魔幻の紙縒り 5
波の音が聞こえる。日本海は果てしなく広がる。
大きなリュックサックは防波堤の上に置かれたままだ。
傍らには一人の女性が座っている。幼稚園の園庭を向いている。
右手にはボールペン、左手には紙を持っていた。何かを書き綴っている。
「潮の匂いがする。」
女性は寂しい声で呟いた。
風が吹きつけている。包み込まれるような感じじゃない。追い払われているような感じ……。
人類の歴史を見続けてきた海が私に問いかける。この世からあの世まで風で運んであげるよって。私は答える。そんなに焦らなくてもいいよ、すぐに行くからねって……。
園庭には、たくさんの園児がいた。
目の前には手と手を取り合い、楽しそうに話し込む男の子と女の子の姿があった。
私は今まで、たくさんの夢を見た。本当にたくさんの夢を見た。そのほとんどが自由と愛を求めた夢……。この世で生きる人間は、いろんな制約の中でしか生きられない。その制約は人それぞれだ。私は、誰かを愛することができないし、誰かに愛されることもない。そんな制約の中でしか生きられなかった。
風に煽られてサラサラの長い髪が大きく靡いている。女性は乱れた髪を手で整えた。目には涙が滲んでいた。絶望の視線が、一瞬、夢と希望に満ち溢れた短冊たちに向けられた。
私は遙か遠い世界を求め続けた。みんなのいるあの世界を……。私は負けたのではない。初めから決まっていたのだ。人生は、持って生まれた才能(外見・性格・身体的能力・知能指数)と、育てられる過程で親や監護者から受ける他者啓発で決まる。私はハズレだった。だから、外見を外科手術で整形した。美貌はそうやって手に入れた。性格は、大量の薬で脳内物質をいじくりまくることで整形した。明るくて優しい性格はそうやって手に入れた。それ以外のことは、現代の医学では変えられない。この時点でみんなのいる世界に行けなかったら、もう何をやっても行けない。あとは神の力が必要だ。変えられないことを運命という言葉を使って納得するのは簡単だけど……、そんな人生なら要らない。私は能力の限界を超えたかった。神の力を借りてでも……。
葉と葉のこすれ合う音が聞こえる。それと同時に、女性の髪もサラサラッと靡いた。髪のボリュームに比例するように、香ばしい香水の匂いがその濃度を増して、辺りに撒き散らされた。
これほどの絶望があるだろうか……。これほどの無念があるだろうか……。この世で独り……、誰もいなかった。制約から逃げて逃げて逃げまくっていたら、みんなのいる世界ではなく、井戸の底にいた。どれほどの時間、逃げ続けただろうか……。もう、生きる意味・気力・目的・希望は無い。井戸の底は深かった。見上げれば、地上は遥か彼方……。円筒の向こう側に見える空はとても小さかった。私はここから同年代の幸せと成長を、ただ眺めていただけ……。それしかできなかった。何もできなかった。なんの手段もなかった。あの小さい空は止まったまま……。みんなのいる世界では、おそらく、空の景色は幸せと成長とともに変わっていくのだろう。私は止まったまま孤立してしまった……。
神は、短冊たちをどのような思いで見ているのだろう。
女性の目に滲んでいた涙の粒は、ついに、頬を伝って流れ落ちた。
幸せそうに恋をする同年代たちを眺めながら、幸せそうに恋をする人間たちを眺めながら、何もできずに恋愛ができない年齢になった。時間は流れるのに、幸せはいつまで経ってもやってこない。それがなければ成長もできない。そういう現実への葛藤がずっと続いた。私はみんなのいる世界には行けなかった。遙か彼方に存在するその世界には何があるのだろう?
防波堤の上には力強く初夏の日差しが照りつけている。
打ち寄せる波の音も夏仕様で力強かった。
ああ神様、私は、あなたの作った運命に従って旅立つのね。ゴミはゴミらしく、ゴミとして処分される。精一杯、もがいてみたけれど、ただ、ゴミ箱の中をかき回していただけ……。みんなのいる世界に……、あの世界に……、たった一度でいいから行ってみたかった。
女性は、ほんのりと微笑んだ。そして、ペンを走らせた。
風に乗って大きく揺れる短冊は、まるで神様に手を振っているかのようだ。園児たちの字は、お世辞にも綺麗とは言えないが、力強く躍動感に満ち溢れていた。
近くには二人の園児が立っていた。あのミサンガの男の子とリボンの女の子だ。あっちの世界で揺れる笑顔たちは、とても眩しかった。笹の根元で、ずっと話し込んでいる。
「願い事、叶うかなあ。」
女の子が言った。
「きっと叶うよ。だって晴れているんだもん。」
男の子が言った。
「でも、さっき先生が、いつもお行儀の悪い子は叶えられないって言ってたよ。」
「自分で行儀が悪いって思ってるの?」
「ううん。思ってないよ。」
「じゃあ、大丈夫だよ。」
女性は、目の前の会話をよそに、ひたすらペンを走らせている。さっきからずっと、何を書いているのだろうか?
