先生のちょっとした仕草や態度で大きな傷を負ってしまう。こうやって相手をしてくれているとき、先生が真剣に向き合ってくれていないことがよくわかる。ただ、先生がいることで、その間だけはみんなからいじめられることもなく、馬鹿にされることもなく、安心感がもてるということは、とても心強いものだった。


「先生、楽しい?」


ミホリが言った。

砂の山を挟んで向かい合う先生は、明るい笑顔でこれに答えた。


「うん。楽しいよ。ミホリちゃんは楽しくないのかな?」


ミホリは俯いて黙り込んだ。とても寂しそうな表情だ。それでも小さな手の動きは止まることなく、お山作りは続いていた。

表面には出していないが、実は、みんなの視線が気になって仕方がない。きっと、こう思っているに違いない。どうして先生はあんな奴の相手をしているのだろうと……。こういったみんなの純粋な疑問は、突き刺すような視線となってミホリを苦しめていた。


「先生はみんなと遊ばないの?」


ミホリが言った。


「ううん。遊んでいるよ。」


「今日は遊ばないの?」


「今日?今日はミホリちゃんと一緒にお山作りをするの。」


先生には、ミホリの複雑な気持ちはわからなかった。先生と一緒にいることでミホリ自身は守られるが、他の園児からは、よりいっそうの反感を買ってしまう。先生が去ったあと、いつも以上の地獄が待っている。それがとても気がかりだった。

たまに一緒に居る所を目撃されていたケントとの関係が断絶してからは、地獄の日々が続いていた。

晴れの日は、砂場で独りぼっち……。夢中になって、お山を作る。一生懸命作ったお山は完成目前で他の園児によって破壊されてしまう。それも、目の前で見せつけるように……。お山は、たくさんの園児たちによって蹴られたり踏み潰されたりして跡形もなく消える。

雨の日はもっと酷い。教室で男の子たちにスカートを捲られてパンツの色を確認される。それが起点となって口頭による暴力が始まる。また、あるときは、一人の男の子がミホリの体に触れることで鬼ごっこが始まる。鬼は、最初にミホリの体に触れることで黴菌を自らが預かった、という意思表示をする。次に、黴菌に汚染された自分の体が他人に触れることで菌を移していく。菌はいろいろな人を渡り歩き、その間、当事者である男の子たちは笑いに満ち溢れている。また、あるときは下駄箱に入れてあるはずの靴がなくなっている。これも一連のいじめの一つではあるが、かなり陰湿なものだった。発見されるのはいつも園庭の真ん中だ。雨の日は靴の中に水が溜まり、ズブ濡れになっている。クラスのみんなは、ミホリがこれを発見して雨に打たれながら取りに行く姿を楽しそうに見ていた。

逃げ場所なんかどこにもなかった。

トイレの個室に入ると全ての視線から遮断されて少しだけ安心感を覚える。しかし、次の瞬間、悪魔の視線がミホリの放尿シーンをとらえる。便器が設置されているこの一平方メートルくらいの空間は上部が吹き抜けになっているため、完全な密閉空間にはなっていない。そのため、男の子たちは、掃除道具入れに立て掛けてある脚立を攀じ登り、上から覗きをしていたのだ。放尿中は身動きが取れず、どうすることもできなかった。

先生に言うと、その仕返しが必ず待っているので怖くて言えない。だから、我慢するしかなかった。涙は、いくら流しても足りなかった。


「先生、あとは一人でやる。」


ミホリが言った。お山作りは、もう少しで完成する。


「あら、どうして?」


「あとは私にしかできない。」


ミホリは必死になって先生を突き放そうとした。先生も完成目前ということで、最後のトンネル作りは一人でやりたいんだなと思い込んだ。みんなの視線が突き刺さる。先生はミホリに気を使ったのか、それとも上手くあやすことができないことで間を置きたかったのか、その判断理由はよくわからないが、一旦、その場を離れることにした。


「ミホリちゃん。先生は教室に戻るけど、トンネルが完成したら絶対に教えてね。トンネルの中で手を繋ごうね。一緒に作ったんだもん。」


溢れんばかりの笑顔を見せて、先生はミホリから離れていった。

先生の後ろ姿が小さくなる。盾を失ったことで、みんなの視線が激しく突き刺さった。

ミホリは目の前のお山を見て、気持ちを入れ直した。

守ってくれる人がいなくなったこの空間は、飢えた狼たちの恰好の的となった。

周りのことは気にせず、小さな手でトンネルを掘り始めた。崩れないように慎重に掘り進めていく。トンネルを掘り始める手先以外は、常に太陽の光がミホリの全身を捉えていた。

今日は、雲一つなく、晴れ渡っている。園庭内の遊具の影が、くっきりと浮かびあがっている。気温は暑くもなく寒くもない。適温である。人間を含む動物たちは、この太陽の光を浴びることに心地よさを感じているはずだ。室内や木陰から思わずその身を光の中にさらけ出す。


ワン、ワン!


