魔幻の紙縒り 2

大きなリュックサックが見える。

人の後ろ姿を覆い隠している。

歩いているのだろうか……。ゆったりとしたリズムで上下に揺れている。一歩一歩が、とても重たい。相当な重量があるのだろう。

このリュックを背負っているのは、華奢な女性だ。

バランスを欠いたこの光景は、いったい何なのだろう?

灼熱の太陽が全身を照らす。


ここは海に隣接する防波堤の上である。4メートル程の幅があった。

この辺りの海岸沿いは殺風景だが、夏の太陽がその寂しい感覚を消している。

そんな背景に、女性が一人、溶け込んでいた。

砂交じりのコンクリートの上を、一歩、また一歩と、歩を進めている。

見た目の年齢は30歳くらいだろうか……。体型はグラマーで肌は色白、それに、かなりの美人だ。茶色に落としたサラサラの長い髪が、辺りにジャスミンの香りを撒き散らしている。

ただ、全体的に躍動感がない。それに目が死んでいる。

防波堤には、日本海の荒波が容赦なく打ち寄せていた。大きな衝突音とともに白いしぶきが空中に砕け散っていく。波の力強さとは裏腹に、風は穏やかに吹いていた。


「私が見る最後の太陽……。太陽は私よりも早く生まれ、私が死んだあとも生き続ける。私の人生はいったい何だったのだろう。何のために生まれてきたのだろう。何のために存在したのだろう。この世に生まれて、たった一度でも笑ったことがあっただろうか……。笑顔って何だろう。楽しいって何だろう。自由を求めて、愛を求めて、旅立つしかないんだ。」


まるで、登山をしているかのように重い一歩だ。海からの突風によって、バランスを失うこともある。これだけの荷物を背負っているにもかかわらず、壊れた機械のように動きは止まらなかった。一歩一歩に、何か強い信念を感じる。

しばらく歩くと、まるで防波堤に傘をかけるかのように、陸地から海に向かって何かが張り出しているのが見えた。

それは七夕のイベントで使う大きな笹だった。


「ささのは、さあらさら……。」


オルガンの音とともに園児たちの力強い歌声が聞こえてきた。

防波堤に隣接する敷地の中に、開放感あふれる平屋建ての建物があった。

幼稚園だ。

園舎は昔ながらの木造建築ではなく、最新の耐震技術が施されたモダンな造りだった。瓦屋根を使うなど、和の趣を取り入れてはいるが、全体的には未来をイメージした斬新なデザインとなっている。

その園舎から見て北側に園庭があり、さらに、その北側に防波堤がある。防波堤側を除く敷地全体が、高さ2メートルのフェンスによって囲まれていた。

園庭の広さは、テニスコート1個分くらいだろうか?遊具は、園舎の前に鉄棒が設置されているだけだった。

園舎の南側は、狭い道路に面している。その道路の向かい側には、昔ながらの古い民家が軒を連ねていた。東側と西側にも同様の光景が広がっていた。

この質素な光景の中で一番華やかなのが、園庭から防波堤を覆うように伸びる二本の笹の存在だ。この笹は高さ3メートルの防波堤の上を、さらに3メートルも突き出していた。

防波堤の上は、いつも、近くに住む人たちの散歩コースとして利用されていた。

防波堤自体、側面に多少の角度があるため、体力に自信があれば、階段の無い場所からでも上がることができた。

今日はいつもと違い、静けさが漂っていた。

笹には、七夕の短冊がたくさん括り付けられていた。色鮮やかな折り紙たちが、天の川を始めとする物語の情景を映し出している。美しく散りばめられた無数の星たちが印象的だった。


7月7日、今日は七夕……。


夏の訪れを告げるこの風物詩には、毎年、たくさんの人々の想いが揺れる。

短冊にしたためた願い事を、紙縒りを使って笹に結びつけると、その願い事が叶うというのだ。

もちろん、これは、ただの年中行事の一つであり、地域を彩る祭りの根拠に使われているだけだ。実際に願い事が叶うことはなく、それ自体、それほど重要な意味はないのだが、五節句の一つとして、古来より国民的な行事となっている。

七夕の伝説で一番有名なのが、やはり、織姫様と彦星様の話だろう。お互い愛し合う仲だったのだが、神様の言い付けを守らなかったという理由で引き離されてしまい、会うことが許されるのは一年に一度、この七夕の日だけになってしまったというお話だ。