絶え間なく押し寄せる波は、数秒周期でこの防波堤にぶつかり、木端微塵に砕け散っていく。
空中に散った水しぶきは太陽の光によって照らされ、美しい光の芸術を生み出していた。まさに、夏色の光景である。
「本当に願い事って叶うの?」
女の子が言った。
「だから叶うって!どんな願い事なの?」
男の子が言った。
「あのね、それは……。」
「何?」
少し間を置いたあと、女の子が切り出した。
「好きな人と……、好きな人と一緒にいたいな。ずっとずっと一緒にいたいな。」
一瞬、ペンを走らせていた女性の指がピクッと止まった。
「好きな人?」
「うん。」
再び、女性の指が動き出した。
「きっと、その願い事、叶うと思うよ。」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「だって、あの短冊だろ。一番上に付いているあの赤色の短冊だろ?」
「うん。そうだよ。」
笹の上部には、下地が赤色の短冊が一つだけ付けられていた。汚い字ではあるが、力強い言葉が綴られていた。
「あんなに高い所に付いているんだから、神様も見つけやすいと思うんだ。だから、その願い事はきっと叶うよ。」
再び、ペンを走らせていた女性の指がピクッと止まった。
「じゃあ低い方に付けてある短冊も、上の方に付けてあげようよ。」
「大丈夫だよ、大丈夫。みんなの願いも叶うよ。」
防波堤の上に座る女性は、ゆっくりとした動作で顔を上げた。切ない視線が園児たちに突き刺さった。数秒間、眺めたあと、再び、紙を見つめ、ペンを動かした。
「ねえ。」
突然、女の子が男の子の手を握りしめた。
「うん?どうした?」
「願い事、叶えたいよ!」
「だから、今、叶うって言っただろ!」
「本当に?」
「うん。本当だよ。」
女の子の顔が、突然、真剣な表情に変わった。
「じゃあ、私と結婚して。」
「えっ!」
男の子は、心臓をチクッと刺されたような感覚だった。思わず驚きの表情が顔に出た。しかし、驚いたのは一瞬だけ、あとは堂々としていた。羞恥心というものを知らないのか、それとも、生まれ持っての性格なのかはわからないが、逃げの姿勢がなく、周囲の目も全く気にしていないようだった。
「いいよ、結婚しよう。お前のこと好きだし……。」
男の子が言った。
二人の頭上で揺れる笹の葉と短冊が、その光景を見守った。
「嬉しい。願いが叶った。願い事、叶ったよ。」
女の子が言った。とても嬉しそうな表情を浮かべている。
女の子は、あの赤い短冊から何かが放たれて、強烈な後押しをされた気がした。そして、握っていた男の子の両手を、自分の両頬に持っていった。
男の子も同様に、女の子の両手を、自分の頬に持っていった。
二人とも蕩け落ちそうな可愛らしいほっぺたをしている。
女の子が男の子のほっぺたを両手でさすり始めると、男の子も女の子の頬を両手でさすり始めた。自然と笑みがこぼれる。
「可愛いね。」
男の子が言った。
「本当に?嬉しい。」
女の子は自分の顔を男の子の顔に近づけた。至近距離で見つめ合っている。
他の園児たちは、これに気付くことなく、それぞれがそれぞれの遊びに夢中になっていた。
「キスしようか?」
男の子が言った。
「キス?」
女の子が答えた。
「キスって言うのはね、口と口を合わせるんだよ。」
男の子が言った。
「口と口?」
「うん。こんな感じ。」
瞬間、可愛らしいキスの音が鳴った。いきなりだった。お互いの頬をさすり合っている手の動きが止まった。
唇と唇が重なり合ったあと、スッと離れた。
見つめ合う二人を見ていると、そこから癒しや安らぎを感じ取ることができた。
お互いニンマリと照れ笑いを浮かべる。見つめ合ったまま動かない。照れ笑いは、すぐに大爆笑に変わった。
とても幸せそうだ。
二人の一瞬一瞬を一コマずつ写真に撮り、全体をセピア色にしてから、豪華な写真立ての中で永遠に飾っておきたい……、そう思わせてくれる光景だった。
「結婚しようね、絶対に。」
女の子が言った。
「うん。わかった。約束だよ。」
互いの手は、相手の頬から離れた。
そのあと二人は、横に並んで七夕の短冊を見上げた。互いに手と手を繋いで、どちらか一方が主導したわけではないのにリズムが生まれ、肩を起点に公園のブランコのように揺れ始めた。
他の園児たちに、これと似たような光景は見られない。
彼らはこの二人のようにまだ恋というものには巡り合えていないのかもしれないが、きっと、今という時を楽しんでいるに違いない。
「ねえ、私の願い事、もう叶っちゃったよ。」
女の子が言った。
「結婚することが願い事だったの?」
「うん。」
「じゃあ大人になっても、おじいちゃんやおばあちゃんになっても、ずっと二人でいられるように……、今度の七夕からも、そうやって願い事を書き続けて行こう。」
「うん。ありがと。」
男の子の優しい笑顔が揺れる。女の子の明るい笑顔が揺れる。言葉はいらなかった。
幸せ……、ただ、それだけである。
穏やかな風が園内に流れた。その風は、見つめ合う二人の髪を、一瞬、サラサラサラッと靡かせた。
女の子は笑顔のまま体の向きを変えて、園舎に向かってゆっくりと歩き始めた。
一歩、また一歩と、園庭を横切っていく。
地面には小さな足跡がうっすらと刻まれた。そんな彼女の後ろ姿を、男の子は優しい顔で見つめていた。
幸せにつつまれた女の子からは、自然に躍動感が生まれていた。何が見えているのだろう?
今、女の子の目の前には、幸せの世界へと続く階段があった。一直線に天まで伸びる階段だ。躊躇いはなかった。溢れんばかりのパワーを全身に漲らせて、この階段を駆け上がっていった。
満面の笑みを浮かべている。軽やかにステップを踏んでいる。後ろを振り返ることなく、ただ、幸せの世界に向かって一歩一歩……。ただ、幸せの世界に向かって……。
女の子が、ふと、我に返ったとき、園舎の目の前にある鉄棒では、たくさんの園児たちが楽しそうに遊んでいた。
女の子はこの集団の前で立ち止まった。そして、振り返った。満面の笑みだ。視線の先はミサンガの男の子だけ……。
女の子は大声で言った。
「結婚したらね、料理をして、洗濯をして、お部屋の掃除をするの。料理は、ごはんの作り方とお味噌汁の作り方を覚えてね、そのあとハンバーグの作り方を覚えるの。部屋の中はいつも綺麗にして、二人で過ごすの。そして……。」
一瞬、不穏な空気が辺りを覆った。
次の瞬間……、とてつもない雷鳴が轟いた。
何だ!