犬が吠えた。少し攻撃的で、威圧感があった。

幼稚園の入口に、一匹の子犬が姿を現した。

そこから園庭の真ん中に向かって、ゆっくりと歩いてきた。

体の大きさはバスケットボール二つ分くらいだ。園児たちからすれば、かなり大きなサイズだ。


「わあ、犬だ、犬だ。」


みんなが一斉に騒ぎ出した。

別に、犬を見ることは珍しいことではない。犬や猫は、度々、この園庭に入ってくるし、恐ろしい動物であるという先入観もない。全員がフレンドリーに接している。

ただ、園児たちから見たフレンドリーな接し方とは、頭をなでなでしたり、抱き上げたりすることではない。小石を犬の体にぶつけることによって興奮させ、逃げ出す犬を追っかけたり、また、向かってくる犬に追い回されたりして楽しみを得ている。

犬は園児たちに囲まれると、突然、元気よく走り出した。向かってくるタイプの犬だったので、園児たちは楽しそうに逃げだした。

ミホリの目にも、この光景は映っていた。

逃げ回る園児たちの何人かは、この砂場にも足を踏み入れている。すぐ目の前を走り去っていくものもいる。

ミホリは思った。


怖いよ。怖くてたまらない。


臆病なミホリにとって犬は熊と同じである。

犬は大きな声で吠えている。全身をよく見ると、ゴミを漁っていたのか、あちらこちらに生ゴミと見られる残骸が付着していた。飼い犬ではなく野犬だ。悪臭も強烈だった。

お山の前で動けないミホリは、犬がこちらに来ないことを祈るのみだった。

ミホリは、トンネルを山の真ん中まで掘り進めた所で作業を止めた。今度は逆側に回り、再び、ゼロから掘り始めた。

犬の声が背中から聞こえた。園庭の中央で、はしゃいでいるみんなの声も……。

幼稚園に隣接する道路の脇には、いつも園児たちを優しい眼差しで見つめる老婆の姿があった。


「崩れないように繋げるの。」


ミホリは独り言を呟いた。

慎重にトンネルを掘り進める。すでに、両手両膝は砂まみれだ。砂場の表面にある砂はサラサラだが、深く掘り下げた砂は湿っているので、上手く使い分けて作業を進めることができた。

老婆は他の園児よりも、ミホリの作業を見守っているようだ。

しばらくして、トンネル工事は終盤に差しかかった。もう少しで貫通するという多大な期待感が、みんなからの視線と犬への恐怖心を頭の片隅へと追いやった。

ずっと同じ動作を繰り返しているうちに、その瞬間はやってきた。

常に指先から感じていた砂の感触が急になくなったのだ。貫通である。

ミホリは地べたに顔をつけて、これを目で確認した。狭いトンネルの向こう側から光が見えた。期待が達成感に変わった。


「繋がった。先生!」


思わず声が出た。

ミホリは途中までこのトンネル作りを手伝ってくれた先生に、真っ先に報告したかった。しかし、内に秘めた向上心が、さらなる高い完成度を目指したのである。ただ繋がっただけでは、さほど先生を驚かすことはできない。内装を整えて驚嘆してもらい、たくさん褒めてもらおうと思ったのだ。

ミホリが練った計画は、ゴツゴツしたトンネル内部の壁を滑らかなカーブにして、内部全体を円筒の形に整えることだった。

早速、取り掛かった。作業のために砂場と水飲み場を何度も往復する。

砂を湿らせることで壁を固めていき、その作業の中で綺麗な曲線を作り上げていく。山の大きさと形状、トンネルの長さと内装、全てがミホリの中で満足できるものに仕上がっていった。

あとは、この喜びを分かちあってくれる先生を呼んでくるだけとなった。

地べたに顔を近づけて、綺麗に整ったトンネルの内装を、再度、確認した。小さな可愛らしいほっぺたから、その満足気な表情が見て取れた。

地面から頭を上げる動作の途中、目がこのお山の頂の高さに差し掛かった、その次の瞬間だった。


ザッ!


重い音がした。

息が詰まって胸に痛みが走った。

一瞬の出来事だった。

なんと犬から逃げ惑う男の子の一人が、お山を頂上から踏み潰してしまったのだ。

男の子は満面に笑みを浮かべて砂場を駆け抜けて行った。視線は犬に向けられている。

どうやら意図的に踏んづけたのではなく、たまたま逃げていたらそこにお山があったということなのだろう。

頂上から踏み潰されたお山には、足跡がくっきりと残っていた。

ミホリは呆然となった。

当然、幼いミホリには偶発的に踏み潰されたなどという状況判断はできなかった。いつもと同じ、卑劣ないじめ行為だと思った。砂場を笑顔で駆け抜けていった男の子の残像が頭に浮かび、自分のいる世界との違いを痛切に感じた。


今日は先生と……。


私はなぜいじめられるのか、という疑問や、非力な自分に対する嫌悪感、また、一緒に作ってくれた先生に対しての言いようのない罪悪感で心が重く絡まり始めた。

いつものように目が潤んできた。

ミホリは砂場に刻まれた男の子の足跡をボーッと眺めていた。すると、再び、犬が近くを駆け抜けていった。


「あっ!」


思わず声が出た。

また、新しい足跡がお山に刻まれたのだ。今度は二人、三人……と、続々となだれ込んでくる。

ミホリは、知らず知らずのうちに、涙を流していた。

かすかに残ったトンネル入口付近の形状も、度重なる襲撃に、跡形もなく崩壊した。


グルルルゥ、ワンワン!