人々は、空に輝く星たちを眺めながら、この伝説に想いを寄せている。

今夜は、美しい星々の輝きを見ることができるだろう。


「人間……。人間ってなんだろう。全ての人間が、自分のことだけを考えて生きている。弱肉強食の世界は今も変わっていない。敗れ去った人間は老いと孤独と死に対して、何の抵抗ができるのだろう。誰もいない世界で時間だけが過ぎていく。私は敗れ去った。」


潮風は、とても穏やかだ。笹の葉が一斉にこすれ合う。汚い字ではあるが、一生懸命書かれた七夕の短冊も一斉に揺れた。

女性は立ち止まっていた。

死んだような視線は、一点を見つめたまま動かない。しかし、次の瞬間、ふと、我に返ったかのように動いた。


夢が叶いますように……。

オリンピックの選手になれますように……。

夏に雪が降りますように……。

世界を征服したい!

いつも笑っていたい!

100歳まで生きられますように……。

おばあちゃんの病気が治りますように……。


「100歳……。おばあちゃん……。」


女性は小声で言った。

眠りから覚めた視線の先には、園児たちが書き上げた躍動感あふれる短冊があった。

手に取ってじっくりと見ている。哀しい視線が七夕の短冊に注がれる。一つの短冊を数秒間だけ見つめ、次の短冊に手を伸ばす。これを数分間、繰り返した。

やがて、視線は、短冊から園庭、その先の園舎、そして、窓の向こうに見える園児たちへと動いていった。

女性は、あの無邪気な笑顔たちにも絶望の視線を突き刺した。

そのとき……、何か、鉄とコンクリートがぶつかったような鈍くて重い音がした。それは、背負っていたリュックサックを地面に下ろしたときの音だった。伝わる音の感触から考えると相当な重量があるのだろう。

女性はゆっくりとした動作で、このリュックの横に腰を下ろした。


「幼稚園か……。私が通っていた幼稚園とはかなり違う。もう何十年もの月日が流れている。あの子たちも、これからたくさんの人生の分岐点に遭遇して、どちらかの道を選ばなくてはならない。選んだ道の先に何が待っているかは誰にもわからない。死が待っている子もいれば、幸せが待っている子もいる。一番悲惨なのは、どの道を選んでも死が待っている子。強制的に死ぬしかない。この子たちの中にも、そんな運命的な道を進んでいる子がいるのだろうか?この私のように……。未来のある園児たちと未来のない私。いったい何?私が園児だったときにもこういう大人に観察されていて、同じような思いを抱かれたのだろうか?あのときの私……、全ては道を選べなかったことに原因があった。いや、道自体が一つしか無かった……。あのとき……、私もあの中に存在していた。」


黄色い帽子に青い制服が見える。

幼稚園だ。




「誰かさんがほしい……。」

教室からメロディに乗った声が聞こえる。

男の子と女の子が人間の取り合いをしていた。「はないちもんめ」という遊びだ。歌詞は地域によって、全然違うようだが……。

先生は歌を歌いながら手をパンパンと叩いていた。 

「はい。今日はこれでおしまい!」

生まれて初めての集団生活は、全員が一斉にゼロからのスタートだ。でも、それは表向きのこと……。すでに、差はついていた。


入園して2日目、教室にはたくさんの園児がいた。

幼稚園は、独自のプログラムに沿って授業が行われている。内容は塗り絵とか工作であり、今思えば遊んでいるのと同じだ。ただ、当時は誰もが真剣にやらなければならない義務として捉えていた。

今日は、塗り絵の授業だ。みんなは先生に褒めてもらいたい一心で、色を塗り始めた。

このクラスは30人もいるので、先生にはなかなか相手にしてもらえない。どうしたら先生に関心を持ってもらえるのだろう?と、それぞれが、あの手この手で先生の気を引こうとしていた。先生の周りには、いつも園児たちの輪ができていた。

大人から見れば園児なんか子供、適当に操ればどうにでもなる。ちょっと褒めれば笑うし、ちょっと怒れば泣く。泣いたのを次の瞬間に笑わすことだってできる。単純だ。園児たちは、そうやって大人の手のひらの上で踊らされていた。