何が起きた?
突然、幸せの世界へと続く階段に、天から悪魔の雷光が落ちた。
それは、神の世界にまで届くほどの轟音だった。
階段は破壊され、一瞬で何もかもが崩れ去った。
沙羅双樹の花の色……。
入滅のとき……。
樹は白く枯れ変じ……。
まるで白鶴のように……。
止まった……。
世界が止まった。
鈍くて、重苦しい音だった。
あまりにも突然だった。
どこからともなく飛んできたピストルの銃弾は、まさに、悪魔の牙……。
何という速さだろう。
風を切るとはこのことを言うのだろうか?とてつもないスピードだった。
銃弾は全てを貫き、どこかに消えていった。
後を追うように発生した銃声は、かすかな山彦を奏でながら止まった時をゆっくりと動かしていく。
女の子が……。
リボンの女の子が……。
笑顔のまま、凄惨を極めていた。
女の子の体は、徐々に角度を狭めながら後ろへ倒れていった。
地面との角度は、90度から80度へ……。
70度……。
60度……。
突然……、終焉という言葉とともに、別の世界への扉が見えた。
角度が一度狭まる度に、記憶の底に眠るものが、凝縮された形で映像化され始めた。
50度……。
40度……。
勢いよく駆け上がっていた階段……。
幸せの世界へと続く階段……。
壊された。
誰かに壊された。
真っ逆さまに落ちていく。
幸せの世界が遠のいていく。
落ちていく。
どんどん落ちていく。
階段が崩れ去っていく。
目の前にあったはずの幸せの世界が、どんどんどんどん離れていく。
30度……。
20度……。
願いを託した七夕の短冊……。
一緒に愛を誓い合った男の子……。
楽しく遊んだクラスのみんな……。
いろいろなことを教えてくれた先生……。
優しい幼稚園バスの運転手さん……。
思い出の遊具たち……。
海の匂いがするこの園舎……。
おじいちゃん……。
おばあちゃん……。
お父さん……。
そして、お母さん……。
10度……。
零度……。
全身が地面に落ちた。
女の子は、大の字になった。
「キャアアアアア!」
園庭には、数人の園児たちが居た。
そこに園舎から飛び出してきた保育士の女性一人が加わった。
あまりの光景に全員が凍りついた。事態を飲み込んだあと、もう一度、絶叫した。
「キャアアアアア!」
女の子は、ピクリとも動かない。
全員の視線が、防波堤の上に立っている女性に向けられた。
いったい何が起こったのか?思考回路の混乱で全員が言葉を失っている。静寂が全体を支配する。
防波堤の上では仁王立ちの女性が一人、冷たい目をしていた。手には短銃が握られている。銃口の先は保育士と園児たちに向けられていた。
この女性は、先程まで防波堤に座って何かを書いていた、あの女性だ。
「みんな、怖がらないでね。私は、みんなの望みを叶えてあげているだけだから……。」
この女性が言った。
状況から見て、この女性が銃で発砲したのだろう。そして、弾が女の子に当たった。そういうことなんだろう。
一人、また一人と、園児が泣き出した。
「や、やめて!何するの!」
保育士の先生はこう叫ぶと、倒れた女の子の元へと駆け寄った。他の園児たちも先生の後を追って集まってくる。
女の子の表情を見て、そこにいる全員が愕然とした。
先生は歩み寄ってくる園児たちを、両膝をついた状態でがっちりと抱きしめた。
笹の葉と短冊が揺れている。短冊たちは、本当に神様に手を振っていたのだろうか?
笹の根元で呆然と立ち尽くす男の子が一人、横たわる女の子を眺めていた。
「日本人はね、自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない民族なの。恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキしかいないの。自分が世の中で一番不幸だと思い込んでいる。すぐに不幸自慢したがる。そんなに不幸の背比べをして勝ちたいのなら、私はその望みを叶えてあげたい。死ほど不幸なものはないからね。それに、この家族主義国家日本で天涯孤独になるという地獄を、あなたたちにも知ってほしいの。いかに生きられない世界かということを教えてあげる。幸せな未来なんか無い。私が答えだから……。」
女性は笑顔で言い放った。
「子供たちには手を出さないで!」
決死の表情で先生が叫んだ。
そのときだった。
願いを込めた短冊たちの下で、委縮していた男の子の感情が大きく膨れ上がった。
「どうしたの?ねえ。ど、どうしたんだよ!」
男の子が叫んだ。
倒れた女の子を眺めながら、どんどん息づかいが荒くなっていった。
次の瞬間だった。感情が沸点を超えた。
男の子が……、あのミサンガの男の子が……。
「嫌だ。嫌だ!嫌だあっ!」
突然、大声を張り上げた。そして、泣きながら倒れたリボンの女の子に向かって駆け出した。
あと少しの所だった。
それは二度目の雷鳴だった。
沙羅双樹……。
飛び散った花びらは……。
白色になって地面へと舞い落ちていく……。
白鶴の群れのごとく……。
「キャアアアアア。」
再び、止まった。
空気が止まった。
牙が発射されたのだ。一瞬の出来事だった。
男の子の身体を後ろから何かが貫いた。
瞬間、棒立ち状態になった。
そのあと……。
前方へ倒れていった。
地面との角度が90度から80度へ……。
70度……。
60度……。
時間が停止した。
視界から女の子の姿が見えなくなった。
訳の分からないまま近づいてくる砂の地面……。
流れ落ちる涙のしずく……。
破壊された脳の感覚……。
閻魔の声が、一瞬、聞こえた。
図太い声で何を問うた?