園庭を走り回る犬は、とても好奇心旺盛で元気が良かった。逃げ回る男の子たちも、同様に元気だ。


「今日は絶対に、絶対に、お山を褒めてもらうんだ。壊しちゃいけないんだ。」


ミホリは自分に言い聞かせるように言った。

犬と男の子たちを目で追いながら、決意を固めた。

いつもならこのまま教室へ逃げ帰り、自分の机ですすり泣きをするのだが、今日は違うみたいだ。

ミホリは、再び、崩壊したばかりのお山に視線を移した。湧き上がる使命感が逃げることを許さなかった。芽生え始めた勇気に加え、大きな抵抗力が備わった感じだ。

ミホリはお山の残骸を取り除き、再度、ゼロから作業を開始した。もう一度、土台作りからの作業だ。さっき刻まれた足跡は、ミホリの強い意志の前にかき消された。

隣接する道路からは、砂場の様子を見つめる老婆の姿が見える。

ミホリは、ふと視線を上げた。老婆はこちらを見ていた。何か妙な距離感だった。老婆は、それをかき消すかのようにミホリに向かって手を振った。穏やかな笑顔だ。 

ミホリは咄嗟に潤んだ目を手で拭った。砂まみれの小さな手が、とても痛々しかった。

言葉ではなく笑顔で語りかけてくる老婆に対して、気弱なミホリも、これに軽く手を振って答えた。

園児たちを見つめる老婆の眼差しの奥には、いったい何があるのだろう。生き抜いてきた長い人生、終わってみれば短い人生、死という終着点を目前にして幼き日々を思い起こしているのだろうか……。それとも、新しい時代を生き抜いていく園児たちを、多大な人生経験から得た包容力で優しく見守っているだけなのだろうか……。

いずれにしても幼稚園にとっては、老婆は園外の観客でしかない。ただ、ミホリにとっては、お山作りをするための心の支えとして、今、最も近い存在になっていた。

ミホリは、先程の山よりも直径の大きい土台を作り始めた。その上に、次から次へと砂を載せていく。すると、みるみるうちに土台が出来上がっていった。


ワンワン!


犬が吠える度に、たくさんの笑い声が響き渡った。

園内には犬と戯れる園児の他にも様々な動きが存在している。遊具で遊ぶ子、鬼ごっこやかくれんぼをする子、園庭の隅で静かに過ごしている子、水飲み場で水を掛け合っている子、園舎の中で話をしている子、それぞれが自分に合った過ごし方をしている。この中には、あの二人の姿もあった。

太陽の光は園庭と同じように、園舎の窓にも力強く降り注いでいる。園庭の北側にある園舎は、3メートルの土手の上に建っているため、教室の窓から園庭を一望できた。

窓からその身を乗り出して園庭を見下ろす二人の姿があった。人生の勝ち組が負け組を見下ろすかのように、他の園児たちを眺めていた。二人とも、上半身にありったけの光を浴びていた。小さな手と手を繋ぎ合わせて、自然に湧き出る笑顔がそこにあった。


ケント君……。


ミホリは生きている世界が違うんだ、と自分に言い聞かせてはみたものの、なぜ私は好かれる存在ではないのか、なぜ私だけがいじめられるのか、という疑問の噴出が止まることはなかった。二人の姿を見るたびに、苦しみが深まっていった。

初めての集団生活で味わった競争社会の現実と、そこで体験した敗北の苦しみ、その二つが、自分の居場所を川の流れが緩やかな砂場に導いたのかもしれない。

老婆に見守られながら大きなお山が出来上がっていく。先程よりも大きいので、トンネルを掘るときに崩壊しないよう、斜面を手で叩きながら固めていった。

ミホリが作る山の形は、中国の黄河流域に聳える曲線が不揃いのものや、マッターホルンのようなそそり立つものとは違う。富士山のように、頂上から麓までの形状が滑らかで美しく、優雅で壮大なスケールのものだ。砂で作りやすいと言ってしまえばそれまでだが、ミホリの頭の中には、まだ多種多様な山の形は存在していなかった。


ワンワン!