だが……、このクラスに一人……、それに該当しない女児がいた。まるで、感情という概念が存在していないかのようだった。

名前は、ミホリと言う。

ミホリは決して笑わなかった。そういう自分を意図的に演じていたわけではない。それが真の姿だった。

ミホリは、とても集団生活を続けていける感じではなかった。先生もその雰囲気を察し、たくさん褒めて笑わそうとしていた。ただ、何をやってもミホリは笑わなかった。


初めての昼休みを迎えた。入園してしばらく経つと、滞在時間が午後まで伸びるようになった。だから、昼休みを挟むことになる。自由時間ではなくプログラムに沿ったもので、正確に言うと、お弁当の時間だ。机を引っ付けて、グループになる。そして、呪文を唱える。


「今日、おいしいおいしいお弁当が食べられるのは……、いただきます!」


みんなが一斉に言い放ったあと、食事がスタートした。

この幼稚園では牛乳が支給されていた。当時は、紙パックではなく、瓶に入っていた。飲み口は厚紙でできた丸型キャップで塞がれ、その上に青色のポリエチレンが被さっている。瓶とキャップが寸分の狂いもなくフィットしているため、簡単には取れない。

みんなはポリエチレンをうまく払いのけ、キャップの隅に爪をたてて、瓶との切り離し作業を行なっていた。キャップは瓶にめり込んでいるため、剥がすのがとても難しい。やっとの思いでキャップを外して、ようやく牛乳を飲むことができる。


「上手くできないよ、どうしよう。」


ミホリは思わず声が出た。


「あっ!」


大きな音とともに、牛乳がそこらじゅうに飛び散った。

園児たちの視線が、一斉にミホリに集まった。それはとても鋭いものだった。キャップをうまく剥がせないミホリは焦りまくった。その結果、キャップを指で押しこんでしまったのだ。押し出された空気によって、中の牛乳が思い切り吹き出して氾濫を起こしたのだ。

ただ、園児たちは自分の食事に夢中になっているため、ミホリへの関心は一瞬で消えた。それでもミホリには余韻が残ってしまった。先程の突き刺さるような視線に心が委縮してしまった。しばらく下を向いていた。

周りの雑音が自分に向けられていないことがわかると、ゆっくりと顔を上げ、周りを見渡した。すると、どうだろう。今度はそこに、凄まじい光景が広がっていた。

全員が右手に箸を持ち、左手に弁当箱を持って礼儀正しく食べていたのだ。

しかも、あの2本の箸を上手に使いこなしている。


箸を使っている! みんな、箸を使っている! 私、フォークで突き刺すことしかできない。

スプーンで掬うことしかできない。どうしよう。私、恥ずかしくて食べられない。




小さな女の子がいる。とても、かわいかった。


「ん?どうしたの、ミホリちゃん。ほしい物があったら何でも言うのよ。何かないの?おばあちゃんが買ってあげるからね。」


ここはデパートのおもちゃ売場だ。

ミホリはタンバリンを鳴らすことができるぬいぐるみを手に取った。


「あら、かわいいね。これがほしいの?」


興味本位で鳴らしてみる。素直な音がした。音の質も悪くない。全ての楽器奏者が揃えば、それなりの楽団が結成できそうだ。


「あらあ。音が鳴ったね。」


ミホリが手に取ったぬいぐるみは、半ば強制的に祖母の手に……。そのぬいぐるみが行き着いた場所はレジカウンターだった。


「来年から幼稚園だね。頑張ろうね。」


再び、素直な音が鳴った。

祖母は温かい笑顔でミホリを見ていた。

ミホリは、会計が済んだぬいぐるみを抱きかかえた。これがほしい!と言い出せなかったミホリには、とても嬉しいプレゼントだった。余程気に入ったのだろうか?ミホリは家に帰ってからも、ずっとこいつとじゃれあっていた。


「お友達だよね?」


ミホリは、ぬいぐるみを見ながら言った。その日以来、いつもそばにいた。


「さあ、寝ようかな。」


敷布団の上で体を横にした。そのとき、傍らに置いたぬいぐるみの目がミホリを見ていた。


「何?」


話しかけても返事がない。ジーッとミホリを見ている。全く目をそらしてくれない。


「あっち向いて!」


当然、向いてくれない。ものめずらしそうな顔でミホリを見ている。視線が気になる。


「もう、あっちを向いてくれなかったら眠れないよ。」


仕方なく、ぬいぐるみを半回転させて目を合わせないようにした。

ミホリは、こいつの背中に向かって言った。


「おやすみ。」

 