50度……。
40度……。
角度が瞬時に狭まっていく。
ここで倒れたらいけない。
仰向けに横たわる女の子まであと1メートル……。
ここで倒れたら、永遠に届かなくなる。
あと少し……。
あと一歩……。
せめて一緒に……。
30度……。
20度……。
ここはどこ?
笑顔で話しかけてくるリボンの女の子が見える。
楽しそうに微笑んでいる。
安らぎ、ぬくもり、癒し、幸せ、夢、希望……、いろんなものを与えてくれる。
生きる意味と目的を教えてくれる。
存在した時間を共有してくれる。
声が聞こえた。
誰だ?
何かを語りかけてくる。
あなたは一人じゃない、ずっと一緒だよ。
優しい声だった。
迫りくる地面を目前にして、少しだけ笑顔になれた。
涙のしずくが宙に舞った。
尽きる瞬間に、さっきの図太い声がはっきりと聞こえた。
閻魔の声だ。その声は高揚感に満ちあふれていた。
「さぁ、一緒に遊ぼうね!」
10度……。
零度……。
全身で地面を叩いた。
男の子は顔面から倒れ込んだ。
ピクリとも動かない。
「キャアアアアア!」
先生と園児たちは足がすくんで全く動くことができない。
瞬間、止まっていた時の中に穏やかな風が流れ込んだ。葉と葉がこすれ合って、爽やかな効果音を生み出している。この海からの潮風は、漂い始めた死の香りをわずかながらではあるが、遠くへ遠くへと運んでいった。
この二人の短冊が虚しく揺れていた。
「勝手に動かないでよ。まぁ、苦しい人生経験を積まずに済んだのだから良かったけど……。」
狂気の女性が静寂を打ち破った。
銃口は先生と園児たちに向けられている。
銃声が二発鳴り響いたが、付近の住民が異変に気づいたり、助けに来るといったような気配は感じられなかった。
すすり泣く園児たちの声だけが聞こえた。
「お願い、やめて!園児たちを撃たないで。」
先生が言った。
女性は銃を構えたまま、足元のリュックサックに目をやった。
先生の叫び声など耳に入っていない。
女性は、片方の手で銃を構え、標的を威嚇しながら、もう片方の手でリュックサックの開封口を広げ始めた。中から何かを取り出そうとしている。
「お願い、やめて。」
再び、先生が言った。
「やめないよ。私は殺人者でない。救済者なの。あなたたちの望みを叶えてあげるだけ……。」
「落ち着いて!落ち着いて話をしましょう。」
「私は落ち着いているわ。オロオロしているのはあなた達の方ですわ。私はね、生涯、ずっと独りっていう、誰にも味わえない過酷な精神鍛錬を経て、何が起きても冷静でいられるの。凄いでしょ?」
「あなたに何があったかは知りませんが、何の罪もない園児たちに手を出すのはやめてください!」
先生は必死だ。
女性はニンマリと微笑んだ。
園児たちの恐怖と不安は極限に達していた。
先生は辺りをキョロキョロと見渡し、「誰か助けて」と言わんばかりの表情だ。しかし、付近の民家は静まり返っていた。誰もいないようだ。結局、自分が園児たちを守らなければ……という使命感を胸に、強くなるしかなかった。
防波堤の上では、リュックサックから何か大きなものが取り出されようとしていた。その横には、女性がさっきまで何かを書き綴っていた紙が無造作に置かれていた。
「みんな!泣くのは、やめようね。私は助けに来たのだから……。いい子にしていようね。」
「ウウ……、ワアアアアアン!」
園児たちの泣き声は大きくなるばかりだ。
「静かにしな!クソガキども。お前たちは大人がいなければ何もできないクズなんだよ。クズっていう自覚がないのかな?子供は大人の奴隷なんだよ。大人の言うことを聞くんだよ。私が笑えって言ったら笑う、死ねって言ったら死ぬの。わかった?私は親から、毎日、それを言われて、毎日、殴られて蹴られた。15年以上もね。今も身体は傷だらけ……。心はもう、どこかに行ってしまった。完全なハズレくじだった。だから、お前たちみたいに、アタリくじを引いたクソガキは大嫌いだ。お前たちは、孤独という言葉と、一生、縁がないからね。孤独という言葉は主観的な言葉だから誰もが好き勝手に使うけど、私が言いたいのは本当の意味の孤独よ。アタリくじを引いた人間は、当たり前のように自分を愛してくれる家族がいて、当たり前のように住む家があって、当たり前のように出会いが待っている。恋愛・結婚・出産が向こうから降ってくる。お前たち、アタリくじを引いた人間が大人になったとき、楽しそうに恋愛をして私のような人間を苦しめる。恋愛をするのは当然の権利と言わんばかりに、目の前で見せつける。私がそれを見せられることで、どれほどの傷を負ってきたか……。そんな人生にもかかわらず、不幸の背比べをして勝とうとしたがる被害妄想者しかいない。私は、アタリくじを引いた人間に、怒りと憎しみをぶつけに来たのではない。その背比べを、望み通り勝たせてあげると言っているだけ……。」
女性は力強い口調で言った。
すると、次の瞬間、何を思ったか、手にしていた短銃を海に放り投げたのだ。
いったい何をするつもりなのだろうか?
女性は不敵な笑みを浮かべながら、リュックから取り出した代物を見せつけた。それはとても大きかった。
なぜ、こんなものがここにあるのだろうか?なぜ、この女性がこんなものを持っているのだろうか?