近くで犬が吠えている。いつの間にか、砂場のすぐ横に来ていた。

お山の方をジッと見つめながら座っている。

ミホリは一瞬だけ犬の方に目をやるが、特に気にすることなく作業を続けていた。

犬が近くに居ることで、みんなの視線が砂場に集まってしまう。

好奇心旺盛な園児たちは静止している犬には当然のごとく物足りなさを感じ、小石をぶつけようと攻撃態勢に入っていた。

園児たちを見つめる老婆の眼差しに変化はなかった。いつも安らぎに満ちている。

ミホリは斜面を固める作業を終了させて、トンネル掘りを始めようとしていた。作業は急ピッチで進んでいく。

その時だった。

砂場に、犬の足跡が一つ一つ、ゆっくりと刻まれていった。なんと、犬が入ってきたのだ。

ミホリのすぐ横までやってきた。


「あっち行って!」


ミホリは思わず声が出た。

付着した生ゴミから漂う悪臭は強烈だ。

ミホリは目の前の犬と、みんなから浴びせられる数々の視線に、急に恐怖を感じるようになった。


早く、どこかに行って!


心の中で叫んでも犬には届かない。犬はミホリを見つめたまま全く動かない。

ミホリは恐怖に加え、羞恥心も発生して、全身が震えてきた。もはや、トンネル掘りどころではない。

ミホリは、しゃがんだ状態のまま、視線を空に向けて神に祈った。

犬の息づかいが間近で聞こえた。この呼吸のリズムは獲物に襲いかかる直前にしか起こらないものではないか、とミホリは思った。


食べられるよ!


ミホリの頭に浮かんだのは、犬に食い殺され、自分の死体が犬の胃に放り込まれていく姿だった。恐怖のどん底だ。

ミホリは地面を見ながらジッと蹲った。貝のように全身防御態勢になった。

しかし、一瞬芽生えた好奇心が、この状態の中で顔を上げるという行動を取らせたのだ。

そこに映ったのは、今にも襲ってきそうな犬の背後から、とんでもない行動を取ろうとしている園児たちの姿だった。それは信じられない光景だった。


「死ね!」


石が飛んできた。直径3センチほどの少し大きめの石だ。どこで見つけてきたのかはわからないが、当たれば大怪我に繋がりかねない。

標的は犬だけのはずだが、ミホリもろとも、その対象になっていた。

犬は、石が砂場に着弾する一瞬前に、突然、勢いよく駆け出した。五感を研ぎ澄ませて危険を察知したのだろう。猛然と園外へと駆けていく。園児たちの視線も、釣られるようにそちらの方に向けられ、手にしている石を次々と投げつけていった。

砂場にいるミホリは、恐怖に駆られながらも、この光景を目で追っていた。

犬は勢いよく幼稚園から飛び出し、住宅群の中へと消えていった。

ミホリは、この後ろ姿を確認すると、ようやく恐怖から解放された気がした。

ざわめきが消えて、辺りは静寂につつまれた。

男の子たちは道路まで飛び出し、犬の行方を気にしていた。

一瞬、静寂の中、幸せいっぱいの笑い声が園内に響き渡った。ミホリはこの声がケントとユキのものだと知りながらも、あえてその場所を見ようとはしなかった。

ミホリは中断した最後の大作業であるトンネル掘りに着手しようとした。


邪魔されないうちに作ってしまおう。先生に見てもらうの。


早速、麓の砂を取り除く作業に取りかかった。

両手で砂をかきだし、どこに捨てようかと砂場全体を見渡したとき、視界に何かを捉えた。

嫌悪感と同時にあるものが目に飛び込んできたのだ。

できたてホヤホヤの犬の大便が、すぐ隣にあった。

トンネル掘りには直接関係がないにせよ、近くにこんなものがあると、あまり良い気分にはならない。


あの汚い犬のうんち。見ないようにしよ。


ミホリは作業に集中することにした。照りつける太陽が背中に降りそそぐ。

園庭の真ん中では、再び、園児たちの笑い声が飛び交い始めた。

犬が去ったあと、今度は、男の子同士で小石のぶつけ合いをしていた。やられたらやり返す。

それを楽しそうにやっていたのだ。

こういう遊びを大人数でやるときは、大概は、力関係の劣る一人が集中攻撃を受けるものである。現に、男の子の一人が集中的に攻撃を受けている。

彼はさすがにどうすることもできないとわかったようで、攻撃をあきらめて逃げ回り始めた。


「逃げるな!」


集団のリーダー的存在が声を上げた。

逃げ回る彼に対して、四方八方から小石の雨を降らせている。逃げ慣れているのかはわからないが小石はなかなか命中せず、攻撃を受けているはずの彼も、結構、楽しそうに走っていた。

そんな動の世界とミホリのいる静の世界が一つのエリアで共存している。

ミホリはトンネルを半分まで掘り進めた。右肩から指の先まで、もう砂だらけだ。先程よりスケールが大きいだけに、俄然、やる気が出ていた。

そんなミホリの姿を園舎の窓からあの二人が眺めていた。


「フフフッ。そうなんだ。でも、どんなケント君でも大好きだよ。」


ユキの声が聞こえた。

この二人は視線を園庭に向けているだけで、会話の内容は目で捉えた情報とは違うようだ。

ざわめきとざわめきの間にできる静寂の瞬間に、この二人の声は飛び込んでくる。いろいろな声が飛び交う中で、ミホリにはなぜかこの二人の声だけが聞こえてくるように思えた。