ミホリが生まれてから3年の月日が流れた。太陽はいつもように東から顔を出した。


「ミホリ、ミホリ、起きなさい。朝でしょ、何やってるの。毎日6時に起きる約束でしょ。やりなさい!お母さんの言うことが聞けないの!」


母はいつものようにヒステリックになっていた。

ミホリは来年から幼稚園に入園する。

毎日、同じことの繰り返しで時間が過ぎていた。6時に起きて平仮名の勉強。7時に食事。8時からは、足し算と引き算の勉強。昼間は少しだけ寝る。午後は漢字を覚え、簡単な英単語だって覚える。19時に食事。寝るのは22時だ。

毎日毎日が勉強。でも、辛いなんて思ったことは一度もない。なぜなら、これが当たり前の生活だからだ。他の家で育っている人間がどういう生活をしているかなんて全くわからないため、比較対象がないのだ。だから、辛くも何ともない。

息抜きをするときは、祖母が遊んでくれる。

ビー玉を転がして遊んだり、あやとりだって教えてくれる。

ミホリの毎日は楽しかった。




1年が経過した。

誕生ケーキに刺さった4本の蝋燭を同時に吹き消したあの年……、運命の歯車が動き始めた。

幼稚園入園の日、ミホリは母と祖母に連れられて初めて幼稚園に足を運んだ。そこには、たくさんの人がいた。ミホリと同じ背丈の子供たちが、様々な表情を見せていた。


「今日からこの人たちと一緒に過ごすの?知らない人ばかり……。」


明日からは、幼稚園バスに乗って一人で登園する。約半日間、家族のもとを離れ、生まれて初めて集団生活を体験する。


「私、幼稚園で何をするの?」




ある日の教室、クレヨンで絵を描いている。お題は風景だ。

ミホリは机を並べて、みんなと一緒に描いていた。

三角の屋根の下に正方形の外壁、その真ん中に漢字の田のような窓を描きこむ。屋根に煙突をつける。次に、画用紙の右上に太陽を描く。幼稚園でのお絵かきで雨の日はない、曇りの日もない、もちろん、雪の日も……。太陽は、なぜか描いていた。最後に余ったスペースを使って、適当に木を描いて完成だ。


「綺麗な絵……。たくさん色を使った……。」


ミホリは嬉しそうに言った。

もうすぐ先生が自分の席の方へ見回りにくる。

そのときだった!