この代物は一回引き金を引くと、一発の銃弾が飛んでくるといった甘いものではない。一回引き金を引いたら、数百発の弾丸が轟音を鳴り響かせながら怒涛のごとく飛散する恐ろしい武器であった。
連なる何百発もの銃弾……、重量感と威圧感……、機関銃だ。
なぜ、日本人の女性がこんなものを持っているのか?いったいどこから持ち込んだのか?まるで現実味がない。だが、すでに二人が撃たれている。それは事実である。
これから何が始まるのだろうか?不穏な空気が辺りを包み込む。
女性は、この大量殺人兵器を装備した。左手でグリップを握り、右手を引き金に持っていく。
連なる弾丸はすでにセットされており、あとは撃つだけのようだ。
機関銃を胸の辺りまで持ち上げた。狙いを定める。
銃口は先生と園児たちに向けられた。
いつ地獄の協奏曲が鳴り響いてもおかしくない状況だ。
「何をする気?」
先生が言った。
女性はニンマリとした表情を浮かべたまま何も答えない。
倒れた二人は穏やかな表情をしていた。地面をベッドにして寝ているようにも見える。
園児たちは、死というものを、いったいどのように受け止めているのだろうか……。恐怖を感じて泣いているのだろうか……。それとも、悲しくて泣いているのだろうか……。
涙を流していない園児は一人もいなかった。
「大丈夫だよ。先生がついているから怖くないからね。大丈夫だよ。」
先生が小声で言った。
銃口を向けている女性に対して、毅然とした態度を示している。その姿からは、自分の体を盾にしてでも園児たちを守っていこうという気迫が感じられた。
他の園児たちも、先生の声を聞いて自然に集まってきた。
先生はそれをしゃがんで抱きしめた。
すすり泣く声が、静寂に包まれる園庭に響き渡った。頬から落ちる涙は、上着を濡らすまでに至っている。
先生は一人一人の頭を優しく撫でることにより、安心感を持たせようとしていた。
「ねえ、みんな!これ、何だと思う?」
女性は手にしている機関銃を顔の辺りまで持ち上げた。
「これはね、機関銃と言ってね……、たくさんの人間の想いを叶えてあげることができる道具なの。人生はね、生まれた瞬間に全てが決まるの。世の中は才能の背比べをするところよ。残念ながら、それがわかる人は、この日本には、ほとんどいないわね。すぐに、努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……という言葉を使って、何でもかんでも自分の力で勝ち得たことにしたがる。そういうことを言う人は、才能や環境に恵まれて生まれ育った人……。それを当たり前だと思っている。そいつらには、当たり前のように家族がいて、当たり前のように住む家があって、当たり前のように友人がいて、当たり前のように恋人がいて、当たり前のように結婚できて、当たり前のように子供がいる、または、そのどれか一つでも叶えられている人生ばかり……。私の生きた世界とは随分と違う。こういう人たちは、本当の孤独を知らない。その孤独が原因で、生きる意味・気力・目的・希望を失った世界を知らない。私は10代からずっと独りだった。会話の相手なんかどこにもいない、現実だけでなくネットでもね。命懸けで人との繋がりを求めても、言葉が通じない。会話にならないのよ。どうしてかわかる?生きている世界が違うからだよ。人生観・世界観・家族観がズレると、言葉って通じないの。自分がそうなって初めてわかったわ。何十年もそんな世界にさらされると、最後は、自殺か殺人かの二者択一になってしまう。生きていけない世界だからね。そのまま自ら命を絶つか、自暴自棄の果てに誰かを消すか……、選択肢はそれだけ。なぜ、二択しか残らないと思う?ほぼ全ての日本人は、こちらの世界で生きる人間を不可抗力による結果とは思わない。努力が足りない、我慢が足りない、行動が足りない……って、自身の落ち度によってそうなったんだというレッテルを勝手に貼りつけてしまうの。私にとって当たり前の概念が誰にも通じない。どいつもこいつも恵まれた環境でヌクヌクと生きている。その立ち位置から、私にそういうレッテルを貼りつける。許せるわけないでしょ?言葉は通じないし、会話にもならない。だったら、選択肢はそれしかないでしょ?違う?」
女性は狙いを定めた。
「や、やめて!園児たちを撃たないで。」
先生が盾になっている。
「キャハア!あなた最高よ!カッコイイわ。何?その正義感は?反射的にそんなセリフが言えて、そんな行動を取れるなんて、よほど育ちがいいのね。今、何を考えているのかしら?自らの死を予感しているのかな?それとも、園児を守った上で自分も助かるという絵を描いているのかな?それとも頭の中は恋で埋まっていて、彼のことを考えているのかな?」
女性は、先生が身に着けているある物に対して、異様な執着心を見せた。
再び、切り出す。
「なあに?その指輪。いいわね、幸せになれる人間は……。でも、ここで死んでしまったら、彼と一緒に映画を見たこと、ドライブしたこと、旅行したこと、ディズニーランドに遊びに行ったこと、また、プレゼントを渡したり貰ったりしたこと、風邪をひいたときに優しく看病してもらったこと、キスをして幸せを感じたこと、その全てがエンディングノートに刻まれることになるわよ。でも、羨ましいわ。私も送りたかった、そんな人生を……。良かったわね。短い一回きりの人生の、短い一回きりの若い時間に彼氏を作れて……。出会えない運命のもとに生まれて、出会えない人生を送ってみる?命を懸けても人生の全てを捧げても、絶対に出会えないのよ。どれほどの無念と絶望が、毎日の一分一秒を支配するかわからないでしょ?生きていけないわよ。まぁ、あなたみたいな人生を送っている人間には天涯孤独の世界なんてわからないから、私の言葉は全否定でしょうけど……。何度も言うけど、日本人は恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた被害妄想者と、不幸の背比べをして意地でも勝とうとしたがるクソガキしかいないの。私が何を言っても、『私だって……』という言葉で切り返されて、不幸の背比べを挑まれる。そもそも、日本人は自分さえ良ければ他人がどうなろうが知ったこっちゃない民族で、自分が全て……。他人の人生には無関心なのよ。今だって、近所の住民は誰も反応しないでしょ?他人事だからよ。まぁ、そのうち警察は来るでしょうけど……。平和ボケ国家日本の治安部隊なんか、私の敵ではないわ。」
海からの潮風は途切れることがない。笹の葉がサラサラサラッと音をたてて揺れた。
地球の自転は着実に時を刻んでいく。数分後、どうなっているのだろうか?先生を中心に体を寄せ合う園児たちは、無事でいられるのだろうか?