トンネルは半分まで開通した。

ミホリは反対側に回り、未開通分のトンネルを麓から掘り始めた。

園庭の真ん中では、相変わらず男の子たちによる石のぶつけ合いが続いていた。


「ハハハハハハハッ。」


あの二人の笑い声だ。物理的ではなく、精神的な攻撃である。

心を抉り取られるような感覚は、ケントと釣り合わない自己嫌悪と、釣り合っているユキへの嫉妬が、同時に襲ってくる結果だろう。

ミホリは、漠然と二つの世界を感じ取っていた。光と影のように相対する二つの世界……。

例を上げるとキリがない。太陽と月、S極とN極、生と死、カオスとコスモス、幸福と不幸、Y軸とX軸……。世界、いや、宇宙、いや、もっと上位層レベルでの相違を感じていた。それが自分とみんなとの距離……。こっちの世界とあっちの世界……。それは、自分だけが、何か巨大な力によってそういう立ち位置を義務づけられたのではないか?という……、何か、神の指示によって強制された確信的な答えのような気がしてならなかった。


「痛っ!」


集中攻撃を受けている男の子に石が当たった。


「くそ、当たれ!」


この男の子も、闇雲に石を拾っては投げまくっているが、狙いを定めていないので当たらなかった。

遊びにおいて、園児のエネルギーは無限大である。石のぶつけ合いをしている彼らだけでなく、これはミホリにも言えることだろう。スタイルは違っても、このエネルギーに差はなかった。


できたあ!


トンネルがついに完成したようだ。ミホリは心の中で精一杯の喜びを表現した。

トンネル内部の円筒は、見事なまでに美しい曲線が表現されていた。

ミホリは立ち上がった。お山全体を上から見下ろしてみる。いつもより大きく、形の整った満足のいく出来栄えだった。

内面に溜め込んだこの喜びを爆発させるには一人では駄目だ。誰かに見てもらって、一緒に喜びを分かち合い、賛辞の言葉を浴びせてくれる人の存在が必要だ。


「先生、どこ?」


弾むような気持ちを、顔には出していなかった。しかし、体には溢れていた。

ミホリは無意識のうちに先生の笑顔を求めて駆け出した。


そのときだった!


一瞬、不穏な空気が辺りをよぎった。


「キャアウウッ。」


大きな衝突音とともに、思わず声が漏れた。

それは、人間の頭がい骨と頭がい骨が衝突したときに発生する不気味な重低音だった。

石のぶつけ合いで集中攻撃を受けていた男の子は、後ろに注意を取られながら走っていた。一方、ミホリは、完成したお山を、いち早く先生に見てもらいたかった。二人とも前が見えていなかった。

男の子の顔面とミホリの前頭部が激突したのだ。出合いがしらの衝突である。

一瞬、みんなの視線が砂場に集まった。

二人とも、ぶつかった個所を両手で押さえている。あまりの痛さに荒れた呼吸音しか出せない男の子と、何が起こったのかわからず、突然の激痛に困惑するミホリの姿があった。

徐々に痛みが湧いてきた。

ミホリは頭を押さえる自らの両腕の隙間から前を見た。そこには悶え苦しむ男の子がいた。


「ハハハハハハ。」


石を投じていた男の子たちが一斉に笑い出した。彼らにしてみれば面白い光景だったのだろう。


「まぬけな奴。」


「あいつ、ミホリとキスしたんじゃない?」


次々と罵声が浴びせられた。

ミホリは激痛で動けなかったが、それ以上に男の子のことが心配だった。男の子は顔を押さえて蹲っている。

ミホリはゆっくりと近づき、声をかけた。


「大丈夫?」


小さくて優しい言葉だった。

男の子は何も言わなかった。目の辺りが大きく腫れていることは自覚できているようだ。


「今、先生を呼んできてあげるから待っててね。」


ミホリは先生のもとへ向かおうとした。しかし、男の子は意外な行動に出た。


「えっ!」


ミホリは思わず声を上げた。

いきなり、男の子はミホリの腕をつかんで行動を制止させた。鋭い怒りの目をしていた。


「おい、あいつミホリの腕をつかんでるぞ。」


さらに、いろいろな罵声が飛んだ。


「うるさい!」


罵声に耐えられなくなったのか、男の子はつかんでいたミホリの腕を離すと、足元の砂をすくい、彼らに向かって投げつけた。

ミホリは喧嘩が始まるのではないかと、一瞬、ドキッとした。

投げつけた砂は彼らには届かず、空気抵抗と引力の壁の前に虚しく落ちていった。

だが、宣戦布告をしたことは彼らにも伝わっている。報復攻撃が始まると思いきや、彼らはその場に突っ立ったまま、小笑いを浮かべていた。喧嘩をする気はないみたいだ。

ミホリは感じ取った。

この男の子はいじめられていたわけではない。彼らと同じ世界に存在し、友達という枠の中で、少し立っている位置が違うだけなのだと……。普段は少し離れた位置に存在していて、一緒に笑ったり騒いだりするときは近づき、それが終わると、また元の位置に戻る。ただ、それだけ……。