「えっ!」


一瞬、何が起こったのか、わからなかった。

ミホリは思わず声が漏れた。

なんと、隣に座っていた男の子がミホリの絵に落書きをしてきたのだ。

あっという間だった。

太陽の一部が真っ黒に塗り潰されてしまった。


「な、何するの!」


ミホリが男の子に言った。

すると、次の瞬間だった。


「きゃあ!」


なんと、男の子は手に持っていた黒のクレヨンで、今度はミホリのほっぺたに落書きをしてきたのだ。

今にも蕩け落ちそうな可愛いほっぺたにクレヨンの跡が付いた。

ミホリは突然、内側から込み上げてくる何かを感じた。

暴力?そう、生まれて初めて見ず知らずの他人に暴力を振るわれたのだ。


「うええええええん。」


ミホリは大声で泣き出した。

小さな手を目まで持っていき、涙を拭いている。しかし、涙は止まらない。出た涙を拭いたところで涙が止まるわけではない……、中の感情を抑えないと止まらないのだ。

この泣き声に気づいた先生がミホリの席までやってきた。


「どうしたの?」


ミホリは泣きながら、隣に座っている男の子を指差した。

先生はすぐに何が起きたのか気づいたらしく、隣の男の子を叱りつけた。

こんな酷いことをした男の子も、先生に怒られただけで、もう泣きそうな顔になっている。


「ごめんなさいは?」


先生が男の子に向かって謝るように強要している。


「ごめんなさい。」


渋々口にした謝罪の言葉が聞こえた。


「さあ、ミホリちゃん。顔を洗いに行きましょう。」


先生はこう言うと、ミホリの手を引っ張って洗面所まで連れて行った。

まだ涙が止まらない。

鏡に映った自分の顔は今まで見たことのないものだった。

先生が顔についたクレヨンを落としてくれた。


「先生、ありがとう。」


ミホリは泣きじゃくりながら言った。


「いいのよ。」


再び、先生の手に繋がれて教室に戻ってきた。あの男の子の横に、もう一度、腰掛けた。男の子は下を向いて、目を合わせようとしない。

ミホリは鼻をすすりながら、黄色のクレヨンを手に取ってお絵かきを再開した。

ただ……、何かが変だった。


「あ!」


すぐに異変に気付いた。

なんと、太陽が無くなっていたのだ。

先程、黒のクレヨンで落書きされた太陽が、今度は完全に真っ黒に塗り潰されていた。


「塗った!」


ミホリは、とんでもない大きな声で叫んだ。


「許さない!」


すると次の瞬間、隣の男の子の服に、持っていた黄色のクレヨンで力いっぱい落書きをした。


「もう……、どうしたの?」


先生が離れた所から怒鳴る。

戻ってきたと思ったら、また、何か、やらかしたのを見て機嫌が悪くなっている。

先生が近づいてくる。


優しい私の先生、もう一回、この人を懲らしめてほしい。


ミホリはそう思っていた。

先生が目の前に来た。


パン!


感覚が……、感覚が消えた。


「痛い。」


ミホリは、先生に顔をビンタされた。


「何やってるの!さっさと謝りなさい。ほら早く!」


先生は男の子ではなく、ミホリを怒鳴りつけた。ミホリは、なぜ自分が怒鳴られているのかが、わからなかった。


「だって、黒く塗ったんだもん。」


泣きじゃくりながら反論する。


「謝りなさい!」


再度、先生が怒鳴る。

しかし、ミホリは謝らなかった。何度言っても謝らない。そして、最後に……。


パン!



     

昼休みになった。

全員が、それぞれの机でお弁当を広げていた。

しかし、ミホリだけはさっきの絵を広げたまま、あの黒い太陽に、黄色のクレヨンで上塗りをしていた。必死になっている。


「太陽は黒くない。」


何度も何度も上塗りを重ねる。しかし、もう黄色の太陽には戻らない。ミホリが塗るのを諦めたとき、黄色のクレヨンは半分以上も磨り減っていた。




「ミホリ、ミホリ、どうして寝ているの?」


家で過ごす休日は、穏やかではなかった。母が何度も何度もミホリを怒鳴りつけていた。午後の英単語の時間なのだが、ミホリは思わず寝てしまったからだ。


「もう、間違っているじゃない。いいミホリ、しっかりと覚えないと、将来あなたが苦労するのよ。あなたのためにやっているの!わかった?あなたのためにやっているのよ!それに、みんなもやっているの!」


母が言った最後の一言が、山彦を伴いながら、ミホリの頭に残った。


みんなもやってるの!って、あの男の子も?みんな勉強してる?みんな英単語覚えてる?ママはどうして知ってるの?嘘をついてまでこれをやらせるのはなぜ?本当に私の将来のため?自分の見栄のためじゃないの? 


ミホリは幼いながらにそう思った。

毎日、家にいて、勉強詰めで一日が終わっていた頃に比べて、幼稚園での生活は今まで知らなかった発見があった。それは、生活面で同学年のみんなより遅れているという事実だった。

    


 

ある日の工作の授業、その日は、厚紙を使って立体的な作品を作っていた。はっきり言って、園児にはかなり高度な内容だ。

ミホリは、あの席にいた。隣には、あの男の子がいる。

みんなは必死になって紙工作に取り組んでいた。小さい子というのは、夢中になると周りが見えなくなる。その中でたった一人だけ、集中できずに手が動いていない園児がいた。顔面蒼白で足を軽くバタバタさせている。

ミホリだ。


お腹が痛い。今日の朝、おしっこしてくるの忘れた。はあ、もう漏れちゃう。


ミホリは心の中で苦境を叫んでいた。

先生は、ミホリの席からは離れた位置で工作の指導をしている。

ミホリは先生と目が合ったら、手をあげてこっちに来てもらい、おしっこに連れていってもらおうと考えていた。しかし、目が合わず、先生が近くに寄って来る気配はない。恥ずかしいが、もはや声を出して呼ぶ以外に選択肢はなかった。