すでに動かなくなってしまった二人の姿が恐怖を倍増させている。
機関銃を構える女性の目はとても冷たかった。話せばわかる、といったタイプではなさそうだ。憎しみにかられて、生命倫理や公序良俗などの規範が無くなっているようだ。
女性の足元に置かれた紙には、太陽の光が当たっていた。うっすらと反射している。どういうわけか、自ら白銀色の光を作りだしているようにも見える……。妖しい光だ。
「私……、元傭兵団のメンバーなの。だから、こういうのは初めてじゃないの。もう何人……、いや、何十人仕留めたかな?当然、日本の話ではないけどね。普通に、平和ボケ国家日本で生まれ育って、そんな未来が待っているとはね。人生ってわからないものね。」
女性が言った。
先生は何も答えない。
園児たちのすすり泣きは続いている。
「みんな、どうして泣いているの?可愛いわね。癒されすぎて体から力が抜けていくわ。私の胸で温かく慰めてあげたい。あとで触ってもいいかな?その蕩け落ちそうなプヨプヨのほっぺたを……。母性本能を擽られる。凍てついたはずの私の心に火が付きそうだわ。」
女性が言った。
先生は何も答えない。園児たちを庇いながら強い目で女性を睨んでいる。美しく輝く左手の指輪が勇気を与えているように思えた。
「私はこの世に生まれた。先生、あなたもこの世に生まれた。いろいろな道のりを経て、今、私はあなたの目の前にいる。一人は殺す人、もう一人は殺される人。一人は幸せをつかめた人、もう一人は幸せをつかめなかった人。運命を掌る神は、人の一生をいったいどのように操っているんでしょうね。人生には、いろんな分岐点がある。もちろん、その国の、その地域の、その家に生まれたという、自分の力では選択できないものは除いて……の話だけどね。例えば、好きな人に告白した場合と告白しなかった場合で、そのあとの人生が二通りに分かれるでしょ?さらに、告白したら、交際がスタートする場合とフラれて失恋してしまう場合とに分かれるでしょ?そうやって分岐点は、時間の流れとともに、ほぼ無限に増えていく。他にも、会社に留まった場合と転職を選んだ場合、引っ越しをした場合としなかった場合、旅行に行った場合と行かなかった場合、ある人に話しかけた場合と話しかけなかった場合、何気なく外を歩いていて、左の道から帰ろうとした場合と、右の道から帰ろうとした場合など……、ほぼ一秒単位で作り出される分岐点に遭遇する度に、道は二通りに分かれていく。まぁ、正確に言えば、最初から二通りどころではないけどね。悩み苦しむ中で一つの道を選択することもあれば、何気なく一つの道を選ぶこともある。そうやって進んだ道って、本当に運命って言えるのだろうかって思うの。自分の意思で進んだ道じゃないかってね。もし、二通りの選択肢の中から自分が選ばなかったもう一つの道が実際に並行世界として存在していたら、そこにはどんな自分がいるのだろうかって考えるわ。いわゆるパラレルワールドという奴ね。量子物理学の理論ではそれぞれが異なる世界を作って、分岐点にさしかかる度に、さらに枝分かれしていって無限に増殖する。おまけにそれぞれの世界が互いにリンクすることはない。そんな並行世界があったら、それは神の力ではなく、自分の選択の結果が多数あるということだよね。もし、その中の一つに理想の自分がいたら立証できるのよ、神の力ではないということを……。だけど、その部分がファンタジーである以上、神や運命という言葉を使わざるを得ないの。不可抗力という言葉も、そういう概念のもとで使っているの。古典物理学で言うところの因果律って奴かな?結果として、私はここで二人を殺しただけでは飽き足りず、機関銃をあなたたちに向けているの。」
女性は言った。
先生は何も答えない。
さらに続ける。
「あなたは恋人がいるみたいだから、良い選択を重ねたのかしら?それとも、良い選択肢しかなかったのかしら?運命って不思議ね。私、恋人ができなかったでしょ。だから、あなたみたいな人間を見ると憎しみを感じてしまうの。幸せになりたかった……。ただ、それだけだったのよ。叶えられないことで何もかもが吹き飛んでしまった。人生の全てが吹き飛んでしまった。この家族主義国家日本で、家族がいないという現実を埋め合わせるには恋人しかいないのよ。その恋人と、今度は自分の家族を作るという作業が必要なの。子供がいる・いないは、また別問題。当たり前のように家族がいて、愛情を注がれてきた人間にはわからないわ。他に生きがいを探したけど、この日本では無理ね。持って生まれた能力、つまり、外見・性格・身体的能力・知能指数が、他者との競争に勝ち抜けるだけのズバ抜けた能力だったら、独りでも生きがいを見つけて、それを糧に生きられたかもしれない。残念ながら私にそういう能力は無かったわ。以前、自殺を図ったときに精神が壊れてしまってね、それ以来、私には銃が必要になった。無いと落ち着かないの。私には誰もいないからね。本当の孤独が支配する世界で時間だけが過ぎた。これも経験した者にしかわからない。今の時代、24時間営業の喫茶店や自家用車で生活するホームレスはいっぱいいるけど、コンクリートの上で寝泊まりする路上生活者は相変わらずほとんどいない。私はその経験に加えて、牢屋暮らしと精神病棟暮らしも経験している。そんな私に、なぜ、この国の人々は、不幸の背比べを仕掛けてきて、勝とうとしてくるのか?ほとんど全ての人が、被害者ではなく被害妄想者なのに……。自分で自分が被害妄想者であることに気づかない時点で、幸せな人生だと思うわ。私がこういう経歴だと自己紹介した途端に、今度はストレスを感じたのか知らないけど、突然、暴言を吐いて去っていったり、『私なんて首を刺したわ……』なんてファンタジーの世界に突入してでも不幸の背比べで勝とうとしてくるよね?そんなに勝ちたいのなら、勝たせてあげるわ。死より不幸なものはないから……。みんな、勝ちたいんでしょ?それを望んでいるんでしょ?可哀そうって言ってほしいんでしょ?だから、私は救世主よ。望みを叶えてあげるのだから……。殺人者ではないわ。あなたも私と同じ立場なら、そう言っていると思う。」