最初から最後まで誰からも相手にされないミホリとは、全然違った。

ミホリは、この男の子に対して勝手に親近感を持っていたが、所詮、生きている世界が違うのだと、改めて痛感させられた。

男の子にしてみれば、ミホリの優しい言葉や仕草なんて、怒りを増幅させるだけのやるせない行為としか映っていなかった。好きな子に優しくしてもらいたい……、このような願望なら誰にでもある。しかし、好きではなく、まして、隔離された世界で生きている人間なんかには、相手にされたくない、関わってほしくない、隣に居てほしくもない。男の子の心理状態が不安定になってきた。

衝突時の激痛と、みんなからの罵声と、目の前のミホリの存在が、増幅した怒りを爆発に導いた。

少し間が空いたあと、この男の子の中で何かが弾けた。


「いやああああ!」


ミホリは悲鳴を上げた。

男の子はミホリの髪の毛を無造作につかむと、そのまま砂場に投げつけたのだ。

ミホリは体ごと吹っ飛ばされ、顔面から砂に埋もれた。砂が口に入り、反射的に振り返ったとき、惨めな自分への思いから感情が高ぶってきた。


「うっ、うっ、うっうあああああん。何するの?やめてよ。」


衝突では泣かなかったのに、暴力で涙がこぼれた。

男の子は容赦なかった。第二波、第三波と、物理的な攻撃が加えられた。横たわるミホリの背中や後頭部を、足の裏で何度も何度も踏みつけた。


「死ね、死ね!」


普通ここまでやると正義感がそれほど強くなくても、止めに入る人がいるものだが、ミホリに対するこのような行為は日常的になっており、この不秩序な状況に対して、それを不秩序だと受け止める園児はいなかった。

誰かが助けに入ることはなかった。

かつて、ミホリに対するいじめに防波堤の役割を果たしていた人物は、今では高台から事の成り行きを眺めるだけの傍観者になってしまっている。ケントからすれば、もはや、ミホリなんかどうでも良かった。ユキと一緒に居る時間に心地良さを感じていた。無意識のうちに感じる幸せと、この温かいぬくもりにずっと包まれていたいという思いで、頭の中は埋まっていた。それはユキも同様である。しかも、窓から見下ろす二人の視線に意味はなかった。ただ、視界に入っているというだけだった。そこに感情はなかった。

そんな視線とは対照的に、ミホリは地面を這うように歩く蟻の視線で周りを見渡していた。


誰か……、誰か……。


「死ね、死ね、死ね、死ね!」


男の子は、うつ伏せで横たわるミホリの頭部めがけて、砂を蹴り飛ばしている。


「ゴホッ、ゴホッ、ううう……。」


ミホリは思わず咳き込んだ。顔は、砂と涙でぐちゃぐちゃだった。

ふと、周りを見渡してみた。すると、そこには、自分に向けられたたくさんの冷たい視線があった。

ミホリはそれらの目を一瞬見ただけで、それぞれの心の中で感じていることを理解した。手を差し伸べてくれる人は誰もいない。この弱肉強食の世界で、憎しみや軽蔑、また、憐みの目でこっちを見ているだけだ。


「おばあちゃん。」


ミホリは咄嗟に老婆のいた方向に目をやった。しかし、そこに老婆の姿はなかった。知らぬ間にいなくなっていたのだ。


「先生……、先生……。」


今度は先生に助けを求めた。

ミホリは、この騒ぎに気付いて先生が駆けつけてくれるのではないかと期待した。だが、先生が姿を見せる気配はなかった。

しばらくすると、男の子の周りに、先程まで石のぶつけ合いをしていた仲間たちが集まってきた。

男の子は彼らに見せつけるように、ミホリの全身を蹴り飛ばしていた。どうだ、僕はこんなに強いんだぞ、僕が怒るとこんなに怖いんだぞ、と言わんばかりに攻撃を加えている。

ミホリはいつも暴力を振るわれるが、これほどまでに身体への物理的攻撃が加えられたのは、今日が初めてだ。


「ううっ。痛い、痛いよ。」


泣きながら絞り出すミホリの声が聞こえた。


「誰か……、誰か……。」


ミホリは助けを求めているが、誰も止めに入ろうとはしない。

ここで正義の味方づらをして、助けに入って、自分が標的にされたらあまりにも馬鹿らしいからである。

ミホリは神に縋るような思いで痛みに耐えた。しかし、神は救いの手を差し伸べてはくれない。ここにあるのは、園児にもかかわらず、算数や英語の問題を矢のように浴びせられ、何の躾も施されずに集団生活にぶち込まれて、いじめの対象となった儚い現実だけである。