「先生!おしっこ。」


ミホリは大きな声で言った。

すると先生は、遠くから笑顔でこう答えたのだった。


「うん。いいよ。行っておいで。」


優しい声だった。

周りの園児たちは、この恥ずかしい言葉に大した反応もなく工作に励んでいた。中にはクスクスと笑っている園児や、「突然、何を言っているの?」と言った表情を浮かべる隣の男の子のような存在は居たけれども、そんなことはどうでも良かった。「行っておいで」と言われたことへの困惑、それしか頭になかった。

今までの常識が全く通用しないのだ。

それで、次にどういう行動をとっていいのかわからなくなってしまった。


「えっ、何? 私……、どうしたらいいの?」


思わず小声が出た。

ミホリは狼狽えた。

いつもなら「お母さん、おしっこ!」の一言で母が駆け寄ってきて、抱きかかえられて、そのままトイレまで連れて行ってくれる。そこからも全自動だ。服を脱がしてくれて、そのあと、水洗便所の便器に足を跨がせてしゃがませてくれる。そして、用を足したら今度は紙でお尻を拭いて服を着させてくれる。母が水を流したあとは、再び、抱えられてトイレの外まで運んでくれる。

ミホリはこの一連の作業をしてもらうために「先生、おしっこ!」と叫んだのだった。

しかし、先生は来てくれない。

ミホリは焦った。


漏れる。漏れる。どうしよう。私、どうすればいいの?もう一回言おうかな。でも、もう一回言う勇気がない。みんなが見てるし聞いてる。どうしたらいいの私……。ねえ、どうしたらいいの。お母さん助けて。


心の中でいろいろと叫んではみたものの、誰も助けてはくれなかった。

先生は、あの一言以来、ずっと向こうの方で園児たちと仲良く作業している。


「もう無理。お腹が壊れちゃう。」


苦しそうに喋った。

ミホリの我慢も、ついに限界の時がきた。死んでも我慢しなければならないということはわかっていても、もうどうすることもできなかった。

座っている椅子から尿がポタポタと落ちていく。お漏らしをしているという感覚が全身を駆け巡っている。一気に量が増え、椅子を伝い、床に広がっていった。

まだ、誰も気づいていない。

ミホリの不安と憤りは極限に達していた。一瞬チラっと下を見たが、やはり、おしっこが床に広がっている。隣の席の方に少しずつ流れている。

ミホリは思った。


この子にバレたら、私……。


隣の男の子は工作に夢中になっているが、時々、キョロキョロと首を横に振っているのが横目で確認できる。これがとっても気がかりだ。彼の不自然な動きが確認できる。気づいたのだろうか?


神様お願い、私……、私……、私……、私……。


「せんせーい!おしっこ漏らしているよ。おしっこ!おしっこ漏らしている!」


隣の男の子がでっかい声で叫んだ。


「う、うわあ!」


机を並べていた園児たちが、ミホリの机から自分の机を引き離した。机や椅子を引きずる音が教室に響き渡る。近くの園児たちが一斉に離れていく。まるで水面に水滴が落ちたときにできる波紋のように、みんなが遠ざかっていく。

遠くの園児たちは、立ち上がってこの光景を見ている。さらに遠くの園児たちは、椅子や机の上に立ってまで、この光景を見ている。まるで、高層ビルだ。

ミホリは泣きだした。消えて無くなりたかった。数分前の自分に戻りたかった。どうして一人でトイレに行けなかったんだろうと自分の行動を悔やんだ。

先生が駆け寄ってきた。

ミホリは思った。


先生は来ないで!味方じゃないから。


涙の量が一気に増え、大泣きに変わっていく。

ミホリは小さな手を両目に当てて、それを止めようとする。

先生はミホリを抱き上げると、そのまま教室を出てトイレまで連れ出した。ミホリは4歳の女の子だ。先生は叱らなかった。

ざわめきが止まらない教室には、いろいろな感情が入り交じった。

トイレを出たあと、ミホリは園長室に連れて行かれた。そこで着替えが用意された。先生は、教室のことが気がかりなのか、園長先生にミホリを預けるとすぐに戻っていった。

ミホリは自分の不甲斐なさに涙が止まらなかった。園長先生に慰められながら着替えを強制された。

数分が経過した。

ミホリは涙を拭い、恐る恐る教室に戻っていった。教室の扉を開けた瞬間、真っ先に目に飛び込んだもの、それは……、自分のおしっこを一生懸命拭いている先生の姿だった。

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