女性は言った。
先生は何も答えない。
「ねえ先生、なんでさっきから黙っているの?お話しましょうよ。寂しいじゃん。独りにしないで。」
女性が言った。
先生は何も答えない。ただ、強い目で睨み付けている。
「何も言わないのなら、そろそろ、カウントダウンを始めるけど、いいかな?さあ、どうする?たまたま、この幼稚園に就職して私の目の前に現れたあなた!旅立つ前に、何か言いたいことはある?」
女性が言った。
先生は何も答えない。
ただ、園児たちを守らなければ……という強い意志は見て取れた。全く怯む様子がない。
女性はこの静かな視線を受けて、人間性の全てを否定されているような感覚になっていった。
園児たちのすすり泣く声が響き渡っている。全員が小さな手であふれ出る涙を拭いていた。
願いを込めた七夕の短冊は力を貸してくれないのだろうか?神に祈っても何も起こらないのはなぜだろう?
先生は怯える園児たちの表情を見るたびに、闘争心が強くなっていった。職務を全うしようとする先生の責任感は半端じゃなかった。
「絶対に、この子たちを殺させない!」
突然、立ち上がった先生が女性に向かって言い放った。それは相当大きな声で、力強いものだった。撃てるものなら撃ってみろ!と言わんばかりの表情だ。装着されている指輪が美しく輝く。
「キャハア、最後の一言がそんなので良かったの?」
「惨めですね。彼氏を一度も作れないなんて……。あなた、モデルさんみたいに綺麗な顔をしているのに……。外見が悪くないのに彼氏ができないということは、よほど性格に問題があるんでしょうね。友達ができない。恋人ができない。それはあなた自身の問題でしょ?ただの努力不足でしょ?それなのに何の罪もない園児を巻き添えにして何が楽しいの?八つ当たりですか?もう止めてください!」
先生はこの女性に対して、初めて反抗的な言葉を口にした。
「今、なんて言ったの?」
「自分勝手な考えで、罪のない人を殺さないでって言ったんです!」
「罪がない?幸せなのに被害妄想を振りまくゴミどもは、みんな死罪よ!それに、私は殺しに来たんじゃない。そういう人間しかいないこの国の人々の願いを叶えてあげるの……。」
「あのう、私もそんなに器用な人間じゃないから追い詰められたあなたを説得したり諭したりすることはできないけど、意見は言わせてもらいます。あなたは間違っています。誰もが幸せな人生を送っているわけではないし、たとえ幸せになれなくても、ほとんどの人が道を踏み外さずに我慢して生きているんですよ。例えば、世界の貧しい国々では食物がなくて飢えて死んでいく人がたくさんいます。また、着るものがなくて凍え死んでいく人もたくさんいます。病気や怪我にもかかわらず、治療を受けられずに死んでいく人もたくさんいます。生きたくても生きられない人は世の中にはいっぱいいるんですよ。それに比べてあなたは何不自由なく生きてきたんでしょ?生きていられるだけでもありがたいと思えばこんなことはできないと思います。」
「先生……、意外と薄いわね。もっと深い人かと思ったのに……。さっきも言ったけど、努力・我慢・行動・ポジティブ・ネガティブ・前向き・後向き・プラス思考・マイナス思考・諦める・諦めない・強い・弱い……などという言葉を使う人間って、もう、その時点でどんな人生を送ってきた奴か、私にはわかるわ。そういう人間は、本当の孤独を知らない。生きたくても生きられない人?よくもまぁ、元路上生活者の私に向かって、そんな事が言えるわね。路上生活をするとわかると思うけど、声をかけてくるのは外国人だけよ。日本人は完全無視……。どうしてかわかる?あなたのように恵まれた環境でヌクヌクと生きてきた人って、生まれたときにそこにあったものを、あたかも、自分の力で勝ち取ったものと錯覚するからだよ。自分を愛してくれる家族、新生児・幼少期を経て学生時代に至るまで住んでいた家、成長していく過程で親や監護者から受ける他者啓発(箸の持ち方、トイレの仕方、挨拶の仕方、その他生活をしていく中で必要な知識や知恵を教えてもらうこと)は、あなたが自分の力で勝ち取ったものではない。あなたが生まれたときにそこにあったものなの。大半の日本人って、それが全くない世界で生まれ育った人のことを知らないよね?私は好きでこんな人生を送っているんじゃないのよ。好きで元受刑者、元路上生活者、元自死ダイブ実行者、元精神病棟患者……なんて肩書が付いたわけではないのよ。あなたが当たり前だと思っているそれらのことは、実は当たり前じゃないの。それに、あなたが勝ち取ったものでもない。あなたが生まれた瞬間にそこにあったものなの。最初からそこにあったの。私にはそれが何も無いの。しかも、それは後から自分の力でひっくり返すことができないの。そんな、あなたのいる世界から自分の物差しで、違う世界にいる私を計測しても何もわからないわ。