「お願い、やめてよ。」


ミホリは泣きながら声を出した。


「バーカ!」


男の子は、足でミホリの後頭部に砂をかけた。そのあと、今度はその後頭部を踏みつけた。

ミホリの顔面が砂に埋まった。

このとき、ミホリは込み上げてくる感情を抑えることができなかった。呼吸ができない苦しみから反射的に頭を上げたとき、その泣き声は園内全体に響き渡った。


「うわああああん。」


ミホリは暴れたため、今度は仰向けの状態で大の字になった。


「静かにしろよ、先生に聞こえるだろ。」


男の子は、自分の足先をミホリの口の中に入れた。

ミホリは顔を上下左右に動かして嫌がっている。暴れているため口を完全に塞ぐことができず、泣き声は、依然、大きく響き渡っている。


「うわああん。嫌だ、やめて!」


「静かにしろ。このションベンたれが……。」


男の子は、更なる攻撃に出た。なんと、もう一方の足で顔面を蹴り出した。

ミホリはショックからか、泣き声を含めて声が出なくなってしまった。

そして、次の瞬間……。


「こんなもん作りやがって。」


男の子の視線が、ミホリからお山に移った瞬間だった。


あの、お山が……。


精一杯、気持ちを込めて作った、あの、お山が……。


最後の最後まで自分の意思を貫き通して作った、あの、お山が……。


一瞬だった。


本当に、一瞬だった。


頂上から踏みつけられ、あっけなく破壊されたのだ。

ミホリは驚嘆で目が大きくなり、そこで止まった。目に焼きついた光景は、心に強烈な衝撃を与えた。

何かが弾けたように、深淵に眠っていたドス黒いものが蠢き始めた。決して目覚めてはいけないものが蠢き始めた。これは何だろうか?

神に転生するための何か絶対的な感じの……。いや、地獄の番人になるための、何か野蛮で狡猾的な感じの……。いや違う、これは悪魔と呼ばれるようになるための何か排他的で異質な感じの……。

蠢きは、少しずつその領域を広げていった。心の世界に何かが宿ってしまった。

ミホリはあまりの衝撃に、驚嘆の表情のまま、瞬き一つできなかった。

粉々に砕け散ったお山が目の前にある。

言葉にならなかった。全てを潰されてしまった。唯一、この幼稚園で存在できた場所、砂場で潰されてしまった。

ミホリは、徐々に視点が定まらなくなってきた。

何かを発しているようだが自分で自分の声が聞こえない。誰に何を問うているのかすら、わからなくなった。

蠢くものによる浸食は、破壊的に加速度を増していった。そして、あっという間に心の領域を覆いつくした。

そのとき、雰囲気が変わった。可愛らしい目が、突然、恐ろしく狡猾的な目になった。

ミホリは何かに取りつかれたように、スッと立ち上がった。

男の子を睨み付けた。


「私のお山を壊した。許さない!」


小さな声で冷淡な口調だった。

ミホリの急変ぶりに傍観者たちは怯んだ。あの弱々しいミホリが初めて立ち向かう姿勢を見せたからだ。しかも、何か雰囲気がおかしい。

ただ、男の子は動じることなく、勢いに任せて突っかかっていった。


「何だよ、その顔は?」


男の子はミホリの胸ぐらをつかんで言った。

ミホリはすぐに言い返した。


「お・ま・え・こ・そ・し・ね。」


脅しに全く怯むことなく、逆に冷淡な視線を突き刺した。もはや、いつものミホリではなかった。

突然、獲物を目前にした野獣のように、男の子に襲い掛かった。


「うわあああああああ。」


男の子は、思わず悲鳴を上げた。

ミホリは自分の胸ぐらに伸びていた男の子の手をつかむと、そのまま勢いよく噛みついたのだ。まさに鬼の形相だ。


「うわあ。コノヤロー、離せ!」


男の子は噛まれた手を上下左右に振って離そうとしているが、ミホリは執念で食らいついている。全く離れなかった。

ミホリは噛みつきながら、視線だけは男の子の目に向けていた。

男の子は完全に怯んだ。

彼にしてみれば相手は女、しかも、あのいじめられっ子の弱虫ミホリなのだ。男の子はこれ以上、不甲斐ない姿をみんなの前で晒すことができず、ミホリの反撃に対して、さらなる反撃で対抗した。余裕のない表情から過激な言葉だけが繰り出された。


「死ね、ミホリ菌。」


ミホリは噛み付いたまま笑った。その表情は、今から何のためらいもなく人を殺すのではないか、と恐怖を感じるほどだった。

男の子は、もう一方の噛まれていない手で、ミホリの顔面を押したり、パンチを入れたりして離そうと試みるが上手くいかない。


「コノヤロー、離れろ!」


ミホリの表情は、三十三間堂の阿修羅像のように変わった。

男の子はどうにもならないので、必死だった。今度は自身の身体を回転させながら、噛まれた手を強引に引っ張って振り回した。

ミホリは一気に、身体ごと引きずられた。すると、ようやく男の子の手から、ミホリの口が離れた。噛みつき地獄から解放されたのだ。しかし、くっきりと残る歯形の痕からは血が流れていた。

男の子は間髪入れずに、ミホリの髪の毛を掴んだ。そのまま強引に足を引っ掛けて地面に投げつけた。

ミホリは、再び、笑顔の表情に戻り、そのまま顔が砂に埋まった。

周囲には、多くの園児が集まってきていた。

ミホリは、うつ伏せ状態のまま、ピクリとも動かない。

何とか面目を保った男の子だったが、その代償は大きかった。激痛と流血で、今にも泣き出しそうだった。

ただ、泣くことだけは絶対に許されない。目に涙を浮かべるだけでも駄目だ。あのミホリに泣かされたとあっては、この先やっていけない。

男の子は、追いつめられている自分を悟られまいと、さらなる攻撃に出た。倒れているミホリの後頭部を足で何度も踏みつけた。


「コノヤロー、コノヤロー。」


ミホリからは泣き声や悲鳴は聞こえてこない。無言のままだ。それに無反応だ。

周りで見物をしていた園児たちは、あのミホリがあれほどまでの反撃を見せたことにショックを受けていた。

一方的に蹴り飛ばされるミホリを見て同情的になったものは多数いたが、止めに入ることはなかった。

男の子は、みんなの視線が気になって仕方がなかった。本音を言えば、早くこの場から立ち去りたかった。潰されそうな自分を守るために、また、それを隠すために、何度も何度も蹴りによる攻撃を続けている。

プライドを保ったまま、これを止めて、ここから立ち去るにはどうしたら良いのか?いろいろ考えてはみたものの、良い方法は浮かばなかった。

ミホリはピクリとも動かない。何をされても全くの無反応だ。

このことに恐れを感じたのか、一旦、男の子の攻撃がストップした。

園内の空気が止まった。

突き刺すような見物人の視線は、その数を増している。

男の子は周囲を気にして、目をキョロキョロと動かした。

そのときだった。

偶然、男の子の視界に一つの物体が飛び込んだ。

その物体を見て、男の子は閃いた。

今までの攻撃に区切りをつけ、上手くここから立ち去る方法を、ついに見つけたのだ。

発見してから実行するまでの時間はとても早かった。余程この場にいるのが嫌だったのだろう。

再び、ミホリの髪の毛を鷲づかみにすると力任せに引っ張り上げた。

すると、埋もれていたミホリの顔が砂から持ち上がった。冷たい目で無表情の顔がそこにあった。

髪の毛を引っ張りながら、ミホリの体を移動させている。


「噛みついた罰だ。これでも食らえ!」


男の子はそう叫ぶと、ミホリの顔面を犬の大便の真上にもっていき、そのまま勢いよく地面に押し付けたのだ。

ミホリは無言だった。

時が止まったような感覚が辺りを包んだ。

この残酷な行為に、誰もが言葉を失った。

大便はまだトロトロとした軟らかい状態だったため、強烈な悪臭とねっとりとした感触がミホリの顔面を直撃した。この瞬間、ミホリの心に更なる異変が生じた。


目覚め……、いや、覚醒という言葉の方が相応しいのかもしれない。 

心の領域を掌握した蠢くものが、今度は、人間というプログラムを削除し始めたのだ。

思いやる心、労わる心、優しい心などの愛情表現に関わる要素が消滅した。状況に応じた感情表現という要素も消滅した。

蠢くものが心の領域を掌握したあと、今度は、身体までも支配するようになった。

外傷は時が経てば治るし、痛みもなくなる。しかし、心の傷はそうはいかない。灰と化した森林と同じように、元に戻すには時間がかかるのだ。

蠢くものは誰の心にも存在する。残虐で冷酷な部分は、普段、心の領域で眠っている。だが、免疫を無くすと動き出す。一度動き出してしまうと、これを取り除くのは容易ではない。バイオセーフティーレベルで例えると、エボラを超える最強レベルだからだ。最新医療でも手段はない。

人間は蠢くものに支配されないように、常に免疫を保てる環境で生きていかなければならないという責務を負っている。

だが、ミホリは乗っ取られてしまった。もうどうすることもできなかった。


「アハハハハハハ。アハハハハハハ。」


ミホリは、突然、笑い出した。

体を反転させて仰向けになり、空を見ながら思いっきり笑っている。全身を大の字にしていた。

顔は大便まみれになっていた。加えて、前歯が数本折れており、口から血を流していた。

おそらく、噛みつき攻撃を振りほどかれたときに折れたのだろう。


「アハハハハハハ。アハハハハハハ。」


ぐちゃぐちゃな顔は笑顔に満ちていた。意味不明な言葉を空に向かって叫んでいる。

「私だけの世界……、私だけのおひさま、私だけのお空、私だけのお星さま。フフッ。」

異様な光景だった。

周りの園児たちは呆然と立ち尽くした。


「私、忘れないからね、今日のこと……。必ず、やり返すから……。」


何かが壊れていた。


「アハハハハハハ。アハハハハハハ。」

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