人生観・世界観・家族観は、まるで地球を覆う大気のように果てしないものだから……。それが違うということは、違う星にいる生物と会話をしているとでも思ってくれたらわかりやすいかな?私がここにいるのは、努力不足・我慢不足・行動不足……の結果ではないのよ。不可抗力なの。でも、あなたたちは、私のような肩書が付いている人間は努力不足・我慢不足・行動不足の結果としか捉えないでしょ。だから日本人は無視するの。もし、不可抗力の結果、そうなっていると思えたら、外国人と同じように手を差し伸べる人は増えるでしょうね。日本人は無視だけならまだしも、攻撃までしてくるでしょ、生産性を生み出さないクズとか言ってね……。あなたたちには、恵まれた環境でヌクヌクと生きてきたという自覚がない。何でもかんでも自分の力で勝ち得たことにしたがる。何も勝ち取ってないくせにね。日本は一応、民主主義という名の多数決社会だから、そんな人間が九割以上を占めてしまったら、そっちの世界の考え方が基本になってしまうよね?私の意見なんて少数意見としてかき消されるだけ。たとえ真実であったとしてもね。よく自殺した子の母親が、まるで殺人事件の被害者遺族のように被害者づらをして記者会見しているのを見かけるけど、あれは被害者ではなくて加害者……。なぜなら、自殺の原因は親だから……。ジェンガって知ってる?あれと同じ……。原因を作っているのは親または監護者よ。それなのに、なぜか、違法労働のせい……、誹謗中傷のせい……、いじめを受けていたせい……と、違う理由にすり替える。それはそれで立件すればいいけど、自殺の原因ではない。それは、ただのきっかけに過ぎない。ジェンガで言うところの、最後の一ピースでしかない。それなのに、政治家も裁判官もマスコミもコメンテーターも、みんな親を被害者として扱う。子供を失った悲劇の親として扱う。信じられないわ。自殺の原因はお前だよ!と指摘できる人間が、なぜこの日本には誰もいないのか……。おまけに亡くなった子は世間からは弱い人間のレッテルを貼られる始末……。あり得ないよ。これが多数決社会の恐ろしいところ。真実を、数の力で覆いつくしてしまう。私はそういう敵しかいない世界で生き、自殺か殺人かの選択を余儀なくされた。あなたには私の言葉は通じないわ。会話も成立しないわ。そういう人生だったからね、私……。」
「どんな御託を並べようとも人殺しが正当化されることはないわ。自分の人生が上手くいかないからって幼い命を奪って何になるの?もう自首したらどうですか?」
「あなたさっき、生きたくても生きられない人って言ったよね?世界には……どうのこうの……って言ったよね?貧困が人を殺すテロリストを生んでいるのよ。貧困が違法行為に手を染める人を増やしているのよ。私がその人たちとは無関係で何不自由なく生きてきたっていうのはどういう根拠があって言っているのかしら?日本人だからそう思ったのかしら?もし、そんな人生なら、今、ここで機関銃なんて手にしてないよ。随分と先入観を持って話しているみたいだけど……、不可抗力だって言っているでしょ?私の意思とは関係ないの。あなたが私の立場にいないだけ。私だって、あなたの言った人たちと同じよ。こっち側にいるんだから。人間の人生に画一性・客観性なんて無いの。1歳で死ぬ人もいれば、100歳まで生きる人もいる。一生を幸せだけで終わる人もいれば、一生を不幸だけで終わる人もいる。餓死する人がいれば、食べ物に困らない人もいる。凍死する人もいれば、寒さとは縁のない人もいる。人生というのはピンからキリまでいろいろあるの。それはあなたの言う努力不足・我慢不足・行動不足……で陥るものではないの。不可抗力なの。変えられると思っているのなら大間違い、それは立場が違うだけ。家族主義国家日本では、独りでは真っすぐ生きられない。私と同じように天涯孤独になればわかるわ。でも、当たり前のように家族がいるあなたのような立場からは、私の存在は普段の煩わしい人間関係から解放されているお気楽な一人暮らしをしている奴としか映らない。決して、生きられない世界にいるとは思わない。立場が違えば見方も違う、よって、結論も違う。だから、言葉が通じない。人は、神の手のひらの上で踊らされ、操られ、ある一本道を強制的に進まざるを得ないのよ。人生が上手くいっていると思える人は、初めから良いレールの上に乗っかっているという事実に気づいていないだけ。努力したから結果が出た、我慢したから今の幸福がある、などと勘違いを繰り返す。人は、運命の渦の中で、どん底に落ちたときに初めて神という絶大な存在を認識するの。絶望って言葉の意味はわかるかな?文字通り望みが絶たれるってこと。神力の前では人間なんてあまりにも無力で小さなもの……。他人の幸せを目の当たりにしながら、どうすることもできない無力感の中で歳だけを重ね、自殺と殺人の選択を迫られる。そして、それを実行に移してしまう。自分では、もう、止められない。」
女性は、全身を使って発砲する体勢を整えた。引き金にかかる指に力が入る。
表情はニンマリとしている。まるでメインディッシュを目前にして、アペリチフで舌の渇きを潤す心の腐った高級貴族のようだ。
「馬鹿げてるわ。」
先生が言った。
次の瞬間、女性はニンマリとした表情のまま、こう言い放った。
「イッツ、ショータイム!」
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